僕は侯爵家の養子だが、弟は自分が平民であることを知っているのだろうか?・短編
侯爵家の跡継ぎだった父が卒業パーティで当時父の婚約者だった伯爵令嬢に婚約破棄を宣言し、
浮気相手だった子爵令嬢の母と駆け落ちしたのが二十年前。
二人は駆け落ちと同時にそれぞれの実家から勘当された。
両親は実家から持ち出した宝石やアクセサリーを売って生活していたが、元貴族なので金銭感覚がザルだった。
その上父はギャンブル好き、母は浪費家。あっという間に実家から持ち出した宝石は底を尽いた。
そんなとき、二人の間に第一子である僕が生まれた。
侯爵家には父の他に跡継ぎになれる男子がいなかった。
初孫である僕が生まれたのをきっかけに、両親は祖父に侯爵家の離れに住むことを許された。
だからといって両親が貴族に戻ったわけではない。
父は侯爵家から母は子爵家から勘当されたままなので、両親の身分は平民だ。
故に僕の二年後に生まれた弟も平民だ。
僕だけは祖父母に養子縁組され、侯爵令息の身分を名乗ることが許された。
しかし父は実家に戻るときに身分が回復したと思い込み、自分が侯爵家の跡取りだと信じている。
母も自分は次期侯爵夫人だと信じきっている。
弟も父が侯爵令息だと思いこんでいるので、自分も貴族だと信じて疑わない。
祖父は若い頃仕事人間だった。
父の教育を祖母と家庭教師に任せて、文官の仕事に精を出していた。
今は亡き祖母は金髪に青い瞳の大層な美人だったらしい。
祖母は自分にそっくりの、幼い頃の父を溺愛した。
結果、父は怠け者でギャンブル好きで浮気者のダメ男に育った。
祖父は父の教育に失敗したことを後悔していた。
そのため祖父は僕を養子にした直後、二十年勤めた文官の職を辞め、僕の教育に専念した。
幸か不幸か僕は美男美女ともてはやされた両親から生まれたとは思えないほど、どこにでもいそうな普通の容姿をしていた。
髪の色は濃い栗色で瞳は黒檀のように黒い。僕は容姿も髪と瞳の色も祖父に似てしまったようだ。
祖父の話では両親は赤ん坊だった僕の容姿にがっかりし、この頃から僕に対する興味が薄かったらしい。
なので祖父が赤ん坊だった僕を養子にすることにもなんの抵抗もなく、僕の教育に両親はいっさい口を出さない旨が記された誓約書にもためらいなくサインしたそうだ。
僕を祖父の養子に出す交換条件は侯爵家の別邸に住んで、月々決まったお小遣いをもらえること。
両親にとっては天秤にかけることでもなかったようだ。
両親は僕など最初から居なかったように、侯爵家の別邸での新婚生活を満喫していたそうだ。
それでも年に二回、僕の誕生日の翌日と女神の生誕祭の翌日には本邸に僕の顔を見に来ていたらしい。
パーティのごちそうと、僕宛のプレゼントの横取りを目当てに……。
何で誕生日や神の生誕祭の当日ではなく翌日会いに来たのかというと、侯爵家を勘当された両親が勘違いしないように、お客様を沢山招くイベントがある日は、祖父の命令により両親は別邸に監禁されていたからだ。
もっとも別邸でも普段より豪華な食事が出るので、両親は監禁されていると気づかなかったようだが。
月日は流れ、僕の生まれた二年後に弟が生まれた。
弟は父譲りの金髪に、母譲りの美貌を持ち合わせた美少年だった。もともと薄かった両親の僕への興味はほとんどなくなった。
僕が本邸で祖父の雇った家庭教師に厳しい教育を受けている間、弟は別邸で両親に蝶よ花よと甘やかされて育てられた。
そうこうしているうちに僕は十二歳、弟は十歳になった。
幼い頃の弟はふわふわの金髪にサファイアブルーのくりくりっとした大きな瞳で、天使のような見た目だった。
弟は幼いながらに自分の容姿が異性に受けることをよく知っていた。
別邸で雇っているメイドから弟の様子を聞かされた。
弟付きのメイド曰く、
「勉強もせずに外に遊びに行ってばかり。
その上美少女を見かけると身分を問わず声をかけて愛をささやくんですよ」
とのことだった。
それが本当なら大変だ。
婚約者のいる貴族の令嬢なんかに下手に声をかけて相手の不興を買ったら……。平民の弟がどうなるか分からない。
僕は弟の将来に一抹の不安を抱いた。
祖父に弟のことを相談すると。
「人の本質は変わらん。
お前の弟にも将来困らぬように家庭教師をつけている。
平民でも学問を身に付けていれば将来就職先に困ることはないからな。
だがそなたの弟は何度注意しても女の尻を追い掛けるのを止めず、それどころか、
『お祖父様、僕はこの顔を武器に生きていくので勉強など不要です』
と言う始末。
バカ息子夫婦から二人目の子も取り上げるのは気の毒で、奴らに育てさせたのが仇となった。
あの子にはお前が学園を卒業し、侯爵家の家督を継ぐと同時にこの家を出ていってもらう。
居候であるお前の両親と一緒にな。
いずれこの家を出ていく人間だ、好きにさせておけばいい。
