【1】
殴られて、腫れた頬に、曇天から降り注ぐ冷たい雨が触れて、痛みはより一層しみる。少年は父親にこぶしを入れられた頬に手を当て、痛みを早く忘れようとした。
真昼の雨を凌げる建物はそばにあるが、少年にはその背の低いボロボロの小屋が、とても大きく強固な廃城に思えた。入りたくても、入れない。入りたい気持ちもあったが、入りたくない気持ちもある。その廃城の黴臭さに鼻を曲げるぐらいだったら、容赦なく降り注ぐ冷たい雨に打たれる方がましだった。だからといって、その雨の冷酷さに心が挫けそうになり、逃げ込みたくもあった。
それでも、どちらの気持ちが強いかと言われれば、入りたくない、入れないという方が強いため、少年はその小屋の裏で、雨を浴びながら、小さく縮こまっていた。
空が分厚い、薄暗い雲で覆われていたところを、夕方に近づき、さらに夜の闇が訪れようとしている。小屋の裏は、土に汚れ、ひび割れた樽や、雨粒が滴り落ちる竹藪が広がっている。そこは表よりもずっと暗い世界で、思わず暗闇に溶け込んでしまいそうな気持ちになる。溶けてしまえるものなら、溶けてしまいたかったが、精いっぱいの理性がそれを阻止した。
理性というよりも、正直に、恐ろしかっただけかもしれない。自分など消えてしまえばいいのに、消えることが怖かった。どうなってしまうのかわからなくて、恐ろしかった。
冷たい雨を浴び続け、体がすっかりと冷えてくる。空はより、夜の暗闇に近づき、静寂さがより、重たくなる。
そんな日は、心すらも暗くなった。
少年はまっすぐ前を見つめた。竹藪の中から、恐ろしく重たい、嫌な気配が、こちらを凝視していることに気付いた。何があるのかわからない、何がこちらを見つめているのかわからない。けれどその存在がとても嫌なものであると、少年はしっかりと理解していた。
今までも見たことのある、感じたことのあるそれは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
この家に近づかせるものか。
少年はその嫌な気配のする暗闇がこちらに向かってきていることに気が付くと、すぐに立ち上がって、その向かってきている闇をおびきよせながら、家よりも遠い場所に離れた。走ったら、奴はもっと早くこちらを追いかけてきそうな気がしたので、走ることはなかったが、無意識に足取りを早くしてしまう。
この世はとてつもなく、不気味で、膨大な闇に覆われている。
どんな理由があって、そんなものがあるのか、具体的にはわからないが、物心がつく頃にはその存在に気が付いていた。
その闇に触れれば、人間は心身を蝕まれ、最終的には死に至る。不吉なことも、体の不調も、心の不安定さも、それに多く触れてしまえば、すべて人の身に訪れる。
13歳のフェイロンはそれが人には見えないものであることも分かっていた。人に見えていたのならば、闇にうっかり触れることもないだろう。不吉なことが訪れたり、突然精神を衰弱させたりする人間というのは、その見えない闇に知らず知らずに触れているからだ。
フェイロンにはその闇が見える。見えるからこそ、常に神経を張りつめらせていないといけなかった。それが非常に面倒で、鬱陶しいが、そうでもなければ、人よりもずっと闇を感じやすい自分が、人と同じような精神を保ちながら生きることなどできやしない。この闇に覆われた世界で、それを一つ一つ避けながら生きるのは、非常に難儀なことだった。
闇に見つからないよう、遠回りをしてから、家への帰路にたった。この時間だと、もう暴力的な両親はどちらも遊びに行っている頃だろう。妹のリンシンが帰りを待っているだろうと思い、早足で家へと帰る。
両親は夜に遊びに行って、朝には帰ってくる。夜中、延々と酒を飲んでいるために、二日酔いで機嫌の悪い両親は我々兄妹を容赦なく殴る。特にフェイロンは、妹を守るために余計殴られた。彼らが満足するまで、蹴られ、罵られた。
開けづらい戸を引っ掛けながら開き、家へ入ると、すぐにリンシンがぱっと明るい表情で、出迎える。
「おかえりなさい。お兄ちゃん」
そう言って、洗い立ての布を差し出してきてくれた。その無邪気な笑顔を見ると、こちらの心がなんだか軽くなる。フェイロンはその布を受け取り、体を拭きながら「ただいま」と小さい声で返した。
「もうお父さんとお母さんは出かけたよ」
小さい声で返事をしたのを気にしたのか、リンシンは調子を変えずに言った。
「そう……藁は? まだたくさんやり残してるだろう」
フェイロンは奥にある山積みになった藁を見た。案の定、まだすべて編み終わっておらず、編みかけの藁が散乱している。
いつもは夕方ごろには、売りに行けるぐらいに編み終わっているものだが、先程親が激昂していたために、仕事を続けることができなくなっていた。
「ごめん、まだ終わってないの……」
リンシンは寂しげな声で謝り、俯いてしまった。フェイロンは彼女の頭を撫でてやった。
「じゃあ、これからやろう」
そう言うと、リンシンはまた朗らかな笑顔になり、大きく頷いた。
そして二人で、藁を編み始めた。
こうして地道に藁を編んでは売り、時折靴磨きをしたりしているが、家計はほぼ火の車である。
そこらの百姓ですら最たる稼ぎとしないような雑務では、その日の飯すらも買えるわけがない。母親は娼婦であるが、その金はほとんどが父親の酒代になるし、その父親も時々どこで手に入れたのかよくわからない金を稼いでくることもあるが、それももちろん彼の酒代になる。
とても過酷で異常な家庭環境であることは、向かいの飯店の息子であるディジャンや、学問所で講義を受けている貴族の子供と比べてみれば、一目瞭然だった。
前は親から愛を注がれて生きている子供は自分と比べるととても理不尽であると思っていたものだが、彼らもまた自分たちと同じように、生まれる家を選べない。彼らは自ら選んで幸せな家庭に生まれたわけではない。それでも不公平だと思えば不公平だろうが、自分も、彼らも生まれる家を選べないという点は共通している。それだけで、フェイロンは自分とほかの家は所詮別々なのであると理解するには十分だった。
それよりも気がかりなのは、リンシンが両親に売られないかどうかだった。リンシンが幼いころはとても素直な子だったので、親もまだかわいがっていたものだったが、成長するにつれておてんばな性格が強くなってきたのか、最近は親に反抗するようになったので、彼らはリンシンを鬱陶しく思い始めているようだった。
以前、父親が激昂した時に、「売り飛ばしてやろうか」というようなことを言っていたことを思い出す。たとえそれがその時は脅し文句だったとしても、いつか本当に売り飛ばされる可能性もある。
純粋無垢な彼女につらい目に合わせたくない。何があっても、妹の苦痛は肩代わりしなければならない。彼女の明るさを絶やしてはならない。フェイロンのその気持ちはかたくなであった。
彼女を守り続けることはいいが、自分の身と心も限界がある。妹を残して、壊れてしまうわけにはいかない。
早く乱暴な両親から遠ざかり、家を出たかった。早く地に足を付ける場所を探したかった。
彼女と共に家を出ればいいじゃないかと何度も思ったが、家を出た後のことを考えるとどう生きればいいのかわからなくなってしまう。そして外へあこがれるだけで、行動に移す勇気もなかった。
フェイロンは己の知識の乏しさに嫌気がさした。知識さえあれば、もっと立派に成長できるのに、勇気を出して外へと旅立つことができるのに……自分にはそれを手に入れられる力がなかった。日々の飯にありつくのが精いっぱいのため、知識を得る暇すらもなかった。