頭のおかしい天気予報
『今日の東京、最高気温は、うっ、うっ、ああ〜涙涙。体の中に食べられる高級な椅子と塩。ブレーキ音。しんぶんし。お茶。鼻の穴。ミルク』
えっ、何。
朝の天気予報にいったい何がおきたのか。リビングに戻って確認したかったが、私はもう靴をはいてしまった。さらに遅刻ギリギリということもあり、まぁなにかの冗談だろう、お笑い芸人がスタジオに乱入でもしたのだろうと頭の中で結論づけて玄関を飛び出した。
「おはよっ」
通学路でタカミチに追いついた。彼も走ってはいるが、その遅さは中学のころから変わっていない。
「ぜっ、ぜっ、ぜ……」
息を切らして、挨拶する余裕もないらしい。
「み、ゆ、き……待……て」
「やだよ。そのペースじゃ遅刻確定じゃん」
私は颯爽と追い抜いた。
走りながら、くるりと振り返って、
「てことは、天気予報観てないよね」
「ど……どこ局の……だよ」
「あ、わかんない。五番か八番だと思うんだけど。なんかいきなり、お茶、ミルク、とか言い出して頭おかしい感じになった」
「どう……でも……いい……」
「あ、タカミチ、今日も一緒に帰ろうね。昨日失敗したクエスト、今日は本気で攻略するからね!」
「くそ……なんで……お前の……ネトゲに……僕が……付き合わなきゃ……睡眠……削ってまで……」
「んじゃーねー!」
くるりとまた前を向いてダッシュ。足が遅く、ひょろひょろしてて頼りない男、タカミチ。私を守って全クリまで導いてくれたら彼氏にしてもいいけどねー。なんて。
学校についた。計算どおり、チャイム直前に教室に滑り込めた。
机に鞄をかけて着席。一息つくと、隣の女子から、「みゆきさぁ」と声をかけられる。
「せっかくかわいいんだから、その雑なのやめようよ。女子が遅刻ギリギリ走って登校とかないって」
「でもネトゲがねぇ。あとアニメも撮りためてて、観なきゃだし」
へらへらと返す私。
「……オタクだもんなぁ。それでもモテるからムカつくんだよなぁ……」
「彼氏はいないよっ」
「告白ぜんぶ断ってるからだろ」
ウインクする私に、彼女は的確なツッコミ。でもしょうがないじゃない。人間だもの。オタクだもの。それが私だもの。
タカミチ、もう学校着いたかな。ていうか、なんであいつガリ勉のくせして普通クラスに落ちちゃうんだよ。同じ特別進学クラスのままなら休み時間もゲームの話できたのにさ。学校敷地で一番離れた別棟だから、昼休みにお互いが全力で走ったって少ししか会えないじゃん。
でもまぁ、メールなら遠くても話せるよね。
『タカミチ、ついたー??』
先生が話をする中、机の下で携帯をいじって送信した。
少ししてから画面を確認したけど、返信はない。ひょっとして、まだ着いてないかぁ? まぁあいつはホームルーム中に携帯いじるキャラでもないんだけど。
そのままなんとなく、ネトゲの攻略で検索をかけようとして、検索画面のニュースが目にとまった。
『バナナ。みかん。キャベツ。空から降る、二億六千万のキャベツ。新しい私になりたいとあなたは言ったけれど、それはまるでバナナ。カーテンのしわ』
「うわっ」
思わず声がもれた。本来ならニュース見出しであるはずの文章、三つ表示されているすべてがこんな調子だった。
『めっめっ。母さんはいった。ぼくはいった。ふたりはいった。そして犬がいった。母さん犬がどこかへいった。犬母さんぼくと、ぼく母さん犬は、うぬとずっと蹴り合っていたが、そこにバンに乗った乳がやってきて』
頭がおかしい……。
なんだこれ。こういうの、流行ってるのかな。アニメやゲーム漬けで全然流行を追えてないからわからないだけ? エイプリルフールみたいなおふざけの日が一日増えたとか。
そのとき、
『マッハ五で飛空する、ドレッシングのフタ。それを、二人の男は追いかける』
その声のした方を振り向くと、男子が携帯を机に置いていた。
そこから聞こえてくる音声。
『きのこ。スポンジ。ハンカチの甘い匂い。そのとき、ミラクルがおきた。いや、ミラクルが言った。おまえら、いつまでふざけてんだ。ちゃんとやれ。言った途端に、ミラクルは爆発して、マグロになった』
立ち上がって首を伸ばすと、画面が見えた。私でも知ってる有名な動画配信者が、深刻な顔と、はきはきした声で、わけのわからない言葉を繰り返していた。
『マグロは……あばばばっ。あばばばばばばば』
動画配信者は突然、焦点の合わない目をして、壊れたような声を出した。
『あばばばばば、ばばばばばばばばばばばばばば』
その音が続くなか、先生が「木村、なめてんのか。携帯をしまえ」と言った。
「先生、全部です」
木村くんが言った。
「上がってる動画、全部こうです……」
「テレビ、テレビつけろ!」
他の男子が、携帯片手に立ち上がって叫んだ。
テレビに近い席の人がスイッチを入れた。
『チョモランマ。あばばばばばばば』
ワイドショーの司会者が頭のおかしいことになっていた。
カメラが引いて、スタジオの全景が映る。
アナウンサー、コメンテーター全員が、あばばばばになっていた。
「こっ、こええよ!」
男子が叫んだ。
「いやあああっ!」
女子が悲鳴をあげた。
