ドジ姫クレアと巻き込まれ剣士ジャン ~泥まみれの出会いは恋の始まり!?~
運命のドタバタな出会い!
鬱蒼とした古森の中、クレア・フィローネは半泣きで走り回っていた。薬草を採りに来たはずが、蝶々を追いかけているうちに、いつものごとく壮大に道に迷い、気づけば日はとっぷり傾き始めていたのだ。
「ひぃぃ、もうお城の厨房のアップルパイに間に合わないかもぉ~!」
本質的にそこじゃない心配をしつつ、涙目で木の根に足を取られ、見事なまでにすっ転んだその時だった。
「そこの姫様、ご無事か!?」
茂みから飛び出してきたのは、使い古した剣を腰に差した、まだ少年っぽさの残る青年。名をジャン・フレッドという。彼は、近隣の村から「森に迷い込んだお嬢様がいるらしい」という、なんとも曖昧な依頼を受け、半信半疑で森を捜索していたのだ。
「だ、誰ですの!? もしかして森のクマさんですの!?」
若干パニック気味のクレアに、ジャンは胸を張り、騎士道物語の主人公よろしく叫んだ。
「姫様、お助けします!」
そう高らかに宣言した瞬間、クレアが慌てて起き上がろうとして、ジャンの足元に巧妙に隠れていた狩猟用の罠のロープを、思いっきり引っ張ってしまったのだ!
「わぷっ!?」
「きゃあああっ!? やっぱりクマさんの罠ですのー!?」
二人仲良く、まるで運命の赤い糸にでも引かれるように(実際はただの麻縄だが)、少し先の窪地に掘られていた、おそらくイノシシか鹿を狙ったであろう深い落とし穴の底へ、盛大な土埃と泥しぶきを上げて落下した。ドッシャァァン! という、森の静寂を破るには十分すぎる音が響き渡った。
しばらくして、ジャンが「うぐぐ…」とカエルが潰れたようなうめき声をあげて目を覚ますと、視界いっぱいに広がっていたのは、同じく泥と葉っぱまみれになったクレアの、心配そうな顔だった。
「あ、あの…だ、大丈夫ですか…? お怪我は…?」
「……頭打った…星が…いや、姫さんの顔が近いぜ……」
フラフラと上半身を起こしたジャンに、クレアは小さな声で、しかしはっきりと謝罪した。
「あ、ありがとう…ございます…えっと…助けようとしてくださったんですよね…? わたくし、クレア・フィローネと申します…その、本当に、本当にごめんなさい! わたくしのせいで…」
「…ジャン・フレッドだ。ま、まあ、結果的に姫さんも無事だったみてえだし…いや、全然無事じゃねえな、これ。泥温泉は趣味じゃねえんだが」
見渡せば、穴の底は雨水と腐葉土でぐちゃぐちゃ。おまけに何かの動物のフンらしきものまで転がっている。第一印象は、お互いにとって最悪を通り越して、ある意味伝説級のものになったのは間違いない。
泥まみれの脱出劇と最初の夜
「と、とにかくここから出ませんと!」
クレアが気を取り直して言った。
「言うのは簡単だがな…結構深いぜ、この穴」
ジャンが壁を見上げる。
クレアは顎に手を当ててうーんと唸り、
「そうだわ!」
とポンと手を打った。
「わたくし、小さい頃、木登りが得意でしたの! ジャンさんの肩をお借りして、わたくしがまず登って、上からロープか何かを…」
「却下だ」
ジャンが即答した。
「あんたが俺の肩に乗ったら、二人してまた転ぶのが目に見えてる」
「むぅ…では、ジャンさんがわたくしを踏み台にして…」
「それもなんか違う気がする…」
結局、ジャンがなんとか壁の僅かな出っ張りに足をかけ、クレアを文字通り「お荷物」のように担ぎ上げ、泥と汗にまみれながら、半ば力技で脱出に成功した。クレアは
「やればできるんですのね、ジャンさん!」
と見当違いな称賛を送ったが、ジャンは疲労困憊で言い返す気力もなかった。
森を彷徨い、ようやく見つけた小さな洞窟で、二人は最初の夜を迎えることになった。ジャンが苦労して火をおこすと、クレアがおずおずと鞄から何かを取り出した。それは、無残にもぺしゃんこになったパンと、少し傷んだリンゴだった。
「こ、こんなものしか…」
「いや、助かるぜ」
ジャンはぶっきらぼうに言い、パンを半分こにしてクレアに渡した。
焚き火の心許ない明かりの下、クレアはぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。フィローネ家の使命、古の魔法、そしてそれを狙う者たちがいるかもしれないという不安。
「わたくし…本当に、そんな大役を果たせるのでしょうか…」
自信なさげに俯くクレアに、ジャンは少し考えてから言った。
「…まあ、あんた一人じゃ無理だろうな。見てるこっちがヒヤヒヤする」
「ひ、ひどいですわ!」
「でもまあ、何とかなんだろ。何とかするしかねえじゃねえか」
そのぶっきらぼうな励ましが、なぜかクレアの心にじんわりと染み渡った。
旅は道連れ、世は情け?
