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少年の両手(4)

「アージェル、リーア。準備はいいわね。大玉荒野を一気に駆け抜けるわよ」

「うん」「はい、ネイルさん」


 すっかり眠りこけた翌朝。目覚めると姉さんではなく、アージェに寄り添われていた。村ではいつも僕に引っぱられてたくせに。昨晩からはまるで二人目の姉になったようだ。妙に生温かい視線を注いでくるし。


 不満を力に起き上がり、三人と一匹で姉さんの携行食を分けて食べた。あまりおいしくない焼き小麦の後味は、一面茶色の荒野に着くころには消えていた。


「断崖天壁の割れ目、森猫の小道までは走って二刻よ。汚泥魔が現れたなら、真っさらな荒野に逃げ場はないわ。アージェルは私が指示するまで、なるべく灯火を使わずにいなさい。いいわね」


 コクリと、なりたての月海の巫女が力強く首肯する。

 僕も両腕で、フサフサ緑のグリンを力強く抱え直す。


「やつらは地面からも湧いて出てくる。見つけたらすぐに伝えて……行くわよ」

 姉さんが走った。力半分といった駆け足だ。緑の外套は宙で踊る。

 続けてアージェが走り出す。僕は二人の最後尾に着いていく。


「リア。月海もしばらく見られなくなっちゃうね」

「そんなの、今はどうだっていいだろ」

「でも、だって……」

「はあ。そのうち連れて帰ってやるって」

「……えへへ。約束だよ」


 大玉荒野では、いつの時代からかヌシ扱いされてきた泥団子以外、生物が存在していない。泥団子自体、生物ではなく汚泥魔の一種らしいけど。

 ただ、凶暴ではないし。むしろ怖がりにすら見えてしまうし。


 あいつは僕ら子供には近づいてくるが、それだけ。大人には近づかないし、接近してきても、なにをするでもなく帰っていく。仲間もいない。ただただ荒野を放浪している。そんな無害な泥団子でも、倒せれば僕は認められると思っていた。


「泥団子にも注意よ。汚泥魔兵が出てきたら、なにか反応を示すかもしれないわ」


 茶色い大玉荒野。黒々とした断崖天壁。その上に広がる青い空。

 大ざっぱな三色に分けられた視界のなかを、三人とも小走りで進んでいく。

 歩けば四刻。全力で走れば一刻だが、普通は息が持たないという。

 姉さんは僕らの体力を加味して、小走りで二刻を目指すと決めていた。


「荒野のこんなところまで来るの、初めてだねリア」

「ちゃんと前見ろ。転ぶぞ。鈍くさいんだから」


 目的の森猫の小道は、断崖天壁の東側。大壁唯一の裂け目にある、細い峡谷だ。なんでも、大人二人も並んで歩けない劣悪な細道が三日ほど続くらしい。

 そんな気がおかしくなりそうな小道を抜けた先には、草地の平原と聖防国。僕もアージェもまだ行ったことのない、人々の営みの中心地があるという。


 一応、断崖天壁の最西端にはもう一か所、せまい洞窟があると聞いた。その先には未開森林と呼ばれる、未開拓の人知外領域が広がっているのだとか。


「二人とも、速さは大丈夫そう?」

「ハッハッ、ぜんぜん、だいじょぶっ」

「ハァハァ、ハァ、は、はい。だいじょ、ぶですっ」


 若干、アージェの息が上がってきた。背に垂れる一本髪の揺れ方も乱れがちだ。アージェも森遊びで鍛えてきたけど、僕ほどの体力はない。姉さんとなら段違いだろう。青い巫女服も慣れない外套も、動き心地が悪そうだし。

 道のりはまだ半分未満。それでも姉さんはアージェを案じて、足を緩める。


「ハァハァ。す、すみません、ネイルさん……ハァァ」

「灯火を導けなくなるのも問題だわ。気にしないで」


 ふと、アージェに手を差し出そうとした。

 月海の願杖を代わりに持ってあげようとした。

 だけど、両腕でグリンを抱えていることを思い出した。僕も緊張で疲れてるらしい。当のウッドグリフォンはキュゥと鳴き、緑の体を森猫のように丸める。

 なかなか幼体から成長しないグリンの尻拭いは、よく僕に回ってくるのだ。


「自分だけ楽しやがって。この裏切りもん」


 ときおり、僕を案じて後ろを振り向いてくるアージェには、平気そうな顔を返しつつ、「走れ」とアゴで伝えた。そのたびに月海の巫女は慌てて奮起し、ほんのすこしだけ足を速めて、まもなく疲れで減速していく。


 それぞれが不安を抱えたままの荒野縦断は、ようやく道のりの半分といったところ。遠目では真っ黒にしか見えなかった断崖天壁も、一か所だけある裂け目が徐々に見えるようになってきた。

