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砂塵の狼  作者: れのん
第1話 砂塵の狼
2/21

【2】

 ゴビ砂漠の砂の粒はとても大きく、砂利ばかりの道だ。

 その他にはオアシスへ辿り着こうと夢を抱いていた者たちの残骸。犀角。軟玉。絨毯。

 そして邪鬼。


 外へ出れば、鬱陶しいほどの日差しがこの肌をつつくだろう。とても暑苦しく、活きの良すぎるほどの太陽が燦々と砂漠を照りつける。


 それでも、彼にはこの眩いほどの砂漠が、邪悪に満ちていることをわかっていた。

 例えラクダの引く車の中にいたとしても、外の眩さを目に入れなくとも、砂漠全体が不穏の闇に侵されていることがわかった。その土色が、どんな者の目から見るよりも黒く見えた。

 やがてその黒は土に溶け、人々の感覚には分からぬままに土と一体化するだろう。一体化して、何の危険もない砂漠の砂利というまやかしに変化する。そして何か怪異なものがあるとは知らずに通る無垢な人々に襲いかかるのだ。


 突然、車の動きが止まる。

 その時点で、彼には予想通りの事態が行く手にあることを悟った。

「フェイロン」

 外で馬車の警護をする者から名前を呼ばれる。落ち着いた声ではあったが、どこか高揚している声だった。

 フェイロンは傘を持って、車から降りた。

護衛の大男は馬車の前に立ち塞がるものを眺め、ニヤニヤと笑いながら言う。

「こりゃ大損だな。ブチ切れたあのクソ野郎の顔が目に浮かぶぜ」


 砂漠の道に突然現れる、死んだキャラバン。

 確かによく見る光景ではあるが、近くで見てみると何かがおかしい。

 彼らの行く手には、無傷の奴隷と惨殺された兵士たちの死体の山があった。

フェイロンは目の前に散らばるその邪悪の源に、胸を踊らせた。

「……おやおや。不吉なことですね。ここは砂漠にしてはまだ、穏やかな性格をしているというのに。このような血で犯されてしまうなどと」

 護衛の兵士を何人付けたか覚えてはいなかったが、ほぼ全滅近くはなっているだろう。

 そこで護衛の大男がすかさず、死体の中から腕を一本、引きちぎって、食い始める。

「ルーフンおじさん。腐っていたらどうするのです。お腹を壊しますよ」

 死肉をかじり、恍惚とした表情を浮かべるルーフンは、ややふらついた様子のまま答える。

「……いんや。ついさっきのだ。ほんのちょっと前まで生きてた肉だ」

 ルーフンは体を振るわせながら、上機嫌に、その赤々とした死肉に食らい続ける。

 フェイロンは思わず、微笑を浮かべた。

「ふふふ……奴隷の反乱、ということですか」

 ルーフンは「違うな」と言って、かじっていた腕を放り投げ、その場に転がっている死体を観察し始める。

「全員同じ急所を確実に狙ってやがる。切り口も同じだ。おそらく、誰かがこの奴隷車を襲ったんだろう」

 それは一体誰なのだろうか。

 奴隷のひとりか?

 外部の者に襲われたのか?

 それとも兵士の裏切りか?

 いや、ここの護衛には大した兵士を付けていなかったはず。

 では盗賊だろうか? だが、一人でこの兵士の集団に立ち向かおうとする盗賊など聞いたことがない。奴隷を奪う意味もない。

 やはり、奴隷の反乱が一番考えられるか……しかしこの量を一人で仕留めたとなればかなりの手練れだろう。奴隷の中に抵抗すると考えられる戦士がいたのであれば、もっと警備の堅い車で運ぶはず。

