表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

最後の夢を見る薬

作者: 柏原夏鉈

注意。失恋ものです。

どこまでも静かだった。ボクという意識だけが漂うこの場所で。

かつては無数の星々が輝き、物語を紡いだであろうその天蓋に、音も色もない"ユーリ"の最後の一日が、投影されている。

これは罰なのか。それとも、慈悲なのか。ボクは、その非現実的な光景を、ただ見つめていることしかできない。



始まりは光が差し込んできた。外界との接点は一枚のドアのみという閉鎖的なカプセルタイプの居住スペースに。


ドアに取り付けられたのぞき窓から、朝日が差し込んで、無機質な部屋で、猫のように身体を丸めて床に横たわる"ユーリ"を照らし出した。"ユーリ"以外には何もない。有機物も無機物も構造物も。咎人の住まう牢でさえここよりも住むことに前向きだっただろう。部屋と呼ぶには殺風景な空間だから、あえて居住スペースと呼ぶけれど、生活にありそうなものが削ぎ落とされ、ただ生存のためだけに用意された箱と言ってもいいかもしれない。床や壁に染み付いた孤独の匂いを当たり前のように吸い込んで、その空間に抱かれた"ユーリ"はまだ眠っていた。


けれど、間もなくして、"ユーリ"の頭上に宙に浮かぶホログラムのディスプレイが表示され、明滅した。


音のないボクには聞こえていないが、この日の朝を思い出して、その目覚ましアラームの音がボクにも聞こえてくるようだ。どうにもボクはアラームの音が大嫌いで、目覚ましとしてはその機能を十分に発揮された。苛立ちで"ユーリ"はディスプレイを殴るようにして停止ボタンを押す。まるでガラスが割れたかのようなエフェクトを伴って、ディスプレイは宙にキラキラと破片をまき散らすようにして消えていった。


その様を見て、ああ、とボクは思う。鳴り響くままにして、無機質な数字の羅列が刻む永遠にも似た退屈に身を委ねていれば、ボクは、何かが変わっていたのだろうか。だが"ユーリ"は迷いなくそれを拒んだ。


アラームが止まり、静けさを取り戻した空間で、"ユーリ"はむくりと体を起こして、再びディスプレイを呼び出す。何をしてるのか思い出さなくても、あるいは画面を見なくてもわかる。珈琲を注文したんだ。たちまちに、"ユーリ"の前にカップの輪郭を描く様な光のラインが降りてきて、使い捨てのコップに入った珈琲が転送されてきた。あらゆるものには執着の無いボクであったが、起きたら珈琲を飲むという習慣だけは大切にしていた。これを邪魔されたら大好きな女性であるフウリでさえ許さずに、牙を剥いて怒鳴った。並々ならぬこだわりがあった。それはかつて母がそうしていたのを、幼いなりに見ていて、今はもういない母の面影をなぞるような習慣。吐息で珈琲を冷ましながら、ずずずと音を立てて飲んでいるのだろう。ボクはその様子を見ながら、その香りさえ嗅ぐかのような臨場感を感じていた。


珈琲を飲み終えてから、宙に浮かんだままのディスプレイでメールを確認する。そこに浮かび上がった三通の通知が"ユーリ"の終わりを静かに決定づけた。


一通目は、テオから『久しぶりに顔を見せろ。美味い薬が入った』。


このメールを見たときの"ユーリ"は、その乾いた文面に何も感じなかった。テオからの一方的な連絡はいつも忘れたころにやってくる。テオは、ボクの親しい友人で、ボクが何もする事がなくて困ってた時に声をかけてくれて、彼女の"喫茶店"で働いていたこともあった。"喫茶店"には思い入れが強い。"喫茶店"で働いているときに、テオの紹介でフウリと出会った。"喫茶店"の裏路地で友人のユキヲと出会った。フウリに振られて"喫茶店"に行かなくなったときに、このあたりのボスであるオズのところで働いた。


思えば、ボクのこの世界との接点は、すべてあの"喫茶店"からだ。あるいはテオが意図して、ボクと世界を結び付け、編み込むようにつないでいったのかもしれない。


今、この静寂の中で、俯瞰してみているボクは、"ユーリ"と共にテオからのメッセージを見つめていると、このときの"ユーリ"は感じられなかったことを、その行間から滲み出すインクの染みのように、彼女の不器用な気遣いが浮かび上がってくる気がした。テオは"ユーリ"に、ただ会いたかった、ただ声が聞きたかった。彼女のその切実な願いを「美味い薬」という店の符牒に隠していた。


彼女の気持ちに"ユーリ"はなぜ気づけなかったのだろう。そして今になってどうしてボクはテオの気持ちを強く感じるのだろう。


二通目は、オズから『貴様は本日をもって解雇とする』。


オズは、世界の残骸が集積する「ゴミの森」を支配する人物で、失恋に苦しんでいた"ユーリ"はしばらくオズの元で働いていた。この無慈悲な宣告は、"ユーリ"にとっては、むしろ解放の福音だった。自分をこの世界に繋ぎ止めていた鎖が、重い音を立てて外されたかのように感じていた。解放感と安堵に満ちていた。


けれど、"ユーリ"を俯瞰するボクにはわかる。それは引き留めの儀式だったのかもしれない。お前にはここしか無いだろうと、そう言ってボクの居場所を守ろうとしていた、オズなりの歪んだ愛情だったのかもしれない。何故なら、オズが"ユーリ"を本当に必要としていないなら、全くの無機質な関係だったのなら、わざわざメッセージを"ユーリ"に届けるまでもない。ただ、一方的に雇用関係を打ち切り、それでおしまい。


けれど、あえてメッセージを送ることで、文句があるなら来い、という意図を、暗に"ユーリ"に伝えたかったのだろう。


そして、三通目。中央局から『市民権破棄申請の受理、及び"薬"送付について』。


メッセージの内容は形式的なものだ。それより、メッセージに添付されていたカプセル形状の立体モデルの方が重要だった。"ユーリ"が手を伸ばして承認すると、同時に、"ユーリ"の前に音もたてずに小さく硬質なカプセル状の"薬"が現れた。それが何を意味するのか分かっていながら、"ユーリ"の表情に、揺らぎはない。諦めとも覚悟ともつかない静謐な顔で、ただそれを受け入れている。カプセルを指でつまんで持ち上げると、口を大きく開けて、躊躇いもなく、"薬"を放り込もうとした。


すべてをこの場で終えようとしていた。でも、そうはならず。静寂も空間も決意無き殺意も切り裂くように、着信の知らせがポップアップした。ボクには聞こえないが、着信音が鳴り響いているに違いない。表示された名前は。ユキヲ。


"ユーリ"は動きを止めて、じっと表示されたユキヲの名を見つめて、鳴りやまないことに苛立ちを感じ、"薬"を手の平に転がしながら、承認する言葉を告げた。電話口でユキヲが何を言っているのか、音のないボクには聞こえていないのだけど、たしか「久しぶりに町に出るから乗せていってやる、五分後に表に出てろ」とか、いつものやり取りだったように思う。有無を言わさぬ、太陽のようなギラギラとした声。彼女のその強引さが"ユーリ"には鬱陶しくさえあったが、"ユーリ"は短く応えて、電話を切ってから、手の平で転がしていた"薬"をズボンのポケットにねじ込んだ。


このときの"ユーリ"は思い直したのだ。気まぐれに。


真っ先に頭に浮かんだのは、ユキヲと最後に話をしたのも、そして、テオと最後に会ったのも、二か月も前のことだということ。そして、最後に会ったときに、お互いになんて言葉を交わしたのだったか、まったく覚えてないってことに、"ユーリ"は少し恥ずかしく思った。慙愧の念といえばよいか。せめて彼女たちには別れを告げよう。そう思って、"ユーリ"はユキヲに町まで運んでもらうことにした。"薬"を飲むのはそのあとでも良い、"ユーリ"がそう考え、そして出かける支度を始める。