心配しなくても良い。奴らを侯爵家から追い出しても家を手配し生活の面倒は見るつもりだ。
お前はただ勉強に集中していればよい」
祖父も両親と弟には手を焼いているみたいだった。
「お前は両親や弟のようになるなよ」
祖父に釘を刺された。
僕は両親と弟を反面教師にすることにした。
それでもあの人たちを見捨てられないのが祖父の優しさなのだろう。
祖父は両親と弟のために王都の外れに屋敷を買い、住み込みのメイドを何人か雇い、彼らが不自由なく暮らせる準備をしていた。
弟が学園を卒業するまでの学費も出してくれるようだ。
僕が家督を継いだあとは弟は侯爵家にいられないので、新しい家か学園の寮から通うことになる。
学園を優秀な成績で卒業すれば引く手あまたで、就職先には困らないと聞く。
最下位に近い成績で卒業したとしても、学校を出ていない多くの平民よりは就職先に恵まれているという。
弟には今からでも真面目に勉強に取り組んでもらいたいものだ。
☆☆☆☆☆
それからまた月日は流れ、僕は十七歳になった。
僕が三年生のとき、弟が学園に入学してきた。
弟は眉目秀麗で柔らかい物腰なので、女生徒からの人気が高かった。
なぜか弟の周りにいる人間は、弟が貴族だと勘違いしていた。
弟自身も父を侯爵令息だと思っていたようで、その息子である自分も貴族だと勘違いしていた。
実際には父は侯爵家を勘当されているので平民で、祖父と養子縁組していない弟も平民なのだが。
弟の女友達に、
「長男だからといって家督を継げると思わないでください!
あなたの弟君の方が次の次の侯爵にふさわしいんですから!」
と言われたこともある。
父も弟も平民だから侯爵家の家督を継げないのだが……。
これだけみんなが弟を貴族だと勘違いしていると今更、
「両親は実家から勘当されているので平民です。当然その息子である弟も平民です。
僕は祖父の養子に入ったので貴族ですが」
とは言えなかった。
皆に平民であると知られたら弟は恥をかく。そして深く傷つくだろう。
深く傷ついた弟が家出をして非行に走ったり、逆に家に引きこもるようになったら……。
弟には学園を卒業して、良い所に就職してほしい。
だから僕は弟が平民であることを弟にも学園のみんなにも伝えなかった。
だが両親にはいい加減現実を受け入れてもらいたい。
両親は「貴族は顔が良ければ楽に生きていける」と思っていた。
両親が現実を受け入れ将来と向き合えば、弟を甘やかすのをやめるかもしれない。
そうなれば弟ももう少し勉強を頑張るかもしれない。
僕は弟のいない日に侯爵家の別邸を訪れ両親に現実を伝えた。だが二人に一蹴された。
父は侯爵家に戻ったとき自身の勘当が解かれ、侯爵家の跡継ぎに戻ったと思っている。
母は次の侯爵夫人は自分だと思い込んでいて、僕の話を聞いてくれない。
僕は父に、
「オレが家督を継いだあと、次の跡継ぎに次男を指名すると思っているんだろう?
だから父親であるオレにそんなことを言いにくるのだろう?」
と言われ絶句した。
僕はどうやったら父が現実を受け入れられるのか分からなくなった。
母には、
「私たちが次男ばかり可愛がるから焼き餅を焼いているのね。
仕方ないでしょう。
地味顔のあなたと違って次男は子供のときから天使のように可愛かったんですもの。
地味な顔立ちのあなたと一緒に暮らせなくても寂しくないけど、キュートな顔立ちのあの子と一緒に暮らせないのは一日だって耐えられないわ」
と言われた。
両親が僕に関心がないのは知っていたけど、両親にとって僕がここまでどうでもいい存在だとは思わなかった。
それがわかったところで今さら傷ついたりしないが。
しかし、ここまで頑なに自分たちを貴族だと信じている人たちに、どうやって現実を受け入れさせればいいんだ?
僕は頭を抱えた。
父が侯爵家の跡取りで、母が未来の侯爵夫人なら、当然家の仕事をしなければならない。
だが彼らは別邸で遊んでいるばかりで、全く働いていない。
彼らにパーティの招待状は届かないし、侯爵家でパーティが行われるときも、彼らが呼ばれることはない。
その上両親と弟が暮らしているのは、侯爵家の本邸ではなく別邸。
ここまで揃ったら、普通は自分が跡取りだとは思わないものだが……。
僕はまだ学生だが十六歳で社交界にデビューしている。それからはあちこちのパーティに呼ばれ、祖父と一緒にあいさつ回りすることが増えた。
侯爵家の仕事も学園の勉強に支障の出ない範囲で任されている。
そのへんを上手く突いてみたが父に、
「仕事なんて家令にやらせておけばいい。親父もそのへんを理解しているからオレに仕事をさせないんだ」
こう返された。
祖父が父を跡継ぎから外した理由がよーーくわかった。この人に任せたら侯爵家は一代で潰れる。
母からは
「旦那様の元婚約者の伯爵令嬢がわたしにパーティの招待状が届かないように意地悪をしているのよ!
