少年の両手(6)
どれだけの時間を走ったのだろう。僕もアージェも土と汗にまみれていた。
そのうち、グリンは僕の腕を借りず、森猫ほどの体で必死に駆けていた。
洞穴の天井は鳴動し続けていた。休もうにも、生き埋めにされる恐怖にせき立てられた。ずっと言葉を発さない僕に、アージェは声をかけ続けた。
「ハァハァ……っ! リア、外だ、外が見えるよっ」
声につられて顔を上げる。
月の灯火とは違う光が目に差し込んできた。出口が光で輝いている。
「ハァ……ハァ……っ、ハァハァ……」
途端に、石つぶ程度の小ささになっていた月の灯火が、月海の願杖の先端から消えた。アージェも限界だった。むしろ僕以上に疲れているはずだった。
無気力な絶望に甘えていた僕と違い、アージェはずっと灯火を導いていた。
「ハァ、ハァ……ここが、未開森林、なのかなあ……?」
洞穴から抜けると、視界一面が雑然とした緑に染まった。
そこには野生の森林が広がっていた。密生した木々。獣道すら見つからない。人の手がまるで入っていないのが見て取れる。
しかも暑い。温暖期のような暑さ。ついでに湿気で蒸していて不快に感じる。
「暑いね……とにかく、どこかでコホッ……休も。リアは…………休まないと」
心配させている。返事はせずに足を動かした。カッコ悪いことは分かっている。
豊満な落ち葉と枯れ枝を、シャキシャキと踏み潰す。
道なき道を荒い呼気のまま進んでいく。
満身創痍のなか、日も傾いてきたころ――僕らは大木が折れ重なる空白地帯を見つけた。周囲に何者かの気配もなかった。
途端にアージェがよれて倒れそうになった。今日はもうここで休むことにした。
食料はない。火起こしの道具もない。
渇ききった喉は、木のうろにたまった雨水でしのぐ。
遠くのほうで野生動物が鳴いている。僕らの警戒心をいたずらに煽ってくる。
「……私、汗まみれだ。臭ったらごめんね」
「いい。アージェの匂いは気にならない」
「……それもなんだか恥ずかしいなあ」
体を野ざらしにして休むのは怖くて、二人と一匹で大きな木のうろのなかに入り込んだ。寝そべることはできない。二人で並んで座り込むのが限界だ。
体温も体臭も、恥ずかしいくらい接着している。
「アージェ」
「なあに」
「月海の巫女なんて、もうやめちゃえ。ムダだよ。あんなの相手じゃ」
「それは……できないよ」
「なんでだよ。おまえだって毎日のんびり月海を眺めてたほうが」
「それも、もうできないから」
「っっ……」
「私はもう、月海の巫女だから」
しばらく無言の時間が続いたあと、出入り口にささやかな防壁を立てた。
防護柵のように地面に刺した星鉄の鋭刃は、土肌の悪さに傾いた。鋭刃はそのまま、隣に突き立てた月海の願杖にもたれかかり、歪な角度の十字を作った。
「リア」
「なに」
「私たち、生きよう」
「うん」
「絶対、生きてこう」
「…………うん」
泥のように眠り込んだ翌日から、僕らの未開森林での生活がはじまった。
森の北と東は、断崖天壁に囲まれていた。
壁沿いを何十日と歩いても抜け道はなかった。
西は垂直に切り立つ崖だった。下は海。激しい波が壁面を楕円にえぐっていた。
一度、もと来た南の洞穴にも戻ってみた。
けれど入口は崩落しきっており、土砂に埋もれていた。
「リア。たき火のしっぱなしは危ないよ」
「この肉焼いたら消すって」
「はー。またお肉。久々にお魚食べたいなあ」
「あの崖じゃ、樹皮で釣るのも無理だろ」
「えー。お魚ぁ」
僕らは、空を突き刺す断崖天壁から流れ落ちる水流を頼りに、休む場所をいくつか設けた。森には多種類の果実が豊富に実っていた。
小動物の狩猟に失敗しても、お腹を満たすことはわりとできた。
それに幸い、僕らを襲う獣は少なかった。
裂肉歯の毛深い大型獣も、瘦せっぽちの子供二人にはそっぽを向いてくれた。
「リアの髪、けっこう伸びたね」