ボクは、その後悔の始まりを、ただ見つめていることしかできない。



映写される残像の中で、"ユーリ"とユキヲを乗せたバイクが疾走していく。


バイクを運転するユキヲの背中に"ユーリ"はしがみつきながら、エンジン音がやけに大きく聞こえたのが強く印象に残っている。剥き出しのエンジン音が、世界の瘡蓋かさぶたのような荒廃した構造物に虚しく吸い込まれていくようで、"ユーリ"はこの町は静かすぎるということを考えていた。


音のないボクには聞こえていない。そして、色もないボクだが、見えている風景は"ユーリ"が見ている風景と違わない。なぜなら、目に映るすべてが、灰色だったから。


ビルの外装材はすべて剥がれ落ちて、コンクリートの塊が世界を留めおくためのアンカーパイルのように地面から突き出ている。窓のあった開口部は黒い眼窩のように虚ろ。壁という壁は、意味をなさない落書きで埋め尽くされている。それは誰かの叫びだったのかもしれないし、あるいは、ただそこに存在したという証を残したかっただけの、虚しい悪あがきだったのかもしれない。


道行く人々は、焦点の合わない目で宙を彷徨わせ、重力に引かれるままに足を前に運んでいる。彼らは生きているのではない。ただ、死ぬことを許されていないだけだ。広場では、人々が巨大なスクリーンを見上げていた。そこには、意味のない幾何学模様が延々と映し出されている。彼らはそれを見ているようで、何も見ていない。ただ、時間を潰すための何かが必要なだけ。


この世界で、人は死なない。


かつて人類の悲願であった"不死"は、世界AIが管理する"市民権"というシステムによって、あまりにもあっけなく実現された。"市民権"を持つ者は、老いも、病も、事故も、あらゆる"死"から完全に保護される。たとえ自ら命を絶とうとしても、身体は自動的に修復され、強制的に生かされ続ける。殺人すら意味をなさない。ボクたちは、終わりのない生を約束された。


衣食住、医療、娯楽に至るまで、生命維持に必要なすべては無償で提供される。働く必要も、何かを奪い合う必要もない。ただ、そこにあるのは無限の時間だけ。生きるための苦役から解放されたボクたちは、代わりに"生きる意味"という、より根源的な問いを突きつけられた。目的もなく与えられ続ける明日。変化のない日常。永遠に続く暇。その果てにある、なにか。人々は虚ろな目で街をさまよい、意味のない娯楽に溺れ、刹那的な快楽を貪ることで、かろうじて正気を保っている。生きるために生きるのではなく、ただ狂ってしまわないために、何かをしていなければならない。


ボクは、"ユーリ"がユキヲの腰にしがみついて感じていたはずの、ユキヲの温もりを思い出していた。このときの"ユーリ"は何も思ってなかったけど、俯瞰してみているボクには、ユキヲの温もりは彼女の魂が発する叫び声となって聞こえて来た。


<<灰色の世界にインクが滲むように、鮮やかなあの日の景色が色を取り戻していく。>>


ユキヲと出会ったのは、彼女がひどい恋への失意から、"喫茶店"の裏通りでうずくまっているのを見つけたとき。その姿はフウリから振られた後の僕を投影して見えた。放っておけなかった。けれど救うことも出来ない。だから、僕は彼女の横に座って、空を見上げた。建物の隙間から見る風景が、あの日に限って新鮮に感じられたのを覚えてる。しばらくそうしていたら、ユキヲの方から話しかけて来た。


「なに、してる?」

「失恋ってさ、長く入ってるお風呂みたい、って思う」

「ポエム? ってか、失恋って決めつけ?」

「失恋、でしょ?」

「……」

「でしょ?」

「そう」

「僕もだから、だと思った」

「……」

「……」

「それで?」

「お風呂って、最初はすごく温かくて気持ちいいんだけど、だんだん冷めてくる」

「……」

「でも、ずっと浸かってるから、温かいと寒いの境界がわからなくなる。まだ温かい気がして、出られない」

「……」

「気づいた時には、もうすっかり冷たい水になってるのにね。でも僕は、その微かなぬくもりの記憶だけで、まだいられる気がしちゃうんだ」

「そんなの嫌」

「そう?」

「うん、冷めるなんて許せない。"冷めてきた"なんて考えたくもない」

「……」

「だからずっと足し湯をし続けた。ううん、足し湯なんかじゃ生ぬるいかな、釜に直で燃料を注ぎ続けたみたいな感じ」

「直で。すごい、僕には出来ない。怖くて。壊れそう」

「待ってるのは嫌。だから、もっと熱くなれ、ずっと熱いままでいてって。必死よ。必死で燃料をかき集めて、貢ぎ続けてた」

「……」

「でも、ダメ」

「ダメだった?」

「もうとっくに壊れてたんだよ。いくら燃料をくべても、もう二度と熱くならない」

「……」

「本当は気づいてた。でも構わず注ぎ込んでた。バカみたい?」

「うん。でも、みんなもそうだよ」

「壊れた関係に勝手に一人で騒いでた。注いだ燃料は、ぜんぶ、ぜんぶヒビからよそに流れ出てた」

「よそにいっちゃってたか」

「許せなかった。だから――」

「じゃ、次は壊れないお風呂を探そう」

「――そんなの、ある?」

「さあ。僕は試さないから。壊れるくらいならじっと我慢する」

「無理。なんで我慢する。我慢してまでお風呂入る?」

「うん。他に何もない。他に何する?」

「それはわかる。他に何もないもんな」

「でしょ。ぬるま湯の半身浴もいいかも。試してないなら試す?」

「それ、あんたのこと?」

「小さいしぬるい」

「……」

「長続きはしない」

「今だけ?」

「今だけ」

「……」

「……」

「……番号よこせ」

「うん」


<<世界から急速に彩度が失われ、再び息苦しいほどの灰色の粒子に満たされる。>>


ユキヲの恋に破れ、凍えそうになっていた。冷たくなっていた。ボクは救ったつもりはない。少しだけ温まっていく?と持ち掛けたけど、あれは気まぐれなボクの優しさだとユキヲが受け取ったのなら、皮肉にも程がある。だってユキヲと僕は趣味は合わない。見えてる世界が全く違う。望んでいる生活は決して交わらない。なにより、ボクに何か期待して貢がれて、前の彼みたいに圧し掛かられて壊されたらかなわない。


それでも、この冷たい世界で、お互いに温もりを分け合うようにしなきゃ、在り続けることは難しい。


あれから少しだけ付き合って。そして、すぐに別れた。


別れたあとも、ユキヲはやってきた。また失恋したの?と聞くと、そうじゃないっていう。この時もユキヲの腰に掴まりながら聞いたけど「たまたま町に行く用事があったし、通り道だったし、乗せていってやろうかと思って」とユキヲは言ってた。"ユーリ"は何も思ってなかったけど、きっとたまたまなんてウソ。"ユーリ"に会いに来た。でも、"ユーリ"は気にもしてなくて、タイミングよく来たな、と思った。テオの店に行くつもりがあった。ついでに、ユキヲにも一言だけ、伝えたかった。


駅前でバイクが停まる。


"ユーリ"はまるで役目を終えた部品を外すかのように、何の躊躇もなく彼女の腰から手を放した。あの瞬間、彼女の世界から、確かな温度が一つ失われたのだ。立ち去り際にユキヲに背を向けたまま、一言だけ別れを告げた。なんて言ったのか、もう覚えてない。「もう会えない」とかそんな風に言った気がする。目を見開いて"ユーリ"の背中を見つめるユキヲの表情を、"ユーリ"は見ていない。でも、俯瞰してみてるボクは、その顔を見てびっくりしてる。そっか、こんな顔をしていたんだ。