だからわたし宛にパーティの招待状が届かないんだわ!」
と言って憤っていた。
父の元婚約者の伯爵令嬢は、卒業パーティで父に婚約破棄されたあと侯爵家から慰謝料を貰い隣国に留学している。
隣国で知り合った子爵令息と結婚し幸せに暮らしている。
母が本当に次期侯爵夫人なら、隣国に嫁いだ元伯爵令嬢に次期侯爵夫人をパーティに参加させない権力なんてない。
母にパーティの招待状が届かないのは、実家から勘当され平民になったからだ。
彼らに現実を理解させるのは至難の技だと、僕はこのとき初めて理解した。
生活に困らないだけのお金を与え、問題を起こさないように別邸に住まわせ、彼らの動向を監視している祖父のやり方は正しかったようだ。
僕は両親への説得は諦めた。
弟には僕から直接、
「勉強するように。学園で問題を起こさないように。友達は大事にするように」
弟と顔を合わせる度に注意した。
弟は、
「お兄様は俺だけがお父様とお母様に可愛がられているから嫉妬しているんでしょう?
勉強しなくてはいけないのはいずれこの家を追い出されるお兄様の方ですよ。
父が家督を継いだらきっと僕を跡継ぎに指名するでしょうから」
と言って僕の言葉を聞いてくれなかった。
それでも諦めずに注意し続けたら、弟に避けられるようになってしまった。
祖父に相談すると、
「愚か者どもは放っておけ。
次の当主の件については王宮に必要な書類を提出してある。
友人や親戚にもお前を跡継ぎにすると伝えてある。
仮にわしが今死んだとしても、お前の跡継ぎの地位は揺るがない」
と言われた。
僕の心配はそこではないのだが。
祖父はさらに、
「奴らが散財したり問題を起こしたとき支払った慰謝料は奴らを侯爵家から追い出したあと、生活費として渡す予定の金から差し引いている。
問題を起こして後で苦労するのは奴らだ」
と言った。
人の良い祖父でも、彼らの態度には思うところがあるのかもしれない。
それからも父はたまに外に遊びに出かけては賭けポーカーで散財し、母はドレスやアクセサリーを購入し続けていた。
そして弟はたびたび学園で問題を起こした。
弟が「下級貴族の令息のくせに生意気だ」と言って殴った相手は、平民である弟よりはるかに身分が上だ。
弟が「下位貴族の不細工から婚約者を奪ってやった」と武勇伝のように語っている相手も、本来なら平民であるお前が話しかけることすら許されない相手だ。
弟が問題を起こすたびに僕は相手の家に謝罪におもむき、何度も頭を下げた。
幸い相手方も「あの学園のモットーは、学園内では身分の上下なく平等に付き合うことですから」と言って、裁判沙汰は避けてくれた。
弟に殴られた令息は己の軟弱さを悔いて体を鍛え始め、今は騎士団を目指している。
「軟弱だった息子がたくましくなって、恋人ができました」と相手の親に感謝された。
弟が婚約者を奪った相手からも「結婚する前に相手の女があばずれだとわかってよかった」と言われ感謝された。
結果的に上手くいったからよかったようなものの、弟の振る舞いは本来なら許されることではない。
弟が問題を起こした場所が学園だったから弟の行動は不問にふされたが、学園の外なら無礼討ちにされても文句を言えない。
弟の命が心配で「これ以上問題を起こすな」と注意したが、弟はどこ吹く風。
「若い頃のヤンチャな行いは、年老いてからの武勇伝でしょう?」と言って笑っている始末。
弟が今のような行いを続けたら、侯爵家から追い出された直後、誰かに後ろから刺されて殺されかねない。
今まで僕は弟に学園を卒業させ、良い所に就職させようと必死だった。
だが弟がこんなに問題を起こすなら、弟に平民であることを告げ、今通っている貴族が多く在籍する学園を辞めさせた方が良いかもしれない。
弟には平民のみが通う学校に転校してもらおう。
平民が通う学校を卒業してもあまり良い就職先はないかもしれないが、卒業後の進路よりも弟の命の方が大切だ。
それにこのままでは弟が迷惑をかけた相手に支払う慰謝料がかさみ、彼が侯爵家を出るとき持たせるお金がなくなってしまう。
現に今でも二年後彼らが住む予定の屋敷のグレードはどんどん下がっている。彼らが雇えるメイドの数も減っている。
今彼らが侯爵家を追い出されたら彼らに与えられるのは、街の外れの壊れかけの一軒家と通いのメイド一人のみ。
弟にそのことをいつ話そうかと思案していたとき。
弟が男爵家の三女だという桃色の髪の美少女を連れて、侯爵家の本邸にやってきた。
僕の卒業が半月後に迫った春の初めの出来事だった。
二人は侯爵家の本邸にやってくると僕を応接室に呼び出し、開口一番にこう告げた。
「お兄様、俺たち結婚することにしました」
弟の突然の結婚宣言に僕は虚を衝かれた。
だが本当に驚くのはこれからだった。
「お父様とお母様と話し合いの末、僕の成人を待って僕が侯爵家の家督を継ぐことになりました。
だからお兄様には卒業と同時に屋敷を出て行ってもらいたいのです。
お兄様程度の成績でも、学園を卒業していれば就職先の一つや二つぐらいあるでしょう」
弟は桃色の髪の少女の肩を抱き勝ち誇った顔で言った。
僕はあ然とした。
弟は僕程度の成績というが、僕は入学してからずっと上から五番目に入る成績を維持しているのだが、弟には言ってなかっただろうか?