翌朝、なんとか森を抜け、街道に出た二人。クレアは改めてキリッとした表情で宣言した。
「わたくしには、守らねばならないものがあるのです! このような所でへこたれているわけにはいきません!」
その横顔は、朝日を浴びて、どこか神々しくさえ見える。ジャンも
「お、おう…昨日のドジっぷりはどこへやら…」
と少し感心しかけた、その直後だった。
ドテンッ!!
クレアは、道の真ん中にちょこんと転がっていた、子犬ほどの大きさの石ころにつまずき、見事に顔から街道の砂利にダイブした。おまけに、持っていた水筒が派手に転がり、中身の貴重な水がほとんどこぼれてしまった。
「……。」
ジャンは天を仰ぎ、深呼吸を一つしてから、クレアの腕を引っ張り起こしながら言った。
「ったく、あんた見てると寿命が縮むぜ! 本当に大丈夫かよ…水、ほとんど無くなっちまったじゃねえか」
「だ、大丈夫ですわ! ちょっとドジなだけですの! 水は…またどこかで汲めば…」
そう言ってへらりと笑うクレアは、どう見ても「ちょっと」では済まない壊滅的なドジっぷりを発揮していた。
日が暮れかかった頃、ようやく辿り着いた小さな村の宿屋で、二人はようやく人心地ついた。夕食のシチューを囲みながら、クレアは改めて「古の魔法の一族フィローネ家の末裔」であること、そして一族に代々守り継がれてきた「聖なる月の涙」と呼ばれる宝珠があり、それを狙う邪悪な輩から守り、いずれ定められた聖地に奉納する使命があることを語った。
「…でも、わたくし、魔法の才能がほとんどなくて…ご覧の通り、おっちょこちょいですし…お父様も、いつも心配なさっていましたわ…」
しゅん、と俯くクレア。その大きな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。その姿は、いつものドジっ子とは違う、心細さを抱えた一人の少女のものだった。
ジャンはシチューのスプーンを置き、頭をガシガシとかきながら、決意したように言った。
「…しゃあねえな! そんな危なっかしいヤツ、一人で旅させられるかよ。その聖地ってとこまで、俺が用心棒になってやる。金は出世払いでいいぜ」
「えっ、でも…わたくし、ご迷惑ばかり…」
「いーんだよ! 俺も、ただのチンピラ剣士で終わりたくねえしな! それに…あんたみたいなドジ姫見てると、なんだかんだで飽きねえし!」
悪態をつきながらも、ジャンの瞳は真剣だった。クレアは、その不器用な優しさと、意外なほどの男気に、胸の奥がくすぐったくなるような、温かい気持ちで満たされるのを感じた。
村での大騒動とジャンの不器用な優しさ
旅の途中、二人は活気のある農村に立ち寄った。クレアは子供たちに囲まれ、
「お姫様、魔法を見せて!」
とせがまれた。
「え、ええ、いいですわよ!」
張り切ったクレアは、得意(?)の「小さな灯りを灯す魔法」を披露しようとした。しかし、呪文を間違えたのか、杖の振り方がおかしかったのか、ボワッ!と勢いよく火の玉が飛び出し、近くに干してあった村長の奥さん自慢の刺繍入りシーツを見事に焦がしてしまったのだ。
「きゃあああ! わたくしのシーツがーっ!」
奥さんの悲鳴と子供たちの泣き声。クレアは顔面蒼白。ジャンはすぐさま駆けつけ、クレアの代わりに平謝りに謝り、自分のなけなしの金で弁償する羽目になった。
すっかり落ち込んでしまったクレアを、ジャンは村はずれの小川に連れて行った。
