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砂塵の狼  作者: れのん
第9話 傭兵仕事
21/21

【2】

 街で一番大きな建物であるこの「ベレンの館」という商館は、砂漠交易路の中でも有名な商館である。数多くの豪商たちは、ウテン王国へあともう一息のこの場所で、最高級のもてなしを振る舞われる。ウテン王国へ着いても、荷物の売買や引き継ぎやらで何かと休めるわけでもない。だからこそこのような商館で適当な事務仕事をしつつ、わずかな余暇を楽しむのだという。

 今、この商館には数組の豪商が宿泊している。警備の者がいるはずなので、なるたけ気配を消していなければならない。

 先に向かっているというギディオンの部下はどこにいるのだろうか。

 レイエンがしばらく噴水のある庭園を歩いていると、背後からコートの裾が引っ張られる感覚がした。咄嗟に後ろを振り返ると、足元にはカイルが屈んでいた。

 微塵の気配も感じられないまま急接近されたことにレイエンは驚くと、カイルは口に指をあてて「静かにしろ」と示した。そしてカイルに手招きされるまま、花壇の物陰に隠れる。

「いきなり驚かすな馬鹿!」

「あ、すいません」

 レイエンが小声で文句を言うと、カイルはあっさりとした口調で一言詫びた。

「ギディオンから話は聞いています。俺の手助けをしてくれるんですよね」

「まぁ、給料分しか働かないが」

「充分です」

 ただ……と、カイルは少し言葉を濁す。

「少し警備が多いんですよね。何でだろう、やっぱり貴重な荷物を運んでいるということなのかな」

 カイルが見つめる方向に、レイエンもまた視線を移す。街もだいぶ静かになった真夜中だというのに、数名の兵士が建物の周りを険しい顔で警備している。いずれも完全武装をしているため、万が一見つかったら騒ぎになること間違いなしだ。この街から出られないどころか、取り調べで長い間拘束されるだろう。

 見張りが特に多いのは一番奥の窓の少ない白い建物。淡い色をした薔薇の庭園に、兵士が辺りを警戒している。

 荷物が外に置かれていないのに、建物自体を厳重に警備していることをみると、標的は建物の中にある。

 大型キャラバンが隊商宿に滞在する際、商人の荷馬車は街外れの荷馬車置き場に格納される。警備の者はいるが大抵は厳重でないため、よく窃盗などのトラブルが発生する。盗人も馬鹿ではないため、喧嘩を売ると後が面倒な月華義団のようなギルド相手に盗みを働く事は少ないが、それでも荷物の盗難は頻繁にある。

 月華義団の場合は戦闘に長けているため、敵を追い詰めて必ず取り返す。だがどのギルドも月華義団と同じような戦闘力を持っているわけではない。だからこそ争い事の対応に弱いギルドは大金を支払って兵士に荷物の管理を任せるのだ。

 このような広くて厳重な警備が敷かれている商館に入るのであれば、きっと大層高価なものを持っているに違いない。

 しかし、レイエンはひとつ疑問があった。それが麻薬でも密造酒でも密造塩でも無ければ、我々がここに来た意味が無いではないか。

「なぁ、そのブツが禁制品じゃなかったらどうすんだよ」

「しっ! 静かにしてください……情報が伝わっていますから、禁制品を運んでいることは確実です」

「でも、何を運んでいるのかわからないんだろ?」

 カイルは、そんなこと言われなくともわかっていると言いたげな表情をして語気を強める。

「仕方ないんです。建物に入ったら、地道に探すしかありませんよ」

 レイエンはいまいち納得のいかなかったが、カイルの合図ですぐに兵士の動きに集中する。 建物周辺を警備している兵士よりも幾らか上級の装備をまとっている警備兵ひとりが、東の方角にある掘っ立て小屋から出てきた。そして気怠げに仕事をしている部下たちに近寄って声をかける。