 僕らが順調でいられたのは、そこまでだったが。


「ネ、ネイルさん、あっちの地面が黒く……汚泥魔兵ですっ!」


 息の荒いアージェが杖で示した先。北東側の荒野が黒く染まっていた。

 そこだけじゃない。茶色い大地の四方八方に、不自然な黒ずみが湧いている。それらは荒れた月海のように輪郭を盛り上がらせ、破裂し、無数の人型を生み出す。

 明るい朝だからハッキリと見える。見えてしまう。

 人影の正体は、黒い泥を全身にまとわりつかせた骸骨。汚泥魔兵だった。


「この数は……アージェルは灯火の準備ッ! リーアはとにかく離れないでッ!」


 怖気で縮こまりそうだった全身が、姉さんの声で張りを取り戻す。

 森猫の小道までまだ遠い。まだまだ半刻以上はかかるはず。

 敵勢は数十体どころか数百体を超えている。位置的にどうあっても、捕まる。


「アージェル、灯火を導いてッ」

 姉さんが指示をしながら、星鉄の鋭刃をすばやく抜いた。

「はいっ! 月の灯火よ。零れて我らを照らし給え……っ」

 アージェも走りながら、必死に願杖を天に掲げる。


 月の灯火はすんなりとは発動しなかった。十秒ほどしてから光球が生まれた。朝の明るい日のなか、月の色をした光に、遠くの汚泥魔兵すらも後ずさる。


「灯火は、暗きを照らし、魔を退け、人を癒やす、人類最後の希望の光よ」


 姉さんが一人で駆け出す。顔も向けず、後ろ手だけで「ついてくるな」と合図してくる。突出した姉さんが、汚泥魔の集団に正面から飛び込んだ。

 そして剣風の嵐。荒れた海を思わせる激しさで、四方に立ちふさがる黒い死体たちを乱れ撃った。黒い腕が飛ぶ。骨の頭が飛ぶ。ボロボロの胴体がちぎれ飛ぶ。

 僕との稽古では一度も見せたことがない、猛獣のような獰猛さだった。


「二人とも! 来なさい!」

 姉さんは六体の汚泥魔兵を瞬時に制圧した。立ち止まって、僕らを先導する。


「リア! ちゃんと後ろにいる⁉」

「いる! アージェはもっと走れ‼」

「キュゥキュー!」

「グリンっ、リアに迷惑かけちゃダメだよ!」

 僕とアージェは、ただただ必死に追いかけた。


「アージェルはいったん灯火を消して。私が接敵するときにまた頼むわ」


 はい、と返事したアージェが灯火を消すと、背筋をゾワッとさせられた。

 周辺に散らばる汚泥魔兵たちの動きが、いきなり機敏になった。灯火が消えたせいか。足運びのよどみがなくなり、僕らを害するために直線的に向かってくる。


 それでも、姉さんは器用に進行方向を微調整した。

 なるべく敵に捕まらないよう走り続けた。

 どうしても避けられないときだけ、アージェに灯火を命じ、体一つで突撃した。


「アージェルもうすこしよ! あとすこし耐えてちょうだい!」

「っ…………は、いっ!」

 姉さんの姿はまるで、月海の巫女を従える騎士のようで。

 姉さんの姿はまさに、僕が憧れる強き英雄そのものだった。


 四度の会敵を切り抜けたころ。道なりに赤い液体がポツポツとこぼれているのに気付いた。それは血だった。たぶん、先を走る姉さんの血だった。


「ね、姉さんケガしたの⁉」

「ネイルさん! 負傷したなら灯火の癒やしを!」

「ダメよッ。今は森猫の小道に逃げ込むことだけ考えてッ」


 灯火に照らされた汚泥魔兵は明らかに動きが鈍る。しかし弱体化には限度があった。けれども姉さんは多対一の場に無理やり体をねじ込み、いち早く制圧する。

 すべては、アージェと僕に敵を近づけないために。

 そのためだけに、自らの体を傷つけてでも止まらないでいる。


「裂け目はすぐそこよッ。二人とも早くッ」

 己の血を流すことも辞さず、月海の巫女を全身全霊で守り抜く。

 姉さんの後ろ姿は、本物の星護りだった。


「――予がせっかく出向いたというのに。骨身で食いでのなさそうな小娘らじゃ。クックク、見誤ったかのう」


 妖しげな女の声は、唐突に聞こえてきた。

 誰も、それが、姉さんの真横にいきなり現れたことを察知できなかった。


「ッッ⁉ 貴様まさか泥のっ」

 姉さんが驚愕して飛びのく。僕も悲鳴を上げようとして、喉からマヌケな音を鳴らした。アージェもすぐに、月の灯火を向けようとしたけれど。


