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砂塵の狼  作者: れのん
第8話 疾走! ラクダレース
19/21

【3】

 レイエンは月明かりの眩い夜の砂漠を早足で歩き始めた。盛り上がった砂山は遠くを見渡せないために、段々と方向感覚を失わせる。だが今日は風が弱いこともあって、足跡はある程度残っていた。周囲を警戒しながら、砂の上に象られた跡を頼りに街へと向かう。

 先程の会話を思い出して、不快な焦燥感が沸き上がってくる。フェイロンには共に自身の正体を解明していこうと言ってはくれていたが、ひとりで旅立つ方が良いのかもしれない。ひとりでいるのなら、寒気のするような"善意"に苛々することもなくなるのだ。

 仕事のため、金をもらうため、そしてあたたかい飯と雨風防ぐ宿を享受するため。そのためにやっていることであろうと、それは信用の伴う行いだ。あんなにもすぐに他者を信用できることが疑問だった。

 認めたくはないことだが、月華義団と初めて出会った日、一瞬の間だけ彼らを信じた。この先、自分が何をすれば良いのか、その道しるべを、彼らについていくことでわずかでもわかる予感がしたからだ。

 だが今は誰かと関わることで、その道を見失い欠けている気がした。

 それならばなぜ彼らとの旅から身を引くことができないのだろう。これまでの旅の中で、何度も逃げる機会があった。だがいくらこのギルドが性に合わなくても、1人で脱退しようという気にはなれなかった。次、自分はどこへ行けばいいのかまったくわからないからだ。"わからない"という果てしない感覚に、レイエンは恐怖をした。

 その時、レイエンは判断するということを縛られている感覚があることに気が付いた。

 もう自分は何も判断ができない子どもという歳ではないはず。長く生きているという実感は無いが、少なくとも親に手を引かれて歩く歳でもないはず。これはただ単に若いからであると片付けられるほどのことなのか。

 フェイロンやリンシンを見ていると、いかに自分が自分で選択をして行動をできないのかがはっきりとよくわかる。それを思い知らされる度に、生きている価値を否定した。

 そしてどのような幼少期を過ごしたのか、どのような人間に世話をされたのかを想像した。もちろん誰かに面倒を見てもらったとは限らないが、もしも面倒を見てくれた者がいた結果がこれならば、自分の成長期などお世辞にも輝かしいとは言えないものだろう。

 自分の正体がそんなろくでもないものだとしたら、失った記憶を取り戻すなんて徒労なだけである。レイエンはそう考える度、砂漠のど真ん中に放り出されるように、途方も無い気分に陥った。独りでいる時に陥るこの感覚が恐ろしくて、こうして今を生きていること自体がどうしようもなくくだらなく思えてくる。そういう時には、自分の正体を知るという果ての無い目的すらも忘れてしまう。

 いつの間にか足跡を見失っていたレイエンは、ゆっくりと歩みを止めた。そして次に視界が一気に狭まった。体中から冷たい汗が噴き出てくる。――この感覚を覚えている。ついこの間も経験した感覚だ。月華義団と出会う前、レイエンは奴隷馬車から降り立った時に同じものを感じた。

 とてつもない集中状態になる。まるで、ほんの微かな夜風に舞う砂の一粒の存在をすべて把握できるかのように、感覚が研ぎ澄まされていく。月明かりの不気味な死の砂漠は一変して、無機質な空間へと変わった。

 レイエンは、背負っている薙刀を手に持った。

 背後から大きな圧迫感が差し迫る。

 今までの旅をしてきたからこそわかる、この気配はこちらに危機が向かってきていることの証明である。

 レイエンは、勢いよく後ろへ振り返った。

 目の前にあったのは、大きな闇の渦。得体の知れない禍々しい邪気を纏った何かが、殺意に満ちた形相でこちらを見つめている。闇の渦が揺らめいて、そこにあるものの正体が何なのかわかりづらかったが、やがて全体像が明らかになっていく。

 レイエンはすぐに、サマドの話していた怨霊ラクダであることに気が付いた。推測でしか無いが、これが怨霊ではないわけがない。

 昼間のレースで見た逞しいラクダの、2頭分の高さはあるだろう。眼は赤く光っており、首筋には青黒い血管が脈打ちながら浮き出ている。底知れぬ怒りを感じる。自分が何を目的として怒りに駆られているのかわからなくなっている。手当たり次第に怨念を振りまいていることは、その姿を見るだけでよくわかった。