「…ったく、あんたは本当に目が離せねえな」
「ごめんなさい…わたくし、何をやってもダメですわ…」
「まあ、そう落ち込むなって。誰にだって失敗はあるだろ。俺だって、初めて剣を持った時、自分の足斬りそうになったしな」
「ふふっ…ジャンさんもドジですのね」
「う、うるせえ!」
ジャンの不器用な慰めと、夕焼けに染まる小川のせせらぎが、クレアの心を少しずつ癒していった。その夜、村長が「お詫びなんていいのに」と、二人においしい夕食をご馳走してくれた。村人たちの温かさに触れ、クレアは改めて「この人たちのためにも、使命を果たさなくては」と心に誓うのだった。ジャンも、そんなクレアの純粋さを眩しく感じていた。
小さな冒険と、芽生え始めた淡い気持ち
こうして、ジャンとクレアの、時に笑いあり、時に涙あり、そして常にドタバタありの二人旅は続いていた。
ある日、薄暗い森の中で、見るからに凶暴そうなゴブリンの群れに遭遇した時のこと。
「うおおおっ! 俺に続けー! …って、うわっ!?」
ジャンは勇ましく剣を抜いて突撃したが、木の根に足を取られて派手に空振り。おまけに、勢い余って剣が手からすっぽ抜け、ゴブリンの群れのど真ん中にポーンと飛んでいってしまった。
「ひゃっ! や、やりますわよ! 『聖なる光よ、邪を打ち払い…あうっ!か、噛みましたわ!』」
クレアも杖を構えて呪文を唱えようとしたが、緊張のあまり舌を噛んでしまい、意味不明な音を発するだけ。杖の先からは、弱々しい煙がちょろちょろと出ている。
「「……。」」
絶体絶命、万事休すかと思われたその時、クレアがパニックになって投げつけた、朝食の残りの硬くなったパンが、運悪くリーダー格のゴブリンの額にクリーンヒット! カコーン! という乾いた音と共に、リーダーゴブリンは白目を剥いて気絶。それを見た他のゴブリンたちは、「族長がパンでやられた!?」と謎の恐怖に駆られ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……勝った、のか?」
ジャンが呆然と呟く。
「か、勝ったみたいですわね…? わたくしのパンが、お役に立てて光栄ですわ!」
クレアはなぜか誇らしげだった。
ジャンは、自分の剣を拾いながら、この姫様といると常識が通用しないことを改めて痛感した。
夜、焚き火を囲んでの時間は、二人にとってかけがえのないものになりつつあった。ジャンはぶっきらぼうながらも、クレアが寒くないように自分の外套をそっとかけたり、狩ってきたウサギの一番おいしい部分を黙ってクレアの皿に乗せたりした。クレアはそんなジャンの不器用な優しさに、胸の奥がきゅんと締め付けられるような、甘酸っぱい気持ちを感じ始めていた。
ある晩、ジャンがゴブリンとの(パンのおかげで無傷だったが)戦いで汚れた服を繕っていると、クレアが
「わたくしがやりますわ!」
と申し出た。しかし、針に糸を通すだけで一苦労し、ようやく縫い始めたかと思えば、ジャンの服と自分のスカートを一緒に縫い付けてしまう始末。
「…あの、クレアさん? 俺たち、一心同体になるのはまだ早いと思うんだが…」
「ひゃああ! ご、ごめんなさいぃぃ! すぐに解きますわ!」
半泣きで慌てるクレアに、ジャンは思わず吹き出してしまった。
「ははっ! まあ、いいってことよ。その…気持ちは嬉しいぜ。それに、お前のそういうドジなとこ、見てて飽きねえし」
その言葉に、クレアの顔がぽっと赤くなる。