「おい、今日は警備を厳重にせよと仰せつかっているが、敷地内の人員が足りていないぞ。何故だ」

「はぁ……俺もよく知らないのでわかりませんが……」

 すると若い兵士は何かを思い出したように

「あぁ、何か奥で楽しげな声をしておりました。多分娼婦でも呼んだのでしょう、みんなそこに集まっているんじゃないですかね?」と、呑気な態度で言った。

 上司らしき兵士は大きな溜息をついた。

「まったく……何をサボっているというのだ。今日は要人の荷馬車をお預かりしているのだというのに」

「俺だって休憩を取りたいですよ。もう交代の時間でしょう? 俺一日中働きっぱなしなんですよ」

「それは皆も同じだが……まぁ、仕方がない。お前はもう休んでいいぞ。仮眠室の彼らに、早く持ち場へ戻れと伝えておけ」

「へいへい」

 兵士も減ったちょうどその頃、月が分厚い雲にかかり、辺りはより一層暗くなる。建物内に侵入するには今が絶好のチャンスである。

 レイエンとカイルは身を隠していた花壇から静かに去り、誰にも見つからぬよう目標の建物に近付いた。

 広くて遮蔽物が無いため、ある程度身を隠せる庭園の中をくぐっていく必要があった。しかし、死角の多い庭園には、さらに多くの警備兵がうろついている。

 カイルは人に気付かれないように移動する能力に長けている。複数ある警備の視界を考えながら進んでいるのだ。ギディオンが彼の隠密技術に一目置いていただけのことはある。

 しかし気が弱いということも事実。先程から緊張からか体が震えているように見える。もしも警備にバレたなら、彼に代わって対戦をしなければならない。レイエンにとってはそちらの方が手っ取り早くて面倒ではないのだが。

 庭園を越え、ようやく目標の建物の傍に着く。2人は侵入口となる裏口へ向かった。鍵が掛かっているが、カイルはすぐに戸の隙間にナイフを挿し、内側の鍵を破壊する。

 素早く中に入り、真っ暗闇の廊下を進む。もう客人が眠りについた館は、窓から差し込むわずかな月明かりだけで、ひっそりとしている。建物の周囲が厳重な警備だったが、建物内は打って変わって人の気配が殆ど無い。

 この街で一番広い敷地の、一番大きな建物なだけあって、たくさんの部屋があった。ひとつひとつが客間なのだろうか、どの部屋に禁制品の入った荷物があるのかもわからない。

「目的の荷物はどこにある」

 レイエンは小声でカイルに問いかけた。

「……すみません、そこまではわかっていません。ひとつひとつ、見ていくしか無いですね」

 そう言いつつ、カイルがレイエンのいる後ろへ振り向いたその直後、喉の奥から出したような「ヒュッ」と言う声が聞こえた――カイルが何かに驚き、息を飲んだ音だ。

 レイエンは、彼が何に驚いたのか疑問に思うよりも先に、後ろから刃を首にあてられていることに気が付いた。

 背中に何か冷たいものが這い上がってくるほどの恐怖を感じた。何も無い暗闇から突然刃だけが伸びてきたのか?

 いや、違う。そこには確かに何者かがいる。だが気配が無かった。カイルと同じぐらいに、もしくはそれ以上に気配を消すのが上手い相手だ。

 だが、いつから忍び寄ってきたのか考える間もない。レイエンはすぐに刃を素手で握りしめ、力強く押し返した。そのまま相手の腕から逃れ、振り返り、後ろ蹴りを繰り出す。

 背後に現れたそいつはレイエンの蹴りを回避して、後方へ空転しながら距離を取った。

 レイエンはすかさず薙刀を構えて、突如現れた敵を視認する。

「ガキ共、誰に雇われた? 正直に答えたなら、楽に殺してやる」

 建物の周囲を警戒していた兵士たちとは雰囲気が違う……黒い頭巾と黒い装束に身を包んだ男――見るからに暗殺者だ。その素早さと冷淡な声色からは、呑気な兵士たちには無い、揺るぎない殺気を持っている。だが、少しも表に滲み出さない、静かな殺気だ。

 ここからは俺の仕事だ、と、レイエンはカイルを後ろに下がらせる。

「ふん、あいにくこっちも生活がかかっているんでな……そうやって脅したら、素直になるだろうなんて勘違いするなよ」

 レイエンは苦笑をこぼしながら、戦略を考え始める。

 素早い敵だが、力は弱い。相手が攻撃を繰り出して来られないように、ひたすら攻撃を仕掛ける方が良いだろうか。だが片手を負傷している以上、こちらも素早く力強い攻撃を繰り出し続けることが出来るとは限らない。

 出来れば無駄に体力を消耗せずに決着を着けたいところだ。

「戯れ言を。ここに来たことを後悔させてやる」

 その刹那、レイエンは額に風が当たるのを感じた。空を切るほど素早い電光石火が、レイエンの懐にめがけて突進する。わずかな間に、相手がナイフを脇に隠していることに何とか気が付くと、それを受ける前に薙刀でいなす。

(クソッ! 相手の武器をとらえづらい……!!)

