4.好みは合いません
先に目を覚ましたのは、伊織だった。ふわふわの柔らかい毛が温かく自身を包んでいることに気付き、ゆっくりと上半身を起こす。
「……ん? 床で寝ていたはずじゃ……」
「あ、起きた? 天狐様の毛、気持ちいいでしょ」
「てんこ、さま……って、神様の体の上!?」
驚いてがばっと起き上がると、「もっと寝ているといい」と、落ち着いた女性のような声が聞こえてきた。
「いや、もう、目が覚めたので……重くなかったですか……?」
「このくらい、何でもない」
伊織が寄りかかっていたのは、天狐の腹の辺りだったようだ。すぐ隣では野間がまだすやすやと寝息を立てて眠っている。瑞雲の十倍はありそうな巨体が少し身じろぎし、伊織は狐の顔がこちらを見ていることに気付いた。
「あの、天狐様、ありがとうございました」
「すっきりしただろう」
「はい。何だか元気になれた気がします」
「そちらの男の方が疲れていたようだな」
「ああ、やっぱり……野間さん、相当疲れてたんだ」
伊織の言葉に、天狐の目が少しだけ細められる。きっととても優しい神様なのだろうとは思うが、さすがに瑞雲に対するような気軽さは出てこない。
「伊織だけ先に戻る?」
「……えっと、野間さんにちょっと聞きたいことがあるから」
瑞雲や天狐の前で『アダルトコーナーのおすすめを教えてもらいたい』とは言えず言葉を濁していると、野間が「うーん」と伸びをしながら目を覚ました。
「あ、野間さん、おはよ」
「ん、おはよ……何だこれ気持ちい……」
野間の手が、天狐の毛をさわさわと撫でる。伊織は少しひやりとするが、天狐が怒り出す気配はない。
「天狐様のお腹の辺りだから」
「てんこ、さま……えっ!? 神様の上!?」
「大丈夫、優しい神様みたいだよ」
自分とほとんど同じ反応をする野間がおもしろくて、伊織の口から笑みが漏れる。
「お、伊織、かわい……くない」
「もういいよ、怒らないよ」
「え、さっきはあんなに怒ってたのに」
「そんな些細なことで怒るのが馬鹿みたいに思えてきたから」
「そうか。……あー、よく寝た」
二回目の伸びを完了させた野間が起き上がり、「ありがとうございました」と天狐に礼を言う。
「疲れは取れたか?」
「ばっちりですね。すっきり目が覚めて、体が軽くなりましたよ」
尋ねる天狐に野間が返答すると、瑞雲が「どうする? もう帰る?」と言ってきた。
「あっ、そうだ、瑞雲に聞きたかったんだけど、帰ったら百年経ってましたとか……ないよね……?」
温かなふわふわもふもふが気持ち良すぎて天狐からまだ完全に体を離せないでいる二人だが、別れの時は近付いている。戻らないといけないのだ。わくわくどきどきアダルトタイムを堪能するという当初の目的のために。
「ないよ。それどころか、一分も経ってないと思う」
「そ、そっか、よかった」
瑞雲の言葉に伊織がほっと胸をなでおろしていると、野間が立ち上がった。
「伊織、先に戻っててもよかったのに」
「だめだよ、野間さんに聞きたいことがあるんだから」
「……あー、そうだな。任せろ、俺がきっちりおすすめを……」
「そ、それはあとでいいから。じゃあ瑞雲、案内してくれる? 天狐様、ありがとうございました」
立ち上がって深々とお辞儀をする伊織につられ、野間も隣で「ありがとうございました」と頭を下げる。
「疲れたら、またあの店に行けばいい」
「次は梅屋の和菓子を持ってきますよ」
「ほう。伊織といったか、なかなか気が利くじゃないか。楽しみにしているぞ」
