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月狼伯爵は赤い羊を逃さない(短編版)

作者: 小湊セツ

「こんな……こんなふざけた条件……貧乏男爵の娘だからって馬鹿にしないで!」


 王侯貴族も通う由緒正しき王立学院の廊下に、私の悲痛な叫びがわんわんとこだまする。近くの教室から生徒が顔を出し、遠い廊下の先を歩く生徒のグループが何事かと振り向く。生徒同士の諍いを止めるべき教官も、見るに耐えない残酷な絵画を見たかのように、痛ましげな表情で足早に去っていく。明日の今頃は学院中の噂になっているだろうけど、今はそんなことを気にしていられない。


「どういうつもりなのアーサー!? あんた、これ読んでないの!? おかしいと思わないの?」


 私は頭ひとつ分高いところにある恐ろしく整った顔を睨んで、ぐしゃりと握りしめた手紙を封筒ごと突き返した。

 アーサーは私の憤りなんて意に介さず、ぐしゃぐしゃになった手紙を嫌味ったらしく丁寧に伸ばす。割れた封蝋に押された月と狼の紋章を確認して、呆れたようにため息を吐いた。何度見返してみても、紋章は間違いなくアーサーの実家、建国十功臣にして東の辺境伯と名高いセシル伯爵家のものである。


「うちが古臭い保守的な家だってことは、知ってただろう? 今更何を言ってんだ」

「限度ってものがあるわよ!」


 千年続く名家のセシル伯爵家と、祖父の代に爵位を買った新興貴族の我がオーヴェル男爵家とは月と小石ぐらいの格差がある。本来なら、こんな風に砕けた口調で詰って良い相手ではないのだけれど、この学院では身分を盾に権力を振りかざすことを禁じられている。学院に在籍している間は、王族も貴族も平民も外国人も平等に扱われるので、お咎めは受けないというわけ。


 学院の校則を味方に非難轟々の私を見て、アーサーは高名な芸術家が掘り上げたかのような白皙の美貌を僅かに歪めた。絹糸のような白金の髪が目元に垂れて妖艶な影を落とす様は、交際を始めて半年が経った今でも慣れそうにない。思わず、見惚れてしまう。彼の萌える若葉のようなエメラルドの瞳が文字を追う間、私は手紙の内容を思い出していた。


 私たちは今年十八歳になり、成人となった。自分たちの責任で結婚できる年齢になったのだけど、相手は名門貴族の嫡子で、うちも末席ではあるけど一応男爵家である。トラブルを避けるためにも、事前にご両親に報告し許可をいただいてから、正式な手順を踏んで結婚する方が良いと、私は彼のお父様であるセシル伯爵にお手紙を書いたのだ。

 学院卒業まであと三か月に迫り、このまま交際を続けてゆくゆくは結婚したいと考えています。つきましては、両家を交えた婚約の話し合いをさせていただきたい旨、アーサーと連名で書いて送ったんだけど……。セシル家から返ってきたのは、ありえないほど時代錯誤な注文の羅列だった。


 内容を要約するとこうだ。


 一、結婚後は領主の許可無く領地を出ることを禁ず。

 二、実家から連れてきた使用人は領内に入る前に全員帰すこと。

 三、いかなる理由があろうと、領主の許可無く外部と社交をしてはならない。

 四、オーヴェル家への援助はしない。また、実家の家族と会えるのは年一回七日間のみ。領主の許可が得られない場合は家族であっても領内に招いてはならない。

 五、領地から人・金銭・物品・動植物を持ち出すことを禁ず。

 六、全ての書信は検閲が行われる。領内の情報を漏洩した者は厳罰に処す。

 七、白い毛皮を着てはならない。

 八、濃い化粧や強い香りを纏ってはならない。

 九、結婚後は首から肩を露出してはならない。

 十、家業・領地経営・城内人事への口出しは無用。

 十一、領主・夫・夫兄弟の仕事への詮索を禁ず。

 十二、領内で篤く信仰される月神・月女神に常に敬意を払い、領内に棲息する狼は神獣として丁重に扱うこと。

 十三、以上十二条が守れぬ場合、領主は婚姻を認めない。


 四つ目ぐらいまでは苦笑いで読んだけれど、五つ目の持ち出し禁止とか、六つ目の検閲とか情報漏洩とか……私、諜報員かなにかだと思われてるの? セシル家には、そんなやばい秘密があるの??

 七つ目の白い毛皮って、急になに!? 八つ目、九つ目は完全に趣味の問題よね?? まさか伯爵の?? 婚約したいのは貴方の息子ですが!?


 最後まで読んで、これって遠回しなお断りよね? という結論に至った。

 顔を合わせる前から、理不尽な注文をつけてくるなんて、嫌がらせとしか思えない。十三ヶ条を承諾してお嫁に行ったとして、幸せになれる未来が見えない。せめて、実家で小さい頃からお世話してくれている侍女を連れて行くことができれば心強いのに、先方は私の身ひとつで来いと言う。いびる気満々じゃないの!


 いびられるのは嫌だけど、それだけならまだ許せた。問題は実家への援助のことだ。

 私には三人の可愛い妹たちが居るので、実家への援助は私の稼ぎから捻出するつもりだった。そのためにこの学院で六年間必死にジュエリーデザインと魔石の加工を学んできたのだから。十歳下の末の妹が学院を卒業して、良い人と結婚して家を出るまで頑張ろうって思ってたのに、金銭を送ることを禁止されたら妹たちは学院を卒業する前に結婚させられるかもしれない。そんなの絶対ダメ! 妹たちを見捨てて私だけ幸せになるなんて、そんなの耐えられない!


 私が妹たちを大切に思っていることは、アーサーもよーく知っている。だから、こんなのは絶対おかしい。伯爵家の嫡子だからといって、成人した子の結婚に親がここまで干渉するなんて! って、怒ってくれると思ってた。

 けれど、私の予想に反して手紙を読み終えたアーサーは鼻で笑う。手紙を折りたたんで封筒に戻すと、私の手に握らせた。


「……まぁ、最初から飛ばし過ぎだが、間違ったことは書いていないと思う。君はそろそろ妹離れするべきだ」

「は? 嘘でしょ。あんたもこういう思想なの!?」

「思想ね。そうとも言える。俺たちにはどうにもならないんだよ」


 こんな手紙無視していい。二人で幸せになろう。

 そう言ってくれると、思ってた。


「君は、受け入れられない? 何よりも妹たちが大事?」

「当たり前でしょう!?」


 姉妹で協力し合って、娘を金持ち貴族に売りつけるための商品みたいに扱う母から、お互いを守ってきた。妹たちが居たから耐えられた。なのに、妹離れしろ、ですって? どうしてそんな酷いことが言えるの? 貴方に何かして欲しいわけじゃない。セシル家からの援助もいらない。だからせめて、口先だけでも私の思いに寄り添う姿勢を見せてくれたら、一緒に乗り越えようと言ってくれたら、それだけで私は頑張れるのに。

 けれど、彼が私の望む言葉をかけてくれることはなかった。


「……なら、仕方ないな。君に譲れないものがあるように、俺にも譲れないものがある」


 いつも冷静沈着で頭脳明晰で。何も言わなくても私の思いをわかって、気を利かせてくれて。一見冷たそうに見えて、その実、私を見つめる彼の眼の奥は熱い。非の打ちどころのない、私の恋人。

 貴方となら、多少の苦労も楽しめるって、そう思ってた。――なのに。


「アビゲイル。君との婚約を破棄させてもらう」


 いつも通りの澄ました綺麗な顔で、『君が好きだ』と言ってくれたあの時と同じ、低く響く優しい声で告げられた言葉に、私の頭の中は真っ白になった。

 は、と声にならない問いを溢して彼の顔を見上げる。


「な、にを、言って、るの……? どうして親の言いなりなの? いつものあんたなら、こんな理不尽『馬鹿げてる』って笑うところでしょう? ねぇ、どうしたの? 今、婚約できないと、私……」


 アーサーに断られたら、私は卒業と同時に顔も知らないどこぞの富豪の元に嫁ぐことになるだろう。働く貴族の女性を見下す母が見つけてくる人だ。結婚したら、私の仕事なんて許してくれない。私だけじゃなく、妹たちも売られてしまう。

 制服の襟を掴んで揺さぶっても、彼の眼は揺らぐことなく私を真っ直ぐに見ていた。


「君の不安は分かっている。金が必要なら俺に婚約破棄の慰謝料を請求すればいい」

「いらないわよ! そんなもの!!」


 私はカッとなって反射的に拒絶していた。

 婚約といっても、まだ本人同士の口約束の段階だ。何か契約書を取り交わしたわけじゃないから、お金で無かったことにできると思ってるのかもしれないけれど、あまりにも情が無さ過ぎる。好きだったのは私だけだったの? 貴方も同じ気持ちでいてくれていると思っていたのに。


「……あんたは、私がお金のためにあんたと付き合っていると思っていたの?」


 震える。握り締めた手も、膝も、声も。答えを聞くのが怖い。嫌いになりたくない。ねぇ、どうか否定して。

 彼の顔を見上げる。アーサーはいつも通りの美しい微笑みを浮かべている。こんな時でも変わらないってことは、普段からそう思ってたってこと?