 レイエンは槍を構え直し、引き続き警戒を続ける。

 先程感じたとてつもない集中力はいまだ続いている。今ならどんな強敵でも相手に出来る気がした。

 ラクダは、この世のものとは思えぬほどまがまがしい嘶きをひとつあげた後、砂上を蹴りつけ、砂煙を巻き上げた。細かい粒子の砂がレイエンの上に降りかかる。その砂を薙刀で振り払い、ラクダの脚をめがけて素早く攻撃を仕掛けた。

 鉄の塊のように固いその脚は、いくら叩き割ろうとしても一瞬の怯みを見せない。その上、さすが戦場を駆けていたラクダだからか、攻撃を弾き返す力が非常に重かった。

 隙を捉えることができないものの、レイエンは絶えず薙刀を振り続ける。

 その時の彼に、先程感じていたような人生への絶望は無かった。まだ生きていなくてはならないという本能が勝った。それは自分のための意思ではない。得体の知れない存在のための意思だった。しかしその得体の知れない存在が何なのかを考える余裕は無く、ただ目の前にいる驚異を屠ることが最優先される。

 巨大な怨霊ラクダに気を取られていたレイエンは、ようやく周囲の気配を感じ取って、あることに気が付く。砂の丘から、たくさんの狂ったラクダが姿を現した。怨霊ラクダ程の体躯は無いもの、同じように憎悪を纏った鋭い眼をしている。食いしばった歯の隙間から垂れ流されている涎が、ぽとりぽとりと砂の上に落ちていく。そしてレイエンと怨霊ラクダの周囲を大きく囲んだ。

(呼び寄せたのか……?)

 周囲のラクダたちは、先程怨霊ラクダと同じような不気味な鳴き声をあげ続ける。彼らにはどことなく、昼間のラクダレースで暴走をしたラクダの雰囲気があった。普段おとなしい性格の野生ラクダが、揃いも揃って狂気じみた殺意に駆られるわけがない。――これこそがラクダの暴走の要因だろう。

 怨霊ラクダが体勢を立て直し、後ろへ引き下がる。合図に不気味な嘶きを短くあげると、周囲にいるラクダたちが一斉にレイエンに飛びかかってくる。

「クソ!」

 ラクダの攻撃をかわし続けるものの、素早く力強い動きで複数から襲い来られては、いつまでも回避できるとは限らない。殴りかかってくるラクダの脚を何とかいなしても、次から次へと重い脚が降りかかる。

 瞬間、レイエンは我に返った。そして、次に気が付く、なぜ自分は戦っているのだ、と。この集中力の正体が何なのかわからない。本当は何の希望も見えていないくせに、無意識に抗わんとするこの衝動は一体何なのか。

 注意が散漫した刹那、レイエンはラクダに蹴り上げられ宙に浮いた。咄嗟に受け身を取って体勢を整えようとするが、砂の柔らかさで足元が崩れ、仰向けに倒れる。ラクダはその隙を逃さず身体を起こそうとするレイエンの右肩を踏みつけた。

 関節から鈍い音が鳴る。

 あまりの重量と容赦の無い力に、レイエンは苦痛の悲鳴をあげる。骨折をしたのか、外れてしまったのか、右肩は痛みがあるだけでぴくりとも動かない。

 痛みに悶えながらも、レイエンはのし掛かるラクダの身体を脚で抑えて精一杯の抵抗をした。全身に力が入ることで肩に激痛が走る。

 幸いラクダの身体がレイエンを覆っていたため、他のラクダが襲ってくる余地は無かった。しかし、大きな口を開いて必死に食らいつこうとしているラクダを脚だけで抵抗するには限界があった。もう太腿の辺りから痺れを感じてきた頃だった。

 大きな青黒い拳が、狂ったラクダの群れにぶち当たる。レイエンは一瞬のことで何が起こったのかよく分からなかった。状況を把握する前に、レイエンを羽交い締めにしていたラクダが宙に吹っ飛んでいた。