 一体どんな奴隷なのだろうか。

「……リンシンがいない」

 確か彼女はこの荷馬車の御者を担当していたはずだった。しかし、彼女のいた痕跡がまったく見つからない。

 彼女の死体が無いことに一安心だったが、どこへ行ったのか行方を探さなければならなかった。

 リンシンと荷馬車、そしてほかの奴隷と、もしくはこの荷馬車を襲った者たちの足跡は、近くにある敦煌に向かって伸びている。

 敦煌へは同じく空の荷馬車を操縦している仲間がもう一人別のルートから向かっている。彼が助けてくれるといいが、如何せん、事の現状が把握しきれていないためすべてを部下に任すことはできない。

 フェイロンは考えれば考えるほどに、この仕事を完遂することが面倒に思えてくるようだった。

「ふふふ、こんな緊急事態が起こっちゃいました~って言って、あのおデブさんとは手を切っていただきましょうか。良い機会だと思いません?」

 すると、ルーフンは目を輝かせながら言った。

「手? 手だけでいいのか? お偉いさんだから、全部残さず食べた方がいいよなァ」

「その手ではないですよ、ルーフンおじさん」

 フェイロンは微笑して、また車へと乗りだし、眼前の敦煌へと向かった。


** ** **


 レイエンが我に帰った時には、もう飯は下げられていた。

 少し惜しい気持ちがして肩を落としたが、食欲に欠けているのは否めないため、あまり気に病むことでもなかった。

 しかしぼんやりしていてもこれからの動向が何もまったく閃いてくることはない。

 レイエンはとりあえず、リンシンに今後のことを尋ねることにした。

「おい、これから俺たちはどうなるんだ」

 するとリンシンは眉を寄せる。

「まったく……もうさっき話したわよ、あんたがぼーっとしている間にね!」

 リンシンは呆れ顔だったが、ため息を一つついてから話しだしてくれた。

「もしかしたら、あなたたちは奴隷として売られることは無いかもしれないっていうことよ。こうして荷馬車の護衛は全滅されて、そのまま奴隷と仲良く飯を食べた、なんて依頼主に言ったら大目玉だわ……むしろ大目玉ではすまないぐらい。本当はここであなたたちを縛り上げて依頼主が来るのを待つのが鉄則よ」

 一瞬、空気が張り詰めるような感覚を覚える。

 しかし、リンシンは冷静だった口調から、先程のような軽い口調で話を続ける。

「でも事が大きすぎるのよね。何ならあいつらと手を組むのをやめるっていう手もあるんだけど……私たちは依頼主のギルドとは別のギルドに所属する商人なんだけど、もうあの依頼主とは関わりたくないってみんな思っててね」

 リンシンは一つ区切ってから、また話を続ける。

「私たちは基本的に奴隷を扱わない主義なの。だからあなたたちをそこそこの生活ができるぐらいまでには養うことも考えることができる。信じなければこの店から出て行きなさい、それが本当の自由なのかわからないけど。でも私たちに着いてくれば、衣食住と身の安全は約束できる、ただし商売関係の事務仕事は覚えてもらうけどね」

 リンシンが言い切った後、少々の沈黙が続いた。

「……って言ったら何人かお店から出て行っちゃったけど、この人数は残ってくれたわ。レイエン、あなたはどうしたい?」

 レイエンは驚きのあまり、唖然としてしまっていた。こんな商人がいるとは微塵も思っていなかったのだ。

 普通、商人とは己の欲望に忠実に生きる、その為なら如何なる汚い手をも扱う輩だと思っていた。しかしリンシン――彼女のギルドではそれとはかけ離れているものだと気付く。

 しかし注意深いレイエンのその心は疑念が殆どであった。

(この女の言っていることが偽善であることも考えられる)