 短剣を隠しながら攻撃を繰り出すのも、相手の戦略の1つだろう。周囲が暗いことも相まって、より一層攻撃の出てくる場所が見えにくい。瞬発力だけで攻撃を受け流しているようなものだ。

 鉄と鉄がぶつかり合い、火花すら飛び散る程の激しい金切り声が、薄暗い廊下に響き渡る。

 暗殺者の懐から2本、3本と小型ナイフが飛んでくると、レイエンは素早く横にステップをして回避をする。その折、壁際に置いてある高価そうな壺に突き刺さり、大きな音を立てて割れた。硬くて冷ややかな音が廊下の奥まで響き渡る。

 レイエンは束の間、敵への集中が薄れた。今の音で増援が来てしまったらどうする? カイルはどこだ。そんな他愛の無いことで、たったひとつまばたきをするが如くの刹那、目の前の暗殺者への意識が途切れた。

 暗殺者はその隙を逃さなかった。レイエンの視界から消えるように屈んで、左側に素早く近づく。視界を追う時間を費やされたレイエンは、回避の対応に遅れを取った。

 暗殺者は、レイエンの横腹めがけて近寄る。

 レイエンは後頭部に冷たいものが登ってくるような感覚を覚えた。横腹に刃が入る、内臓を引きずり出される……! 死に対する危険信号が、体中に響き渡る。

 しかし、暗殺者と接触するかしないかの瀬戸際のところで、レイエンはあることに気が付いた。暗殺者の目線は横腹を向いてても、刃先は腹に向いていない。真上を向いている。

 レイエンは咄嗟の判断で脇を締めて、後方へ下がった。左二の腕に刃先がかすめる。だが、痛みをこらえる余裕はあった。

 わずかにだが、攻撃を回避されたことで暗殺者に油断が生じた。片手片腕が負傷してしまい、力が入りづらいことを考慮したレイエンは、そのまま暗殺者に頭突きを食らわした。距離の微調整をするために、もう一撃、回し蹴りを食らわす。怯んだ暗殺者は、咄嗟に後方へ引き下がった。

 しかし柄の長い武器を持つ相手であれば、距離を取ることこそが命取りになる。

 レイエンは腕の痛みをこらえつつ、薙刀を思い切り縦に振り下ろした。狙っていた首筋には今一歩届かなかったが、一か八かの斬撃は暗殺者の肩から胸にかけて入った。

 これ以上深入りしてはならない、そう直感を得たレイエンは、すぐに一歩引き下がった。そして薙刀を構え直し、次の攻撃に備える。

 次の手、その次の手を必死に考えていたが、暗殺者は近寄って来ない。むしろ、後ろにゆっくりと下がっていく。レイエンが試しに一歩前に足を出すと、暗殺者の懐から短刀が飛んできた。