「あ、あなたの剣も…その…今はまだ、ちょっと頼りないかもしれませんけど、いつかきっと、誰かを守れる、月夜に輝くような強い剣になりますわ!」
「お、お前のその…一生懸命なところは…悪くないと思うぜ。それに、その…なんだ、笑った顔、結構いいんじゃねえか」
ぎこちない言葉を交わしながらも、二人の間には確かに、友情とは少し違う、温かくて、くすぐったい何かが芽生え始めていた。ジャンは、クレアの笑顔を守りたいと、柄にもなく思うようになっていた。
市場の喧騒と小さな約束
旅の途中、大きな宿場町に立ち寄った二人。久しぶりの賑わいに、クレアは目を輝かせた。
「わあ、ジャンさん! 見てくださいまし、綺麗な髪飾りがたくさんありますわ!」
クレアが露店の品々に夢中になっている隙に、怪しげな男がそっと彼女の小さなポシェットに手を伸ばした。それに気づいたジャンは、素早く男の手首を掴み、鋭い眼光で睨みつけた。
「てめえ、何しようとしてんだ?」
男はすごすごと逃げていき、クレアはジャンの頼もしさにあらためて胸をときめかせた。
「ありがとうございます、ジャンさん! さすがですわ!」
しかし、その直後、今度はジャンが別の露店で「伝説の竜の鱗」と称するただの石ころを売りつけられそうになっているのを、クレアが
「あら、その石、わたくしの故郷の川原にもたくさん落ちていますわよ?」
と無邪気に言ってしまい、商人の嘘を見破るという一幕も。
「…お互い様、ってことか」
ジャンは苦笑いした。
その日の夕方、町の外れにある小さな泉のほとりで、二人は休憩していた。クレアは泉にコインを投げ入れ、静かに手を合わせた。
「何を祈ってたんだ?」
ジャンの問いに、クレアは少し照れながら答えた。
「旅の安全と…それから、ジャンさんが、もっともっと強くなれますように、って」
「俺のためにか?」
「はい。だって、ジャンさんはわたくしを守ってくださる、大切な用心棒さんですから」
そう言って微笑むクレアの横顔は、夕日に照らされて美しかった。ジャンは、自分の心臓がドクンと大きく鳴るのを感じ、慌てて視線を逸らした。
(用心棒、ね…)
それだけじゃない感情が、ジャンの胸の中で確実に育っていた。
迫りくる危機!「守りたい」って本気で思った
順調とは言えないまでも、絆を深めながら旅を続けていた二人に、ついに本格的な、そして凶悪な危機が訪れた。クレアの持つ「聖なる月の涙」の情報を掴んだ、黒装束の刺客集団「闇鴉」が、ついにその牙を剥いたのだ。彼らは、金のためならどんな汚い仕事も請け負うと噂される、恐ろしい暗殺者たちだった。
「宝珠を渡してもらおうか、フィローネの娘! 抵抗すれば、この若造の命はないと思え!」
リーダー格の男の卑劣な言葉に、ジャンはクレアを背中に庇い、震える手で剣を握りしめた。
「させるかよ! こいつに指一本触れさせてたまるか! 俺が相手だ!」
しかし、多勢に無勢。何よりも、ジャンの剣技はまだ未熟で、刺客たちの洗練された連携攻撃の前に、あっという間に追い詰められ、身体のあちこちに深い傷を負ってしまう。
「ジャンっ!」
クレアの悲痛な叫びが、森の中に木霊する。血を流し、膝をつき、それでもクレアを守ろうと必死の形相で立ち続けるジャンの姿に、クレアの心は恐怖と絶望、そして激しい怒りで押しつぶされそうになった。
(私が…私がしっかりしないと、ジャンが、ジャンが死んでしまう…! そんなの、絶対に嫌!)