 そんな虫唾の走る偽善に付き合っている気は無い。

 だが彼女から離れれば、何をすればいいか考えるのもレイエンには苦しかった。

 半信半疑の念が胸の中を満たす。

「俺は……」

 レイエンがあと一歩で、答えを返すところだった。

 店の外から険しい表情をした大男が数人、ずかずかと入り込んできて、あっという間にリンシンや奴隷たちの周りを取り囲む。

 何が起こったのかはっきりとはわからなかったが、この者たちがリンシンの言う「依頼主」であることは何となく予想できた。

「あ、あちゃー……」

 リンシンは苦笑いをしながら額に手を当てた。そして立ち上がって、ぷっくりと太っている強欲な商人らしき風貌の男と向かい合う。

「……全て聞いていたぞ、月華の商人よ……ワシの言いたい事がわかるな?」

 太った男は宝石の装飾物がジャラジャラと音が鳴るほどに怒りで体を震わせている。これほどまでに怒りを体全体で表現出来る人間もそう多いことではないだろう。

 周囲には逞しい体格の大男たちが厳しい剣幕でリンシンを睨みつける。

 いかにも苦しそうな状況だが、リンシンは笑顔を絶やさずその太った男に対応をする。

「も、申し訳ございませ~ん……エムラ殿。この度奴隷の護送中、事故に遭いまして、こちらで一時お預かり致しておりました」

 奴隷商人エムラは当然のごとく、怒号を発した。

「そんなこと聞いておらんわ!! ワシの所有物を盗む気か、この盗人め!!」

「とんでもございません。貴殿の御品はこの通り、全て貴殿の御品でございます。私は大切な商品に傷がつかぬよう、これらに休憩を取らせていただけでございます。どうかご理解くださいませ」

「では先程の会話は一体何だというのだ?」

「……」

 リンシンは唇を噛んだ。

 この場に彼女の味方はいない。圧倒的に不利である。

――その時鈍い音がした。

「きゃっ!」

 エムラはリンシンの頬を、その大きな手で打った。あまりの衝撃の強さに、床に倒れてしまった。

 そしてエムラはリンシンの胸ぐらを掴み、睨みつけながら言った。

「話にならぬ。いつも適当な対応ばかりしおって、今日という今日は頭に来たぞ。月華の者共は全員奴隷にしてやる。特に貴様とあの白い野郎には一番汚れた生き地獄に放ってやる」

 殴られたばかりで意識が朦朧としているように見えたが、リンシンはすぐにエムラをじっと見つめながら、不敵に笑った。その反応にエムラは胸ぐらを掴んでいる手を、よりいっそう、握りしめた。

「何がおかしい!!」

 不敵な笑いが奇妙に思ったのか、エムラはまた怒号を発する。リンシンは今までよりもずっと落ち着いた低い声で言った。

「……できるわけないじゃない、私たちを誰だと思っているの? 私たちは盗賊も恐れる月華義団。生き地獄に連れて行かれるのは貴方の方よ」

 その言葉を聞いて、エムラはますます額に筋を立てていく。

「何を……このクソアマ!!」

 エムラが再度手を振り上げた時だった。

 レイエンは咄嗟に前に出た。


「……おい」

 エムラの振り上げた腕を、レイエンの指がその太い腕に食い込んでいくほどに、力強く握りしめる。

 レイエンに腕を掴まれたことに気が付いたエムラは、咄嗟に後ろに下がり、次はレイエンに向かって怒号を発した。

「貴様……!! 奴隷の分際でワシに触れるなど!! 汚らわしい!!」

 周囲にいる大男たちの五、六人ほどが、途端にレイエンの周りを取り囲んだ。長身のレイエンを大きく上回る体格を持つ彼らは、今にも捻り潰そうと意気込んでいる様子であった。

 リンシンと奴隷たちは引き下がり、その睨み合っているレイエンとエムラたちを見ていることしかできずにいた。

「うおのれぇ……貴様、ただではすまさんぞ!! てめぇら、殴り殺しちまえ!!」

 エムラがそう叫んだ途端、周囲にいる男たちが一斉にレイエンに殴りかかる。

 レイエンは咄嗟に男たちの攻撃を避けて、一人ずつみぞおちを打ち、後頭部を蹴り上げる。背後から掴まれ動きを止められようとするも、足を宙に上げ、背後に居る男の首を足で挟み、そのまま頭を地面に叩き落とした。