 短刀の軌道が見える――負傷をして力が弱まっている証拠だ。今追えば返り討ちにできる機会を得られるだろう。

 しかし、その間に増援が来るかもしれない。そもそも戦闘に集中していたから、カイルの安否さえもわからない。

 追うべきか追わないべきか迷っている間に、暗殺者は天井窓へと跳躍し、逃げていった。しばらく警戒を続けていたが、彼が戻ってくる気配は無い。

 レイエンは大きな溜息をついた。ひとまず戦闘を終えたことに安堵の胸をなで下ろす。

「おい、目的のものは見つかったのかよ」

 柱の影で震えながらこちらを見ているカイルに言うと、彼は小刻みに首を振った。

 死ぬ程の恐怖を感じたのはこちらの方だ。彼の怯えようを見て、レイエンはむしゃくしゃした。

「ちっ……早くしろ、クソガキ!」

「は、はは、はい……!」

 急いで探しに行くカイルを横目に見ながら、レイエンは先程の暗殺者のことを思い返した。何故、こうも増援が来ないのだろう。戦闘時間はわずかなものだったが、刃のぶつかり合う音と、廊下の装飾物が壊れる音が鳴り響き、更には裏口の戸の鍵が壊れている。あのたくさんの警備兵たちがこの状況に気が付かないはずがない。少なくとも今頃は侵入者が入ったことに気が付いて、警戒態勢を敷いていてもおかしくはない。むしろ警備兵の数を考えれば、そのはずである。

 またもう一つ疑問点がある。この建物の警備兵と、今相手をした暗殺者を比べれば、違いが明らかだった。暗殺者はここの警備兵ではないはずだ。だとしたら商人の私兵か。負傷を追ったことで、雇い主を商館から脱出させるという目的に変更したのかもしれない。

 レイエンの顔は暗殺者に知られている。ここで逃がしたら、遅かれ早かれ再び対峙することになるかもしれない。

(このままじゃ、命がいくつあっても足らねえなあ……)

 戦うということであれば飯に困らないとは思っていたが、時折力不足を感じる。

 旅の片手間に、もう少し技を磨ければ良いのだが……。

 ぼんやりと考え事をしていたその時、誰かの叫び声がした。――カイルの声だ。

 警備兵に見つかったのだろうか。レイエンは咄嗟に彼の悲鳴の方へと駆けていった。

 他の部屋よりも一段と厳かな雰囲気の扉が開け放しにされている。その部屋からカイルの悲鳴が絶え間なく聞こえた。

「カイル!!」

 部屋の中央にある極めて大きな寝台の上で、何かがもぞもぞと動いている。月の光で淡く輝く絹布に包まれており、何があるのかわからないが、カイルがそこにいて何かをされているのは確かだった。

 レイエンは絹布を引いた。――瞬間、レイエンは自身の目を疑った。

「お……おいおいおいちょっと待て」

 服の乱れたフェイロンが、カイルの首筋に顔をうずめている。レイエンはまったく状況を掴めず、裏返りそうな声で叫んだ。

「何でお前がここにいんだよ!?」

「あら……若い子が来たかと思ったら、眼帯の殿方の坊やではないですか」

 掛け布の中へ引き入れた人物がカイルであることに気が付いたフェイロンは、彼を解放してやった。

「は、わ、はわわわ」

 弄ばれたのがわずかな間ではあったが、10代半ばの少年には刺激が強すぎたのだろう。気の毒にも、カイルはおかしな声を呟いたまま固まってしまっていた。

「い、いや……マジで何でここにいんだよ、遊びに行くとか言ってたじゃねえか!」

「え? はい、ずっと遊んでましたよ」

 このお屋敷で、とフェイロンは寝台で恍惚の表情を浮かべてぐったりとしている裸の男たちを横目に見ながら言った。

 あーえっと、な、何人いるんだ?

 2,3……4……。いや、待て。何か寝台の周りにもいないか……?

「警備兵さんたちもよっぽど不満が溜まっているのでしょうねえ。大事なお仕事があるというのに、すぐお相手してくださいましたよ」

「????」

 レイエンはその場の状況を何も理解できなかった。何故だろう、先程暗殺者から受けた斬撃で毒でも回ってしまったのだろうか……今目の前に起こっている物事を把握できない。

 だが、増援が来なかったのは、これが原因だったのかもしれない……。

 涼しげな顔をしているフェイロンは乱れた服を整えながら、腰を抜かせてしまっているカイルや理解の追いついていないレイエンをよそに、寝台から降りて、部屋の奥にある荷物を示した。

「私も彼らの追う禁制品がどういったものなのか、確認したくてね」

 フェイロンは客間の隅にある胸の高さほどまである大きな箱の蓋に手を掛けて、「そうしたら、こんなものが見つかりましたよ」と言った。

 我に返ったカイルはそれを見て、箱を開けようとするフェイロンを止めて、焦り口調で言った。

「ちょ、ちょっと待ってください。ギディオンとの依頼では、1名のみが我々と協力してくれという話でしたよね。レイエンさんが協力してくれたんですから、あなたに勝手に来られても、困ります」