「おちつけ、みんなおちつけ。こら、席をたつな」
先生が声を荒らげた。
その目が、ふっと生気を失って、
「あばばばばばばばば……」
先生もあばばになった。
「うっ、うわあああああ!!」
机が蹴られ、椅子が倒れ、教室はパニックになった。私は他のみんなにつられて廊下に出た。すると他の教室からも生徒が飛び出てきた。窓から、あばばになった他のクラスの先生の姿が見えた。
「うっ、ううっ」
私は叫びだしそうになるのを抑えて、ネトゲの攻略サイトにアクセスした。掲示板はすでにあばばで埋め尽くされていた。チャットは『ばばばばば』が連投されていたが、頭には『あ』があったんだと思う。
『ababababababababa……』
海外のサイトもだめだった。
世界中、あばばだ。やばい、頭がおかしくなりそう。
気がつくと、周りの生徒からちらほら、あばばが出始めていた。
「みんな、あばばになっちゃうの?」
涙目で私に問いかけた他所のクラスの女子は、
「あばばばばばばば」
次の瞬間には、そうなっていた。
「い、いや……」
もう周りに、まともな人はいなかった。
右も左もあばば。あばばの目を見ると、その虚無のなかに飲み込まれそうになる。私は顔を背けて逃げようとしたけど、あばばの一人に足首を掴まれて転んでしまった。
私を覗き込んでくる、あばばたち。
喉元からこみあげる悲鳴。
「いや――」
「こっちだ、みゆき」
途端、手を掴まれて引っ張られた。あばばの群れを抜け出して、顔を上げた先には、
「タカミチ!」
彼がいた。
「わ、私、私」
私は涙があふれた。
「怖かった……!」
「僕もだよ! なんだよ、なんなんだよこれ!」
二人で階段を駆け下りた。上履きのまま昇降口を出て、校門へ。
「タカミチ、早く」
「くそう。こんな状況でも速く走れないのか、僕は」
私が彼を引っ張り上げて、校門を乗り越えた。
それから、どこをどうやって逃げたかはわからない。道や街を行く人々はすべてがあばばで、気づけば私たちは廃ビルの一室に入り込んで鍵をかけていた。
遠くから、あばばの合唱が聞こえた。もうこの街は終わったんだと思った。いや、街だけじゃない。この国……この世界すべてが。
「どうしよう、これから」
私はつぶやいた。
「でも……でも、タカミチが無事でよかった。タカミチとなら、私、世界に二人きりでも……」
ああ、雰囲気のせいで、言うつもりのないことまで言ってしまう。
「私、毎日のように告られてるけど、全部断ってるんだ……。恋愛とか、興味ないし。でも、私ね、もし告ってきたのがタカミチなら……。タカミチとだったら、私……」
「もしかして」
私とは全然ちがうトーンでタカミチは言った。
「これ、僕たちのどっちかが見てる夢なんじゃないか」
「え」
「だって、見るかぎり、変になってないのは僕たちだけだ」
確かに……と私は思った。
でも、
「じゃあ、どっちの夢なんだろう」
彼は言った。そして続けた。
「いや……どっちだっていい。重要なのは」
ぞくりとした。
だめだ。それ以上言わないで。
「どっちかが夢の登場人物なんだとしたら――」
そこでタカミチの息は止まった。
私の目から涙がこぼれた。
彼は言った。
「あばばば……ばばばばばばばばばば」
私の世界は真っ暗になった。
喉は勝手に悲鳴をあげていた。
『はいっ。以上、【頭のおかしい天気予報】のコーナーでした〜。一部のリスナーに大ウケのこのコーナー……しかしどんなネタも途中から必ずあばばばになってしまうという……いやあ、もう……なんでしょうね、これ。皆さんもはや、条件反射で笑ってませんか?』
声がきこえる。
愉快なBGMをバックに、明るい調子の喋り……ラジオ番組だ。
誰か、男の人が、「なんや、このクソみたいなラジオ。ほんまに頭おかしくなるわ」と言った。
それを聞いて、私は心底ほっとした。まともな世界だ。もう、あばばはいない。あれは夢だったんだ。ラジオを聞きながら寝て見た悪夢……。そう認識すると、途端にバカバカしくなった。大げさ……、夢って、往々にしてそんなものだ。
私は起き上がろうとした。
別の人の声がきこえてきた。
「でも俺ら、もうすでに頭おかしいやろってツッコミはなし?」
私は、うまく起き上がれなかった。
というか、うまく動けなかった。
「ああーそうともいえるわなぁ」
最初の人がそう言った。
ガタンと床が揺れた。今まで気づかなかった小刻みな振動と、唸るような音が感覚に入り込んでくる。
暗闇のなかを一瞬流れた光が、目の前に銀の輝きを散らせた。
それはナイフだった。
「おっ、起きた?」
次の光が照らしたのは、こちらを見下ろす男と、そのそばで虚空を見つめる血まみれの……タカミチだった。
記憶の断片が頭をめぐった。
二人きりの帰り道。
唸るような音と鋭いブレーキ音。
バンから降りた二人の男は私にハンカチを近づけ……。
「お嬢ちゃん、愛されとるなぁ。彼、あんたを守ろうと頑張っとったで……。ま、そのせいで死んだんやけどな」
ナイフを持った男が言った。
運転する男が続けた。
「俺らはるばる大阪から来てん。かわいこちゃん、楽しませてや……」