彼の鮮やかで素早い格闘術をくらい、地に伏した男たちは、その強さに圧倒され動けなくなる。

普通、戦闘力のある奴隷は抵抗をされないよう、鉄で出来た車で多くの警備兵に囲まれながら運ばれるものであった。

しかしどういうわけか、これほどまでの手練れが、奴隷たちの中に紛れ込んでいたのである。エムラも部下たちも予想外であるといったような面持ちだった。

特にエムラは冷や汗をかいていたが、何かを思いついたようで店の端にいるリンシンに向かって走っていく。そしてリンシンを無理やり羽交い締めにして、隠し持っていたナイフをその細い首元に押さえつけた。

「ちょ……どこ触ってんのよこのデブ!!」

「うるさーい!! それ以上動けばこのクソ女を殺すからなあ!!」

 エムラはますます冷静さに欠けた声色になっていく。

 エムラに捕まったリンシンを見たレイエンは眉をひそめ、めんどくせえな、と呟いた。

「ちょっとお!! 聞こえたわよ、早く助けなさいよコラ!!」

 リンシンは聞こえていたのか、エムラに動きを封じられながらも、じたばたと暴れながらレイエンに向かって叫ぶ。

 だがナイフを首元により深く押さえつけられると、さすがのリンシンも、苦しい顔をさせながら大人しくなった。


――すると、その時。何やら馬車の音がこちらに向かってきているのが聞こえてきた。

 店の中であるというのに地鳴りのような慌ただしい滑車と馬の声――そして……。

「オラオラ、どきやがれゴラーーーー!!」

 若い男の怒鳴り声と共に、飯店の店に二頭の大きな馬が体当たりして、壁が一気に崩れ落ちていく。

 突然の出来事に対してレイエンは驚きのあまり、唖然とする。それは奴隷やエムラたち一行も同じであった。

 荷馬車を操縦していた赤毛の若い男は、崩れ落ちる壁の破片が落ちてくるのを払いながら、馬に向かっていかにも馬鹿丸出しの独り言を怒鳴り散らす。

「いってー!! そんなテンション上げなくていいじゃねえかよ、馬ア!! ちゃんと止まりやがれ!」

 その場の状況に理解ができず、一同はしばらく沈黙が続いていたが、次に声を出したのはリンシンであった。

「ディジャン!!」

 リンシンは喜んだ様子で彼の名前を呼ぶ。

 ディジャンと呼ばれたその短髪の若い男は、壁に当たった衝撃で痛そうにしていたが、リンシンの声を聞くとぱっと明るい表情になる。

「よおー! リンシン!! 助けに来たぜー!! おめえ、そんなデブにとっ捕まえられて、ざまあねえなあ!!」

 リンシンはそう馬鹿にされると、助けが来て嬉しそうだった表情から、すぐに目を吊り上げた。

「はあ!? ふざけんじゃないわよ!! こっちは予想もしない事故ばっかりで大変なのよ!」

「まーまー! 俺も来たし、兄者たちもとっくに町に着いてるからな! 安心しろ、な!」

 リンシンは不機嫌そうではあったが、いまだにエムラにとらわれている身であるため、そのまま助けられるのを待った。

 ディジャンは馬車から降りて、これから繰り広げられる喧嘩に心を躍らせているように拳を鳴らす。

 一見、その辺にいる活発な好青年に見えるが、何やらただならぬ気配を感じる。

「貴様……月華の手の者か」

 エムラは敵が増えたことに焦りつつ、リンシンを引き寄せながら後退りをする。

「おっさんよぉ……兄者から一つ伝言があるんだけどな」

 ディジャンはエムラに近づく。そして中指を立てながら声を上げた。

「おめえまじでセコいしムカつくんだよ!! 俺たちはセコい奴とは商売をしない。おめえの悪ふざけも、もう我慢の限界だ。これ以上俺たちと商売しようとなんて言ってくるんじゃねえぜ、わかったか!!」

