【1】
朝の柔らかい日射しを感じたレイエンは、静かに目を覚まし、起き上がる。これほどまで優しげな朝を迎えたことがないレイエンは、その穏やかさが良いものとも悪いものとも感じなかったが、ただひたすら不思議に感じた。
豪華でもないが不潔でもない、すっきりとした部屋で、レイエンは一人用の寝台の上にいた。東向きの壁は一面が窓であり、そこから溢れんばかりの朝日が差し込んでくる。
周囲はうるさく思えるほどに白く、清潔感に満ち溢れていた。
こういった清潔感に触れる機会のあまりなかったレイエンは、だんだんその部屋にいることが煩わしく感じてきたため、いてもいられず寝台から降りて、部屋を出た。
レイエンが泊まっていた部屋は二階であり、扉を開ければそこから一階を吹き抜けで覗くことができる。
一階には長机が置いてあり、そこにはたくさんの料理が並べられていた。
リンシンは厨房から机へ、行ったり来たりをしながら朝餉を並べている。
レイエンはそのようすを眺めながら、ゆっくりと階段を降りる。そして、降りきらない内に、リンシンはレイエンが来たことに気付いた。
「あら、おはよう。少し寝坊じゃない? 今から朝ごはんだよ」
朝からこんなにも豪勢な飯を食うのか、とレイエンは心の中で呟いた。
机の上に並べてある料理はとりわけ肉料理が多かった。やはり牧畜民が統治している領だからだろう、羊や牛の肉は宿屋で振る舞われる飯としては鉄板である。いくつもある大皿の上には肉の炒め物や煮物が盛られており、香辛料の独特な香りがこちらの食欲を沸き立たせる。
机の上の料理に釘付けのレイエンだったが、リンシンに話し掛けられて我に帰る。
「寝心地はどうだった? 良い宿に泊められなくてごめんね」
「……流石は金持ちだな」
レイエンは吐き捨てるように言った。
「確かに部屋は綺麗だけど、料理洗濯は客の仕事なのよ。給料日前だから、こういう半端な宿しか泊まれないの」
リンシンは白い皿を並べながら不機嫌そうに言った。
ふと厨房を見ると、ディジャンが手際よく調理しているのが見える。
どうやら皆朝から随分働いているらしい。
レイエンは(何もしたくはなかったが)何かをしようとするも何をすればいいかわからず、ぼんやりと立っていた。リンシンはそんなレイエンを察して何か仕事を投げ掛けた。
「そろそろご飯だから、ルーフンのこと呼んできてよ。外で薪割りしていると思うんだけど」
「……ルーフン?」
レイエンが聞き返すと、リンシンはやや苦笑いをしながら答えた。
「あぁ……ええっと、昨日あなたが戦っていたおっさん……」
レイエンは露骨に嫌な顔をする。
本気でこちらを殺しにかかってきた男を呼びに行くなど誰が快く引き受けるだろうか。
「これからは仲間なんだから、ちゃんと仲良くしてよね。普通に接していれば普通なんだから……多分」
「あれはさすがに普通じゃないだろ……」
レイエンは溜め息をついて、渋々外へ出た。
ルーフンは宿のすぐそばで薪割りをしていた。作業台に向かって片手斧で軽々と薪を割っている様子は、至って普通の中年男性に見える。確かに外見こそは西洋人のように見えるが、その辺で仕事をしている男たちと変わらぬ風貌であった。
しかし昨日の狂戦士ぶりを目前で見たレイエンにとっては、例えこのギルドと同じ一員になったとしても信用できる相手ではなかった。
レイエンは恐る恐る、「おい」と、声をかけた。しかしルーフンはその声に気付かず、薪を割り続けるばかりだった。レイエンは少し苛つき、近寄ると、ようやくルーフンはレイエンの存在に気が付いた。
口元はにわかに微笑んではいるものの、目は虚ろで独特な雰囲気が漂っている。レイエンは昨日のことを思い出して少し引き気味だった。
「朝飯だからもう中に戻れだとよ」
その一言だけ言って立ち去ろうとしたが、ルーフンは膝に付いている木屑を払いながら話し出した。
「お前、新人の奴か。フェイロンは戻ったか?」
(フェイロン……あの白い男か)
レイエンをギルドへ誘った張本人の男だ。
そういえば先程起きたばかりで、彼の行方はまったくわかっていない。今のところフェイロンだけ宿屋にはいないようだった。
レイエンが月華義団に入ることを承諾した後、宿に入り、ギルドの様々なことを伝えられた。