 するとフェイロンは少し口を尖らせながら言った。

「だって、わけのわからないものがあるところに、私の可愛い兵隊さんを寄越せるわけないでしょう。ただ1つ、『禁制品がある』なんて情報しか得てない人の依頼なんて、誰が信用できますか……」

 フェイロンはカイルに視線を向けて、低い声で言った。

「あなたも上司の選び方は考えた方が良いでしょうね。いまだ経験が浅いというのに、敵の懐に向かわせる男の元で働くなんて、命がいくつあっても足りませんよ」

 カイルは拳を握りしめ、肩をふるわせた。自らの中に持つ感情を抑え込みながら、静かに、それでも強い語気で言った。

「ギディオンのことを、悪く言わないでください」

 2人の間に沈黙が過ぎった。空気の気まずさにレイエンは戸惑って、とりあえずフェイロンの示す箱の中を確認することを促した。

「まぁ私は"遊びに来た"だけなので。追加報酬を請求するつもりはありませんから、ご安心を」

 そう一言入れつつ、フェイロンは荷物箱の蓋をあけた。

 中には、虫除けとなる香木と、書物がびっしりと敷き詰められている。

「カイルさん、情報はどこから得たのですか?」

「そ、それは……」

 口籠もるカイルに、フェイロンは短い溜息をついた。

 教えたくない、という様子ではない。そもそもこの少年は情報の出所を知らされていないだろう。今回の件がどれほど重大なのかも理解していないようだ。恐らく、彼の上司を除いて。

「なぁ、これが禁制品なのか?」

 尋ねるレイエンに、フェイロンは怪しく微笑んだ。

「見てみますか」

 フェイロンは、一番上にある適当な書物を手に取り、そして適当なページに指を当て、勢いよく開いた。

 本が開いたその瞬間、紫色に輝く不気味な炎が舞い上がる。

 フェイロンがその本を落とした後は、ただ紫色の炎に焼かれていくだけで、最後には何も読むことが出来ないほどに焦げていった。

 唖然としているレイエンとカイルに、フェイロンは冷ややかな声で説明を始める。

「これは忌術の書物。禁制品の中でも極めて邪悪なもののひとつです……麻薬や密造酒が可愛く思えるぐらいの、ね」

「忌術?」

「忌術とは、その邪悪さ故に国際的に禁止された術のことです。ここより更に西、地中海という大きな海の周辺では、魔術という技術が広く使われています――私たちの文化で言う、妖術や気功法と同じような部類のものと考えてくださって構いません。その魔術の中にも、邪気を放たれないものと、放つものがあるようです」

 そして邪気が放たれてしまう呪文のことを忌術と呼び、魔術の中では忌むべき強大な力と見なされる。忌むべき力ではあるが、闇市場ではこの呪文書が取引されることもある。

 いわゆる魔術の教科書である呪文書を、魔術に精通している者に渡れば、忌術を扱う者が増えて、大陸は邪気による汚染が進む。それを防ぐために、忌術が記されてある書物は禁制品と設定しているのだという。

「どうしてこいつは燃えたんだ?」

 書物だったそれを見つめながら、レイエンは尋ねた。

「おそらく、この荷物を取引する者にしかわからない暗号があるはずです。彼らが設定した正しい暗号を唱えれば、この書物を開いて、目を通すことが出来ます。しかし暗号を知らない者が開けば、先程のように消滅してしまう作りになっているのでしょう」

 次に、フェイロンは溜息雑じりで、呟くように話した。

「この類いの禁制品が出回っているとなれば、大陸の邪気は更に増える……当然、交易ルートの治安に関わります。我々商人としても、許しがたい闇取引です」

 3人が炎が小さくなっていくのを最後まで見つめた後、ぼんやりとしているカイルに、フェイロンが語りかけた。

「さて……後の仕事は私たちには関係のないことです。しっかり関所に突き出してくださいよ。あぁ、処分したことを確認するまでがあなたたちの仕事ですからね」

 カイルは不機嫌そうに、「わかってます」と呟いた。

 この荷物を持っている商人がどこにもいない以上、ここにいる者で処理することはできない。差し詰め、"そちら"の仕事はギディオンがやっていることだろう。

 商館から撤退した後、フェイロンはレイエンとカイルに宿へ帰るように告げると、宿への道とは違う方向へ向かった。

 レイエンはどこに行くのかを尋ねようとしたが、また彼に何か考えがあるのだと思い、問いかけようとはしなかった。そして彼の後ろ姿をしばし見つめた後、宿へと入り、朝まで仮眠を取り始めた。