 ディジャンはビシッと決め台詞を言ったつもりだろうが、言っていることが稚拙で一同は沈黙をする。しかしそんなことは気にせずディジャンは調子を変えて、話を続ける。

「……ってのが多分兄者の言いたいことなんだろうけど、俺には難しいことはよくわかんねえや。とりあえずおめえをぶっ潰して、リンシンを助ける!! 兄者から許可が出てるからな!」

 ディジャンはそう言うと格闘術の構えをする。

「勝手なことばかり抜かしおってええええ!! 月華を、この馬鹿共を全員殺せええええ!!」

 レイエンに倒され、地面に伏していた男たちも、エムラの一喝でもう一度立ち上がり、今度はディジャンに向かって襲いかかる。

 しかしディジャンはニッと笑って、襲いかかってくる大男共を特殊な格闘術で軽々と宙に上げた。そして、荷馬車によって空いた壁穴に向かって勢いよく投げ飛ばす。次々と男たちは外に投げ飛ばされていき、とうとう店の中にいるのはディジャンのほか、リンシンを取り押さえるエムラと唖然としている奴隷たちとなった。

「おいこのデブ!! 早くリンシンを離しやがれ!」

「誰が離すかクソガキが!! この薄汚い商人共がああ、ぶっ殺すぞ!!」

 エムラはナイフを乱暴に振り回した。するとディジャンは呆れた様子でもう一度叫ぶ。

「お前なあ、俺にボコボコにされるだけありがたいと思えよ、コラァ!! 兄者が来たら、きっともっと酷い目に遭うぜ!?」

「ぐ……」

 エムラは唇を噛み悔しそうな表情をしていたところ、段々青ざめた表情になっていった。そして少し悩んでいたようだったが、途端にリンシンを振り捨て、店から出ていこうとした。途中でディジャンに足を引っ掛けられ、脂肪のたっぷりついた体を弾ませながら転んだ。そのまま外へと飛び出されたエムラだったが、すぐに立ち上がって逃げようとする。


――その時、エムラの立っている地面から何かが現れる。

 おそらく、人だ。

 店から見ても、男なのか女なのかよくわからない。白い長髪と白い衣服の美しい人間が、いつの間にかエムラの目の前に立っていた。

 レイエンはその光景をずっと見ていたものの、何が起こったのかさっぱりわからなかった。何か怪しげな術が使われたようにしか思えない。


「エムラのおじさま。どうやらうちの子がお世話になったようですね」

 声を聞けばその白い人間は男だということがわかった。彼はエムラの頬に触れて顔に近づき、艶っぽい声で言った。

「あなた、また私の軟玉を横取りしましたね? 確かに共同運搬の約束ではありましたが、山分けの報酬を払わないなんてあんまりじゃないですか、今回は二度目ですよ」

「し、知るか、そんなもの!! そんなことよりお前の部下の教育はどうなっておるのだ!? ワシの所有物を、ワシの許可なしに勝手に連れ出しおって……! 全員奴隷にしてやる、この薄汚い商人共!!」