対して弟の成績は下から数えた方が早く、進級できるかも怪しい。
僕は弟が突然結婚すると言ったことよりも、あることが気になっていた。
「桃色の髪のお嬢さん、まさかどなたかの婚約者だったりしませんよね?」
もし桃色の髪の少女に婚約者がいて、弟が婚約者から少女を奪ったんだとしたら、相手方に慰謝料を支払わなくてはならない。
これ以上慰謝料を支払ったら、侯爵家を追い出された彼らは古いアパートの一室に家族三人……いや四人で住むことになるだろう。
弟の結婚相手が男爵家の三女では婿入りも出来ないだろうし。
父も母も弟も家事なんかできない。メイドを雇うお金もない。どうやって生活するのだろう。
桃色の髪の少女に家事ができるといいのだが。
少女の手をそれとなく観察する。彼女の手は真っ白であかぎれ一つなかった。とても家事が出来るようには見えない。
普通貴族の令嬢は家事をしない。もしかしたらこのお嬢さんは、炊事場に入ったことすらないかもしれない。
「同い年の商家の男と婚約してましたけど、それがなにか?」
桃色の髪の少女は悪びれもせずにそう言った。
「『婚約していた』ということは今はフリーなんだね?
誰とも婚約していないんだね?」
僕は神に祈るような気持ちで少女に尋ねた。
「ご安心くださいお義兄様。
今日その男との婚約を破棄してきましたから」
今日?
婚約を破棄した?
ということはこのお嬢さんは婚約者がいるのに、弟と付き合っていたということだろうか?
「婚約者をカフェに呼び出して、
『あんたなんかあたしにふさわしくないのよ!
私は侯爵家の跡継ぎと結婚するんだから!
わかったらあたしの目の前から消えてよね、不細工!
今日限りであんたとの婚約を破棄するわ!
あんたみたいな冴えない平民の男と今まで婚約してやってたんだから慰謝料を頂戴!』
といって彼の頭から熱々のお茶をかけてやったわ」
僕は少女の言葉を聞いて頭が痛くなった。
婚約者がいるのに他の男と浮気して、挙げ句の果てに「婚約してやっていたんだから慰謝料を寄越せ」と言って頭から熱々の紅茶をかけた……??
この少女も弟と同レベルの常識が通じない人間のようだ。
「平民の癖に彼女の婚約者面して彼女につきまとって俺に、
『ぼくの婚約者に近づくな!』
と言って突っかかってくる生意気な奴でしたよ」
弟よ、そういうお前も平民なんだよ。
侯爵家を追い出されると同時に貧しい生活をすることが確定している弟より、少女の元婚約者の実家の方がお金を持っているんだよ。
「俺も奴の今までの言動に腹が立っていたから、奴の顔にケーキを投げつけてやりました。
『前が見えない!』
と言って慌てふためく奴に足をかけて転ばせたら、彼は大泣きしていましたよ」
そう言って弟は声を出して笑い始めた。
弟よ、君はなんてことをしてくれたんだ。
「彼ったら泣きながらカフェを出て言ったのよ。
あの姿は滑稽だったわ〜〜!」
桃色の髪の少女がケタケタと声を上げて笑う。
「カフェに居合わせた客も大笑いしていたよな」
弟はにやにやしながらそう言った。
この二人の辞書に「良心の呵責」という言葉はないのだろうか?
