少年の両手(5)
姉さんは泥の女王と切り結んだあと、相手の腹を思いっきり蹴飛ばした。女王は倒れこそしなかったが、体が後ろに流れた。表情は憎悪そのものだった。
「二人とも早く走って! 余裕なんてないわよッ!」
「い、行くぞアージェ!」「え、あ、わっ!」
とっさに右手を伸ばし、アージェの左腕を全力で握りしめて引っぱった。
僕の胸元で、足場が左手だけになったグリンが、振り落とされまいとしがみついてくる。っつ。力んだ四肢の爪が服を貫き、肌に刺さる。泣きたいほど痛い。
両目の先では、泥団子が高速で西進していた。進路上にいた汚泥魔兵は、巨大な球体に衝突され、木の葉のように吹き飛んでいる。
飛ばされずに倒れた骸骨も、数十本もの虫足に蹂躙され、一瞬で残骸になっていく。とてもじゃないけど追いつけないが、前方の敵が一掃されている。
「まさか泥団子に助けられるなんて!」
「今度お礼しにこないとだね!」
アージェの声色も明るくなった。後ろを振り返る。姉さんもちゃんとついてきている。お腹の流血は止まってそうにない。ポタポタと血を垂れ流している。
だけど、心配そうに見ていると表情で叱られた。その余裕さに安堵した。
泥団子を追い、姉に追い立てられるがまま、僕とアージェは走った。二人とも極限状態だ。心肺が破れそうだ。呼吸も荒くなる一方。それでも走った。
アージェの足がもつれても、無理やり引っぱった。そのたびに彼女は笑って謝った。自分の足がもつれたときは平然とごまかした。心配されてなるもんか。
「ッ、リーアあれよ! あの洞穴を抜けるわ!」
後ろから聞こえてきた姉さんの指示は、まるで予想外だった。
「えっ、だってあっちは未開森林ってところじゃ⁉」
「未開森林の奥地に、聖防国とつながる街道が開通されるのよ!」
「そ、それっていつ」
「……今日じゃないことは確かね!」
星護りの姉さんが苦笑いする。
現状は苦肉の策だろうと、これが最善なのだろう。
荒野の西端に近づいた泥団子は転回し、僕らの脇をすり抜け、また東へと走っていった。泥の女王たちと敵対しているのだろうか。
分からないけど、二つの感情が浮かんでくる。
ありがとうの感謝と、昨日まで倒そうとしてごめんの謝意だ。
「大陸西方は奇怪機の領域。汚泥魔たちも追ってはこないはずよ」
「だ、大丈夫なのでしょうか。未開森林には未知の生物も多いと聞きますが……」
「なあに。今この瞬間よりは、だいぶマシでしょ」
違いない。
最悪の状況で希望をつかみ取った姉さんは、どことなく楽しそうだった。
洞穴が目と鼻の先まで近づいてくる。入口付近すら真っ暗で見えない。しかもせまい。もうすこし背が高くなったら、天井に頭をぶつけてしまいそうだ。
「アージェルは灯火で先導をお願い。一本道のはずだけど、足下には気をつけて」
「はいっ。行きますっ」
僕が握っていた手をほどいたアージェが、暗い洞穴へと入っていく。
小さな緑色の背に続き、僕もグリンとあとを追う。
「地を這う虫どもはよくよく巣穴を好むのう。いい加減、惨めな生を手放せ」
「リーアッッ‼」
後ろから二つの声がした。すぐに背中を乱暴に押された。姿勢が崩れる。
グリンも両腕から手放してしまった。慌てた様子で跳びはねると、洞穴内で器用に着地していた。僕はそのまま洞穴と荒野の境界で転んだ。
手や膝に固い石ころが刺さる。すごく痛い。
「姉さ――――」
後ろを振り返ると、暴風のような衝撃波が吹き荒れていた。
嵐の風よりも痛くて重い、不思議な感触だった。
それは、すでに追いつかれていた泥の女王の左手から放出されていた。
それを、僕に届かせないよう、姉さんが全身で受け止めていた。
ピチャリ。
姉さんの体から吹き出た血が暴風に運ばれ、僕の麻の服に染み込んでいく。
「ほう、受けきってなお生きよるか小娘。存外優秀な強兵なのじゃのう。肉壁としては、じゃがなあ。クックク!」
不可思議な攻撃をやめた泥の女王の前で、姉さんがくずおれた。地面に膝をついた。精霊樹の色をした緑の外套も、そこかしこがボロボロに切り裂かれている。
「ぅっ、今のは……ネ、ネイルさんっ⁉」
声にならない僕の代わりに、アージェが大きな悲鳴を上げてくれた。
姉さんは血だらけの頭で、尊大に立ちふさがる泥の女王を見上げた。
「……泥女、すこし、いいかしら」