「違うのか? セシル家の子息に取り入って誘惑しろ。金を引き出せと君の母親に言われたんじゃないのか? 俺は別にそれでもいいから君と……」

「――最ッ低!!」


 バチンと破裂音が廊下にこだまする。思いの外大きな音に、私は我に返った。

 人を叩いたのなんて初めてだった。衝撃に痺れる手が震えて、痛い。平手打ちしてしまったという事実が、身体中をゾワゾワと這い回って気持ちが悪い。

 恐る恐る見上げた彼の頬には、痛々しい真っ赤な手形が残っていた。


「なんで……あんたが」


 振った方のあんたが、そんな悲しそうな顔をしているのよ。


 湧き上がる嗚咽を必死に噛み殺して、私はその場から逃げ出した。

 彼の憐れむような視線の先に、もう一秒たりとも居られなかったのだ。



 ◇◇◇



 セシル家とオーヴェル家は領地が隣り合っていて、アーサーとは小さい頃から顔見知りだったので、十三歳で学院に入ってすぐに親しくなった。綺麗なお顔に反して辛辣で、冷酷な雰囲気で人を寄せ付けない歩く芸術品のような彼が、私にだけは優しく親しげに話しかけてくるのだ。そんなの舞い上がっちゃうに決まってる。


 長い友人(片思い)期間を経て、告白を受け入れてもらえた時には、オーヴェル家に産んでくれてありがとう! って毒母に感謝したし、このまま死んでもいいかもって思ったぐらい嬉しかった。好きだから、アーサーとの将来を夢見てた。なのに、私がセシル家の財産を狙ってアーサーに近付いたと思っていたなんて。


 案の定、アーサーと私の破局は、次の日にはもう学院中に知れ渡っていた。

 とんでもない良縁を破談にしてしまったバカな貧乏令嬢に集まるのは憐れみと嘲笑しかない。他学年の妹たちにまで嫌みを言う奴が現れた時には情けなくて妹を抱きしめて泣いたけれど、それ以外は皆遠巻きに私を眺めてヒソヒソしてるだけだった。――ちなみに、妹をいじめた奴らは全員何らかの報復を受けたみたい。よく知らないし興味も無いけど。


 アーサーとはあれ以来、一言も話していない。元々女の子に人気があったから狙っていた子は多くて、私と別れてすぐに新しい恋人ができたらしい。新しい彼女が彼の腕に絡み付きながら勝ち誇った顔でこっちを見てくるのだけ何とかしてくれたら、後はどーでもいい。てゆーか、こっち見んな。私の視界に入るな。

 ――そんな感じで、学院卒業までの三か月間、私はアーサーを避け続け、好奇の視線に晒されながら過ごしたのだった。


 卒業して実家に帰る頃には、母にも破談の話が届いていて、帰宅するなり私は母に捕まり一週間近く延々と詰られた。ひとつ想定外だったのは、卒業後すぐに結婚させられるものと思っていたのに、『貴女はうちの子たちの中で最も器量が良いのだから、セシル家がダメでも、どこか良家の子息を捕まえていらっしゃい!』と夜会に送り出されるようになったことだ。


 以降、約一年の間、私は未婚の貴族の子息が参加する夜会を荒らしまわることになる。

 もちろん、私には荒らすつもりなんてないし、夜会に出る真の目的はジュエリーの流行調査と市場調査なんだけど。冷やかし半分に誘ってくる子息が後を絶たず、彼らの恋人や婚約者たちにあること無いこと噂されて、すっかり男漁りの尻軽悪女のイメージが付いてしまったのだった。未来の顧客である貴族女性に嫌われてしまっては、調査どころじゃない。


 肝心な結婚相手探しも、夜会で良い雰囲気になって結婚を意識した途端、その人のやばい性的嗜好が公になったり、客室に連れ込まれそうになったり、第八夫人になれと言われたり、顔を見るなり逃げられたり…………我ながら男を見る目が無さ過ぎる。


 いよいよ後がなくなって、第八夫人でも良いじゃない! とか思い始めた頃、夜会で度々アーサーを見かけるようになった。

 華やかな見た目はさらに色香を増して、私を見つめるエメラルドグリーンの瞳は浮ついた夜の熱を孕んで怪しい金色に光る。私を見つけると、あんな別れ方をしたのが嘘のように親しげに話しかけてくるから、他の男性が萎縮して逃げていっちゃうし、私も勘違いしそうになる。アーサーが毎回違う女を連れているのも気に食わない。


 あの手紙を受け入れていたら、貴方の隣にいたのは私だったのかしら?

 選ばなかった選択肢の先に幸せの未来を見てしまったような気がして、未練と後悔に押しつぶされそうだった。





 学院卒業から一年が経とうというその日も、隣の領地で開催される夜会に参加することになっていた。


「貴女がもう十年早く生まれていたら、お妃様候補に挙がっていたでしょうに」


 私の真紅の髪を梳かしながら母は心底残念そうにため息を吐く。四姉妹の中で、私と一番下の妹アンジェリカは父親似だ。今は二つの意味で丸くなってしまった父だけど、若い頃は髪も豊かでかなりの美男子だったらしい。母はことあるごとに父の昔の写真を引っ張り出してきて、私の顔と見比べては褒めそやす。そして最後には必ず――。


「いいこと? アビゲイル。男は顔で選んだら絶対苦労するわよ!」


 で、締める。頬に力を入れて堅い表情で頷く私を見て、母も満足そうに頷いて部屋を出て行った。

 そうね。将来ハゲないかも重要なところよね。と、娘が心の中で付け加えているなんて思ってもいないだろう。


 贅沢するお金なんて無いはずなのに、どこからどうやって調達したのか流行りの背面が腰まで空いた扇情的な黒のドレスを着せられ、華やかに結い上げた赤毛に髪飾りを差す。気が強そうと言われる所以の鉄色の眼の印象を和らげるためにまつ毛を盛って、濃い目に化粧を塗る。最後に真っ赤なルージュを引くと、側で見ていた妹たちが歓声を上げた。


「お姉様素敵よ」

「さすが、赤がよくお似合いです!」

「お姉ちゃん可愛いー! いいなー。アンもお姫様みたいな格好したーい」

「……ありがとう」


 本当は自分たちだって綺麗な格好をして夜会に出たいでしょうに。妹たちはいつも私を優先してくれる。きらきらと眼を輝かせて手放しに誉めてくれる妹たちの顔を見ると、泣き言なんて言ってられない。

 イライザ、ルイーズ、アン……お姉ちゃん、絶対大金持ちの良い人と結婚して、あんたたち全員が無事に学院を卒業して、何の憂いも無く好きな人と結婚できるようにしてあげるからね!


 そんな決意を新たに、結婚相手を探すはずだったんだけど……。出発直前、突然母も参加すると言い出したのだ。その時点で何だか嫌な予感はしていた。夜会の中盤、母に無理やり引っ張られて会場を離れ、用意されていた一室に押し込まれた時、ついに私の自由な時間は終わったのだと理解させられたのだった。


 室内で待っていたのは、ひょろりと背の高い酷薄そうな口髭の老紳士。撫で付けた金髪には白髪の筋が混じり、不自然な笑みに歪む目尻の皺と青白い顔が冷酷さを滲ませている。


「ガードナー卿、こちらがわたくしの娘、アビゲイル・シア・オーヴェルでございます」


 ガードナー卿は母の紹介など聞いていないようで、ギラついた眼で私を上から下から舐め回すように見分する。いやらしく這う視線を浴びながら、私は心を無にして耐えていた。

 ガードナー……ってまさかライナス・ガードナー子爵? 悪徳高利貸しで有名な?