月華義団という小規模ギルドは、フェイロンが個人で立ち上げた商人組合である。彼をリーダーとし、大陸中を旅して、各町で商品の中継や販売、そして別隊商の護衛を専門として活動している。ギルド拠点で事務をしている者以外はこうして交易を行っており、レイエンが入るまでは、リンシンやディジャンが荷物の運搬、ルーフンが隊商の護衛、フェイロンが商談を役割っていたのだという。レイエンは主にルーフンと同じく隊商の護衛を専門とする戦闘員に割り当てられた。
レイエンは問いに対して何も答えずにいると、ルーフンは薪を棚に置いてからこちらに振り向き、また口を開く。
「良いことを教えてやるよ。新人。このちっせえギルドにはな、絶対に守らなければならないことが一つある」
狂人の意見が信じられるか、とレイエンは心の中で思ったが、とりあえず聞き流すだけにした。
ルーフンはまっすぐ、レイエンの目を見て言った。
「フェイロンだけは怒らせないことだな。あいつを怒らせたらなぁ、死んだ方がマシだと思えてくるぜ」
レイエンは生返事を返すだけであったが、ゆったりと話すルーフンの口からは、嫌にはっきりと聞こえた気分がした。
「私が、なんです?」
ルーフンの後ろから、フェイロンの声がした。いつの間にかそこに立っていた彼は、口元に扇子を当てながら、こちらを見ている。
「ん、いや何。新人にこのギルドで生きるコツを教えてやっただけだ」
「別にコツなんて知らなくても、このギルドで生きるのは難しくないですよ。ねぇ、レイエンさん。安心してくださいね」
フェイロンはレイエンに視線を移し、微笑んだ。その見透かしてくるような目が何となく嫌に思い、レイエンは視線を反らした。
ルーフンも掴み所の無い感じだが、フェイロンの方が何か胡散臭い。他のギルドメンバーよりずっと知的で思慮深そうではあるが、その分近寄りがたい雰囲気があった。
どちらにせよ、この二人に絡まれるとろくなことが無さそうに思えた。
「そんなことよりも早くご飯にしましょうよ。しばらくこの朝餉が、最後の豪華な宴になりますよ」
そう言うと、フェイロンは上機嫌に宿へと入っていった。
レイエンとルーフンも宿に戻り、料理がたくさん並べられた長机の前にギルドメンバー全員が座りつく。
フェイロンは長机の端の中央の席で、これからの業務連絡を始めた。
「今回は運搬の報酬はありません。よって我々が運んだ商品の引き継ぎで得た料金のみが、今回の砂漠越えの資金となります」
「足りるの?」
リンシンの問いかけに、フェイロンは苦笑いをしながら答える。
「はっきり言って足りませんね。荷造りと食料、水、ラクダの餌、そして今回取引が破綻して行き場のなくなった奴隷たちをウテン拠点へ送る費用を考えると、無一文になっちゃいます」
フェイロンは算盤で今回の交易の費用を打ちながら言った。そして出た費用の数を皆に示した。リンシンしか見ていなかったが、彼女の真剣な顔を見ると、やはり奴隷の利益の損失はかなり大きいようであった。
しかし、フェイロンは余裕の笑みを浮かべながら、再度話し出す。
「と、いうことを中継先の商人に言ったら、一つ依頼を与えて頂けました。前払いで報酬を頂けましたので、この資金で無事に旅を続けることができるでしょう。あとは通りがかったついでにその仕事をしていくだけです」
そう言うと、フェイロンは地図を広げて、扇子で位置を示した。
「近日、楼蘭に怪しげな盗賊団が住み着きました。どうやら邪教を崇め、ウテンへ向かう隊商を襲撃し、不気味な儀式をして邪気を振り撒いている輩のようです」
敦煌からは天山南路へ続く北の道と、タクラマカン砂漠を横切っていく西域北路へ続く道に分かれている。その南北にある二つの道の間には、遥か昔に滅んだ王国楼蘭がある。今では遺跡があるだけの荒れ果てた砂漠だ。人が立ち寄ることもなくなったため、随分昔から邪鬼のさまよう場所になってしまっていた。
盗賊がいないからという理由で楼蘭を通って南北の道へ向かおうとする呑気な商人もいるが、殆どは邪鬼に襲われそのまま帰ってくることはないと言う。
まさに一度踏み込めば出られない荒野である。
そんな場所に盗賊がわざわざ住み着くなど、正気の沙汰とは思いがたい。
「ウテンへ行く道の近くには楼蘭があります。これはウテンに拠点がある我々にとって害を成す集団と言っても過言ではないでしょう」
「通り掛かったついでに潰す、ってわけだな」