「なんじゃ。言えい」
「すこしでいい。時間をちょうだい。ほんのすこしでいいわ」
「ふむ……実にどうでもよいが、予は寛大じゃ。聞いてやる筋合いはないが、ちっぽけな死の際の余興くらいは許そうぞ」
姉さんがおぼつかない足取りで立ち上がった。粘ついた血が次々とあふれ出る。
姉はその場で僕らのほうへと振り返った。
額から血を垂らしながら、柔らかく笑んだ。
「リーア、未開森林で生きなさい。いつか聖防国が道を拓いてくれるわ」
「……ま、待って」
「アージェルは大陸の人々の希望よ。グリンとともに、死んでも守りなさい」
「待って、待って姉さん」
「でも、リーアは私たち家族の希望だから……どうか、どうか、生きてね」
「まってよ!」
口をさえぎろうにも、姉さんは会話をしてくれなかった。
焦点もおぼろげな目で、ただ笑った。
勝手に話し終えた姉は右手に持つ剣を。
星護りの鋭刃を、僕の足下へと投げつけた。
「私の代わりに持ってって。万が一にも、敵に奪われるわけにはいかないからね」
慌てて鋭刃を拾う。衝動的に後ずさる。背中はアージェの胸にぶつかった。
僕を見つめる姉さんは血まみれの笑顔で、二本の剣帯に提げていた、もう一本の剣を。母さんから譲り受けた、お守りの騎士剣を引き抜いた。
「ねえ、泥女」
「蔑称は好かん。おこがましくも正道を気取る手合いならば、予に敬意を払えい」
「それは失礼。泥の女王」
「ふん。その名も好かん」
姉さんが騎士剣を持ち上げた。今一度、泥の女王と対峙する。
その背に、言い知れぬ不安を覚える。
「泥の女王、約束はちゃんと守ってよ」
「? なんじゃ。余興の時間はくれてやったじゃろ」
「今のは別の話。私は、時間をちょうだいって言ったの」
「だあから、予がこうして」
「ほんのすこしでいい。これから希望の光が灯るまで、あの二人を見逃しなさい」
洞窟の外で、朝の光を背負った泥の女王が、ポカンとした表情になる。
真っ白い肌に浮かぶ唇が、呆れたように開かれるよりも早く。
姉さんが、洞穴の天井部を力強く斬りつけた。
「行きなさいリーア! アージェルを連れて! 行けェッ‼‼」
洞穴入口の天井は瞬く間に崩壊した。
降り注ぐ土砂が積もり、外の光が埋められていく。
視界の先で、洞穴の外で、姉さんと泥の女王を残したまま。
「姉さん⁉ 待って姉さん!」
アージェも言葉を失っている。僕も分かっている。この状況は。
この状況は、姉さんが犠牲になって、僕らだけが逃げることになるんだって。
「イヤだ姉さん……お姉ちゃんっ‼」
姉に追いすがろうとした。
惨めな体はアージェに抱きしめられ、一歩も動けなくなった。
「リアごめんね……ごめん、なさい……っ……」
乱暴に逃れようとした。
でも、思った以上に力をこめられた両腕に、抵抗の意志が消された。
力強く、それでいて弱々しいアージェを振り払うことは、僕にはできなかった。
天井が崩壊していく。入口が埋まっていく。最後に見えたのは。
「安心してリーア。お姉ちゃん、すぐに追いつくから。追いつくからね」
母さんの剣を地に突き立て、泥の女王に吼える、姉さんの緑色の背中の。
凜々しく、気高く、世界に透きとおるような宣告だった。
「――我は月海が堅なる剣。巫女の星護りが一振り。いざ悪しきを断たん」
「ほう、決死で見得を切るか。なかなかいじらしい役者じゃ」
外のいっさいの光が閉ざされる寸前、最後に聞こえたのは。
「クク。よかろう。飽いた生を悦ばせる蒙昧な一興。貴様の命を代価に許そうぞ」
洞穴入口が崩壊した。
振動は奥まで波及し、頭上から石や砂が降り注いでくる。
「……行こう、リア」
アージェが青白い灯火を掲げる。疲弊した体で、力ない僕の体を引き上げる。
足下にはグリンがいる。
キュルキュルと鳴いて、足のすねに緑の頭をこすりつけてくる。
「……行かないと。私たち、行かないとっ」
一度だけ、真っ暗な壁となった入口を振り返ってから、走った。
泥の女王はまだ追ってくるかもしれない。確証のなさが、二人と一匹を恐れで走らせた。疲労で息を切らせても、落下する小石に頭を打たれても、頭のなかの声は消えない。消えてはくれない。
『安心してリーア。お姉ちゃん、すぐに追いつくから。追いつくからね』
姉さんの言葉を誰よりも信用していないのは、きっと僕だった。