 夜会を飛び回るうちに、私の耳にも彼の噂が入ってきていた。詐欺師と組んで政敵に多額の借金を負わせて追い落としたり、没落貴族の娘に他国の富豪との縁談を押し付け紹介料を掠め取ったり、農作物に病気をばら撒いてわざと不作にした土地を不当な安価で買い占めたり……。ガードナーの不穏な噂は後を絶たない。

 噂に苦しめられてきた私は話半分で聞いていたけれど、実際会ってみて受ける印象は最悪で、噂通りかそれ以上の悪人だったとしても驚かない。


 横でペラペラと商品説明をする母の声を真顔で聞き流し、どうやってこの場を切り抜けるか思案していると、突然ガードナーは私の顎を掴んで顔を上向かせた。好色な視線が、私の眼の奥に怯えを見出して嗜虐的に嗤う。


「よろしい。見事な赤毛だ。見目も悪くない。先方もさぞお喜びになるだろう」

「まぁ! それはようございました! ガードナー卿にお任せすれば安泰ですわね!」


 手を叩いて喜ぶ母を横目に、ガードナーは私を放し、まるで汚いものに触れてしまったかのように神経質にハンカチで手を拭う。拭ったハンカチをその場に投げ捨てて、嗤いながら部屋を出ていった。

 ……込み上げる怒りに、震えが止まらない。今すぐ顔を拭きたいのは、私の方よ!


「お母様……私を売って、いくら貰ったの?」


 最後までガードナーにペコペコしていた母は、一度も私を顧みることは無かった。額の血管が今にもぶち切れそうな怒りを押し殺して訊いたけれど、私の低い声音は溢れ出る不満を隠せない。母は容赦無く私の頬を張った。


「売っただなんて人聞きの悪いことを言わないで頂戴! わたくしは貴女が傷心していると思って黙って一年待ったけれど、結果を出せなかったのは貴女じゃないの。今年はイライザが卒業するのよ。貴女にはさっさとお嫁に行ってもらわないと、下がつかえて困るでしょう? これは妹たちのためでもあるのよ」

「困るのは、あの子たちじゃなくて、お母様でしょう!? 信じられない! 娘をよりによって詐欺師に売るなんて!」

「口を慎みなさい!」


 再び手を振り上げた母を突き飛ばして、私は部屋を飛び出した。


 結局、私の帰る家は大好きな妹たちが居るあの家しかないって分かってる。

 私は可愛くて優しくて賢い妹たちを愛してる。気弱で尻に敷かれっぱなしのハゲぽちゃなお父様のことも愛してる。古くてボロくて隙間風が吹く我が家のことも愛してる。捨てて逃げたりしないから、せめて今夜だけは……。

 ――何もかも忘れて、ただのアビゲイルに戻りたかった。



 ◇◇◇



 当て所もなく走って迷った挙句、靴は失くすし、髪飾りは落とすし、涙でメイクはぼろぼろだし、小雨は降りだすし……もう、最悪。


 遠く聞こえる夜会の賑わいに背を向けて、私は裏庭と思われる場所の古びたベンチに腰掛けた。夢中で走っていた時は分からなかったけど、素足で走っていたため、タイツが裂けて足の裏から血が出ている。

 今頃になってジンジンと痛み出す足を投げ出して、鈍色(にびいろ)の空を見上げる。泣き腫らして火照った顔を、夜風に晒して眼を閉じた。瞼に落ちる雨粒が熱を攫っていくのが心地良い。寒いけど瞼を冷やしてから、夜会が終わる前に馬車に戻ろう。泣き腫らしたまま帰ったら、妹たちを心配させてしまうから。


 寒さに凍えながら休んでいると、草を踏み締めてこちらに近付く足音が聞こえてきた。こんな姿誰にも見られたくはなかったけれど、冷え切った身体は鉛のように重くて、気力が減退している今は特に億劫だった。どうせ、私は淑女じゃない。遠巻きに嘲笑われるような存在だ。見られたって面白おかしい噂がひとつ増えるだけだろう。


 そのまま動かずに居ると、人の気配が私の目の前で足を止めた。

 風に乗って煙草(たばこ)と男性用の香水が香る。ラベンダーとムスク、それから数種類の香木を使った彼のお気に入りの香水。――私が好きだった香りだ。


 瞼を開いて答え合わせをしようとすると、彼は掌で私の眼を塞ぐ。ぼやけた視界に木漏れ日のような新緑色の光が差して、痛みが引いていくのが分かった。パンパンに腫れた私の瞼を見かねて、治療魔法をかけてくれたようだ。違和感が無くなったので、もう大丈夫だと彼の手を退けようとすると、今度は頭からコートを被せられた。


「アーサー……様、なんでしょう? どうしてここに? 貴方、今夜は不参加のはずでしょう?」


 未練を自覚した時から、私はアーサーが参加する夜会を徹底的に避けて来た。今夜も事前に参加者リストを入手して、アーサーの名前が無いことを確認したはずなのに。

 コートの中でモゾモゾ動いて、顔を出せるところ探していたけど、続くアーサーの返事に顔が出せなくなってしまった。


「そのまま被ってろ。瞼は治ったけど、酷い顔をしている」

「だ、誰が酷い顔ですっ……んっ、ちょっと!? どこ触ってんのよ!」


 足首を掴まれ、足裏を撫でられている。手袋をはめているのが余計にくすぐったくて、堪らず笑いが込み上げる。これって最早拷問じゃないの!? 羞恥とくすぐったさにコートに顔を埋めたままぷるぷる悶絶する私はさぞ滑稽だろう。アーサーの忍び笑う声が聞こえる。いっそ、殺しなさいよもう!


「なぁ、アビー。ガードナー卿とはどういう関係なんだ?」

「……え? 貴方には関けっ……なっ……ふっ、あはははは! くすぐるの、やめ、てよ!」

「くすぐってないよ。俺は真面目に治療してる」

「や、いや、嘘よ、ひゃっあははははは! もう、や、やめて〜!」

「笑ってないで、質問に答えろ」


 ちょっと待って。これ本当に拷問になってるじゃないの。

 無理やり口を割られそうになって、慌ててコートから顔を出すと、アーサーは私の前に跪いて思いの外真剣な表情で私を見上げていた。治療が終わっても足首を掴まれたままなのは、答えるまで逃さないってことかしら?


「あ、足を治してくれたことには感謝してる。ありがとう。……だけどもう、私たちはなんの関係もないでしょう? 我が家の事情は話せないわ」

「君の家の事情? まさか、あいつに金を借りたのか?」

「……だとしても、貴方にどうこう言う権利は無いわ」


 ガードナーが私の結婚を斡旋しようとしている理由が、母の借金なのかどうかは知らない。どっちにしろ、私が売られるように嫁に出されることは変わらないし。――だけど、そんなこと、この人にだけは知られたくない。


「ねぇ、もう放して。こんなところ誰かに見られたら、貴方も酷いことを言われるわ」


 事情を知らない人が今の私たちを見たら、アーサーが跪いてプロポーズしているようにしか見えない。一度破局した女に縋り付くなんて、セシル家の名に傷が付くでしょうに。付き合っていた頃と変わらないアーサーの熱い視線から眼を逸らし、私はもっともらしい理由をつけて彼を追い払おうと試みた。

 けれど、私のそんな気遣いは彼を余計にイラつかせたみたいで。


「こんなところって……例えば、こんなところか?」


 言うが早いか、アーサーは私の足首に口づけを落とす。私の眼を真っ直ぐに見つめたまま。


「や、あっ、なにを」


 忘れたはずの青い熱情が、一瞬にして顔を駆け昇る。思わず仰け反り、コートを引き上げて顔を隠そうとしたけれど、一手遅く取り上げられてしまった。アーサーは立ち上がってベンチに片膝を着き、背もたれを掴んで私の逃げ道を塞ぐ。私を見下ろして、憎々しげに眉を顰めた。


「君はどうして困難な方へ進みたがる? こうなってもまだ、家族を取るのか? 捨てれば未来が拓けるのに」

「……捨てないわ。愛してるのよ。私を簡単に切り捨てた貴方には理解できないでしょうけど」


 ごつっと額を合わせて、鼻先が触れ合う。白い吐息は絡み合うのに、互いの唇までの距離が遠い。


「捨てられないなら、なぜ『助けて』の一言が言えない? 妹たちのために我が身を犠牲にできるのなら、縋ることなんて簡単だろう?」

「誰に縋れって言うのよ。誰も助けてくれなかった。家族のことは家族で解決しなきゃいけないからって、皆見ないふりして嘲笑っていたじゃない」


 涙の跡を撫でる彼の指が、くすぐったくてもどかしい。こんな風に簡単に翻弄されて期待してしまう自分が、一番嫌い。


「少なくとも俺は、最愛を守るために奔走する君を嘲笑ったことなど一度も無い」

「でも貴方は、私との婚約を破棄した。貴方との結婚が、私の唯一の希望だったのに。あんなわけの分からない注文に従え、妹たちを見捨てろと、貴方が台無しにしたんじゃない!」


 これ以上近づくのはお互いのためにならない。今更醜い思いをぶつけたって惨めなだけ。彼の胸を押して拒絶しようとしたけれど、逆に引き寄せられ強く抱きしめられてしまった。彼の熱い吐息が雨に濡れた耳朶を撫でる。


「……そうだ。君は俺のために何も捨てられなかった。俺の最愛は君だけだったのに、君にとって俺はそうではなかった。……君の最愛の妹たちは、俺から見れば憎い恋敵に過ぎない」


 苦しげに吐露された告白に、私は呆然と眼を瞬いた。

 まさか、妹たちに嫉妬してたって言うの?