** ** **


 先程まで曇り掛かっていた分厚い雲も晴れ、月明かりが夜の砂漠を妖艶に照らしつける。

 フェイロンは商館の近くに残っていた血痕を辿っていた。

 ギディオンが逃亡する標的を待ち伏せしているに違いない。そう読んだフェイロンは、最後にもう一件、自らの知的探求のためにこうして脚を運ばせたところであった。

 商館に忍び込んだ際には、既に商人の姿はいなかった。しかし、私兵は確実に動いている。依頼を遂行していたレイエンが私兵と対峙したようだったが、大事にはならなかったのが幸だった。だが、私兵は商館から脱出後、街の外へと走っている。恐らく、商人も一緒に逃亡しているであろう。

 門には兵士が見張りをしているため、当然そこから出ていることは無いだろう。だが血痕を辿っていくと、外壁の方に人の通れそうな隙間があることに気が付いた。

 フェイロンはその隙間を通り抜け、もう一度血痕の先に視線を向けた。

 そこには大量に出血した商人らしき男の亡骸……その少し離れた場所には、暗殺者の亡骸もある。

 そして暗殺者の前には、分厚く大きな剣を持ったギディオンが亡骸を冷ややかな眼で見下ろしている。

 ギディオンの傍にいたバルバラがフェイロンの存在に気が付くと、彼はすぐに腰にある鎖鞭に手を掛けた。しかしギディオンが彼の前を手で塞いで、警戒を解くように視線で合図をする。バルバラは少し戸惑ったが、大人しくギディオンの後ろへ引き下がった。

「俺の部下が世話んなったな」

「……いえ、こちらこそ。新人同士手取り足取り頑張っていたようですよ」

 大剣の血を振り落としながら、ギディオンは冷淡な声でフェイロンに問いかけた。

「何しに来た」

 フェイロンは柔らかく微笑んだ。

「あなたの目的が知りたくて……あなた、禁制品が忌術の書物であることを知っていたでしょう」

「はん、なるほどね」

 ギディオンは一度口を閉じて、何から話そうか悩んだ末、ひとつ例え話を投げかけた。

「なぁ、たとえば、俺たちが追っている敵が、大陸を覆うほどのでっけえ敵だったら、どうする?」

 突然の問いかけの意図を探れず、フェイロンは代わりに軽いボケを返す。

「まぁ……私たちも利益が無いなら傭兵仕事は受けませんから。おまわりさんに報告して、対処してもらいます」

 だが、ギディオンは次に、怪しく微笑んだ。

「フン……そのおまわりさんが、でっけえ敵の親玉だったら?」

 この男は、柄に似合わず遠回しな話し方をするのが癖だ。フェイロンはやや鬱陶しく思いながらも、低い声で「何が言いたい」と呟いた。

 するとギディオンは真剣な表情と声色を持って話し始めた。

「あんたがウテンにもうじき帰還すると知った後、あんたの評判と能力、素性……すべて調べ尽くさせてもらった。あんたにこの仕事を持ちかけたのは、爪痕を残すには好都合の人物だと俺が判断したからだ」

「……爪痕、とは」

「東の月華義団が、大陸の異変について何とかしてくれるだろう、ってな……今回みてえな件は、どうやら大陸各地で増えている。今後更に増えていくだろうな」

 フェイロンはふと、楼蘭で壊滅させた盗賊の砦のことを思い出した。

 あの砦で行われていた儀式には、邪悪な術が扱われていた。仮にその術が、遙か西から伝わったものであるのなら――今回、偶然にも発見した禁制品と同じものであるのなら。我々商人にとって、見過ごしがたい事件の可能性がある。