僕は痛む胃を押さえた。後でメイドに胃薬を持ってきてもらおう。
カフェの客という目撃者もいるし、桃色の髪の少女の元婚約者に慰謝料を支払うことは確定だな。
弟が少女の元婚約者にしたことを考えると胸が痛い。あとで少女の元婚約者とそのご家族には誠心誠意謝罪しなくては。
どんなに頭を下げても許してもらえないかもしれないが……。
せめてもの救いは少女の元婚約者が平民だと言うことだ。
貴族は体面を重んじる。
少女の元婚約者が貴族だったら、弟は侯爵家を追い出された瞬間に殺されるだろう。
嫌な話だが、貴族への慰謝料と平民への慰謝料は違ってくる。
こんな残念な子でも僕の弟には違いない。出来れば無一文で追い出したくない。
これからのことを考えると僕の胃がまたキリキリと痛みだした。
「お兄様、お腹が痛そうですね。
卒業と同時にこの家を追い出されるんですから、胃も痛くなりますよね。
せいぜい就職活動に励んでください。
陰ながら応援してますよ!」
くつくつと笑う弟に、僕はかける言葉が見つからなかった。
そこに祖父が帰宅して、事情を知った祖父が激怒。
僕の卒業を待たずに両親と弟を侯爵家から追い出した。
もちろん桃色の髪の少女にもお引き取り願った。
僕は急いで町外れのアパートを借り、別邸にあった両親と弟の荷物を町外れのアパートに送った。
侯爵家の前で呆然と佇んでいた両親と弟に、とりあえずアパートに行くように伝えアパートまでの地図を渡した。
祖父は、
「奴らの私物の中で高価な物は全て売って迷惑をかけた商家の令息への慰謝料に当てろ!」
と言った。
確かに彼らが住むはずだった王都の外れにある小さな屋敷を売っても、商家の令息への慰謝料には足りない。
彼らの私物を売って慰謝料に当てるというのは妥当な考えだ。
しかしそれをしてしまったら、弟たちは野垂れ死んでしまう。
僕はアパートに送る荷物の中にこっそり母の買った高価なアクセサリーを詰めておいた。それを売れば当分は生活には困らないだろう。
弟が迷惑をかけた商家の令息への慰謝料には僕の貯金の一部を当てることにした。
祖父の弟への怒りは相当のもので、当初卒業まで支払う予定だった弟の学費も出さないと言っている。
奨学金を受ける手もあるが、弟の成績と素行では奨学金の審査は通らないだろう。
弟を平民の通う学校に転校させた方がいいと思っていたところだ。
僕は弟が追い出された翌日、弟の転校の手続きを済ませた。
平民の通う学校へ通う費用ぐらいなら僕の貯金でも充分に賄える。
生活費も稼がなくてはいけないから、弟はこれから仕事をしながら学校に通うことになる。
大変だろうが弟には学校を卒業してほしい。
そして両親には一刻も早く仕事を見つけてもらいたい。
彼らに出来る仕事があればいいのだが。
事務職は人気だから空きが出ないし、学園時代の成績が良くない父と母には家庭教師は無理だ。
となると肉体労働ぐらいしかないが、今まで怠けていた父に肉体労働ができるだろうか?
僕が両親と弟の生活をあれこれと心配していると。
祖父が、
「奴らには何度も忠告した。
忠告を無視したのは彼らだ。
お前が気にする必要はない」
と言われてしまった。
それから祖父は少し悲しそうな顔をして、
「子供には親が必要だと思い、奴らが離れに住むことを今まで許可してきたが……。
奴らはそなたの足かせにしかならなかったな。
すまない」
と謝ってきた。
祖父はやはりなんのかんの言っても優しい。
おそらく口では冷たいことを言っているが、両親と弟のことも死なない程度にサポートするつもりなのだろう。
僕は祖父に、
「謝らないでください。
お祖父様は平民として生きるしかなかった僕を養子にしてくださり、高いレベルの教育を受けさせてくださいました。
今まで両親と弟の面倒も見てくださった。
お祖父様には感謝の気持ちでいっぱいです」
そう伝えた。
僕が親の顔もわからない子にならなくて済んだのは、祖父の優しさのおかげだ。
一カ月後。
僕は学園を卒業し侯爵家の家督を継いだ。
弟と桃色の髪の少女は、桃色の髪の少女の元婚約者の家に雑用係として雇われた。
自分を振った少女と自分の婚約者を奪った男をよく雇えるな、懐の広い人なんだなと感心していたが……。
元婚約者は弟と桃色の髪の少女に頭からお茶をかけたり、足をかけて転ばせたり、ケーキを顔に投げつけたりしているらしい。
少女の元婚約者の少年はめちゃくちゃ心の狭い人間だった。
桃色の髪の少女の元婚約者が弟たちにしている行為も酷いが、元々は弟たちが彼にした行為なので僕も何も言えない。
蝶よ花よと育てられた弟には辛い日々だろうが耐えてほしい。
父は祖父が斡旋した工事現場で肉体労働に従事している。父の体力はヘロヘロなので周りの足を引っ張りまくっているらしいが、真面目に働いているようで何より。
時々仕事仲間と賭けポーカーに興じては上司に叱られているらしいので、人間の本質は簡単には変わらないようだ。
母は刺繍や仕立物を作る仕事に従事している。腕の方は今一つらしく、自分より若い上司に毎日叱られているらしい。
僕は彼らが真人間になってくれることを祈っている。
☆☆☆☆☆
僕が学園を卒業してから三年が経過した。
家督を継いだのはいいが仕事の引き継ぎなどで忙しく、侯爵としてのもう一つの仕事である伴侶探しにまで手が回っていない。
両親や弟が学生時代にやらかしたことが社交界に知れ渡っていて、なかなか結婚相手が見つからず未だに独身だ。
祖父も年だし早くひ孫の顔を見せてあげたい。
どこかに良い相手がいると良いのだが……。
そんなある日仕事の付き合いで出席したパーティーで、僕はある少女と出会った。
少女は酔っぱらいに絡まれて迷惑しているように見えた。
少女に絡んでいるのは彼女より身分の高い貴族なのか、少女は酔っぱらいの誘いを断り切れずにいた。
彼らの周囲にはたくさんの人がいるが、面倒なことに関わりたくないのか皆見て見ぬふりを決め込んでいる。
少女に絡んでいる男の顔には見覚えがある。確か伯爵家の放蕩息子だ。
この場にいる貴族の中で一番爵位が上なのは僕だ。
僕は意を決して酔っ払いを止めに入った。
「嫌がる相手を無理に誘うのはマナー違反ですよ」
伯爵令息は最初「うるさい!」と言って僕を睨んできたが、相手が自分より爵位が上の人間だと分かると急に大人しくなり、逃げるようにその場を去っていった。
「大丈夫ですか? お嬢さん」
「助けて下さりありがとうございます」
まだ幼さの残る顔に涙を浮かべ、少女は頭を下げた。
モカ色の髪に琥珀色の瞳の愛らしい顔立ちの少女だった。
見たことがない顔だから社交界にデビューしたばかりの子だろうか?