 声に出さずとも態度で問うていたようで「幻滅したか?」の彼の問いに、なんと答えればいいのか分からなかった。


「恋敵って。あ、貴方がそんな風に思ってた、だなんて、私……全然気づかなくて。だって、貴方はいつも冷静で、私ばかりが貴方のこと好きみたいで……妹離れしろって言われて、私頭が真っ白になっちゃって、貴方が何を思っていたかなんて考えられなかった。……でも、そんなの理由にならないわね」


 婚約破棄を言い渡された時でさえ、私の頭の中は妹たちを守ることでいっぱいだった。そんな態度ではアーサーが私の愛情を信じられなくても仕方ない。

 アーサーも私と同じように私の妹たちを大事にしてくれる。一緒に怒ってくれる。助けてくれる。拒むはずがない。という驕りがあったのだ。それは、私が彼と同じだけの思いを返せてこそ生じるものだったのに。双方の落とし所を探るでもなく、自分の要求ばかり押し付けて、相手の思いを考えなかったのは私も同じだ。


「ごめんなさい。……今更言っても手遅れでしょうけど」

「ああ、遅い。手遅れだな。君が頼れるのは、もう俺しか居なくなってしまった」


 彼は抱きしめていた腕を緩めて、私の肩にコートを掛けながら断言した。


「だから言えよ。『助けて』って。俺に(すが)れ。――俺が全部解決してやる」


 カッと頬が熱くなる。縋れ、ですって?

 貴方にだけは頼りたくない。面倒な女だと思われたくない。そんなの格好悪いじゃない。私にだってプライドがある。貴方の手を借りなくても生きていけるの。貴方は縋り付くような女、大嫌いじゃない。だから、貴方の前では良い女で居たいのに。

 最愛だったなんて言われたら、こんな風に抱きしめられたら、まだ間に合うのかと期待してしまうじゃない。


 返答に迷って視線を逸らす私に焦れたのか、彼は私の頬を撫でて唇を指でなぞる。『縋れ』と言ったのは貴方なのに、貴方の方が懇願しているみたいよ。

 至近距離で見た彼の眼は、僅かな光を集めてあやしい金色の光を返す。まるで夜闇の中に潜んで獲物を狙う猛獣のような獰猛な光。怖いのに、眼が離せない。喉がひくりと引き攣る。プライドと羞恥が鬩ぎ合って苦しい。でも、嫌じゃない。


 これが、きっと最後の選択肢。選択を間違えたら全部終わってしまう。

 貴方がくれたチャンス、私はまだ終わらせたくないから――私の小さなプライドなんて捨ててみせる。


「……おねがい……たすけて」


 ああ、どうしよう。食べられちゃう。


 その答えを待っていたとばかりに激しく重ねられる唇。まるで遥か上位の存在にゆっくりと捕食されるような、仄暗い恍惚にくらくらする。付き合っていた時でさえ、こんな激しいキスはしたことがない。絡む舌に言葉も呼吸も奪われて、涙が滲んだ。


「もう心配いらない」


 囁く彼の声に頷いて、私は彼の肩に頭を預ける。安心したら、なんだか気が抜けちゃって身体が重い。頭がぼうっとする。

 アーサーは私の身体を横抱きに抱えると、馬車まで運んでくれた。家の紋章が無い裕福な平民が乗るような馬車に見えたけど、内装はうちの馬車より豪華かもしれない。アーサーは私を椅子に座らせると、自分は馬車の外に出た。


「男爵夫人とガードナーに怪しまれないように、逆らわず状況に身を任せるんだ。――俺を信じて待ってろ。君の願いは全て叶う」


 分かったわ。

 朦朧としていたから、ちゃんと答えられたのか自信がないけれど、アーサーが笑ってくれたような気がしたから、きっと通じたのだと思う。



 ◇◇◇



「お姉ちゃん死なないでええぇぇぇ!!」

「もうアンったら、こんな可愛い子を残して、お姉ちゃん死ねないわよ」


 見知らぬ馬車で母と別々に帰ってきた私は、風邪を拗らせ高熱を出してしまったので、いつ屋敷に帰ってきたのか全く記憶に無い。髪も化粧も崩れ、靴を失くしてボロボロな私の姿を見て次女のイライザは卒倒し、三女のルイーズは誰がこんなことを! と箒を持って暴れ出し、四女のアンは私にしがみ付いてギャン泣きしてたらしい。

 勝手に殺さないでほしいけど、五日間も寝込んでいたので不安にさせてしまったのだろう。心配かけちゃった私が悪いのだから仕方ない。可愛い顔をぐしゃぐしゃにして泣くアンをあやしていると、イライザがルイーズに目配せした。


「アンおいで。お姉ちゃんを寝かせてあげて」

「……うん。お姉ちゃん、おやすみなさい」

「おやすみ。アン、ルイーズ」


 二人が部屋を出ていき、使用人を全員下がらせると、イライザは椅子を近づけて声量を落とした。


「お姉様が羽織っていたコートは私がクリーニングして預かっていますので、心配なさらないでね。お母様には知らせていないわ。……これは、そのコートの内ポケットに入っていたのですが……」


 ドアがしっかり閉まっていることを確認してから、イライザはハンカチに包んだ何かを私の手に乗せる。恐る恐るハンカチを開くと、中には金の懐中時計が入っていた。蓋には月と狼の紋章――セシル伯爵家の紋章が浅浮彫されている。イライザはこれを見てコートの持ち主が分かったのだろう。母に知られれば大事になると思って隠しておいてくれたそうだ。


「ありがとう……貴女は本当に賢い良い子だわ」


 懐中時計を抱きしめる私の肩を撫でて、イライザは母に似たモスグリーンの瞳を潤ませた。

 あの夜のことは熱が見せた私の願望の夢だったんじゃないかって思い始めてた。彼があんなにも私を思っていてくれたなんて、時間が経つにつれ信じられない気持ちの方が優ってきてしまったから。でも、これがあれば夢じゃなかったんだって希望が持てる。あの人を思って良いのだと、捉えても良いのかしら。

 懐中時計を見た私の態度で確信したのだろう、イライザは沈鬱な顔でぽつりと話し始めた。


「お姉様がアーサー様を忘れられないこと、私たちずっと知っていました。私たちのために結婚を諦めたことも……」

「え……」


 別れるまではアーサーを追い回していたのに、別れてからは徹底的に避け続けた。妹たちは極端で分かりやすい私の行動を、何も言わずずっと見守ってくれていたのだろう。婚約破棄の理由について、私は誰にも話さなかったけれど、かえってそれが妹たちを責めているように思われたのかもしれない。


「イライザ……私がアーサーを忘れられなかったのは事実だけど、彼との結婚を諦めたのはあなたたちのせいじゃないわ。私が……頑固で、歩み寄ることができなかったからよ。あなたたちは何も悪くないわ!」


 慌てて訂正する私に、イライザは悲しげな笑みを浮かべる。


「お姉様。私ね、卒業したらすぐに結婚するわ。相手は貴族じゃないけど大きな商家の跡取りで、学院の同級生なの。今度、会ってくださる?」

「ほ、本当に!? おめでとう! もちろんよ! 大事な妹の結婚相手だもの。どういう方なのか、しっかり見させてもらうわ! 悪い奴だったら、私のとっておきの魔石で爆……」

「落ち着いてお姉様」


 お姉ちゃんは落ち着いているわよ。と答えた私に、イライザは苦笑いする。


「……私は学院で経営学を学んでいたでしょう? 彼と彼のご両親は私の能力を高く評価してくれて、結婚したら店で一緒に働いてほしいと言ってくれたの。彼が貴族じゃないことでお母様に散々嫌味を言われて反対されたけど、ちゃんと私を守って一緒に説得してくれたわ」