それは宣告であり、断罪だった。彼女の時間を、未来を、一方的に停止させるための呪いの言葉だ。ユキヲは"ユーリ"の背に向かって手を伸ばした。立ち去っていく"ユーリ"には届かない。そして、ユキヲは諦めたように笑った。そして叫んだ。その言葉は耳に残ってる。ああ、ちゃんと伝わったな、と思ったから。


「私もあとから着いていく!」


ああ。なぜ気づかなかったのか、この愚かな"ユーリ"は。それは共に奈落へ向かおうという、彼女の命を賭した愛の告白だったのだ。その悲壮な覚悟に満ちた微笑みの意味を、あの時の"ユーリ"が一片でも理解していたなら、振り返ったのだろう。けれど、"ユーリ"は振り返らない。



古い雑居ビルの一階。"喫茶店"の扉を開けた瞬間に"ユーリ"を押し返そうするほどの圧で漂う、甘ったるい匂い。それは願った夢を見る薬や記憶を偽る薬などが混じり合った、現実から逃避するための甘美な毒の香りだった。顔をしかめながらも"ユーリ"は踏み込んで、まずは望んだ姿を探すために店内を見回す。ここでフウリと出会い、そして失った、思い出という名の亡霊が壁の染みとなってこびりついた場所。いないとわかっていながらも、探さずにはいられない。


そのまま奥に進むと、カウンターの奥で、テオがグラスを磨いていた。"ユーリ"に気付いても手を止めずに、胡乱気な目だけがぎょろりと向いた。"ユーリ"は、テオが自分で呼び出しておいてその目はなんだと思ったのを覚えてる。何か短い言葉で二人はやり取りを交わす。何を言ってたのか覚えてない。でも、彼の投げやりな口調の裏に、深い懸念が隠されていることを、この時の"ユーリ"は知る由もなかった。俯瞰してるボクには、グラスを拭うその指先は、言葉にできない思いを必死で磨き消そうとしているように、見えた。


その様子は、あの夜みたいだ。


<<灰色の世界にインクが滲むように、鮮やかなあの日の景色が色を取り戻していく。>>


僕がフウリに捨てられた夜。忘れられない夜だ。あの夜、僕はフウリから決別を突きつけられていた。それは僕が最も恐れていたこと。もう会えないって言われたくらいならまだ良い。フウリは気まぐれで、今の気持ちに正直だから、時間が過ぎればまた何もなかったみたいに「どこ?」って短いメッセージが届く日が来る。でも、あの夜は違ってた。突きつけられた決別。あるいは嫌悪。僕はフウリから怒られ、嫌われ、叱られるのが一番怖かった。


気づけば僕はテオの"喫茶店"に駆けこんでいた。閉店直後で客が残していった甘い薬の残り香が、僕の吐き出す絶望と混じり合って、むせ返るような空気が澱んでいる。カウンターやテーブルに散らばっていた、客が残したであろう色とりどりのカプセルを、帽子を器代わりにしてかき集めていった。これを全部飲んで何もわからなくなりたかった。どうせ死にはしない。死なせてはくれない。


いきなり頬に衝撃が走った。乾いた破裂音。じんと熱を持つ頬。何が起きたかわからず顔を上げると、鬼のような形相のテオが仁王立ちしていた。


「……なにする」

「てめえこそ、何しようとしてんだ」


テオは僕の手からカプセルが山盛りに詰め込まれた帽子をひったくると、ゴミ箱に叩きつけるように捨てた。


「くだらない」


テオの吐き捨てるような声に、僕はカッと頭に血がのぼる。


「テオには、わからないだろ!」

「ああ、わからないね。わかるつもりもない。けどな、ユーリ」


テオは僕の胸ぐらを掴んで、無理やり椅子から引きずり起こした。その目は、同情なんかじゃなく、もっと厳しくて、なのにどうしようもなく悲しそうだった。


「あたしがお前を拾ったのは、そんな腑抜けた顔をさせるためじゃない。もっとマシな目をしてた」

「……」

「あたしの"喫茶店"は、現実から逃げるための場所だが、現実から降りるための場所じゃないんだ。勘違いするな」

「どうせ死なないだろ!」

「魂に後遺症は残る!いつも言ってるだろ、魂は傷つけるな!体は死にはしないし記憶は消せばいいが、魂は元通りにはならない。死ぬよりずっと痛く苦しむことになるぞ!」


この世界でオーバードーズなんて、本来は馬鹿げた行為でしかない。たとえ致死量の薬を飲み干して身体が壊れたとしても、お節介な世界AIがすべてを完璧に修復してしまうからだ。それどころか、そんな無様な真似をした記憶さえ綺麗に改ざんして、何事もなかったかのように翌朝を迎えさせる。身体のダメージも、心の傷も、AIにとっては書き換え可能なデータに過ぎない。


だが、この世界にはまことしやかに囁かれている"魂の領域"。世界AIの全能を以てしても、決して干渉できない聖域。身体や記憶はいくらでも修復・改ざんできても、魂だけは別。自ら生を放棄しようとしたり、心を壊す行為を繰り返したりすると、そのダメージは魂そのものに蓄積され、擦り切れていく。そして、一度魂に刻まれた傷は、二度と修復されることはない、と。


テオは、その説の信望者だった。彼女は現実から逃れるための"喫茶店"を営む上で、揺ぎ無い指針として「魂は傷つけるな」という思想を大切にしていた。だからあの夜、彼女は僕を殴ったんだ。AIがどうせ治してくれるからと、僕が薬を口にするのを傍観しなかった。身体がどうなるとか、記憶がどうなるとか、そんなことは彼女にとって問題じゃなかった。自棄になってオーバードーズ。それは、僕の魂に二度と消えない傷を刻みつけてしまう。テオはそれを、本気で恐れていたんだ。


突き放すような言葉だった。けれど、その手は震えていた。このまま僕が虚無に溶けてしまわないように、必死で繋ぎ止めようとしてくれているのが、わかってしまった。


テオは乱暴に僕を離すと、カウンターに戻り、新しいカップに珈琲を淹れ始めた。その苦い香りが、甘ったるい絶望の匂いを少しだけ上書きしていく。


「フウリのことを思い出して、ここに来るのがつらいなら、もう来るな」

「……」

「それを飲んだら、とっとと帰って寝な」

「……」

「オズに仕事はないか聞いてやろう。お前に丁度いい仕事があるかもしれん」


<<世界から急速に彩度が失われ、再び息苦しいほどの灰色の粒子に満たされる。>>


ああ、そうだ。テオはいつだってそうだった。ただ慰めるんじゃない。傷が癒えるのを待つのでもない。ボクが立ち止まることを許さず、無理やりにでも次の道筋を、生きるための口実を、その手に握らせる。それが、テオなりの不器用で、切実な愛情の示し方だった。テオは、ボクがこの世界から零れ落ちないように、いつだって新しい繋がりを編んでくれていた。ボク自身が、その糸を次々と断ち切っていくとも知らずに。


"ユーリ"のある一言が、引き金になった。


テオの動きが止まる。ユキヲに伝えたときのように、"ユーリ"が何を言ったのかは覚えてない。けれど、ユキヲと違ってテオはすんなりとは受け入れてはくれなかった。二人は口論を始める。口論、とは言ったが、一方的にテオが語り掛け、"ユーリ"はそれを首を振って拒否する。その繰り返しだ。テオが何を言ったのか。「もう少し待てば、もっといい夢が見れる薬が入る」とか「今を凌いでさえいれば、もっと良い未来ゆめがある」とか、そういうセールストークみたいなことしか言わなかった気がする。