「ふふふ……何をおっしゃいますか」

 白い男は不敵に笑い、エムラの腹にその細い手を当てた。

 すると、エムラは突然口を押さえて苦しみだし、地面に膝をつく。そして嗚咽を混じらせながら、胃液を地面に吐き出した。

「約束の守れない方と守れる約束なんてありませんよ。今度我々に関わろうとするのであれば、次はあなたの影を頂きます」

 エムラは苦しそうな唸り声を上げると、そのままうずくまり、気絶をしてしまったのかそのまま動かなくなった。

 店から出ると、リンシンとディジャンはすぐにその白い男のそばに近寄る。

「兄さん! もー、遅いじゃないの!」

 白い男は優しい眼差しでリンシンたちを迎える。

「二人とも、騒動にならない程度の対応をしましょうね。確かにもう縁の切れること確実な相手ではありましたが、手を抜いてはなりません」

 苦言を呈され、リンシンは少ししょぼくれるが、なにかを思い出したかのように、すぐにぱっと明るい顔になり、レイエンの方を指しながら言った。

「聞いて、兄さん。奴隷の中に面白い子がいたのよ。今度はきっと兄さんも気に入るんじゃないかしら」

 リンシンは店の壁から顔を覗かせているレイエンの方に振り向き、「こっちへ来て」とでも言っているかのように手招きをされる。

 レイエンは渋々ながら、ゆっくりと外へ出て、その白い男を見た。


 不思議な雰囲気の男だった。冷静さと余裕さが彼のその不敵な笑みからよく感じられる。近寄ることが恐ろしく感じられるほどの怪しさがあったが、すべてを頼りたくなる安心感もあった。

 こういった何ともいえない不思議な雰囲気の男とは一度も出会ったことはなかった。けれど、なぜか、何処かで会ったことがありそうな気分がした。

「紹介するね、彼は……」

リンシンが言いかけた時、レイエンの頭上から何かが降ってきた。


 何かではない。

 誰かだ。


 レイエンは咄嗟の判断で身を翻し、薙刀でその刃を受け止める。

 とても重い一撃だった。一歩後ろへ下がっていなければ、その重さに押し潰されるところだっただろう。

 鉄が勢いよくぶつかり合う音がした後、またすぐに次の一撃が繰り出される。突然襲撃をしてきた人物の姿を確認できたのは、その攻撃をかわした後であった。

 筋骨隆々で大きな体格。それでいて、後ろに束ねた長い金髪と、男にしては白すぎるほど白い肌。そして狂気を感じさせるように非情な赤い眼差し。

 西洋人のような髪と肌をしているが、その逞しい体つきと狂気を見れば、中華の何処にいる者でも恐れ怯むだろう。

(誰だ、こいつは……)

 レイエンはわけもわからないまま、薙刀を構えなおす。

 大男の背には弓と矢を背負い、手には鋭く大きい青龍刀を握っている。まるで狂った戦馬車のような男だ。巨大な体であるのに、素早く動き、重く的確な攻撃を仕掛ける。

 確実に先程まで相手をしていた三下とは比にならない程の精神的圧力がその大男から発せられている。彼の怪しい虚ろな眼差しを見れば、死の恐怖を感じることは至極当然のはずだ。

 レイエンは額から汗が垂れるのを感じた。


「ぎゃ、ぎゃーーーー!! 何してんのよ、ルーフン!! 兄さん早く止めさせてよ、あの子悪い子じゃないよ!?」

 リンシンは慌てて止めようとする。しかし、白い男は狼狽えることなく、むしろ予定通りといったような余裕の笑みを浮かべながら言う。

「落ち着きなさい、リンシン。これは彼への試験ですよ……我々月華へ入団するための、ね」

 彼らの戦闘は激しすぎて、止められそうにもなく、リンシンははらはらと気を揉ませながらその戦いを見つめるだけであった。


 金髪の大男の攻撃を防ぐのは容易なことではなかった。回避をするにもその攻撃の手はギリギリまで伸びてくる。レイエンは反撃を繰り出す隙もつくことができず、恐ろしい攻撃の手から逃げることしかできずにいた。

 こんなことを続けていれば、体力が切れて直に殺されてしまう。

「ん~、盗賊にしてはやるなァ。おめえ……」

 大男の攻撃が止んだと思えば、ねっとりとした口調で話し始めた。

「盗賊はなァ、肉こそ不味いが、鳴き声は美味い。おめえみてえに、あがけばあがく程その旨みは出てくるんだよ」

(何を言っているんだ、こいつ……)