 本来は長女である私が婿を取って男爵領を治めなきゃいけなかったのだけど、私がセシル家の長男であるアーサーと仲が良かったので、母は私をお嫁に出し、イライザに婿を取らせようと経営学を学ばせていたのだ。イライザはとても優秀で学ぶのが楽しいと言っていたけど、学院でのことはあまり話してくれなかった。私がやるべきことを押し付けてしまったと負い目に思っていたことを、イライザは分かっていたのだろう。

 一昨年、我が家に弟が生まれたので婿を取る話は立ち消えになり、イライザも嫁に出されることになってしまったので、卒業後どうするのか心配してたけれど……嬉しそうに話すイライザに胸がいっぱいになった。本当に優しい良い子だから、幸せになってほしい。


「良い人なのね……良かった」

「ええ。私がお仕事できるようになったら、私もお姉様と一緒にルイーズとアンを支援するわ。ですからもう、お姉様はひとりで頑張らなくても良いのよ。ルイーズが卒業したらルイーズも手伝うって言っているし、お姉様が背負ってきたものを私たちにも分けてください」


 いつの間にそんな話をしてたんだろう? こんな風に愛情を返してもらえると思っていなかったから、涙が止まらない。


「お姉様を真に思ってくださる方が居るのなら、迷わずその方の手を取って」


 堪らず抱きついた私の背を撫でて、イライザは歌うように囁く。


「私たちもお姉様のことが大好きだから、幸せになってほしいのよ」

「……貴女の方がお姉さんみたいだわ」

「ふふっ。私たち一歳しか違わないんだもの。そういう時もあるわ」


 鼻を啜りながら不満を言う私に、イライザは楽しそうに笑った。





 あの夜会から七日目。母から謹慎を言い渡された私は、自分の部屋で魔石作りに勤しんでいた。

 風邪で寝込んだ私に、『先方を待たせるなんて!』と、ガードナーは酷く激怒していたらしいけど、いい気味だと思う。そのまま結婚の話が流れてくれれば良かったのに、そう上手くはいかなかった。

 私が勝手に出歩いて怪我をしたり逃げたりしないように、見張りの傭兵まで連れてきたという。お陰でここ数日同じ屋敷内に居るのに妹たちに会えず、手紙でやりとりをしている。

 そんなわけで、やることが何も無かったので、妹たちの学費の足しになれば良いなと魔石を作ることにしたのだ。


 魔石の材料には本来、宝石や天然石を使うものだけど、制作方法をしっかり学んだ私ならガラス玉や庭に転がっている小石でも作れる。私みたいな真紅に近い赤毛は火神の祝福を授かった証で、私が作る魔石は何も無い場所でも八時間ほど大きな炎を上げることができる優れものだ。見張りの傭兵さんたちにプレゼントと称していくつか握らせたら、急に態度が和らいで、素材になりそうなものを大量に集めてくれた。当分は退屈しないでしょう。


 魔石を作りながら思い出したことだけど、私の結婚相手は『赤毛の花嫁』に執着しているらしい。母から聞いた話によると、我が国シュセイル王国の南に位置するローズデイル大公国との国境に近いロシュフォールという領地を治める若い伯爵だそうだ。私は記憶に無いけど、相手は私を夜会で何度も見かけて知っているらしい。記憶に残っていないってことは、武功を立てて新しく叙爵された騎士の家なのかもしれない。


 代々騎士を輩出してきた家が、火神に愛される赤毛の花嫁を欲しがるというのはよくある話だ。他の騎士が大金をかけて用意しなくてはならない野営用の火の魔石を自家生産できるのは強い。寒さ対策ができれば寒冷地への遠征も可能になるし、私の赤毛に目をつけたのもそういう理由なのかしら?


 五十個目の魔石を作り終えて疲労困憊の私はベッドに飛び込んだ。天蓋から垂れるカーテンを引くと、胸元に隠していた懐中時計を取り出す。カーテンの隙間から漏れる薄明かりに、神秘的な光を返す金色の月を撫でる。

 ――あの夜のことは、現実にあったことだった。だけど、あれから何も音沙汰が無い。


「……ねぇ、私、明日結婚するんですって」


 貴方は今、どこにいるの?



 ◇◇◇



 学院に入る直前の十二歳の冬のことだったと思う。

 母の買い物が終わるのを待つ間、近くの河原で魔石の材料になりそうな小石を物色していたところ、大きな岩の影に珍しい金色の石を発見したのだ。

 すっごい魔石が作れそう! と、ワクワクしながら近づくと、石だと思っていたそれには、もふもふとした被毛があった。何か小さな生き物が丸まって寒さに耐えているらしい。


「なーんだ。石じゃないのかぁ」


 ガッカリはしたけれど、今までに見たことの無いメタリックな輝きで火花のような赤い燐光を放つ金色のもふもふから眼が離せなかった。ゆっくり近づいて、そっと触ってみて、びくっと手を引っ込める。もふもふしてるからあったかいのを想像していたのに、もふもふの被毛は薄ら凍りついて氷針鼠に触れたみたいに冷たかった。ぷるぷる震えているし、このまま寒空の下に放置したら死んでしまうかもしれない。


 可哀想になってしまった私は、マフラーを広げて謎のもふもふを包んだ。河原に転がる大きめの石を馬蹄状に並べて小さな竈門を作り、即席で作った火の魔石を投げ入れる。忽ちぼうっと炎が上がり、周囲の空気が柔らかくなった。マフラーに包んだ謎のもふもふを抱えて石の上に座り、たき火にあたることしばらく。もふもふから三角の耳がにゅっと生えてきた。

 あったかくなって身体がほぐれてきたのかな? 頭を撫でてみるとまだ短いマズルの先の小さな黒い鼻がピクピクと動く。仔狐かと思ってたけど、仔犬だったみたい。抱っこした重さが当時まだ赤ちゃんだったアンと同じぐらいで、愛着が湧いてしまった。


「あなた、どうしてこんなところにいたの? パパとママは?」

「……クーゥゥ」

「置いていかれちゃったの?」

「ウー」

「そうなの」

「ゥゥ」

「……じゃあ、うちの子になる? あなたまだ赤ちゃんでしょ? うちにも赤ちゃんがいるのよ。仲良くしてくれる?」

「……」


 答えてくれなくなったので、もしかして人の言葉がわかってる? うちの子になるの嫌なのかしら? なんて思って、近づいてきた気配に気付くのが遅れてしまった。突然仔犬が「キュー!」っと哭き出したので何事かとその視線の先を追ってみれば、私のすぐ後ろに大きな犬――いや、狼が忍び寄っていた。咄嗟に仔犬を隠そうとギュッと抱きしめたけれど、よく見れば被毛の色が仔犬と似ている。もしかして、この仔の家族かしら? 光沢のある上品な金色に、顔と足先と尻尾の先が白い綺麗な毛並みの狼だ。


「この仔を迎えに来たの?」


 狼は緑の中に金色が混じった不思議な色の眼で私を睨みつけ、前足でタシタシと地面を叩いて『早く寄越せ』と催促する。流石に狼に襲われたら怖いので、包んでいたマフラーを解いて仔犬を渡そうとしたんだけど……仔犬が「キュゥゥゥゥ」とか細い悲鳴を上げてぷるぷると震え出した。


「まだ寒いのかな? この仔あの岩場で震えてたのよ」


 仕方なくもう一度マフラーに包んで抱っこしてあげると、仔犬は安心したように哭くのをやめた。迎えに来た狼は胡乱げに私を見上げて、その場に腹這いに伏せる。たき火で温まりながら私のことを監視することにしたらしい。

 火を怖がらないし、噛み付かないし、みだりに吠えないし、おとなしいし、臭くないし、綺麗だし……この狼さん、野生ではなさそうだ。そういえば、お隣のセシル家は狼を飼ってるって聞いたことがある。この子たちはセシル家から来たのかもしれない。だとしたら、やっぱり返してあげなくちゃ。赤ちゃんが居なくなって心配してるに違いない。

 小さな寝息を立て始めた仔犬を、包んだマフラーごと鼻先に置いてあげると、狼は眉間に皺を寄せながら私を見上げた。


「寝ちゃったみたい。今のうちにママのところに連れて行ってあげて」


 本当はうちに連れて帰って、アンの友達になってくれたら良いなと思ってたけど、やっぱり家族と一緒が良いもんね!