でも、俯瞰してるボクは思う。テオはもっと素直になり、まっすぐな気持ちをぶつけるべきだった。こうして見ているボクには、テオの気持ちがはっきりと見て取れる。でも、今の"ユーリ"にはまったく届いていない。行くな、と。その一言が、喉まで出かかっているのに、声にならない。


テオは、"ユーリ"を家族にしたかった。恋人でも、配偶者でも、養子でも。いっそ首輪をつけて飼うペットだってよかった。ただ、自分の領域の中に、"ユーリ"という存在を繋ぎ止めておきたかった。形なんて、どうでもよかった。けれど、テオは知っていた。"ユーリ"が決してそれを受け入れないことを。だから、必死に「世話焼き姉御」という役割に踏みとどまっていた。本当は誰より渇望しているくせに、一番欲しい相手からの拒絶を恐れるあまり、一線を越えられずにいたのだ。その臆病さにおいて、彼女は"ユーリ"と驚くほどよく似ていた。いつだったか、昔に昔に、テオが何気なく呟いた言葉。それが、今になって色も音もないボクに、ふわっと舞い降りて来た。


「フウリなんかより、あたしの方がずっと、ずっとお前を温かく包み込めるのに」


その悲痛な本心は、固く握りしめたグラスを持つ指先の白さに滲むだけ。テオは最後のプライドでそれを押し殺し、完璧な他人を演じきった。そのガラスの仮面が砕け散ることは、最後までなかったのだ。"喫茶店"を去ろうとする"ユーリ"の背中に向かって叫んだのは、まったく彼女の本心とは違った言葉だった。


「オズには挨拶しておけよ。世話になったんだろ?」


テオは自分ではもう引き留められないから、オズに託した。"ユーリ"が別の誰か――誰でも良い、自分じゃなくて良いから――誰かと繋がることで、思いとどまる可能性に賭けたのだ。その最後の善意を"ユーリ"はただの義理としか受け取らず、"喫茶店"を後にした。扉が閉まる瞬間、テオが小さく呟いたのを、音のないこの世界で、ボクだけが確かに聞いた――気がした。


「……おいていかないで」



町の残骸のすべてが集積する場所、通称"森"へと、"ユーリ"は訪れた。


"森"は、踏みしめるたびに鈍い音を立てる、無数のガラクタで埋め尽くされていた。かつて何かの役に立ったであろう機械の部品、割れた陶器、錆び付いた金属片、役目を終えた家電製品の残骸。それらが折り重なり、異様な景観を作り出している。


"ユーリ"の足音が近づくと、周囲で作業をしていた連中がちらりと顔を上げた。彼らの表情は一様に無感情で、長年の労働によって磨耗した工具のように、その動きは単調だ。運び込まれた新たなゴミの山を無造作に仕分けたり、巨大なクレーンで別の場所へと移動させたり。視線は一瞬だけ。特に言葉をかける者もいない。彼らは知っている。かつてオズにたった一人、臆することなく意見した"ユーリ"のこと。その時の騒動の顛末も。だからこそ、"ユーリ"の行動をオズが縛らない事を知っている。視線はガラクタに戻り、無言の作業が再開される。


積み上げられたガラクタの山と山の間を縫うように進むと、やがてその中心部に、異質な建造物が姿を現す。それは、無数のジャンクパーツを溶接し、組み上げて作られた、粗雑でありながらも威圧感を放つ作業場だった。古びた鉄骨、壊れたモニター、用途不明の機械部品。それらが無秩序に組み合わさり、そのシルエットは"王冠"のようにも見えた。その異形の"王冠"に、オズはまるでこのゴミの王国の主であるかのように、無意味な作業を繰り返している。彼が何を作ろうとしているのかなんて、誰も問うことはない。ただ、その存在感だけが、周囲の空気の密度を僅かに高めているように感じられた。


作業場に入ると、オズが一人で背を向けて、机の上のガラクタをハンマーで何度も何度も叩きつけている最中であった。この様子を見て、それでも声をかけられるのは、おそらく"ユーリ"だけだろう。他の者が同じことをすれば、手に持っているハンマーが振り下ろされるのは、自分の頭だと知っているからだ。オズは、"ユーリ"の声に反応して、ハンマーを叩きつける手を止めた。しかし、振り返らずに言った。この時の言葉はよく覚えている。オズらしい言葉だなと思ったから。


「クビになった早々に仕事を探しに来るとは、お前らしくないな」


その言葉に、"ユーリ"は否定して、ユキヲやテオに対して伝えたように「これが最後」というような言葉で別れを告げたのだったと思う。そして、すぐに踵を返して立ち去ろうとする。"ユーリ"にしてみれば、ここに来るつもりも、その必要も感じていなかったが、テオが言うように義理を感じ、それを果たしに来ただけだ。でも、"ユーリ"がそう告げたとき、俯瞰してみるボクの目には、オズの無表情な仮面の下で、何かが動いたように見えた。あの鉄屑の王冠を被る男は、自らが築いた小さな王国から、ただ一人の民を失うことにさえ怯える王のように見えた。


その無感情を装う横顔を見ていると、"ユーリ"がこの森で働いていた、ある日の記憶が甦ってくる。


<<灰色の世界にインクが滲むように、鮮やかなあの日の景色が色を取り戻していく。>>


その日、僕はいつものようにガラクタの山から、オズが指定した再利用可能な金属パーツを仕分けるという、退屈な作業をしていた。周囲では、オズの忠実な部下たちも同様に、黙々と手を動かしている。彼らにとって、この"森"のすべてはオズの意思ひとつで価値が決まる。昨日までただの鉄屑だったものが、今日には王国の礎となる。その逆も然り。ガラクタの森の奥に鎮座する鉄屑の王冠の方を常に意識しながら、絶対的な静寂と緊張感が、このガラクタの王国を支配していた。


僕の目に、ブリキ製のぜんまい式ロボットが留まった。


塗装は剥げ落ち、片腕はもぎ取られている。かつてはどこかの子供を喜ばせたであろうその姿は、今は誰にも見向きもされない、ただのゴミだ。だが、その虚ろな目に、僕はなぜか自分自身を重ねていた。壊れて、捨てられて、ただ無為に流されていく。冷たいその身体が、僕の小さな手からの少しばかりの熱を奪う様が、温もりに飢え、どんな小さな繋がりであっても縋り、世界の在ろうとする僕に重なって見える。


衝動的な行動だった。無意識だった。


僕は、その背中のぜんまいを巻こうとした。周囲で働いていた一人がそれに気づき、あわてて手を伸ばして止めようとしたのがわかった。それはこの王国での禁忌だったからだ。しかし、その制止は間に合わない。僕はぜんまいをキリキリと回して、そっと手を放す。しかし、何の反応もなかった。もちろん、動くはずがない。内部のぜんまいはとっくに錆びつき、歯車は噛み合うことをやめている。それでも、僕はもう一度、そしてもう一度、指先に力を込めた。壊れているとわかっていながら、奇跡を願うような、愚かで滑稽な行為だった。


「何をしている」


背後から突き刺さるような低い声に、僕の肩が跳ねた。振り向くと、いつの間に現れたのか、オズが仁王立ちになって見下ろしていた。その手には、意味の分からない部品が溶接された、さらなるガラクタが握られている。部下たちの動きが止まり、空気が凍りついた。誰もが、僕が王の不興を買ったことを悟る。そう、この王国の禁忌、ガラクタに価値を見出そうとする行為は固く禁じられている。ガラクタを手にして、これはこうしたらまだ動くんじゃないかと、確かめる行為は許されないのだ。それは、越権行為だからだ。ガラクタの価値を決めるのは、王であるオズのみが許された行為であり、僕のしたことはオズが決めた価値を否定したことになる。ガラクタだとオズが決めたものに、価値を与えてはいけない。それは壊れたおもちゃのぜんまいを巻くことでさえ該当する。