 レイエンはその青黒い拳の持ち主に目をやる。

 そこには、拳を鳴らしながらラクダたちに無表情の威圧を向けているクァンが佇んでいた。間もなく、その後方から、ミンミンやディジャン、リンシンが駆け寄ってくる。

 ミンミンがクァンの背中に飛び乗ると、ラクダの群れに注意を向けてる。

「あいつら、数が多い上にとんでもなく早い。動きを鈍くさせないと道術が効かないわ」

「俺に任せろ!」

 ディジャンが素早くラクダの群れに躍り出た。相手を圧倒する攻撃はないものの、ディジャンはその素早い身のこなしで敵を翻弄することに長けている。ラクダの腹の下をくぐったり、背を飛び越えたりして、ラクダの群れを混乱させていく。そして動きが鈍くなってきた頃に、ディジャンは懐から布の袋を取り出し、ラクダの顔にぶち当てていく。袋の中から赤い香辛料が飛び散り、ラクダはその刺激の強さに顔を大きく振り回しながら怯む。

 その間に、ミンミンは浄化術展開の準備を始めた。あどけなさは残るものの、しっかりとした抑揚を持つ声で呪文が唱えられる。その途端、ラクダたちの足元に青く光り輝く八卦の紋様が表れた。そこから手のひら程のたくさんの札が飛び上がり、ラクダの脚回りに次々とくっついていった。ラクダの四肢に札が張り巡らされると、まるで脚が鉛の塊になってしまったかのように身動きが取れなくなる。

 ミンミンは拘束術の効果が途切れぬよう、呪文を唱え続けた。

 仲間たちの突然の救援に唖然としていたレイエンの頭上に、新たに押し寄せてきたラクダの脚が降りかかる。レイエンが回避をするよりも先にリンシンの鞭が伸びてきて、ラクダの脚を拘束した。

「レイエン、早く退きなさい!」

 リンシンが切羽詰まった表情で叫ぶ。鞭の扱いには慣れていないのか、ラクダの脚一本拘束するのも一苦労のようだった。レイエンがリンシンたちの後方に下がるのと同じぐらいに、ラクダは絡んできた鞭をふりほどく。リンシンはその衝撃でふらつきながらも、素早く体勢を整えて、レイエンのそばに駆け寄った。クァンが道術にかかっていないラクダを投げ飛ばし、周囲が一時安全になったのを見計らい、リンシンはレイエンの怪我の具合を確認し始める。

「肩が……」

 レイエンの右腕は力無くぶら下がっており、少しも動かせない状態だった。

「外れているわ、戻してあげるから上着を脱いで」

「も、戻すって!?」

 お前そんなこと出来るのかよ、と言いかけたが、それよりも先にリンシンは「いいから!」と言って、レイエンの右腕を彼の背中に押しつけた。

「3つ数えて一気に戻すわよ……、1、2の、3!」

「ぐあ!!」

 外れていた肩の関節が引き戻される。レイエンは痛みよりも関節が戻る時の鈍い音に狼狽えた。しかし、次には肩が驚く程軽くなったことに驚いた。

「昔、兄さんがキャラバン護衛をしてくれてた時によくやったわ。今でも出来て良かった~……」

「はぁ、フェイロンが……肩を?」

 何もかもが急すぎて、今はそんなことを話している場合ではないと言うことも出来なかった。あの優雅な立ち振る舞いのフェイロンが、傷だらけになっていたなんて考えられない……まったくおかしい話だな、とレイエンはぼんやりと考えていた。

「まともに戦闘が出来るのが兄さんだけだった時は本当にいろいろな怪我してたわよ!」

 無茶ばっかりするんだもの、骨折、切り傷、打撲、何でもその場で治療しないといけなかったの、とリンシンがレイエンの肩に包帯を巻きながら夢中で昔話をしていると、引き続きラクダの群れと睨み合いをしているミンミンが怒った口調で叫ぶ。

「ちょっと! 無駄話していないでこっち手伝いなさいよ!」

 詠唱が途切れたことで、怨霊ラクダの拘束術が一気に解ける。

 怨霊ラクダに操られている野生のラクダたちはというと、八卦の陣から飛び上がった札がいまだ四肢に張り付いており、身動きができない状態になっている。

 怨霊ラクダの拘束が解けた今、何とか"交渉"を成功させなければならない。

 彼の主の短剣を返すのは、今しか無い。

 リンシンはサマドから預かった短剣を掲げ、怨霊ラクダに見せた。そして狂気に駆られている彼にはっきりと聞こえるような、大きな声で語りかける。

「あなたにこれを返しに来たの! あなたの……大好きな友達の形見よ」

 ラクダは暫し警戒を解かなかったが、リンシンの掲げる短剣に気が付いたのか、強張らせた身体が段々と緩まっていく。鼻面を上げてひくひくと動かし、その臭いを確かめた。

 怨霊ラクダの狂気に戸惑いが混ざる。苦しげに唸り始め、ふらふらとした足取りになる。

 しかし再び怨霊ラクダの狂気は戻り、それどころか一際大きな暗闇の渦を放出する。放たれた狂気は更に伝染されていき、ミンミンの道術により拘束されているラクダたちの抵抗の力も強くなっていく。