その瞬間、クレアの中で何かが激しく弾けた。恐怖を振り払うように、彼女は両手を天に突き上げ、心の底からの叫びと共に、無我夢中で叫んだ。
「みんな…みんな、ジャンをいじめないでえええっ!! わたくしの大切な人を傷つけないでえええっ!!」
彼女の体から、今までとは比べ物にならないほどの眩いばかりの光が迸る。それは、未完成ながらも、刺客たちを怯ませ、数人を吹き飛ばすほどの強大な魔力の奔流だった。しかし、制御できない力は暴走し、周囲の木々をなぎ倒し、あわやジャンをも巻き込みそうになる。
「うおっ!? クレア、そりゃいくらなんでもやりすぎだ! 俺まで消し飛ぶところだったぞ!」
間一髪でクレアの暴走魔法を避けたジャンは、最後の力を振り絞って刺客の一人に渾身の一撃を叩き込み、その隙にクレアの手を固く握って、森の奥深くへと必死に逃げ込んだ。
ボロボロになりながらも、なんとか刺客の追撃を振り切った二人。ジャンは、クレアをきつく抱きしめた。その腕は、震えていた。
「大丈夫か、クレア! 怪我はねえか!?」
「ジャンこそ…私のせいで、こんな酷い怪我を…ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…でも、ジャンが無事で、よかった…本当によかった…」
ジャンの腕の中で、クレアは声を上げて泣きじゃくった。お互いの温もりを感じながら、ジャンは強く、強く思った。こいつを、クレアを、絶対に守り抜く。そのためなら、どんなことだってしてやる。そのためには、もっと強くならなければ。今のままでは、ダメなんだ、と。
高熱のジャンとクレアの献身、そして別れの予感
刺客から逃れた後、ジャンは無理が祟って高熱を出し、近くの廃屋で数日間寝込むことになった。クレアは生まれて初めて、誰かを懸命に看病した。
薬草を煎じようとして鍋を焦がしたり、冷やすための布を間違えて熱湯で絞ってジャンの額を火傷させかけたりと、相変わらずドジは連発したが、その眼差しは真剣そのものだった。
夜通しジャンの傍を離れず、汗を拭い、水を飲ませ、拙いながらも子守唄を歌って聞かせた。
意識朦朧としながらも、ジャンはクレアの献身的な姿を確かに感じ取っていた。
「ありが…な…クレア…」
という掠れた声が、クレアの涙を誘った。
ジャンの衰弱した姿を目の当たりにし、クレアもまた、
「わたくしが、もっとしっかりしなければ、ジャンの足を引っ張るばかりだわ」
と、自らの非力さを痛感し、変わらなければという思いを強くしていた。
ジャンの熱が下がり、少しずつ回復してきた頃、彼はクレアに告げた。
「クレア…俺、もっと強くならねえとダメだ。このままじゃ、あんたを守れねえ。だから…少しの間、別行動をとらねえか?」
その言葉は、クレアにとって衝撃だったが、同時に、どこかで予期していたことでもあった。
それぞれの試練と、離れられない絆
ジャンは、クレアを守るため、そして何より自分自身が真の強さを手に入れるために、人里離れた「龍の顎」と呼ばれる険しい山脈に住むという伝説の剣聖、マスター・ゾルタンの元を訪ねる決意をする。クレアもまた、フィローネ家に伝わる「月の神殿」で、自らの内に秘められた魔力を正しく制御し、一族の使命を全うするための試練に正式に挑むことになった。
「必ず戻ってくる。今度こそ、あんたをちゃんと守れるようになってな。だから、クレアも…その、ドジって崖から落ちたりすんなよ」
「ジャンこそ…無茶して怪我ばかりしないでくださいまし。わたくし、いつまでもお待ちしておりますわ。もっと、頼りになる魔法使いになって!」
しばしの別れ。寂しさを胸に隠し、二人はそれぞれの過酷な道へと進んだ。