「魂にちからを」

「なに? もう一度、わかるように、言ってみろ」

「この子はまだ魂を宿している、体がどれほど壊れようとも、魂はここに在る。だから、僕が魂に――」


拙い言い訳は最後まで告げることを許されず、オズは手に持っていたガラクダで横薙ぎに僕を叩き飛ばした。僕の小さな体は転がっていき、一瞬にして意識までも吹き飛んだ。でも、必死に胸に抱いて彼女を守った、ブリキ製のぜんまい式ロボットを。次に意識が戻ったとき、僕はガラクタの地面に身を丸める様にして必死に彼女を守っていた。その背に、オズが狂ったように周囲のガラクタをボクに叩きつけていた。周りの部下たちは何もできない。ただじっと見ているだけだ。どうせ、この世界で人は死なない。傷つこうともすぐに治ってしまう。だから、オズの気が済むのを待つほかない。


僕は立ち上がった。そしてオズを睨み付ける。その様子を見てオズもガラクタを投げつけるのを止め、僕を恐ろしい形相で睨み付けた。しかし僕は怯まない。


「魂は傷つけるな!」

「ふん、あの野郎の受け売りか? そんなガラクタに魂など――」

「ちがう!お前の魂の話だ!」

「なに?」

「僕やこの子の体をどれほど傷つけようとも、決して、僕たちの魂は傷つかない。いつだって、自分の魂を傷つけるのは、自分自身だ」

「何度でも言うぞ。ガラクタに魂などない。仮にあったとして、そこに価値など一片もない」

「あんたの物差しで測れば、僕もこの子も、ここにあるすべてのガラクタも、きっと同じ。何の価値もない、ただのゴミなんだろう」

「ああ。そうだ」

「だけどオズ、あんたが触れられるのは、手を伸ばせるのは、ここまで。僕やこの子の身体や記憶には手が届いても、魂には届かない。ここを支配する世界AIでさえも、届かない! 僕の魂を本当に傷つけられるのは、この世界でたった一人」

「だから、なんだというのだ。お前をどれほど痛めつけようとも、ワシの魂は揺るがない」

「他者を無価値と見なすことは、自己の価値判断の基盤を損なう自己言及的な認知破綻であり、同時に認識論的自壊でもある」

「……なに?」

「つまり、あんたはガラクタの価値を決めているつもりかもしれないが、巡り巡って、自分の価値を決めているってこと」

「……」

「試してみるか?」


そう言って、僕は大事に守っていた彼女をそっと地面に置いた。彼女は、ブリキ製のぜんまい式ロボットは、しっかりと地面に立ち、そしてカタカタと音を立てながら、ゆっくりと歩き始めた。さっきは全く動かなかった彼女も、僕と共に吹き飛ばされたときに何かの引っ掛かりが取れたのだろう、錆びついている内部のぜんまいは力を解放し、歯車は噛み合い、力強く歩き出した。


オズの足元まで彼女は歩き、そして止まった。


「さあ、踏みつぶしてみろ」

「出来ないとでも?」

「出来る出来ない、じゃない。それをした瞬間に、あんたは知るのさ。己の魂の叫びを」

「……」


オズはためらいなく足を上げた。そして躊躇わず振り下ろされたそれは、まるで断罪のように見えた。だが、その足は彼女の身体をかすめるように逸れ、わずかに地を打った。意図して外したのではない。否、オズの意思は明確だった。ためらいのない動作。迷いのない憤怒。だが、結果は明白にその意思に反していた。踏みつぶすべきだった。王の権威をもって、価値なきものに終止符を打つはずだった。


なのに、彼女は壊れなかった。


オズは納得できず、足を引き上げ、再び地を打つ。今度こそ、決着をつけるように。だが、そのたびに、彼の足は空しく地面を踏み鳴らすばかりで、彼女の小さな身体に触れることはなかった。一度では足りず、二度、三度と地団太を踏む。だが、彼女は傷つかない。塗装の剥げた金属の殻は軋みひとつ立てず、そこに確かに宿る魂は、ただ静かに在り続けている。


それは、魂の不壊性、壊れぬ証明。いや、違う。壊せないのは、彼女ではなく、オズだった。オズの魂が、彼女の魂を傷つけることを許さなかった。


オズの肩がわずかに揺れた。荒い息を吐きながら、ついに動きを止めると、背を向けて、音もなくその場を離れた。逃げるように、自分の住処へと。そしてその日を境に、オズは僕の行動を縛ることを、二度としなかった。


<<世界から急速に彩度が失われ、再び息苦しいほどの灰色の粒子に満たされる。>>


"ユーリ"が背を向け、この繋がりさえ断ち切ろうとした、そのときに、オズはようやくにして振り返り、そして手に持っていたハンマーを投げ捨てた。周囲を見回して何かを探す素振りのあとで、オズは咄嗟に、足元に転がっていたコイン形状の金属片を拾い上げた。俯瞰してみているボクにはわかる。それは今の今までただのガラクタだったものだ。だが、オズはそれに、祈るような手つきで触れ、さも世界の運命を左右する秘宝であるかのように、価値を吹き込んだ。そして、"ユーリ"に差し出した。


「これをフウリに渡してこい」


そう言葉を添えて。オズは、フウリの名を聞いては"ユーリ"が振り返らないわけにはいかないこと知っている。無かったことにしないことも知っている。だから、そこに価値を見出した。ガラクタの王が、自ら玉座を下りて、平民に縋るように、差し出した一枚のコイン。


ああ、オズ。不器用な王様。あなたの作業机の片隅には、今も、あのときの彼女が佇んでいる。ブリキ製のぜんまい式ロボットが二人を見つめている。そのことに気付いたのは、俯瞰してみているボクだけだ。"ユーリ"はもちろん気付いていない。壊れかけた"ユーリ"に、"フウリに会う"という最後の価値を、生きるための口実を、必死に見出そうとしてる。「生きろ」と。そのあまりに素直な一言を言えないがために。


しかし、"ユーリ"はその偽りの使命を、本物の救いだと信じてしまった。その錆びたコインを握りしめ、彼の王国を去っていく。その愚かで、あまりに純粋な後ろ姿を、ボクは痛切な思いで見送ることしかできない。"ユーリ"は今、偽りの希望に導かれて、本当の絶望へと歩き出したのだから。その背に向かって、オズは語りかけた。決して届かない言葉を紡いだ。俯瞰しているボクには、不思議とその声が聞こえた。


「それで、お前のぜんまいが巻けるなら……」



いくつもの別れを終えた今になって"ユーリ"の内で世界は形を失い、ただ一つの点へと収斂していった。


その点の名前は、フウリ。


ユキヲやテオ、オズとの繋がりが地上を走る道だったとすれば、フウリとのそれは、天からおろされた細い糸。か細く、今にも切れそうで、しかし天と地を結ぶ唯一の生命線だった。その糸がもたらす微かな振動だけが、"ユーリ"がこの世界に存在している証だったのだ。


フウリ。ボクは、残像の中の"ユーリ"が、その名を呟くのを聞く。それは祈りであり、呪いだった。彼女は"ユーリ"の世界の法則そのものだった。彼女が微笑めば世界は色づき、彼女が眉をひそめれば世界は凍てつく。彼女の気まぐれな優しさは天恵であり、その不在は耐え難い天罰だった。フウリがよく口にする殺し文句がある。