このままほっとくのは心配だな。
「ああいう輩はたちが悪い。
今日はもう帰った方がいいでしょう。
どなたと一緒に来られたのですか?」
うら若い少女が一人でパーティーに参加したとは思えない。
保護者か婚約者と一緒に来たはずだ。
「兄と一緒に参りました」
「お兄さんは今どちらに?」
「兄は会場に着いてすぐに友達と合流して向こうで話し込んでいます。
私も学生時代のお友達と再会して先程まで話していたのですが、飲み物を取りにお友達と離れたところを先程の方に絡まれてしまって……」
「学生時代」と話しているということは、幼く見えるが学園を卒業しているようだ。
「困ったエスコート役ですね」
パーティに慣れて無い妹を一人にして、友達と話し込んでいるとは。
少女を一人にしておくのは心配なので、兄の元まで案内してもらった。
彼女の兄はパーティ会場の隅で、友人たちと酒を飲んで盛り上がっていた。
「盛り上がっているところ失礼します。
あなたがここでご友人たちと楽しくおしゃべりをしている間に、
あなたの妹が酔っぱらった伯爵令息に絡まれていたのですがご存知ですか?」
彼女の兄は私の話を聞いて顔色を悪くした。
「親父から『妹の面倒を見ろ』ってきつく言われてたのに、
こんなことが親父に知られたら殺される……」
少女の兄は真っ青な顔でそう呟くと、友人たちに「先に帰る」と詫びを入れて、妹の手を引いて帰って行った。
少女の兄がどこか頼りなく見えたので僕は二人が馬車に乗るまで、こっそり見守ることにした。
先程の酔っぱらいに再び絡まれたら、彼では少女を守りきれないだろう。
僕の心配は外れ、二人は伯爵令息に遭遇することなく無事に馬車置き場に着いた。
二人を乗せた馬車は何事もなくパーティ会場をあとにした。
僕は少女の名前も身分も聞けなかったことを、少しだけ後悔していた。
☆☆☆☆☆
それから一カ月後。
僕は慈善事業の一環で教会を訪れていた。
子供達にお菓子や服などを配っていると、この前のパーティーで出会った少女と再会した。
彼女も慈善事業の一環で教会を訪れ、子供たちに手作りのクッキーを配っていたらしい。
子供たちに笑顔でお菓子を配る少女の姿は、天使のように愛らしかった。
少女に見とれていたらジュストコールの袖を柱にぶつけ、ボタンを壊してしまった。
やってしまった、この後大事な商談があるのに……。
家に帰って着替えていたのでは間に合わない。
僕がどうしようか思案していると、この間のパーティで出会った少女が声をかけてくれた。
「先日のパーティで酔った令息に絡まれていたところを助けてくださった方ですよね?