 太刀筋はしっかりしているが、狂人であることは確かなようだ。

 レイエンは油断をせず、攻撃の構えを固める。

「ははは……楽しくなってきたぜ。フェイロン、こいつ殺しちまったら悪ぃな」

「そんな子はうちのギルドに不要ですよ。殺すつもりでおやりなさい」

「ちょ、ちょっと。兄さん……!」


 大男の攻撃がまた始まる。

 レイエンは隙を見つけようと身構えていたが、やはり一撃が重く長すぎるため、その暇は無かった。打ち付けてくる力が強いため、ぶつかり合う鉄の音は凄まじく、ひるみたくなるほどに耳の中に響いた。

 だが、何度も攻撃を受けていると、段々大男の攻撃の間合いが何となく分かってくる。

 レイエンは無理やり、大男にめがけて一太刀振り下ろしてみた。すると彼の肩にほんの少しだけ刃がかすれる。

 一瞬驚いた様子だったが、大男はレイエンの持っている薙刀を握り、レイエンごとぶん投げた。


 飯店の脇に置いてある樽に吹っ飛んでいったレイエンは上手く着地が出来ず、崩れる樽で足場を悪くする。

 立ち上がろうとするが、それよりも大男の攻撃の方が速かった。レイエンは咄嗟に側にある崩れ落ちた樽を薙刀で大男にめがけて打ち投げた。

 大男は青龍刀でいとも簡単に樽を粉砕する。

 しかし、レイエンはその樽の破片に紛れ、薙刀を振り上げた。


――。

 互いの動きが止まる。


 大男はレイエンの首もとに、レイエンは大男の首もとに武器をあてていた。

 お互い最後の一撃を入れることが出来ないほど、圧倒的な相討ちとなる。

 大男は恍惚とした表情と声色をさせ、不敵に笑った。

「いいじゃねェか……久しぶりに血ィ無しで勃っちまったぜ」

 レイエンは唇を噛む。

 これ以上動くことができない。だが、この足場の悪い場所からどうやって逃れることができるだろうか。

――ますます焦りが募り始めたところだった。


「二人とも、そこまで」

 後ろで観戦していた白い男が、ゆったりとした拍手をしながらこちらに歩み寄る。近くまで来ると、今まで狂った馬車のように暴れていた大男はおとなしく武器を収め、彼の後ろへ引き下がった。

「素敵な戦いぶりでした。レイエンさん。今までのことは妹のリンシンから聞きましたよ。うちの子たちがお世話になったようで」

 レイエンは構えながら白い男を睨み付ける。すると彼はややはにかみながら、名乗り始めた。

「申し遅れました。私はフェイロン。小さなギルドで商人をしております。勝手ながら、先程はあなたが我がギルドに加入する資格を見定めておりました。無礼をお許しください」

 レイエンは言葉を失いかける。

「本当に勝手だな……誰がお前のギルドに入るなど言った。俺は危うく殺されかけたんだぞ」

「ですが、今あなたは確かに生きていらっしゃいます。それに傷一つもない。正直予想以上に上出来です。予想以上に、我がギルドの一員に相応しい……」

 この男は正気か?

 突然の襲撃を受けて、快く仲間になる者がどこにいるのか。

 レイエンはますます不愉快に思った。

「いきなり襲われたんだ。入るわけねえだろ。俺に関わるな」

 レイエンは後ろを向いて、彼らから去ろうとした。

 しかし、フェイロンは言葉を続ける。

「その強さを持っていながらどうしてあの奴隷の荷馬車にいたのです?」

 レイエンは立ち止まった。

 歩みを止めたのに何か理由があったわけではないが、フェイロンの問いを黙って聞き始める。

「普通、抵抗する力を持つ奴隷は、全身を鎖で繋がれます。そして、屈強な兵士の警備のもと、頑丈な鉄の檻の中に入れられ、運ばれるでしょう。しかし、あなたは脆い木の板の車で運ばれていたそうではありませんか。どうして抵抗しなかったのですか?」