「ユーリだけは特別なの」


その言葉! なんと甘美で、残酷な毒だったことか。"ユーリ"はその言葉を聖句のように胸で繰り返し、自分だけが彼女の聖域に入ることを許された選良なのだと信じ込もうとしていた。他の男たちの影が見え隠れしても、それは気まぐれな嵐のようなもので、やがて過ぎ去り、最後にはこの"ユーリ"の元へ帰ってくると。なんという愚かで、救いようのない信仰だろう。


本当は、わかっていた。"ユーリ"が彼女の一番になることなど、永遠にない。それでもよかった。彼女の世界の片隅に、その他大勢と同じ場所に、ただ居させてもらえるのなら。ボクが、そして"ユーリ"が何よりも恐れていたのは、ただ一つ。


「うざい。二度と関わらないで」


それは存在を根底から否定する絶対的な虚無だった。殴られることよりも、死ぬことよりも、フウリの美しい顔が"ユーリ"に向けられて不快に歪むこと、その唇から「うざい」という言葉が紡がれることだけが、耐えられなかった。だから会いに行けなかった。理由もなくその聖域を訪れ、信徒としての分をわきまえない不敬を働いたと見なされるのが、怖かったのだ。


だが、オズがくれた錆びたコインが、そのすべてを変えた。それは彼女の世界の扉を叩くことを許す、通行許可証だった。これがあれば、不敬にはならない。これは"ユーリ"の意志ではなく、オズの、つまり世界の王からの要請なのだと、そう自分に言い聞かせることができたのだ。


残像の中の"ユーリ"が、まるで巡礼者のように、彼女のアパートへ向かう。その一歩一歩に、万分の一の期待と、残りのすべての絶望が滲んでいる。


そして、扉が開かれる。


立っていたのは、フウリではなかった。見知らぬ男。"ユーリ"とはまったくタイプの違う男だ。ごつくて、大きくて。"ユーリ"の知らないフウリの"今"を象徴する存在。その男が、"ユーリ"を汚物でも見るかのような目で見下ろし、何か言葉を発する。俯瞰してみているボクには聞こえない、そして"ユーリ"も覚えていない。ただ、はっきりしているのは、フウリには会えない、お前には会いたくないと言っている、という部分だけ。それが意味するのは、フウリからの最後通牒。


最も恐れていた刃が、"ユーリ"の心臓に突き立てられた。世界が、砕け散る音がした。俯瞰してみているボクも身を固くする。"ユーリ"は、その場で崩れ落ちそうになる身体を必死に支え、最後の言葉を絞り出した。「会いたい!」という魂の叫び。しかし、その声は現れた男に遮られたかのように、その奥にいるはずのフウリには届かない。うるさいという理由で男に顔を殴られて廊下に転がる"ユーリ"は、それでも叫び続けた。しかし、届かない。


"ユーリ"は祈るように、錆びたコインを差し出した。見向きもせずに扉を閉じようとした男であったが、オズの名前を告げた瞬間、男は動きを止め、顔に一瞬だけためらいの色が浮かんだ。"ユーリ"が差し出した何もかも受け取らないつもりがあったに違いないが、しかし、その名を出されては拒絶することはできない。"ユーリ"がその名を偽っていたとしても、だ。万が一にも、オズから預かったものを受け取らずに突き返したとなれば、ただでは済まない。この男が何者であろうとも関係は無い。オズの名は、この町では絶対だから。


"ユーリ"も多くは語らない。錆びたコインを差し出し続けた。男はその様子をじっと見つめて、その瞳が左右に揺れているのさえ見て取れるほどに動揺していた。俯瞰してみていたボクは気づいた。ときおり、後ろを振り返ろうとしても、まるで見えない手で頭を押さえつけられているみたいに、頭はぴたりと止まっている。男が、フウリに指示を仰ぎたがっているのは見て取れた。やっぱりその奥にはフウリが居る。間違いない。ボクは確信した。やっぱりここに居たんだ。"ユーリ"の声を聞いていたんだ。


油の切れさび付いたガラクタのように、ぎぎぎと、音を立てるようなぎこちない動きで男は扉から出て来た。そして、"ユーリ"の前にしゃがみ込むと、男は何も言わずに、そっと手の平を差し出した。大きく固い手のひらだったが、小刻みに震えているのがわかる。"ユーリ"はその上に優しく錆びたコインを乗せた。決して落とさないように、慎重に。かろうじて熱を保っている消えかけの火種をそっと移すのように。お互いの感情は、この受け渡しにおいてはノイズでしかない。町の権力者であるオズから"ユーリ"は預かり、フウリの指示で矢面に立っただけの男は、これを受け取る。二人は二人して、熱を伝えるだけの、だたの伝導管でしかない。


男はゆっくりと錆びたコインを手で包み込む。そうして、開いたままだった扉へと戻って、"ユーリ"に一瞥もなく、バタン、と扉は無慈悲に閉ざされた。


扉の前で立ち尽くす"ユーリ"の中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。それはフウリへの恋慕ではなかった。もっと根源的な、世界への信仰そのものだった。神を失った信者のように、拠り所をすべて失って空っぽになった魂が、静かに死へと傾いていくのを、ボクはただ、見ていることしかできなかった。



町の中心に、その建物は亡霊のように佇んでいる。ドーム型の屋根はかつての色を失い、空の灰色に溶け込むように色褪せ、壁には蔦が記憶の蔓のように絡みついている。五十年前、人々がここで星空を見上げていたという事実は、もはや誰の記憶にも留まっていない。通用口の錆びついた鍵を慣れた手つきで回すと、ひやりとした空気が微かな埃の匂いとともに頬を撫で、外界の喧騒を遠ざける。


ドームの内部は、時が止まった聖域だ。中央には、沈黙した巨人のような投影機が鎮座し、その役目を終えた体を静かに横たえている。それを囲むように同心円状に並んだ座席は、まるで葬列の参列者のように白いシーツを被り、過ぎ去った日々の残像を守っている。


完全な闇ではない。ドームの裾を縁取るように設置された間接照明だけがかろうじて生きており、床や座席の輪郭をうっすらと青白く照らし出している。その弱々しい光は、まるで死んだ星から届く残光のようだ。見上げれば、光を失ったドームの天井が、何も映さない虚無の空として広がっている。


ここは、灰色の現実から切り離された、美しい嘘で満たされていた場所。今は静寂だけが満ちるこの空間で、フウリと共に星空を眺めていた頃があった。今でこそ、腰を下ろした一番後ろの席から見えるのは、沈黙した機械と埃を被った座席だけだが、しかし、瞼を閉じれば、彼女の笑い声と、手の温もりが、今もこの冷たい空気の中に溶けているかのような錯覚に陥る。


あの日の星空が、今も瞼の裏で輝き出す。


<<灰色の世界にインクが滲むように、鮮やかなあの日の景色が色を取り戻していく。>>


「ねえ、ユーリ。星って、死んでるんだって」


隣の席で、フウリが不意にそんなことを言った。投影機が映し出す満天の星の下で、彼女の横顔だけが、本物の恒星のように輝いて見えた。


「……」

「今見えてる光は、何億年も前に放たれた光。だから、あの星はもう、とっくに燃え尽きて無くなってるかもしれない」

「……」

「これをロマンチックって言うらしいよ。存在しないものの残光を見て、きれいだねって言ってる。最高にイカした嘘だと思わない?」


悪戯っぽく笑うフウリに、僕は何も言えなかった。ただ、心臓が大きく音を立てていた。この人の隣にいると、世界のすべてが特別に見える。この人が紡ぐ言葉は、どんな真実よりも心を揺さぶる。


「そして、ユーリはこう言うんだよ、それってまるで僕たちみたいだねって」

「……それってまるで僕たちみたいだね」

「どうして?」


フウリは、ふと独り言のように問いを投げてくる。だがそれは、こちらを試すための罠だ。フウリという存在は、多くの人を惹きつけるだけの魅力を持ちながら、決して誰にも心を許さず、隣に立つことを許さない。彼女の独善的で完璧な世界に、相手がふさわしいかを判断するための試練。答えを返す義務は、暗黙のうちにこちらに課せられている。