「俺たちも情報が無いままに必死にもがいてんだ。この大陸の道を、仕事のしづらい道にはしたくねえ。だが、こんなにも広い世界だ。俺たちも大陸すべてを把握することはできねえよ」

「だから我々にも協力してくれ、ということですか?」

 フェイロンはあえて尋ねた。次には予想通りの言葉を返された、「別に、俺はただ、爪痕を残しただけだぜ?」。

 ギディオンは商人と暗殺者の亡骸を担いで、フェイロンの横を通り過ぎ、街へと帰ろうとした。その去り際に、低い声でもう一言こぼした。

「これは俺にも、あんたにも、それぞれの大事な存在にも関係ある話だってこと、よぅく覚えておくんだな」

 おっと、忘れてた、と、ギディオンはもう一度振り返って、フェイロンに何かを投げ渡した。小さな木の板――関所の通行手形だ。

 フェイロンは去って行くギディオンとバルバラを見つめ、そして物思いに耽るように空を仰いだ。

 少し前から……それこそ楼蘭の盗賊の砦を壊滅させた辺りから抱いていた、言葉にできない不透明な違和感が、今この時はっきりとした形になったことを感じた。

 このままでは大陸は邪悪に包まれてしまうだろう。人為的なものであるのなら、きっと一瞬の内に荒涼とした大地となる。

 どんな世界になるかは定かではない。だが、人間にとって脅威となるのは明らかだ。

 砂漠は邪悪さを増し、拡大していくだろう。人の手では抵抗しきれない毒に侵されるかもしれない。もしくは灼熱の大地となるか、凍てついた雪原となるか。

 ありとあらゆる災厄が考えられる。どんな災厄が来るかはフェイロン程の英才であっても予測することはできない。だが確実に何かしらの災いが人の世に訪れるということは断言できる。

 物質世界を支えている精神世界という支柱が崩れれば、次に崩れるのは物質世界――つまり人の世である。


 フェイロンは周囲に存在する無数の邪気に意識を集中させた。ただの人では見えない"おとなしい"邪気も、今はひっそりと姿をあらわして、こちらと向き合っている。

 フェイロンは周囲にいるすべての邪気に語りかけた。

――人の世を阻む存在よ、其の魂胆とは何ぞや。

 無数の邪気たちは一斉に嘲り笑った。面白おかしくてたまらないと、その身を歪めている。姿形などは無く、意識だけで漂う彼らでも、自らの意思を表現する手段はあるようだ。それらは酷く醜怪な表情であった。

 あぁ、どうしようもなく憎たらしい。ただひたすらに鬱陶しい。

 フェイロンはもう一度、周囲の邪気たちに意識を集中させた。下品に嘲笑を続けていた邪気たちは、静寂な夜の砂漠を引き裂くかの如き不気味な悲鳴を次々とあげていく。そしてフェイロンの周囲から一瞬のうちにして、夜の闇へと溶け込むように消え去っていった。

 邪気という存在――いくら浄化したとしても、何の憂さ晴らしにもならない、有害で無益な存在。まさに人の世の癌。

 仙人の術を得たのは、この癌を一刻も早く根絶やしにしたかったからだ。

 それならば、ギディオンが言っていたことを信じて、この大陸の異変について調べてみる必要がある。だが、明確な情報も無い。突然大きな問題を放り投げられただけで、我々は何も知らないままだ。

『俺たちも情報が無いままに必死にもがいてんだ』

『これは俺にも、あんたにも、お互いの大事な存在にも関係ある話だってこと、よぅく覚えておくんだな』

 先程投げかけられたギディオンの言葉が永遠と反芻される。いまだ頭の中で、その"大陸の異変"とやらが引っ掛かっていることに気が付いたフェイロンは、小さな苦笑と、独り言をこぼした。

「ふふ……なかなかの爪痕を残されてしまいましたねえ」

 とにかく、今考え込んでいても仕方ない。何も情報が無いのであれば、今後の旅の中で得ようとすればいい。

 今はすぐそこに在るウテンへと帰還し、仲間たちを休ませてあげなければならない。

 フェイロンは宿屋へと戻り、妹の穏やかな寝顔を見ながら、夜明けを待った。

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