天狐が、細い目を更に細めて笑う。狐はやはり目が細いのだ。どう見ても目の細いポメラニアンという外見の瑞雲も、狐なのだ、きっと。目が細くて狐色の毛を持っているというだけだが、きっと。
二人はもう一度天狐に向かって頭を下げた。そうして、ぴょんと一回跳ねてから「こっちだよ」と歩き始めた瑞雲に付いていくと、鳥居を出たところの鬱蒼と茂った森には、入口ができていた。
「ここに入るの。……野間、目ちゃんと覚めてる?」
「え、俺? そんなに眠そうに見えるか?」
「寝るまで目付き悪かったのに、今ちょっとだけど、ほわーっとして見えたから」
野間の顔を凝視しながら、瑞雲が言う。「まじか」と驚くその姿は、伊織から見ても確かに纏う空気が変わったように思えた。きりっとした顔立ちに穏やかさが加わったという印象だ。
「目は覚めてるし、元気にもなってるよ。俺、寝るまですげえ疲れてたんだなってびっくりしたくらい」
「そう? ならいいけど。じゃ、途中まで一緒に行こう」
大型犬くらいの大きさになれたというのに何故かちょこちょこと足を動かす瑞雲の後ろを、二人は付いていく。
「あー、楽しかった。野間さんは?」
「俺も楽しかったよ。それに、貴重な時間だったと思う」
「そうだね。じゃああとは……」
「ああ、あとは……」
そこまで会話をしたところで瑞雲がぴたりと歩を止め、後ろを向いた。
「ここからは二人だけで行ってね。前に進むだけでいいから」
「わかった。ありがとね」
「ありがとうな」
瑞雲は、細い目を更に細めた。きっと微笑んだのだろう。きっと狐なのだろう。目と毛色以外はどう見てもポメラニアンだが。
「さ、行くか」
「うん」
「巨乳が俺を待ってる」
「僕は巨乳じゃなくていいんだけど」
瑞雲の姿が見えなくなるまで見送ると、二人は踵を返して前に進み始めた。
◇◇
「な、伊織、この間のどうだった?」
「んー、あれはちょっとなー」
「何だよ、気に入らなかったのかよ」
「野間さんと好み合わないんだもん」
伊織は、レンタルDVD店近くのコーヒーショップで野間と話している。店に入ってからかれこれ一時間が経とうとしているが、話が尽きないため、そろそろおかわりを注文しようかと思い始めたところだ。
「おまえが洋楽好きだって言うからおすすめ教えたのに」
「だからさぁ、ギターごりごりのじゃなくて、ピアノが強い方がいいって言ってるじゃん」
「んだと? ギターごりごりのどこが悪いってんだよ」
「その『んだと?』はやめなって。また新人ちゃんに嫌われても知らないからね」
「……うっ……、気を付けるよ……」
バツが悪そうに下を向く野間に、伊織はふぅと短く息をついてから言う。
「今度行く時は、和菓子持っていかないと」
「あー、そろそろか。疲れってすぐに溜まるよなぁ」
「ほんと。大学の課題けっこう大変だし」
「この時期だと何がいいんだ? 水ようかんとか?」
「うーん、たぶん?」
「んじゃ、次は俺が買うわ」
「うん、よろしく」
「おまえ、おかわり何がいいんだよ」と言いながら席を立った野間に、伊織は「僕、アイスココア」と言って猫背気味の姿を仰ぎ見た。
「甘いの好きだな」
「野間さんは苦いの好きだよね」
「俺ら、とことん好みが合わないよな」
「でも何か、野間さんと話したくなっちゃう」
「ああ、俺もだわ。好みは合わなくても気が合うってことか」
「不思議だよね」
わずかにふっと笑ってからレジへと向かう野間は、やはり少々疲れているように見える。
「あ、そうだ、水まんじゅうもいいかも」
「また気に入ってくれるといいんだけど」と、伊織は狐色の友人たちの姿を思い浮かべ、ゆるく微笑んだ。