ジャンの師匠となったゾルタンは、噂に違わぬ飲んだくれで超絶偏屈な老人だった。修行は、来る日も来る日も巨大な岩を山頂まで運ばされたり、滝壺で真冬に水浴びさせられたり、目隠しでゾルタンの投げる小石を避けさせられたりという、剣術とは程遠いと思われる無茶苦茶なものばかり。
「じじい! こんなんで本当に強くなれんのかよ!? 俺は剣を習いに来たんだぞ!」
「やかましいわい、ひよっこが! 剣なんぞ、その程度の根性で扱えると思うな! 心技体、全てを極限まで鍛え上げてこそ、真の剣士への道が開けるのじゃ! まずはそのへなちょこ精神から叩き直さんか!」
不満タラタラのジャンだったが、ゾルタンの時折見せる、老いた鷹のような鋭い眼光や、何気ない木の枝を振るうだけで岩をも砕く超人的な技に、ただ者ではない何かをひしひしと感じ取っていた。そして何より、クレアの笑顔を思い出すたび、「ここでへこたれてられるか!」と歯を食いしばった。
一方、クレアは「月の神殿」で、フィローネ家の長老である厳格な老婆、大巫女アガサの指導のもと、厳しい試練に臨んでいた。それは、自らの内なる強大な魔力と向き合い、それを意のままに制御する方法を学ぶというもの。しかし、相変わらず超絶ドジなクレアは失敗の連続
。瞑想中に居眠りして祭壇の聖火を鼻息で吹き消しかけたり、魔法薬の調合で大爆発を起こして神殿の一部を黒焦げにしたり、古代の聖典を水桶に落として読めなくしたり…。
「やはり、この娘にはフィローネの血は呪いレベルで薄かったか…いや、むしろ濃すぎて暴走しているのか…?」
長老たちも頭を抱え、諦めムードが漂う中、クレアはジャンの「クレアならできる!」という不器用な激励の言葉を何度も心の中で繰り返した。そして、持ち前の(ある意味才能とも言える)諦めの悪さと、ジャンのために強くなりたいという一心で、自分らしいやり方で、ゆっくりと、しかし確実に、その秘められた強大な魔法の制御を身につけようと、涙と鼻水と失敗の山を築きながらも努力を重ねた。
離れていても、二人はお互いを想い、心の支えとしていた。ジャンは夜空に輝く月を見てはクレアのドジな笑顔を思い出し、クレアは風の噂で伝え聞くジャンの無茶苦茶な修行の様子にハラハラしながらも、その成長を心から願った。時折、魔法の伝書鳥がお互いの近況を伝える手紙を運んだ。
ジャンの手紙は相変わらずぶっきらぼうで誤字だらけだったが、行間からはクレアを気遣う優しさが滲み出ていた。クレアの手紙もまた、お嬢様らしからぬ珍妙な言い回しとドジな失敗談のオンパレードだったが、ジャンへの信頼と再会を願う気持ちが溢れていた。その手紙のやり取りが、二人にとって何よりの励みとなっていた。
決戦の地へ! 二人の力が合わさる時!
数ヶ月後。ついに、闇鴉の首領であり、フィローネ家の「聖なる月の涙」の力を悪用して世界を永遠の闇で覆い尽くそうと企む、古の闇の魔術師の末裔、ゾルゲイドが、その邪悪な野望を成就させるべく、月の神殿に総攻撃を仕掛けてきた。彼の目的は、月の涙の力を最大限に引き出すことができる、百年に一度の「宵闇の刻」に、クレアを生贄として捧げることだった。
クレアは民と神殿を守るため、試練の末にかろうじて制御できるようになった(それでも時々暴発する)強大な魔法で必死に応戦するが、ゾルゲイドの操る闇の軍勢と、彼自身の圧倒的な闇の魔力の前に、じりじりと追い詰められてしまう。
「終わりだ、フィローネの娘! その聖なる力もろとも、我が永遠の闇の礎となるがいい!」
絶体絶命のクレア。彼女の脳裏に、ジャンの笑顔が浮かんだ。その時、戦場に一陣の疾風が巻き起こり、見違えるほど精悍な顔つきになったジャンが、まるで光の中から現れるように駆けつけた!