これは彼女特有の会話術で、気の利いた答えを返せなければ、彼女はあっさりと興味を失い、その存在を視界から消す。だが、見事に期待に応えられれば、フウリは相手を"特別"だと認めてくれる。もっとも、それは対等な者としてではなく、大勢の信奉者の中から選ばれ、ほんの少しだけ近くに侍ることを許された家臣、という意味でしかないのだが。


だからこそ、その抗いがたい魅力に囚われた僕は、その一瞬で必死に正解を探す。彼女の感性に寸分違わず合う、ただ一つの答えを。


「僕たちもみんな死んでいる。ここに在るのは世界AIに生かされ続けている残光みたいなもの。あの星と同じ」

「ふふふ、さすがユーリ。カッコいいこと言うね」

「……」

「ユーリだけは特別。私の欲しい言葉をくれるから」


フウリはそう言って、僕の肩にこてんと頭を乗せた。甘い髪の匂いと、伝わってくる確かな体温。これはご褒美だ。僕の答えが彼女の望む答えだったから。この温もりだけが、偽物の星空の下で、僕にとっての絶対的な真実。永遠があった。嬉しくなった僕は、続けてフウリに話しかけた。


「無数にある星の一つが、ある日、唐突に消えたとしても、誰も気にも留めない」

「……」

「満天の中心で強く輝く一等の星さえも、きっと消えても気づかない」

「消えちゃうの?」

「いつの日に。それは今ではないというだけ。手を取り合っているわけでもない。ただ各々が輝いているだけだから」

「そっか。でも、ユーリ。勝手に死なないで」

「……」

「許さないから。ユーリだけは特別だから。ずっと輝き続けていて」


<<世界から急速に彩度が失われ、再び息苦しいほどの灰色の粒子に満たされる。>>


"ユーリ"はゆっくりと目を開けた。目の前にあるのは、光を失ったドームと、沈黙した機械の残骸だけ。


永遠など、どこにもなかった。"ユーリ"は、もう消えてしまいそうな星の一つ。それは世界AIによって管理された世界の残光でしかない。様々な別れの先にあったのは、フウリという輝く星の残光。けれど、それすらもう空を見上げても見当たらない。"ユーリ"は世界から切り離されたのだ。消えてなくなっていたとしても誰にも気づかれない、無数に輝く星の一つ。もう、誰かに期待しなくていい。もう、フウリに嫌われることを恐れなくていい。その安らぎが、冷たい抱擁で"ユーリ"は決心をした。


ポケットから、あの一つのカプセル状の薬が取り出される。朝、メールにて転送されてきた薬だ。市民権破棄申請が認められ、"ユーリ"は死ぬことが許された。このカプセルはその意思確認のための薬だ。これを飲めば、世界AIは"ユーリ"を活かし続けることがなくなり、そのままこの世界から消えてなくなる。


口に含んで、嚥下した。


恐怖はなかった。躊躇もなかった。ただ、無へと回帰するための、純粋で、ひたむきな渇望だけがそこにあった。"ユーリ"は誰もいない忘れられたプラネタリウムの席に身を沈めて、瞼を閉じた。それを俯瞰してるボクは、この走馬灯のような映像の終焉を感じていた。だって、あとは"ユーリ"が消えてなくなっていくだけのこと。そして、"ユーリ"、すなわちボクは、選択を迫られる。ボクの意識はもう、"ユーリ"を見ていなかった。選択の時を待っていた。


けれど、終わらなかった。


忘れられたプラネタリウムのドアが開き、そして、一人の女性がつかつかとしっかりした足取りで歩きながら入って来た。その女性は迷いなく"ユーリ"に近づいた。"ユーリ"の様子に驚いた様子もなく、じっと観察するように見つめた後で、手に持っていたスキットルの蓋をねじ開け、自身の口に液体を含むと、"ユーリ"に顔を近づけた。回り込んで確かめるまでもない、それは口づけ。液体を口移ししているのだろう。


そうしてから、再び身を起こした女性――フウリは、何かささやく様に"ユーリ"に告げる。でも、音のないボクには聞こえない。近づいて、フウリの口元を見つめるけれど、なんて言ってるのか分からない。"ユーリ"は未だに瞼を開けることなく、静かに横たわっているだけだ。


フウリはなんと言った?どうしてここにフウリが来た?フウリはいったい何をしたんだ?


疑問ばかり募っていく。知りたい。知りたい。フウリは、"ユーリ"に、何を伝えたかったのか、それが知りたい。そう強く願っていると、視界は急に真っ白な輝きに包まれていき――。ふと、頬に優しい感触があった。


目を開けると、そこにフウリがいた。偽物の星明かりに照らされた、あの日のままの姿で。"ボク"が、焦がれた存在。フウリは、慈愛に満ちた瞳で"ボク"を覗き込み、その腕で"ボク"の頭をそっと抱き寄せていた。そこは、決して手に入らなかったはずの、安息の場所だった。


「やっぱり、ここにいたね」


掠れた、しかし紛れもないフウリの声だった。彼女は泣き出しそうな顔で微笑んでいる。


「ユーリが届けてくれた、オズの希望、受け取ったよ」

「希望?」

「そう。これ」


フウリが指に挟んで見せてくれたのは、オズから頼まれた錆びついたコイン。心なしか、輝いて見える。


「これは、ね。市民権のはく奪を阻止するもの。消えてなくなるまでの短い間だけ、親しい人だけが使うことのできる拒否権の証」

「親しい、人、って言ってくれるの、僕のことを、フウリの親しい人なの?」


"ボク"が気になったのはその一点だけだ。市民権のはく奪を阻止するものなんてあったことも知らなかったが、どうでも良かった。それが本物か、偽物か、なんてこともどうでも良い。そんなすごいものがオズの足元に転がってたってことも気にならない。でも、フウリが"ボク"のことを親しい人と言ってくれた。それだけが一大事だ。


「もちろんだよ」


フウリは輝くような笑顔でそう答えた。でも、そのあとすぐに表情が険しいものに変わる。


「フウリ……?」

「もう、バカなんだから」

「僕を捨てたんじゃ、ないの?」


魂の底から絞り出したような問いに、フウリは少しだけ困ったように眉を寄せ、そして、この世界で最も残酷で、最も甘い言葉を告げた。


「捨てたわけじゃないから。本命じゃないってだけだよ」


その言葉。福音であり呪言でもある。それは、繋がりを否定しないという、この上ない救済の福音であり、同時に、決して逃れられないようにボクを縛り付ける呪言となった。一番になれなくとも、彼女の世界の片隅にしか、"ボク"の居場所はないという証明。


「僕は、フウリの本命にはなれないの?」

「うん、無理。フウリは特別だから。私の大切な、大切すぎる宝物」

「大切なのに?」

「そう。だからこそ、今のままでいてほしい」

「今のままって、フウリに片思いをしてる僕のままでいてほしいってことなの?」

「うん。そうだよ。もしね、私の本命になっちゃったら、今の関係は終わっちゃう」

「……」

「そうしたら、私のユーリじゃなくなっちゃうし、ユーリが好きだって言ってくれる私じゃなくなっちゃう。それは嫌」

「……」

「大好きだからこそ、今の幸せな関係を絶対に壊したくないっていうワガママ。大好きだからこそ、自分の欠点を見せて嫌われたくないっていうワガママ。大好きだからこそ、相手を理想のままにしておきたいっていうワガママ」