 ついに野生のラクダたちの拘束術も少しずつ解けていく。光り輝く札が剥がれて身動きが取れるようになったラクダたちは、再び攻撃態勢になった。ミンミンは脂汗を垂らしながら呪文を唱え続けているが、彼女の力も限界に近い。

 呪文に集中しているミンミンや、怨霊ラクダに向き合っているリンシンに襲い掛かるラクダを、レイエンとディジャンとクァンが押し返す。しかしこれ以上野生ラクダたちの拘束が解かれてしまうと、対処しきれなくなってしまう。肩を痛めながらもリンシンやミンミンを護衛するレイエンは足元をふらつかせながら、もはやラクダがのし掛かってくるのを受け流すだけで精一杯になっている。

「長い間、ずっと独りぼっちで寂しかったよね。誰かに自分の気持ちを伝えたかったよね。でもあなたとは関係の無い子たちを、こんなかたちで巻き込むのはもうおしまいにしよう?」

 リンシンは少しずつ怨霊ラクダに近寄る。怨霊ラクダは身震いをさせながら、一心不乱に首を振った。まるで醒めたくても醒めることのできない夢を見ているかのように、自分の心を制御できないようなもどかしさが伝わってくる。

 やがて怨霊ラクダは息を切らし、その場で足元から崩れるように倒れ伏し、俯いた。怒りに満ちていた唸り声は、哀愁の漂う切ないものになっていく。

 リンシンは倒れ伏したラクダのそばに屈んだ。泣いているともとれるような弱々しい声を漏らすラクダに目線を合わせ、その頬を優しく撫でる。

「もう、安心していいのよ……」

 すると怨霊ラクダの瞳が、ゆっくりと閉じていった。次に、彼の身体がきらきらと輝きだし、少しずつ光の泡となって夜の暗闇へと溶けていく。

 いつの間にか呪文を唱えることを止めていたミンミンは呆気にとられながら、この光景こそ、怨霊の魂が浄化されていく時の輝きであると小さな声で説明した。

 邪気に満ちた暗い空は、怨霊ラクダから欠けていく光の粒によって徐々に澄み渡っていく。昼間に見ていたような灰色にくすんだ不気味な空の気配はなく、ただ美しい月夜と、淡い光が反射する砂漠の景色に移り変わっていった。

 正気を取り戻した野生ラクダたちはまた穏やかな面持ちとなり、皆踵を返してその場を去って行く。

 最後に残ったのは、短剣に寄り添うようにして横たわる怨霊ラクダの遺骨。その静寂の虚しさに、一行はしばし沈黙に浸る。

 リンシンは俯いて、涙を拭った後、街の方へと歩み出した。

「さぁて、帰りましょう!」


 ** ** **


 翌朝。街が起き始めた頃に、リンシンはサマドの元へ行って依頼完了の報告をしに行った。

 彼の亡骸と主の形見は、死の砂漠の真ん中に置き去りにされてしまった。今頃はもう砂に埋もれる残骸となったわけだが、そこにはもう怨念などはない。

 その証拠に、街の中にいるラクダたちの顔は、どこか安心感に溢れたものになっていた。


 彼女が帰ってくるのを待つ間、レイエンの方は約束通り、フェイロンにお祓いを施されていた。フェイロンによる浄化の儀式とは、心の澄み渡るようなものではない。彼の怪しげな調子の伴った呪文を聞いていると、激しい目眩に襲われて、頭の中をかき乱されているような感覚を覚える。しかしレイエンにとって妖怪を相手にした後は、これに頼らざるを得なかった。