「クレア! 遅くなって悪かったな! 約束通り、迎えに来たぜ!」
「ジャンっ! 来てくれたのですね! 信じてましたわ!」
厳しい修行を乗り越え、剣聖ゾルタンから免許皆伝の証である光り輝く長剣「月影」を授かったジャンの剣技は、以前とは比べ物にならないほど鋭く、速く、そして力強い。
「クレアは俺が守る! 二度とあんたを危険な目に遭わせねえ!」
「ジャン、わたくしも戦いますわ! 今度こそ、あなたの隣で!」
ジャンの不屈の勇気と、クレアの覚醒した(それでもやっぱりたまに呪文を間違えたり、魔法の方向がズレたり、威力が大きすぎて味方まで巻き込みそうになる)聖なる魔法が、絶望的な戦況の中で、奇跡の光となってゾルゲイドとその軍勢に立ち向かう。
クレアがドジで転んだ拍子に、偶然ゾルゲイドの張った強力な結界の僅かな亀裂を発見したり、ジャンの攻撃を援護しようとしたクレアの光の魔法が、明後日の方向に飛んでいって、偶然敵の指揮官の目を眩ませて同士討ちを誘発したりと、神様も味方する(?)としか言いようのない奇跡とハプニングが連続する。
「な、なんだこのデタラメな戦い方は!? 我が計算され尽くした戦術が、ことごとく崩されていく…だと!?」
百戦錬磨にして冷酷非道なはずのゾルゲイドも、二人の予想外すぎる連携プレイ(そのほとんどが偶然の産物だが)に翻弄され、次第に焦りの色を見せ始める。
そしてついに、ジャンの渾身の一撃がゾルゲイドの闇の鎧を砕き、クレアの放った、ありったけの想いを込めた浄化の光の奔流が、ゾルゲイドの邪悪な魂を打ち消した! 闇は晴れ、戦場には静寂と、そして温かな光が戻ってきた。
そして、二人の「これから」…伝説の始まり?
激闘の末、ゾルゲイドは倒れ、世界は永遠の闇の脅威から救われた。月の神殿には平和が戻り、夕焼けが空を美しい茜色に染め上げる頃、ジャンとクレアは、少し壊れてしまった神殿の庭園で、手を取り合って静かに佇んでいた。お互いの顔には、まだ戦いの痕跡と疲労の色が残っていたが、その表情は晴れやかだった。
「終わったんだな…本当に、全部…」
ジャンが、どこか夢見るような口調で呟いた。
「はい…ジャンのおかげですわ。あなたが来てくださらなかったら、わたくし…」
クレアの瞳が潤む。
ちょっぴり大人びた二人の間に、心地よい沈黙が流れる。やがて、ジャンは意を決したように、クレアに向き直った。その顔は、夕焼けよりも、そして今まで見たどんな夕焼けよりも真っ赤だ。
「なあ、クレア…その…色々あったけどよ…これからも、ずっと…俺の隣に、いてくれねえか? その…用心棒としてだけじゃなくて…その、なんだ…つまり…」
しどろもどろになりながらも、一生懸命言葉を紡ぐジャンの姿は、少し頼りなかったが、最高に格好良かった。クレアは一瞬きょとんとした後、世界で一番幸せそうな、満開の花のような笑顔を浮かべた。
「はいっ! 喜んで…いいえ、わたくしの方こそ、お願いしたいですわ!」
次の瞬間、クレアは喜びのあまりジャンの胸に飛び込み、勢い余ってその唇に、自分の唇を重ねた。それは、甘くて、少しだけ泥の味がする(気がした)、初めてのキスだった。
「!?」
ジャンは驚きと喜びと、その他いろいろな感情で完全に硬直。クレアもまた、自分のあまりにも大胆な行動に気づいて、顔から火が出そうなくらい真っ赤になった。そして、お約束のようにバランスを崩し、二人仲良く柔らかな草の上に、今度は笑いながらゴロンと転がってしまった。
「も、もう、クレアったら! 心臓に悪いぜ!」
「えへへ、ジャンもですよ! 顔、真っ赤ですわ!」
見つめ合い、どちらからともなく笑い出す二人。その笑い声は、夕焼け空にどこまでも高く響き渡った。こうして、ちょっと頼りないけど勇気だけは誰にも負けない元・少年剣士ジャン・フレッドと、ドジでおっちょこちょいだけど誰よりも愛される魔法使いの姫君クレア・フィローネの、波乱万丈でドキドキハラハラな恋物語は、最高のハッピーエンドを迎えたのだった。
彼らの冒険と愛の物語は、その後も、吟遊詩人たちによって、ちょっぴりの脚色と(クレアのドジに関しては山盛りの)たくさんの笑いを交えながら、大陸中に広まり、末永く語り継がれていくことだろう。
そして、数年後、とある小さな王国で、相変わらずドジだけど民に愛されるお妃様と、そのお妃様に振り回されながらも幸せそうに国を支える若き騎士団長の姿が見られたとか、見られなかったとか…。めでたし、めでたし!