ルーフンはにやにやと怪しく微笑みながら言った。
「まぁ、そういうことです。初の仕事が同業者を殺す仕事で申し訳ありませんね。レイエンさん」
そう言われたものの、レイエンにとってはあまり関係がないように思われた。
今や元いた巣から逃れただけで、また盗賊に戻ろうとは思わない。レイエンはあの環境に元々いたから、盗賊をしていただけであった。記憶が無いのだから、確証は得られないが、そういった考えの元であの場所にいたのだろう。居場所を与えられたからこの場所にいて、成せと言われたものを成し、飯を食えれば何でもいい。
「お伝えしたいことは以上です。今日は敦煌で荷造りをしましょう。準備が整い次第、出発致します」
朝の会議は終わり、各々が旅の準備を開始した。
まず、ディジャンは食料や水、ラクダや馬車の確保を任された。これから向かう砂漠は、一度入ればなかなかオアシスに辿り着けない。楼蘭を通り掛かるとなると、より物資補給にはありつけない状況となるだろう。
これだけの砂漠越えの準備となると食料専用の大きな馬車を二台ほど用意しないと行けなくなった。
フェイロンはルーフンと共に中継の商品があるか、キャラバン隊を多く訪ねていた。
中継交易の荷物の確保は容易だが、残された奴隷をどうするかなかなか手だては考えられなかった。奴隷として売らない以上、これからの砂漠越えまで共に来てしまえば、こちらの身もかなり危うくなる。これだけ旅の資金を負担できない状況なのに、これ以上人数が増えれば、皆砂漠の真ん中で疲弊してしまう可能性も高まる。
そんな中、フェイロンは大きなキャラバンを見つけた。そのキャラバンはどうやらこれから敦煌から天山南路へ向かう予定らしい。多くの商人が荷を運び、たくさんの兵士がキャラバン全体を守っているという。
ウテンに行くにはやや大回りだが、非力な奴隷たちをウテンへ向かわせるにはとてもうってつけの隊商だった。
彼らにも少々の荷を持たせ、ウテン拠点で奉公を志願することを伝え、別れたらしい。
そしてレイエンはリンシンと共に荷造りのために特産品取引所へやってきたところであった。
これは中継交易の荷物ではなく、ウテンで売るための特産品の確保である。さすが牧畜民の領地のためか、皮革だけではなく、鐙や蹄鉄、鞍などの馬具が多く揃えられていた。
どれも別の街で手に入れられそうにないほど、品質の良さそうなものばかりではある。しかし、リンシンはやや渋い顔をしながら詰められてある荷を眺めていた。
「やっぱりいつもより買えないわね……」
レイエンは「さっさと奴隷を売ればよかったんだ」と心の中で呟く。直接聞く気は無かったが、こんなにもあの奴隷を尊重する姿勢が偽善に見えてとても不快に感じた。
レイエンが最後の荷物を馬車に積んだ時、リンシンは何かを見つけたのだろうか、特産品商人に再度話しかけた。
リンシンは商品の置いてある小屋の隅の仏像を指差して言った。
「ねえ、あの仏様って売り物かしら?」
商人は眉を寄せて答える。
「あぁ……誰だかよくわからないが、いきなり売り付けてきてな。断ることもできずそのまま控えに置いてあるよ」
商人は人ほどの大きさの仏像のほこりをはらいながらあきれたように言葉をつづける。
「売ろうにもこんなにも汚れていてボロボロなんだ。とても穏やかな表情で、ありがたい仏さんだけどな、場所も取るし少し持て余していたところだよ」
「その仏様、私にくださらない?」
リンシンの一言に一番先に口を出したのはレイエンだった。
「おい、こんなにでかいもの、もう積めるわけないだろ」
「あなたが担ぐのよ」
リンシンはさらっと答えた。
「そんながらくたみたいなものでいいのか? 何の価値にもならんだろうが……『やっぱり返す』っていうのは無しにしてくれよな」
商人は心配しつつも、やんわりと釘を刺した。しかし、リンシンは余裕の表情で言葉を返す。
「いいのよ。むしろあなたこそ、返してなんて言わないでね。絶対答えらんないから」
リンシンは荷物のたくさん詰まれた馬車に乗り、宿屋へと向かって市場を離れた。
一方レイエンは人の身長ほどの仏像を渋々担ぎ、先を行く馬車に歩いて着いていく。乾漆像でできている仏像はけして重いわけではない。だが、薄汚れてヒビの入ったがらくたのような仏像を背負い、街の中を練り歩く姿はとても目立った。