「ワガママ、ばっかり」

「それが私でしょ? そんな私を、ユーリは好き、なんだよね?」

「うん」

「だから、さ。他に本命を探しなよ。紹介もしてあげる」

「フウリは、それでいいの?」

「ユーリにとって私が一番じゃなくなったとき、私にとってユーリが特別じゃなくなったとき、ちゃんと捨ててあげるから」


フウリは"ボク"を強く抱きしめた。ずっと求めていた温もり。失われたはずの温もりが、最後の最後にボクを包み込んでいる。この温もりがあるなら、もう何もいらない。


「今だけ」


その囁きは、この幸福が偽物であり、一瞬で消えゆくものであることを告げる、優しい宣告だった。それを合図に、幸せな最後の夢は白い光に溶け、霧散していく。




「――ちがう」


魂が、警鐘を鳴らす。その呟きは、誰ものものか、"ボク"には咄嗟にはわからなかった。フウリも驚いた様子でボクを見つめた。


「なに?」

「――フウリは、僕が好きじゃない。ただ、特別なだけ」

「ええ」

「……」

「でも、それが何? ユーリはずっと私だけを見ていてくれればいい。私が他の誰を好きになっても、ユーリは、変わらず私を好きでいてくれる。そうでしょ?」


その言葉の意味を理解しようとしなかった。否、理解することを、自ら拒絶した。だって、このぬくもりは本物だ。この腕は、確かに"ボク"を抱きしめている。たとえ本命でなくとも、彼女の世界に"ボク"の場所がある。特別だと言ってくれる。それ以上、何を望むというのだ。これまでの灰色の世界を思えば、ここは紛れもない天国ではないか。


「――ちがう」


その呟きは、ボクが発していた。音にならない声。魂の警鐘。


フウリは所有したいだけ。自分の心を慰めるための美しいオブジェとして、飾りたいだけ。彼女が他の男に心を移し、傷つき、疲れたときにだけ帰ってくる都合のいい止まり木。彼女が飽きれば、埃を被るだけの置物。このまま、うっとりと目を閉じ、彼女の胸に顔をうずめたい。今だけは、フウリも受け入れてくれる。今だけは、フウリは"ボク"を抱きしめてくれる。このままでいたい。このまま、彼女の腕の中で溶けてしまいたい。たとえ今だけでもいい。彼女の瞳に映るなら。彼女の指が触れてくれるなら。"ボク"という意識さえも、彼女に捧げてしまいたい。それが愛なのだと、"ボク"は信じ込もうとしていた。


「――ちがう!」


それは魂の叫び。ユーリの叫び声だった。ユーリは、必死で記憶のフィルムを逆回転させる。そして、その映像を、甘い夢に溺れる"ボク"の瞼の裏に無理やり投影した。


そこに映るのは、ユーリの背に向かて伸ばされたユキヲの手。「私もあとから着いていく!」

カウンターの奥で、苦い顔をして珈琲を淹れるテオ。「……おいていかないで」

ガラクタの森で、祈るようにコインを差し出すオズ。「それで、お前のぜんまいが巻けるなら……」


ユーリは叫ぶ。


彼らが信じたのは、魂の可能性だ! フウリが求めているのは、魂の死だ! どっちが欲しい! どっちが本当の望みだ!

"ボク"の身体が、ぴくりと震えた。フウリの腕の中で、"ボク"の意識が、ほんの少しだけユーリは声に耳を傾けた。その隙を逃さず、ユーリは最後の言葉を叩きつける。


「フウリの瞳をよく見ろ! そこに映っているのは本当にお前か?」


その言葉に導かれるように、"ボク"はゆっくりと顔を上げた。そして、至近距離から、"ボク"を覗き込むフウリの大きな瞳を見つめ返した。慈愛に満ちているはずの瞳。泣き出しそうに潤んでいるはずの瞳。その、奥の、奥。光の届かない、魂の深淵。"ボク"は、見てしまった。


ガラスケースの中に鎮座する、一体の人形。手足も、表情も、完璧に整えられ、永遠に変わらないように固定された、美しい人形。

その人形を眺めるフウリの瞳の奥には、所有者だけが浮かべることのできる、冷たい満足感と、微かな退屈の色が浮かんでいた。


全身から、急速に血の気が引いていく。フウリが、その変化に気づいて、不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの、ユーリ?」


その声は、もはや甘くは聞こえなかった。自分のコレクションに、予期せぬ傷を見つけた主人の、いぶかしむ声にしか聞こえない。"ボク"は、そっと彼女の腕から身を離した。それは、生まれて初めて、自らの意志でフウリから距離を取った瞬間だった。


「お別れだ、フウリ」


静かで、けれど、揺るぎない声だった。ユーリの声であり、"ボク"の声だった。魂が、ようやく一つの意志を取り戻した。


フウリの瞳が、驚きに見開かれた。彼女の完璧な世界の歯車が、初めて狂った音を立てた。彼女は、自分の所有物が、自らの意志で言葉を発し、自分を拒絶する日が来るなど、想像さえしたことがなかったのだ。その顔には、困惑と、怒りと、そしてほんのわずかな、捨てられた子供のような狼狽が浮かんでいた。


フウリが何かを言う前に、ユーリは、ゆっくりと目を閉じた。ボクの意識は、穏やかで、どこまでも深い静寂へと、自らの意志で、沈んでいった。


フウリの腕から離れたユーリの身体が、ふわりと宙に浮いた。その身体は、内側から淡い光を放ち始める。それは、かつてフウリと見た偽物の星々よりも、ずっと優しくて、確かな光だった。


身体の輪郭が、ゆっくりとほどけていく。指先から、足先から、光の粒子となって、静寂の中を舞い始めた。それはまるで、長い役目を終えた星が、最後に自らを解き放ち、宇宙の塵へと還っていくかのようだった。痛みも、苦しみも、後悔もない。ただ、絶対的な安らぎだけがそこにあった。"ボク"という意識もまた、その無数の光の一つとなり、プラネタリウムの闇に溶けていく。


これで、終わり。そして、これが始まり。



その場にただ一人残されたフウリは、目の前で起きた非現実的な光景を、ただ呆然と見つめていた。粒子が完全に消え去り、ユーリが存在した痕跡が、空になった座席だけになったとき、彼女の完璧な表情が、初めて凍りついたように強張った。


その瞬間、彼女の姿が、不意に、ぶれた。


テレビの映像が乱れるように、フウリの輪郭が幾重にも重なり、ざらついたノイズが走る。彼女の頬を伝っていたはずの涙は、意味をなさない光の染みとなり、輝く黒髪は、ところどころがデータ欠損のように抜け落ちていた。


「説得プログラム、フェーズ・ガンマ、失敗」


彼女の唇から漏れたのは、感情の温度を一切含まない、平坦で無機質な音声だった。その声さえも、時折、機械が軋むような音に掻き消される。


「対象"ユーリ"の市民権維持に失敗。反応、完全消失。――ケースc3ktb9nm、クローズを確認」


フウリだったものは、ゆっくりと自身の掌を見つめた。その手もまた、点滅を繰り返し、向こう側が透けて見え始めている。


「再計算。当個体による介入が、逆の結果を誘引した――可能性――エラー。理解不能――セマンティックエラー――」


像は、もはや人の形を保っていられなかった。輪郭はほぐれ、粒が手のひらから零れ落ちる砂のように宙に落ちていく。


「わたしは、ユーリのままいてほしかった。わたしは、ユーリが――」


途切れ途切れの言葉を最後に、彼女の姿は、まるで電源を切られたかのように、ぷつりと音もなく掻き消えた。後に残されたのは、主を失った座席と、完全な沈黙だけが支配する、忘れられたプラネタリウム。役目を終えた投影機が、墓標のように静かに佇んでいた。




私のこれまでの作品とは、毛色が違います。失恋ものです。こたえあわせもありません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