その節は、ありがとうございました」
少女は丁寧にお辞儀をした。
「いや、当然のことをしたまでですよ」
「いえ、とても助かりましたした。
ところで焦っているように見えましたが、何かあったのですか?」
「それがその……お恥ずかしい話、ジュストコールの袖を柱にぶつけ飾りボタンを壊してしまいまして」
「まあそれは困りますね。
私はいつも裁縫箱を持ち歩いてるんです。
似たボタンで良ければお付けいたしますよ」
「ありがとうございます。
助かります」
ジュストコールを脱いで少女に渡すと、少女は裁縫箱を開け慣れた手付きで新しいボタンを付けてくれた。
似たようなボタンが少女の裁縫箱の中に入っていて助かった。
「できました」
少女から渡されたジュストコールは、ボタンが付け替えられたことなど分からないぐらい上手に繕われていた。
「ありがとうございます。
これで商談に間に合います」
「いえ、この間助けていただいたお礼です」
「そうですか、ではこれで貸し借り無しですね」
僕がそう伝えると少女は少し悲しそうな顔をした。
だが商談の時間が迫っていたので、少女を気にかける余裕がなかった。
僕はそのまま教会を後にした。
今度こそ本当にもう会うことはないだろう。
☆☆☆☆☆
しかしその一カ月後、僕はまたあの時の少女に再会することになる。
場所はこの間少女にボタンを付けてもらった教会だ。
偶然が二度続いたので、気になってシスターに少女のことを尋ねてみた。
シスターから得た情報によれば彼女は学園を卒業したばかりで、年齢は十八歳。
男爵家のご令嬢で週に三回ボランティアで教会を訪れ、子供達に裁縫の仕方を教え、小さな子に本の読み聞かせをしているらしい。
慈善事業は貴族のたしなみのひとつだ。だが週に三回も行っている人間はそうはいない。
少女はとても信心深いか、貧しい人を放っておけない優しい性格なのだろう。
彼女は僕に気付くとその場でカーテシーをした。
「この間はボタンをつけ直してくれてありがとう。
おかげで商談に間に合ったよ」
「それは良かったです。
実を言うと途中でボタンが取れてしまわないか、繕ったところが不格好に見えないかヒヤヒヤしていました」
「上手に直してくれたから大丈夫だよ。
シスターから聞いたよ。
君は週に三回も教会を訪れ慈善事業をしているんだってね」
「学園を卒業した後、就職をするわけでもなく結婚する訳でもなく家事手伝いをしている身ですから。
暇を持て余していますのでこれくらいして当然ですわ」
「君と同じ境遇の令嬢は沢山いる。だけどほとんどの令嬢はお茶会やパーティーに夢中で、慈善事業にはあまり興味を示さない。
だから君は自分を誇っていいと思うよ」
僕が褒めると少女は頬を赤くした。
なんだかこれでは少女を口説いてるみたいだ。
「それじゃあ僕は仕事があるからもう行くね」
「あの……」
帰ろうとした僕を少女が引き止めた。
「……また会えるでしょうか」
少女はもじもじしながらそう呟いた。
「僕もたまにこの教会に慈善事業に来ているんだ。
だからもしかしたらまた会えるかもね」
僕がそう答えると少女はほのかに顔を赤らめ、嬉しそうにほほ笑んだ。
もしかして僕にもモテ期が来てるんだろうか??
そんな淡い期待を抱き軽い足取りで教会を後にした。
それから僕は月に一度訪れていた教会に、月に二、三度足を運ぶようになった。
その結果、毎回ではないが少女と会えた。
少女は刺しゅう入りのハンカチや手作りのマカロンやクッキーなどを教会にいる子供たちにプレゼントしていて、僕にもいくつか分けてくれた。
子供たちに配るついでなんだろうが、彼女の心遣いが嬉しかった。
僕はハンカチとお菓子のお礼をかねて少女をコンサートに誘った。
僕がコンサートのチケットを渡すと、彼女は頬を紅潮させはにかんだ。
そんなことが何度かあって、気がつけば彼女と知り合ってから一年が経過していた。
僕は彼女に思い切ってプロポーズをした。
「慈善活動に熱心に打ち込み、子供たちと無邪気に戯れる純粋なあなたが好きです。
僕と結婚してください」
僕は彼女の前に跪き、指輪の入った箱を彼女に差し出した。
彼女は僕の渡した指輪の箱を握りしめ、瞳に涙を湛えていた。
「閣下に初めてお会いしたパーティーで、閣下が私たち兄妹が馬車に乗るまで影から見守っていてくれたことを知っています」
彼女は初めて会った日のことを話し始めた。
彼女に初めて会ったパーティーの夜、彼女が馬車に乗るまで僕がこっそり見守っていたことを、本人に知られていてかなり恥ずかしかった。
「私が帰ったあと私の後を追ってきた伯爵令息に、閣下が私に近づかないように釘を刺してくださったことも存じております」
彼女の乗った馬車を見送った後、馬車置き場で彼女を追ってきたと思われる伯爵令息と遭遇した。
彼女に執着し馬車で彼女の後を追おうとしていた伯爵令息に、
「酔った勢いで女性に絡むのは良くない」
と注意したのを覚えている。
「老婆心からしたことだったのですが、もしかして余計なことでしたか?」
「いいえとんでもありません。
むしろとても助かりました。
実は伯爵令息には何度も言い寄られていて、自分より身分が高い方なのできっぱりとお断りできず困っていたのです。
あの日閣下が伯爵令息を注意してくださったおかげで、彼に付きまとわれることがなくなりました」
「それは良かった」
「私は閣下に助けて頂いた時とても嬉しかったのです」
「僕は当然のことをしたまでです」
「いいえ、あの日パーティ会場にはたくさんの人がいました。