「寒そうだから、マフラーはあげるよ」


 と続けると、狼は困ったように耳をぺしょっと寝かせた。本当に言葉が分かっているみたいだ。皺の入った眉間をぐりぐり伸ばして、あったかそうな頬のもふ毛をわしゃわしゃすると、狼は眼を細めて私の掌に頬擦りしてきた。冬毛でふわふわの手触りが気持ちいい。


「ふふふ。かわいい」


 もっと撫でたかったんだけど、遠くから「アビー!」と母が呼ぶ声がしたので慌てて手を離した。


「お母様が来ちゃうから早く……って、あれ?」


 振り向いた時には、狼も仔犬もいなくなってた。

 高級なマフラーは失くすわ、大人の居ないところでたき火するわで、私はめちゃくちゃ怒られて、学院に出発する日まで謹慎を喰らうことになっちゃったのは痛い思い出だ。





 眠る前にセシル家の紋章を見たからかしら?

 朝陽を浴びて光る金の懐中時計をぼんやりと見つめながら、私は昨夜見た懐かしい夢を反芻していた。思い出に浸っていたいけれど、なんと言っても今日は私が嫁ぐ日だ。朝が来てしまったのなら準備しなくちゃいけない。

 ベッドの天蓋から垂れるカーテンを開き、呼び鈴を鳴らしてしばし待つ。我が家は使用人が少ないので普段は全部自分で支度するのだけど、今日は特別だ。『お支度をお手伝いいたしますので、眼を覚まされましたら、お呼びください。くれぐれもおひとりでなさらないように!』と重々言いつけられている。


「おはようございます。お嬢様。本日のお召し物をお持ちいたしました」


 扉をノックする音の後に、傭兵の目を誤魔化すため、侍女とメイドに化けたイライザとルイーズが部屋に入ってきた。『私たちは地味な顔立ちですし、お母様はご自分の衣装選びでお忙しいですからバレませんよ』なんて言ってたけど、お仕着せ姿が可愛い過ぎてお姉ちゃん一目で分かっちゃったわ。


「ええ。ありがとう。今日はよろしくね」


 バスルームに向かいながらイライザの手に懐中時計を渡す。私がお風呂に入っている間に、ウェディングドレスに魔石と懐中時計が入るポケットを作ってくれることになっている。

 決戦は三時間後だ。当日まで待ったけれど、彼から連絡は無かった。あの夜の彼は誠実に思いを伝えてくれたから、何かのっぴきならない事情があって助けに来ることができないのだと思っているけど……最悪の場合を考えて準備しておいた方が良い。私には魔石があるからある程度身を守れるし、命や貞操の危機に陥ったら爆破も辞さない。

 そんなことよりも、あの人が無事なのか……ただ、それだけが心配だ。



 ◇◇◇



 既にぐすぐす泣いている父にエスコートされ、ヴァージンロードの先で初めてロシュフォール伯の顔を見た。日に焼けた麦わら色の髪に、ダサい黒縁眼鏡の奥のやや吊り気味の榛色の眼。やっぱり騎士の家系のようで、背が高く引き締まった逞しい身体をしている。にっこり笑うと眼が糸のように細くなって……わりと整った顔をしていると思うけれど、何故だか印象が薄い。言うなれば、あるべきものが無いような不自然さを感じる。

 はっきり言って、胡散臭い。髪の色味といい、雰囲気といい、絵本に出てくるずる賢い狐みたいだ。騎士よりも商人の方がしっくり来る。それも、あやしい薬とか売っていそうな感じの……。


 ヴェールの下から視線だけ動かして参列席を窺い見れば、新郎側の後方の席に退屈そうなガードナーの姿があった。ガードナーの周りにはガラの悪そうな下男が十人。新婦側の席に座るイライザとルイーズをニヤついた顔で眺めている。私は爆破の魔石を投げつける場所をしっかりと確認してから、ロシュフォール伯の手を取った。彼はレースの手袋をはめた私の指に口づけして、ニタリと粘着質な笑みを浮かべる。


「アビゲイル嬢。貴女を妻に迎えることができて良かった」

「……それはどうも」

「高い金を払っただけのことはある」

「ふふ」


 もし、ロシュフォール伯が騙されただけの善良な人だったら、結婚式をぶち壊すことに躊躇したでしょうけど、そんな心配は必要なかった。これで心置きなく爆破できるってものよ! 最終確認が済んで嬉しそうな私を見て、ロシュフォール伯は怪訝そうな顔をしてるけど、今更泣いて許しを乞うても遅いわよ?


 愛情の代わりにそれぞれの思惑が満ちる空虚な結婚式はつつがなく進み、婚姻届にサインをする段となった。太陽神の神殿で行われる結婚式は、最後に祭壇上の聖なる白炎に婚姻届を焚べる。婚姻届は煙となって太陽神に届き、承認を得ると神殿の炎礼台帳の石板に氏名が刻まれる。そのため、役所に提出するものと神殿で焚べるものの二通を作成する慣わしとなっている。

 今まさに私の目の前には二通の婚姻届があった。ロシュフォール伯アーサー・ロイド・フルーリアの名の下に、アビゲイル・シア・フルーリアの名を記す。ここに来てようやく知った彼の名前に、私は隣に立つ軽薄そうな男の横顔を見上げた。ファーストネームがまさかのアーサーなのも気になるけれど、フルーリア伯爵家……? どこかで聞いたことがあるような? 夜会の噂かしら?


「――それでは、誓いのキスを」


 神官の言葉に、花嫁のヴェールが上げられる。近距離で正面から顔を見たら、すぐに違和感の正体に気付いた。ダサ眼鏡は魔道具だ。この男、正体を隠してる! でも、何故!? 私は誰と結婚させられそうになっているんだろう?

 得体の知れない恐怖が二の腕を駆け上がった。後ずさり、拒もうとする私の腰を引き寄せ、彼は私の顎を掬い上げる。

 ――いや、もう無理!

 ブーケで横面をぶん殴って逃げようと振りかぶった瞬間、バタンと破壊する勢いで礼拝堂の扉が開いた。


「招待状の時間通りに来たはずだが、もう式が始まっているじゃないか」

「あらまあ、本当ですねぇ」


 礼拝堂の入り口に、上品な深緑色の揃いの礼装を着た男女が立っていた。男の方は私の記憶が正しければ、四十代前半だったと思う。バッチリ礼装を着こなしていてもわかる姿勢と体格の良さ。白金色の髪をオールバックに撫で付け、やや神経質そうな切れ長の眼をした厳格な顔立ち。アーサーが順調に歳を取ったらこうなるんじゃないかという見本のようなそのお方こそが、我が家の隣の領地を治めるセシル伯爵だ。

 そして、そのお隣にいらっしゃる朗らかそうな銀髪の美女が――私も初めてお会いするんだけど――アーサーのお母様である伯爵夫人だろう。繊細なレースの襟で首から肩を覆うデザインのドレスは、伯爵夫人の細さを際立たせている。とても四人の息子たちを産んだ母とは思えない儚さだ。


 二人に続いて、黒い制服の騎士たちが続々と礼拝堂に入ってくる。ざっと見た感じ、三十人はいるんじゃないかしら? 私は騎士団関係にあまり詳しくないのだけど、黒い制服は首都に本拠地を置くエリートだったはず。そんな騎士たちを大勢連れてくるなんて、セシル伯爵って一体……。

 ふと、アーサーとの結婚を認めるための十三の注文の中に『領主・夫・夫兄弟の仕事への詮索を禁ず』という項目があったのを思い出す。あれってもしかして、世の中には知らない方が良いこともあるっていう意味だったのかも。


「せ、セシル伯爵夫妻? 何故こちらに? 誰が招待状を送ったの!?」


 母はそう問いながらも、イライザが送ったと思ったのだろう。イライザに掴み掛かろうと席を立ったところを、黒い制服の騎士に押さえつけられ、席に引き戻された。まるで影のように音も無く忍び寄ってきた騎士たちに、お父様とアンが小さく悲鳴を上げる。


「この騎士たちは何です!? 一体どういうことですか!?」

「結婚式の招待状と一緒に、匿名の告発状が届いたのですよ。――ライナス・ガードナー子爵が、オーヴェル男爵夫人を陥れ、多額の負債を負わせた末、娘を売るように仕向けたと」


 顔を真っ赤にしてブルブル震えながら威嚇する母を冷たく見下ろして、セシル伯爵は上着の内ポケットから白い薔薇が描かれた封筒を取り出す。白薔薇は太陽神の象徴なので、結婚式の招待状によく用いられる模様である。イライザかルイーズのどちらかが送ったのかと顔を見ると、二人は『違う』と小さく首を横に振った。二人じゃないとすると残りはお父様しか居ないんだけど……特に親しく付き合っているわけではない格上の貴族を、家族とガードナー一味の他に招待客が居ない結婚式に呼ぶだろうか?