「不敬じゃぞ。頭を垂れるか死ねい」


 鮮血のような赤い長髪がなびく。漆黒のドレスに身を包む女が不気味に笑った。

 前の布地は短く、後ろは長いドレスの裾から、艶やかな白足をさらけ出すようにして一歩。直後、空中に槍のような、鋭利な真紅の棒が出現した。


 次いで、赤髪女が右手を翻した。真紅の棒は矢のごとき速さで射出された。

 それは、姉さんの脇腹に突き刺さった。


「かはッッ……」

「姉さん⁉」「ネイルさん‼」

 姉さんのお腹から血があふれる。

 刺さった棒の持ち手側にも血が伝い、地面にこぼれる。


 槍のような凶器は筒状なのか。先端から柄までの空洞を伝わせて、姉さんの体液を地面へと流出させていた。ドロリと糸を引く粘った血液が、無臭の荒野に、むせ返るような濃密な臭いを香らせる。


「クックク。悪くない鮮血じゃな。零すにはちともったいなかったかのお」

「ぐぁっ……泥の、女王めが……なぜこんなところに……」

「予も千年の害虫駆除には飽いての。そろそろ僭称者の魂滅くらい考えようて」


 女王と呼ばれた女が、腰まで伸びる血のような髪を妖艶に撫でつける。夜をそのまま切り取って着ているみたいなドレスも、妖しく揺れる。

 黒い眼球に赤い瞳孔。顔面や首元、露出している胸元の肌は、寒期の雪のように白い。色気、なんてものを超越した薄気味悪さが、僕の思考を蝕んでくる。


「ッッ…………この、泥女がァ!」

 姉さんが気勢を吐く。腹に刺さった槍状の筒を乱暴に、一気に引き抜いた。

 朝の寒さに湯気立った血が、あたり一面に飛び散る。


「クク。予を泥女と呼ぶか。威勢のいい女よのう。気に入った。殺してやろうぞ」


 赤髪女が優雅に手を振る。空中にまた槍状の筒が三本現れ、射出される。姉さんはそれらを星鉄の鋭刃ではね除けるも、動くたびに流血で地面を濡らす。


「あ、あれが泥の女王……汚泥魔の、頂点……」


 アージェはおののき、歯をガクガクさせながら体も震わせる。足も止まった。目的地である森猫の小道の前にも、すでに大量の汚泥魔兵が湧き出ている。

 いくら姉さんでもこの状況はダメだ。突破は不可能だ。逃げる先もなくなった。

 そうと分かっていても動けない僕の横で、アージェは気丈に杖を掲げる。


「月の……月の灯火よ! 零れて我らを照らし給えっ!」

「待てアージェルッ」

 姉さんの静止は遅かった。月海の願杖の先端に強く光る灯火が生まれた。

 泥の女王も反応する。顔をしかめている。

 穢らわしい汚物を目にしたときのような、嫌悪の目をして。


「懇願の贄風情が。つくづく目障りじゃ。己は二度と輪廻に帰ってくれるなよ」


 女王には大して効いていないのか。悪態をつきながら手が振り上げられる。

 姉さんはすかさず、アージェのもとに駆け寄ろうとする。


「アージェル逃げろッ!」

 石のように硬直してしまったグリンと同じく、まばたきすらできていない僕の眼前で。勇ましい緑の背を見せるアージェの直上に、槍状の筒が出現した。


 姉さんは左手でお腹の傷を押さえている。それでも走ってきている。

 だけど間に合わない。

 震えを止めたアージェの顔は見えない。なぜか、勇敢な顔をしている気がした。 そして、泥の女王が真っ白な手を翻し。


「――ギギャガガ! グギゴガガガギ!」


 そいつは、汚泥魔たちと同じくらい突然やってきた。東のほうからの地響き。どんどん近づいてきている。巨大な、黒い球体が、異常な速度で。


「ぬ? 誰じゃ騒々しい」


 虫足をウジャウジャと蠢かせた泥団子が、顔を振り向けた泥の女王めがけて突進した。尊大な女は一瞬慌てるも、即座に身を引き、泥団子をかわす。

 その背後には。


「消え去れ、泥女!」


 数瞬の隙だった。姉さんが泥の女王へと肉薄し、星鉄の鋭刃で薙いでいた。

 女王も赤目を見開いた。それでいてなお、左腕を上げて鋭刃を受け止める。

 斬撃音は金属同士の衝突音に似ていた。

 女王の前腕は黒いドレスごと、わずかに削れていた。


「アージェル、リーア、泥団子を追って! 逃げるわよッ!」


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