二人は宿屋に戻った。他の皆は準備が整っているようで、食料や水など、旅に必要なものを詰んであるラクダが宿屋の前に並んでいる。
しかしそれだけではなく、月華義団以外の隊商が、出発を待ちながらそこにいた。彼らも同じように、多くの特産品を荷車やラクダやロバに詰み、交易に臨むのだろう。
レイエンはその他ギルドの隊商を見て、月華義団は他の商人を護衛する傭兵でもあることを思い出した。
もらってきた仏像を見たフェイロンはやや驚いたようすでたずねてきた。
「これはこれは……どうしたのですか」
「もらってきたの。店の場所を取るからいらないって言っててね。売れるわよね」
フェイロンは上機嫌に喉を鳴らす。
「いいですねぇ、無料。いいですねぇ、仏像。今回もあれをやってみましょうか」
仏像から服についたほこりを払いながら、レイエンは疑りそうに言った。
「こんな汚くて壊れそうな仏像がまさか売れるのか?」
するとフェイロンは、仏像に腕を絡め、言った。
「だってほら、見てください。この厳かな微笑みを。この肌のしなやかさを。これは売れますよ」
何か含みを持って言っているようだが、レイエンにはその真の意図がまったくわからなかった。
レイエンの心中を察したのか、リンシンは、「誰でもわからないわよ」と呆れたように言った。だが、レイエンにはどちらもいまいち信用できることはなかった。
昼下がりになると、旅に必要なものをすべて揃え、ラクダや馬車に乗り、とうとう敦煌の街を出た。
敦煌を出れば、しばらくオアシスが無い。これから向かう西の方角は、一面が砂漠で広がっている。
レイエンはルーフンと同じく、隊商列の警護が仕事であるため、列の左右翼にそれぞれ着いた。
砂漠を歩くのは今までと同じだが、今はキャラバンと共に歩いている。いつもと同じ景色が広がっているのに、違う景色に見えるのがとても違和感を覚えた。
リンシンとディジャンはラクダの引く美しい装飾のついた車二台をそれぞれ操縦している。
フェイロンはどうやら、荷車ではない方の馬車の中にいるようだった。さすがに大将は暑い砂漠の陽射しも大地も避けるのだ、と、レイエンはつまらなそうに、心の中で呟いた。
レイエンは後ろに続く他ギルドの隊商列を見た。月華義団の連中よりも、ずっと、そこらにいるような商人の面持ちをしている者が連なっている。
近年の交易に着いてく人間は、商人よりも兵士の方が圧倒的に多い。それらの兵士は大体、戦争が無いことから仕事を失っている兵士ばかりであった。
職を失っている兵士など商人を蔑んでいる質の悪い者ばかりで、時には商人に乱暴を働いたり、守る側なのに略奪する兵士も多い。そういった、失職している兵士を嫌う商人に、月華義団はとても人気であるようだった。
質の悪い兵士ばかりがいるからといって、ルーフンという残虐非道の快楽殺人鬼が護衛でもいいという気持ちはレイエンにはわからなかった。また、月華義団は小規模でありながら商人活動がしっかりとできている理由もまだよくわからないが、他ギルドが、これだけ小さなギルドと商売の友好関係を築こうとするだけ、そして兵士の少ない傭兵屋に護衛を頼むだけ、信頼はされているようだった。
だがこのギルドは昨日のように、切り捨てるべき縁は容赦なく切り捨てる冷たさも兼ね備えている。
隊商列は先頭からだと、しんがりまで連絡を伝達するにはやや時間がかかるぐらいの距離があった。
これだけ長い隊商列をたった一人の兵士が護衛していたのだと思うと、ルーフンは正気なのか狂人なのか疑問に思えてくる。
「あのおっさん、一人でこのキャラバンを守っていたのか」
レイエンはラクダに乗るリンシンに問いかけた。
「うん。あいつ人殺し大好きだからね……護ってと言わなくても勝手に倒してくれるわよ。両側共任せてた」
ルーフンは、レイエンとは反対側の左翼を、飄々とした表情で歩いている。今朝薪割りをしていた時とは違い、胸当てをし、大きな西洋弓を背中に背負い、腰には青龍刀と包丁をぶら下げており、とても異様な装備をしていた。
「ただキャラバンを拡大するには一人の戦闘員じゃ足りないかもって兄さんが思ってね、人を雇いたかったのよ。今回はやっぱり楼蘭を通るからか短いキャラバンだけど、あなたの初仕事にはちょうど良いでしょ」
ということは、いつもはもっと長いキャラバンになるのか、レイエンはやや気の遠くなる気持ちになった。