 レイエンは自分の心の中の諦めや虚無を見透かされている気分になった。

 初めて出会った人間にこれほどまで見透かされてしまうものなのか。レイエンはどことなく、不気味さを感じた。


 しかし、これから一人きりの自由を得て、何になるのだろうか。

 やはり何かに縛られている方が楽だと思ってきてしまう。一人きりの自由だけは避けたかった。誰かの軌条に沿わなければ、生きていける気がしなかった。

 奴隷の荷馬車から解き放たれた今だからこそ、レイエンにはこれから先の未来がまったく見えていない状態だったのだ。

「あなたに行く道がないのなら、私が与えましょう。生きる力に欠けるのであれば、それも私が与えましょう。ですから、レイエンさん。あなたの力を我がギルドにお貸しください」

 レイエンはフェイロンの瞳を見た。怪しげに微笑んでいるというのに、戯れているようすでもない。

 それもそうだ。先程は本気で殺しに来たのだ。

 ではなぜ、俺なんかを拾おうとする?


「……お前たちは何をするギルドなんだ」

 レイエンは恐る恐る尋ねてみた。フェイロンは頷いて、答える。

「良い質問ですね、お答えしましょう。我々は大陸各地を旅する商人です。それと同時に、キャラバンを守る傭兵でもあります。交易をするにあたって、道中で盗賊や邪鬼に襲われるのはよくあることです。砂漠の道にも草原の道にも、必ず死んだキャラバンが横たわっております」

 フェイロンは扇子を口元に当てながら、話を続ける。

「商人とは多くが非力な存在です。確かに自ら武装をする商人もおりますが、盗賊や邪鬼は複数で来ることが多く、最終的には無残に殺され、奪われてしまいます」

 レイエンは複雑な気持ちになった。今まで商人を殺して奪い取る側であった自分が、今は商人を守る側に勧誘されているのだ。

「うちのルーフンおじさんだけですと、戦闘員が足りなくてね……武芸の達つ者が必要だったのです。あなたの得意な分野を中心に仕事を与えます。確かに旅は長く、険しいものですが、その分様々な世界を見ることができます。レイエンさん、あなたには多くの世界を見せてあげたい」

 真剣な眼差しを向けられ、レイエンは狼狽える。その男の話し方はいたって穏やかであるのに、妙な威圧感があった。

「俺は今まで盗賊だった。そんなやつが商売をしながら商人を守るなんておかしな話だ」

 レイエンはかすれそうな声で、言った。しかし、フェイロンは、関係ない、といったような表情だった。

「確かに、おかしな話ですね。ですが、だからといって我々のギルドに加わらないのは別の話です」

 こいつは俺に何を求めているのだろうか。探ろうとしても、その怪しさに引き寄せられそうになって恐ろしくなった。

 しかし、何故か段々と興味が沸いてくる。それに引き込まれてはいけないと思いつつも、それに浸っていたくなってしまう。


 レイエンは俯いた。今、成さなければならない目的が、ひとかけらだけ分かった気がする。

 自分は、自分の生き方を知らなければならない。

 ”以前”の生き方から解き放たれた今、次の生き方を貪欲に求めなければならない。

 行き先のわからない自由ではない、真の自由を手に入れるために……。


「……いいだろう。それが俺のためにもなるのであれば、悪くはない」

 レイエンは声を枯らしそうになりながらも答えた。

 悔しさと不安はあったが、彼らから別れて、その先ひとりで生きていくことを考えると、この機会を逃したくはなかった。

 いまだ覚悟とやる気が定まったわけではないが、やってみようという気持ちがあった。


「……ふふふ、良い判断です。我々との仕事に退屈を感じさせないことを、ここに誓いましょう」

 フェイロンは扇子で口元を隠しながら、怪しく微笑んだ。

 これから俺はどうなるのだろう。

 箱の巣から脱し、生を諦めていたその心に、明日を見る術はなかった。


 それでも彼らに着いていけば、風に吹かれて消えかかっている砂上の足跡ぐらいは見つかる気がした。

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