 生物の心に怨念が生じると、強い邪気が放たれる。昨晩のラクダの亡霊も同様に、人間に害を為す気を放っていた。

 レイエンは宿に戻ってからというもの、何度も嘔吐し、心臓の痛みに苦しんだ。妖怪を相手にした後には呪いに苦しむのはわかっていたとはいえ、普段よりも症状が重い。夜明けを待たずに、そのままフェイロンの元へ駆け込んだ。

 意識のすべてが苦しみに浸され続ける。呪いの苦痛なのか、フェイロンによる術がすべてをそうさせているのかはわからない。肉体的にも精神的にも苦しい気持ちが次から次へと体中を染めていく。

「……毒を少しずつ身体に取り込んで、毒への耐性を高めていくのと同じように、呪いへの耐性もある程度の慣れが必要なのです」

 それは仙人だけではない。僧侶であれ、呪術師であれ、精神の鍛錬を極めるべき者は、皆良い気も悪い気も丁度良く取り入れなければならない。体力を得るために身体を鍛え、休息を取るのと同じように、精神力を得るためには精神を鍛えるしかない。しかし無意識を保つ時には、負の感情が入り込みやすい。それは弱い者ほど、深刻な影響を受ける。

「慣れを知らない者が無意識になるということは、城から石壁を取り払うのと同じような状態です。つまりすべてを受け入れる体勢になってしまうということです。利を為す気も、害を為す気も、何もかもがあなたに入り込んで、あなたの心身を"自然"にするために侵そうとしてくる」

 だからこそ目に見えない気に耐え得る心身を作るためには、無意識の状態でもなにものも受け入れない体勢になることが一番に求められる。瞑想という作業はその演習のためにあるのだ。

 レイエンはフェイロンに寄りかかりながら、激しく乱れていた息を整えた。お祓いのおかげで呪いの苦しみはは殆ど消えたとはいえ、長い長い悪夢から解き放たれた後のような身体の重みを感じる。苦しくてにじみ出た汗やら涙やらを、フェイロンが拭ってくれていることに気が付くと、何か複雑な気持ちでいっぱいになって、彼の手を振り払って立ち上がった。

「どちらへ」

 心配そうに声をかけるフェイロンに、レイエンは、散歩、とだけ不機嫌そうに呟いて、部屋から出て行った。


 いつの間にか外は眩しいほどの白い光に包まれている。

 朝日に焦がれたレイエンは、気分転換をするべく散歩に出掛けた。

 あれから一睡もできていない。もはや頭の中は真っ白になって、疲労感すらも無い。とにかく1人になりたくて、人通りの少ない、けれどものどかな場所を求めた。近くにある公園に小さな池がある。レイエンは水辺にある雑な作りの長椅子に腰を掛け、ぼんやりと水面を眺めた。

 蒼白の顔を見て、ひとつ大きな溜息をつく。何か物思いにふけようという気にはならなかった。いつも顔色の悪い自分の顔を見る度、何故こんな思いをしてまで生き続けないといけないのかという葛藤に押し潰されてしまうからだ。

 そんなことを考えても、答えはいつまでも見つからない。いや、答えは出ているのかもしれない。だがそれを認める勇気は無い。そんな臆病な一面が自分の中にあることを感じた時、また気分が塞がっていった。

 生きる勇気も、死ぬ勇気も無い者は、どんな心を持って生きて、死ねばいいのか。永遠に終わらない自問自答の繰り返しばかりで、考えることが嫌になり、疲れてきてしまう。

 それならば、周囲から与えられる判断に従って、働いているしかない。今は幸い、周りに従っていれば充分な飯にありつくことができる。死んだように生き続ける選択は、必ずしも惨めであるとは限らない。そういう生き方と死に方をする方が、気楽な者と不快な者との価値観の違いが、この世界にあるだけだ。

 この世に在り続けたいという意思の理由を知ることが出来たなら、こんなにも複雑なことを考える必要も無かっただろう。しかし訳の分からない感情に、適当でもいいから、納得のいく意味づけでもしなければ、また自問自答の虚しさに襲われるだけである。


 いつの間にやら、どことない心の落ち着きを感じていた。すべてを目の前の平和な景色に溶け込んで、意識がありのままになる。外界から何の影響も受けない、とても心地の良い静寂を感じた。

 そんな中、のどかな池の風景にはそぐわない、騒がしいキャラバンが視界の隅に移った。その方向を見たすぐ後、それがサマドから受け取った報酬のラクダたちであることに気が付いた。――複数いる大きなラクダを引くのに苦労しているリンシンがいる。