 私がそんなことを考えている間にも話は勝手に進んでいるようで。


「馬鹿な! 私はオーヴェル男爵夫人に懇願され、赤毛の花嫁を探していらっしゃったロシュフォール伯をご紹介したのだ。確かに謝礼金として紹介料は頂戴しましたが、それは違法ではありません! 言いがかりはやめていただきたい!」


 ガードナーは不快そうに吠えて下男たちと共に退出しようとしたけれど、黒い制服の騎士たちが無言で立ちはだかる。


「勘違いしておられるようだが、私たちはあくまで結婚式の招待に応じたまで。あなた方の罪を明らかにするのは彼らの仕事です。……まぁ、諜報を主業務とする第五騎士団が、わざわざこんな辺境まで来た時点で、逃れられない証拠が上がっていると考えた方がよろしいでしょうが」


 憐れむようなセシル伯爵の口調に、旗色が悪いことを悟った下男たちは正面突破を試みた。しかし、エリート騎士団対ゴロツキの寄せ集めである。一瞬で制圧されてしまい、戦力を失ってなす術のないガードナーと共に外に連行されていった。次は我が身と思ったのか、よせばいいのに、母がセシル伯爵に噛み付く。


「何ということなの……これでは式が台無しです! 大体、失礼ではありませんか! 格下の家相手ならばどんな狼藉も許されるとお思いなのかしら!? その招待状、見せてください! 誰が送ったのか明らかに……」

「――ああ、招待したのは私ですよ」


 嘲りを多分に含んだ声が場に冷や水を浴びせる。目の前で繰り広げられた大捕物に夢中になって存在を忘れていたけれど、いつの間にかフルーリア伯爵は神官を追い出して祭壇の前に立っていた。丸めた婚姻届を見せつけるように振りながら。


「いやっ!」


 ――あれが燃えたら、神様に認められちゃう!

 顔からざっと血の気が引いた。人が作った法による結びつきよりも、神の承認は重い。一度神が認めた結婚をすぐに撤回すれば、最悪神殿から一族郎党破門されることも有り得る。破門されたら外聞が悪いなんてもんじゃない。罪人扱いされるレベルの不祥事だ。イライザの結婚だって無かったことになってしまうかもしれない。だからこうなる前に、ぶち壊すはずだったのに!

 ――やばい!

 と思って奪い返そうとした瞬間、フルーリア伯爵は婚姻届を聖炎に焚べた。


「でも、一足遅かったですね。セシル伯爵」


 私の指のすぐ先で、聖炎がうねる。白く細い煙がすっと真っ直ぐ天に伸びるのを、誰も何も言えずに見送っていた。


「婚姻届はこの通り、神の御許に送られました」

「……うそ」


 絶望にへたり込んだ私の頬を撫でて、フルーリア伯爵はどこか夢を見るようにうっそりと笑う。


「アビー。俺たち、夫婦になったんだよ」


 耳元で告げられた勝利宣言に呆然とする私を横抱きにかかえて、フルーリア伯爵は悠々と参列席の間をすり抜け出口に向かう。「お姉ちゃん!」と泣き叫ぶアンをお父様が必死に抱き留めている。


「……貴様、良心というものが無いのか?」


 憎々しげにセシル伯爵が吐き捨てるけれど、私の夫となったフルーリア伯爵は飄々として悪びれた様子も無い。


「ははは。私の結婚式を散々盛り上げておきながら何をおっしゃるのですか。良心と言われましても、私は何も悪いことはしていませんよ。ガードナー卿に高額な紹介料を巻き上げられた哀れな男です。あまりにも高額だったので、詐欺の可能性は無いかと通報したのは国民の義務からですし。現場を押さえられるように取引日となる結婚式にもご招待しました。感謝してほしいぐらいですね」

「伯爵……どうして……」

「ああ言えば、こう言う」

「貴方って人は……」


 まさかのフルーリア伯爵の裏切りに母は卒倒し、セシル伯爵夫妻は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえてため息を吐く。フルーリア伯爵は誰にも止められることなく出口に辿り着くと、くるりと振り向いて小さく会釈した。


「それでは皆様、新郎新婦の門出を祝ってください。……あっ、花とか撒いてもらっても良いですよ?」


 困惑顔のイライザとルイーズが薔薇の花びらを撒く中、私はフルーリア伯爵に抱きかかえられて神殿を後にしたのだった。



 ◇◇◇



「……説明して」

「うん」


 馬車の向かいの座席に腰掛ける夫は、胡散臭い笑みを浮かべて頷いた。

 神殿から遠ざかるごとに現実感が増す。怖かった。祭壇を破壊すれば結婚を免れるかもしれないけど一発で破門だ。流石にそんな勇気は無い。もうだめだ。神様はこの結婚を祝福した。私はこの人と最低十年は結婚生活を続けなくてはならない。全部終わった。……そう思った。


「私、心配したのよ? 貴方が危ない目に遭っているんじゃないかって。来れない事情があるんじゃないかって!」

「ありがとう」

「……っ、アーサー、なんでしょう?」


『アビー。俺たち、夫婦になったんだよ』

 彼が耳元で囁いた時、ふわりと届いた愛しい香りを、私が間違えるはずがない。そこでようやく彼の正体に気付いた私に、彼は光の無い甘く濁った蜂蜜のような瞳で笑った。

 絶望のどん底に差し伸べられた手はどす黒く汚れていて、待ち望んだ綺麗な王子様の姿とは程遠い。その手を取ったら、今度は違うもっとドロドロで熱い沼の底に引き摺り込まれる予感がしたけれど、彼という怪物に魅入られてしまった私にはそれがお似合いのように思えた。


「ああ。君の夫のね」


 夫は魔道具の眼鏡を外して、綺麗にセットされた髪をぐしゃりとほぐす。髪はまるで洗い流したかのように色を変えて、元の白金色になった。あんなに会いたかったのに、顔が見れないぐらいに視界が滲んで、涙が零れ落ちそう。飛びついた私を、彼は強く抱き留め膝に乗せてくれた。


「ぅぅぅううもう……大嫌いよ! 馬鹿!!」

「ごめんて」

「もうやだ。一生許さない。貴方、神様の前で嘘を吐いたのよ!?」

「嘘じゃないよ。俺はシュセイル王国の貴族でもあるし、ローズデイル大公国の貴族でもある。フルーリア伯爵家の血を引いている正当な後継者だし。君が心配しているようなことにはならないよ」

「わかんない! 説明して」

「ちょっと長くなるけど、寝ないで聞けよ?」


 苦笑混じりの彼の声に安心してしまう自分がチョロくて嫌い。腹いせに、「納得できる内容じゃ無かったら、魔石を爆破するからね!」と宣言すれば、「それは困るなぁ」と、アーサーは事の始まりから話してくれた。





 今から二十三年前のことだ。ロシュフォール伯レイモンド・フルーリア卿がガードナー一味によって陥れられ、領地を奪われる事件があった。領地を奪われれば、当然税収も見込めない。取引相手からも見限られ、膨らむ負債を抱えてフルーリア伯爵家は没落した。気落ちしていたところに、流行病にかかって伯爵夫妻が亡くなり、残された双子の姉妹はそれぞれの特技を生かして別々の道を歩むことになった。

 姉は治療魔法を学ぶためにローズデイル大公国に渡り、そこで大公に見初められ結婚。妹の方は首都で貴族の子女の家庭教師をしていたが、姉の結婚式に呼ばれて訪れたローズデイルでセシル伯爵に出会い、後に結婚した。


 姉妹は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし……御伽話ならここで終わるんだろうが、姉妹が結婚した相手はどちらも執念深くてね。それで許すほど甘くはなかったんだ。義父のフルーリア伯爵を死に追いやり、姉妹の故郷ロシュフォールを奪ったガードナーを密かに追い続けていた。ただ、あいつを恨んでいる奴は他にもたくさん居たので、向こうもなかなか尻尾を出さなくてね。証拠を集めるのに手間と時間がかかってしまい、復讐は息子の代――つまり俺たちに持ち越された。