「ああ、そうかも」
「ねねね。切ってあげよっか?」
「いい。アージェへたくそだし」
「えー。ひどーい」
百の夜が明けても、泥の女王や汚泥魔兵たちは姿を見せなかった。姉さんもだ。僕らは不安な生活に体調を損ねる日もあったけど、日々頑強になっていった。
星鉄の鋭刃は危ないから、堅木を削って不格好な木剣を作った。
それを使って、自分なりに鍛錬を重ねた。
アージェのほうは、筋肉がついた腕を「む~……」っと恨めしそうに眺めた。
「う~。ボロボロのマントだけじゃ、もう寒いね」
「寒期なんだろ。毛皮のなめしが間に合うといいけど」
「ねねね。今日は隣で寝ていい? 夜は寒いし」
「いーやーだあ。グリンと寝てろ」
「もー。クスクス」
二百の夜が明けたころ、僕らは未開森林に順応していた。日々の困りごともすっかり減っていた。もはや勝手知ったる原住民だった。
グリンの体格も徐々に大きくなっていた。ときには勝手に子兎を狩ってくる。十年と変化がなかったウッドグリフォンも、環境に成長を促されていた。
そうしているうちに、行くも出るも不可能なこの森に、かすかな安心感を覚えるようになった。それも、長々とは続かなかったけれど。
「……やっぱり音、鳴ってるね」
「……だよな」
「聖防国の人たちかな?」
「そうだと信じようぜ」
「そだね」
三百の夜が明けたころ、崖の向こう側からくぐもった破砕音が聞こえてくるようになった。音は段々と近づいてきた。そのうち明瞭に聞こえるようになった。
僕らはそれが、人為的な物音だと感づいた。
断続する破砕音が響く間、僕もこちら側の壁を硬い石で叩いて鳴らした。
それを毎日続けていると、音は明確に、僕らのほうへと近づいてきた。
やがて、肌寒い日の朝。黒い岩石の壁が向こう側から割られていた。
そこから、銀鎧の青年が未開森林へと踏み入れてきた。
「……まさか、キミたちは、もしかして……月海の巫女、だろうか?」
「はい」
「…………驚いた。月海の民の生き残りが……本当に……本当によかった」
輝く銀色の短髪。セイヴルティスと名乗った青年が、泣きそうな顔を浮かべた。
姉さんの話で聞いていた聖防騎士の銀鎧。胸元には特別な印が刻まれている。
それは、装着者が高貴な身分であることを示す、青い三角盾の聖印。
「今代の月海の巫女、アージェル=シースフィアと申します。第二王子さま」
「第二王子? こいつが?」
「失礼だよリア。こちらはセイヴルティス殿下。ネイルさんも言ってたよ」
「⁉ そうだ、ネイルは、ネイルはどこにいるっ⁉」
銀髪の青年が慌て出した。
後続の兵士たちの間を縫ってやってきた女性騎士が身構える。
「セイヴルティスさま。どうなされましたか」
「黙ってろヴァイライナ。頼むキミたち。教えてくれ。ネイルは、今どこにいる」
端正な顔立ちが、必死な形相で歪んだ。
薄れてきていた痛みが胸の内から込み上がる。
「……姉さんはまだ、大玉荒野に」
「ッッ……そう、か。やはりか」
彼はそれ以上の説明を求めなかった。
ただただ、沈痛な面持ちで地面にうつむいた。
なにか、姉さんと縁のある人なのだろうと思った。
第二王子は、気を取り直せていないのが分かる顔のまま、僕にも尋ねてきた。
「キミがリーアだね。騎士学校でネイルがよく話していた。自慢の弟だって」
「……そうですか」
「リーア。もしやキミが巫女の星護りなのか? 腰の剣。それが星鉄の鋭刃だろ」
「っ、それは……その……」
僕は確かに鋭刃を持っている。ここでも月海の巫女を守り、月海の巫女に守られてきた。でもそれだけだ。アージェや姉さんのように選ばれたわけじゃない。
ただ、できれば、そうでありたいと思っている。だから。
「僕が、アージェの……月海の巫女の星護りです」
未開森林から脱出したこの日。僕は、星護りになった。
仮初めを利用した偽りに、アージェはなにも言わなかった。