ですが周りの人たちは酔った伯爵令息に私が絡まれているのを知りながら、見て見ぬふりをしていました。
だから閣下が助けてくれた時とても嬉しかったんです」
「誰だって自分より高位の貴族に注意するのは勇気がいる。
だからあのとき周りにいた人たちを恨まないでください。
僕だって君に絡んでいた男が、たまたま僕よりも身分が下の令息だったから注意できただけです」
「いいえ、あの場には伯爵令息よりも身分の高い方もいらっしゃいました。
でもその方たちは薄笑いを浮かべ面白い見世物でも見ているように様子を窺ってました。
その方たちは閣下の存在に気がついて、どこかに行ってしまいましたが」
「そうだったのですね。
それが事実なら彼らは貴族の風上にも置けないな」
「ですから閣下が助けてくださった時、心の底から嬉しかったのです。
この方と共に時を過ごせたらと……身の程もわきまえずそう望んでしまったのです。
ですから教会で偶然閣下に再会できた時は感動し、神様に感謝しました」
そんなふうに思っていてもらえたら僕も嬉しい。
「実を言うと閣下と再会するまで、私が教会に慈善事業のために訪れる頻度は、多くても月に二回程度だったんです」
それは知らなかった
「私はどうしても閣下にお会いしたくて、教会に通う回数を月に二回から、週に三回に増やしました。
私は閣下のおっしゃるような純粋な女性ではありません。
己の目的のために教会や子供たちを利用するずるい女なのです」
泣きそうになる彼女の手を取り、僕は強く握りしめた。
「どんな理由であれあなたが慈善事業をしていたことは事実だ。
子供たちもあなたに心の底からなついていた。
嘘や偽りは子供たちに通じない。
あなたが悪い人だったら子供たちがあんなになつくはずがないよ。
それに本当にずるい人は、こんなふうに真実を話したりしない」
僕がそう言うと、彼女は大粒の涙をボロボロと流し始めた。
僕は立ち上がり、持っていたハンカチで彼女の涙を拭った。
「僕と結婚していただけますか」
「はい、喜んで」
彼女ははにかみながらコクンとうなずいた。
僕は彼女を優しく抱きしめこの幸せが永遠に続くように願った。
☆☆☆☆☆☆
十年後。
「これがお母さんの宝物なの?
壊れた古いボタンに、シミのついたハンカチ、なにかのチケットの半券……全然綺麗じゃないよ」
「壊れたボタンはお父様と教会で偶然再会したときの思い出の品なのよ。
染みのついたハンカチは、お父様にプロポーズされた時、お父様がお母様の涙を拭ってくれた大切な物なの。
このチケットの半券はお父様から初めてデートに誘って頂いた時のものなのよ」
「お母様の宝物が入っていると聞いたから、綺麗な宝石やアクセサリーが見られると思って期待していたのに」
「何を大切に思うかは人それぞれよ。
アクセサリーはお金を出せば買えるけど、思い出の品はどんなにお金を出しても買えないの」
「ふーん、そうなんだ」
「今私が大切にしているのはあなたとお父様よ。
人間が入る大きさの箱があるのなら、二人を箱の中にしまっておきたいくらいよ」
「えーボク、箱の中でじっとしてるなんて嫌だよ」
「そうね。
あなたがお外で元気に走り回っている方がお母様は嬉しいわ」
「じゃあボク、今から庭を走ってくるね。
あっ、お父様いつからそこにいたんですか?」
妻の部屋の前を通りかかったら中から妻と息子の声が聞こえて、
なんとなく聞き耳を立てていたら、
妻がとても恥ずかしいことを言っていて、
声をかけるタイミングを失い、僕は扉の前で悶絶していた。
息子が急に扉を開けたので隠れる暇もなかった。
「二人とも何をしてたんだい?」
僕は今ここに来ました……という顔で妻と息子に声をかけた。
妻の顔が真っ赤なので、僕が立ち聞きしていたのは確実に妻にバレている。
「お母様の宝箱を見せてもらっていました。
でもねお父様、お母様の宝箱の中身って変なんだよ。
壊れた古いボタンとか、染みのついたハンカチとか、なにかの半券とか、そんな物ばかり入ってるんです。
僕は宝石やアクセサリーの方が綺麗だし価値があると思うのですが」
「そうか君がお母様の宝箱の中身の良さを理解するには、もう少しかかりそうだね」
「もう少しってあと何年くらいですか?」
「そうだね。少なくてもあと十年はかかるかな」
「えー、そんなにかかるんですか?」
息子は「そんなに待てません」と言って頬を膨らませた。
「お父様にも宝箱はありますか?」
「ああ、あるよ」
「お父様の宝箱には何が入っているのですか?」
「僕の宝箱にもお母様との思い出が入っているよ」
そう言って妻にほほ笑みかける。
「お母様から初めて貰った刺しゅう入りのハンカチに、
お母様から初めて貰ったクッキーの入っていた包み袋に、
お母様から貰ったマドレーヌが入っていた袋を結んでいたリボンなんかがね」
僕の言葉に妻が顔を赤らめた。
お互い物持ちがいい。
だが息子には僕の宝箱の価値は理解できなかったらしい。
「お父様とお母様の宝箱の価値は僕にはわかりません」
息子は眉根を寄せ難しい顔をした。
「君にはまだ難しかったかな。
ただ僕は今とても幸せなんだ。
そして君にも将来古いボタンやハンカチを大事に取っておいてくれる女性をお嫁さんにしてほしいって思っている。
そのことを忘れないでほしい」
「はい」
元気に返事をした息子を抱き上げ、僕は妻と顔を見合わせてほほ笑み合った。
――終わり――
※読んで下さりありがとうございます。
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