「まったく……こんな大荷物になるなら、最初から誰か連れてけっての」

 レイエンはすぐに駆け寄って、ラクダの手綱を引いた。リンシンは礼を述べるより前に、レイエンの顔を見るなり、驚いた様子で「顔色最悪だよ、大丈夫!?」と、言った。しかし、すぐに顔面蒼白の理由に感づいたのか、少し切なげな顔をした後、微笑んだ。

 慣れ親しんでいない者によって手綱を引かれるラクダの足取りは少したどたどしさを感じるが、ゆっくりと誘導していく内に素直に動いてくれるようになる。レイエンとリンシンは、目と鼻の先にある宿屋に時間をかけて一歩ずつ進んだ。

 しばらく2人の間で沈黙が続いた。リンシンの方はあまり気にしていない様子だったが、レイエンは少し気まずさを感じて、彼女を呼びかけた。

 リンシンは立ち止まって、振り返る。そして普段と変わらない調子で「どうしたの?」と尋ねた。

 レイエンは少し言葉を詰まらせたが、短い深呼吸をしてから、「昨日は、すまなかった」と、小さな声で呟いた。

「べ、別に、助けに来なくても良かったが……その、ありがとな」

 しかしそんなぶっきらぼうな彼の態度を見てリンシンは、我慢しきれずに思わず吹き出す。

 必死の思いで振り絞った言い慣れぬ言葉をせっかく伝えることが出来たのに、どうして笑うのか、不愉快に思ったレイエンは眉間に皺を寄せる。

「フフッ! だってすっごく真面目な顔をするものだから、何か深刻な話でもされるのかと思ったわ」

 けらけらと笑い続ける彼女に、レイエンは呆れて溜息をひとつついた。口を尖らせながらそそくさとラクダを引く彼に、リンシンは急いで後を追う。

「ねぇ、ね。レイエン、聞いて。困った時はお互い様なのよ」

 レイエンの前に立ち塞がって、言葉を続ける。レイエンはふと、足を止めて、彼女の眼を見た。その表情は、とても優しくて、それでいてどことない不思議な安心感に満ちている。レイエンはその顔を見て、初めて、リンシンの中にもフェイロンの血の繋がりがあるのだということを感じた。

「少しずつで良い……もっと自分を大切にできるようになろう? 確かに旅の中ではつらいこともたくさんあるかもしれないけど、そういう時は仲間を頼ればいいんだから」

 最後に短い眉を下げながら照れくさそうに微笑むと、元気よくステップを踏みながら、宿屋の方へと帰っていった。

 レイエンは軽快な彼女の後ろ姿を見ながら、しばらく立ち止まったままでいた。

 そしてどこまでも広く、青い空を見上げた。頭上には1匹の鳶が飛んでいる。彼もまた、果ての無い地平線に向かい、行く当ての知れないまま次に飛ぶ空へと向かうのだろう。

 人間は空など飛べない。だからこそ、自分の向かう処に不信感を抱く。人間は鳥のように空から地上を見渡すことは出来ない故に、遙か遠い場所をその眼で見ることはない。向かう先に大きな砂の山が連なっているのであれば、尚更わからないものだ。

 だが鳥瞰の術が無くとも、人間は遙か遠くへと向かうことができる。それは今まで通ってきた絹の道が――歴史こそが明かしてきたことだ。その鍵となるのは、"人間同士の関わり"だ。古来より人間は協力を持って、発展していった生物である。

 この広い大陸を1人で歩くのは、至難の業だ。きっと目的を果たす前に、目的を見つける前に死ぬのだろう。けれど仲間がいることで、為せないことも為せるというものだ。

 レイエンは、月華義団の皆を信じるために、もう少しだけ自分を信じてみることにした。自分がどこから来たのか、どんな人間から生まれてきたのか。いまだわからないことばかりで、自分を信じるにはあまりにも難しい。だが、わずかな時間ではあるが、"月華義団と旅をしてきた"という記憶がある。自分が誰なのかを語るのは、今はそれで充分だとレイエンは思った。

 そしてその記憶は、自分を信じてみようと思える要素になった気がした。


 レイエンは早足で歩き出して、リンシンの後を追った。

 新しいラクダを手に入れたことで、荷物の準備も増えることだろう。今日も仕事は盛りだくさんだ。

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