 俺の従兄弟――ローズデイル大公国の第一公子ジェイドは、投資が趣味でね。投資で儲けた金で、今から三年前にロシュフォールを買い戻したんだ。弟の第二公子が成人したら領地として与えるつもりだったらしいが、ロシュフォールは度重なる山火事や冷害で荒れ放題で、住民もほとんど残ってはいなかった。それに、シュセイル王国内にローズデイル大公国の飛地ができたことを快く思わない者たちが街道を封鎖したりしてね。復興させようにも資材も人員も運べない……断念すべきか迷っていた頃に、雲隠れしていたガードナーが再び動き出したという情報を入手した。


 俺たちは、ガードナーの息の音を止めるために罠を仕掛けることにしたんだ。

 まず、公王陛下に御助力いただいて、アーサー・ロイド・フルーリアという名の男にローズデイルの伯爵位を授けてもらい、『ロシュフォールを大公国から買い取ったフルーリア伯爵という富豪が、赤毛の花嫁を探している』という噂を流した。――二十年以上前に踏み潰した家の傍系の生き残りが、良いカモになって社交界に戻ってきた。ガードナーはすぐに接触を図ってきたよ。


 フルーリア伯爵は、夜会でよく見かける気の強そうな赤毛のお嬢さんが気になっていてね。それとなく『あの娘が欲しいなー』なんて溢したら、ガードナーが気を利かせて彼女の母に話を持ちかけ、婚約を取り付けてくれたんだ。お嬢さん本人は何にも知らなかっただろうけど、二人はもう婚約していたんだよ。

 伯爵は婚約の成功報酬と言って最初に提示された金額の倍額を支払った。そして『逃げられないように、今すぐにでも結婚したいんだ。もし私の希望が叶ったらその時はまたお礼をしなくてはいけませんね』と言って煽ったんだ。上客だと思ったんだろう。あとは勝手に暴走してくれたよ。ガードナーはオーヴェル男爵夫人の尻を叩くために『娘をすぐに結婚させなければ、借金のかたに娘を売ったことを公にする』と脅迫して、結婚式の日を早めてくれた。


 俺はそのやりとりと、金銭の流れの全てを記録して、結婚式の日に金を渡すことになっていると第五騎士団に通報しておいた。ついでに、両親にも少し時間をずらした招待状を送って……あとは君も知っている通り。





 そうだけど、そうじゃない。とでも言えばいいのかしら? こうなった背景は理解したけれど、感情が着いてこない。だって、それってつまり……。


「私、利用されたの?」

「それは違う。君はただ、俺に愛されただけだ。俺が君を手に入れるためにフルーリア伯爵の復讐を利用したんだ」


 真顔で訂正する彼に、『どう違うのよ』と思ったけれど、色んなことが起きすぎて頭が疲れて、もう怒る気力も無い。

 確かに、アーサーと結婚できたし、ガードナー一味は捕まったし、悪事がバレてこれから世間に非難されるだろうお母様は当分娘を売ろうという気にはならないだろうし、イライザも無事に結婚できる……私の希望はほぼ叶ったと言ってもいいのかもしれない。でも、なんっっっか腑に落ちない。


 アーサーの言ったことを自分の記憶と照らし合わせてみれば、あの夜会の時にはもうガードナーを捕まえる準備が終わってたってことよね? あの時に計画を話してくれれば私、あんなに心配したり絶望しなくて良かったはずよね? しかも貴方、絶望する私を見て、愉悦してたよね!?

 セシル伯爵夫妻が『ああ言えば、こう言う』『貴方って人は……』と頭を抱えていた理由がようやく分かった気がする。ため息ついてる場合じゃないですよ。立派なサイコパスに育ったお宅の息子さんに愛されて、私の情緒がぶっ壊れそうなんですがどうしてくれるんですか? と問い詰めたい。

 なんだかドッと疲れが出ちゃって、私はアーサーの肩に顔を埋める。何も答えない私に焦ったのか、アーサーは急に早口になって捲し立てた。


「君は、シュセイル王国の貴族セシル伯爵家ではなく、ローズデイル大公国の貴族フルーリア伯爵家の花嫁になったので、セシル家の十三の注文のことは忘れていいんだ。君の名義でも俺の名義でも妹たちに援助できるし、イライザが結婚して家を出たら、会いに行ってもいいし、家に呼んでもいい。ただ、君の母上には反省してもらわないといけないからな。実家への連絡は控えて、つらく苦しい結婚生活を送ってると思わせてほしい」


 私の前ではいつも冷静だった彼が、私の機嫌を窺って狼狽しているのがおかしくて、ちょっとだけ意地悪してやろうかなって思った。いいように振り回されたんだもの。仕返しされても文句は言えないわよね?


「注文は忘れていいって言ったけど、私、どこ行くの? 誰と会うの? どんなお仕事? って毎日うざいぐらい訊いちゃうわよ?」

「ああー……それに関しては、申し訳ないが言えることと言えないことがある」


 いきなりだめじゃないの! と、顔に出てたのかしら、彼は言葉に詰まって「すまない」と溢した。


「セシル家は建国期から国王陛下の勅命を受けて諜報活動と暗殺、王家の護衛を担ってきた。第五騎士団の設立と運営にも携わっているし、比較的平和な現代でもセシル家は国王陛下の懐剣として密命を受けることがある。俺のことを気にしてくれるのは嬉しいが、君の身の安全のためにも、家業に関する質問には答えられない」

「ふぅん、そうなの」

「……嫌か?」


 私の髪を撫でて不安げに問うわりに、しっかり腰をホールドされてるのどうにかならないかしら? 嫌って言っても逃す気ないでしょこれ。まぁ、嫌というよりは、そんな仕事してて貴方は危なくないの? という心配の方が大きいのだけど。


「じゃあ……白い毛皮は?」


 一番気になってた注文について訊いてみると、今度はほっとした顔でアーサーは笑った。


「着たいのか? 俺は別に気にしないが、セシル家の領地に行く時はやめておいた方がいい」

「どうして?」

「領主一族や領民たちは、狼の姿をした月の夫婦神を信仰している。白い獣は月女神の御使いなんだ。だから白い毛皮を剥いで身につけると、月女神が悲しむ。妻を悲しませると、森神でもある月神が怒り狂って森を枯らすんだ。そうならないように、特別な祭典以外での着用は禁止されている」

「狼を大事にしろとか、白い毛皮はだめとか、ちゃんと意味があったのね。……言ってくれれば良かったのに」


 あの時に言ってくれたら、こんな遠回りをしなかったのに。けれど、私が遠回りしてる間、アーサーもまた私を手に入れるために策を巡らしてたと知って、失恋で泣いたあの頃の自分が、ちょっとだけ報われたような気がする。本当にちょっとだけね。

 結婚式の日ぐらい、私ってば愛されてるのねー! って頭の中のお花畑を全力で咲かせたいのに、夫の愛が重くて歪んでることを思い知らされるなんて……こういう苦労は全く予想してなかった。


 愛ってなんだろう……? と遠い目をして哲学めいたことを考え始めた私の顔を覗き込んで、アーサーはあざとく眼を潤ませる。自分の顔が良いことを理解しているし、私がそれに弱いのも計算済みなんだろう。悪い男!


「機嫌はなおった? そろそろ許すって言ってくれないか?」

「い・や・よ」

「アビー。愛してるよ」

「誤魔化されないわよ! 一生根に持つわ。子供にも孫にも愚痴ってやるんだから!」


 言ってから、しまった! と思った。産むつもり前提みたいなこと言っちゃった。

 さらりと流して欲しいのに、意地悪なアーサーは聞き逃してくれない。私の掌に頬擦りして金色が混じったエメラルドの瞳をすうっと細める。まるで、なぶりがいのある哀れな獲物を見つけた肉食獣みたいに。


「愚痴る相手が欲しいなら喜んで協力しよう。……ちょうど初夜だし」

「ひぇっ」


 いや、ほんと、なんか、ちょっと、段々怖くなってきた。こんなに分かりやすいのに、私なんでこの人の愛を疑ってたんだろう? 私って、本当に男を見る目が無いわね。

「ちなみに、俺の父に告発状を送ったのは君の父上だよ」

「えっ、まさかお父様もグルだったの!?」

「そういうこと。オーヴェル男爵はだいぶ早い段階から我々に協力してくれたよ。ちゃんと、君を救おうと動いてくれていた。だからあまり恨まないでやってくれ」

「あのビビリで空気のお父様が……………薄ら残ってる毛根を燃やし尽くしてやろうかと思ってたけど、やめておいて良かったわ」

「それは……うん。未遂で良かった」


⭐︎⭐︎⭐︎


長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!


このお話の裏側にあたるアーサー編を含む改稿長編版を連載中です。お気に召しましたら、こちらもよろしくお願いいたします。

https://ncode.syosetu.com/n6162jl/

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