【1】
レイエンは夢を見ていた。今いる場所が夢であるということはすぐにわかった。今まで砂漠の隊商宿を点々としながら旅をしていたというのに、いきなり唐風の怪しげな楼閣に一人立っていたからだ。
やや地味な色合いの楼閣はそれほど高くない。しかし、その建物の周囲の庭園はとてつもなく広かった。おそらく金持ちの敷地なのだろう。曇天の空に、灰のごとくよどんだ霧が周囲を覆っており、暗い物静かな雰囲気を醸し出している。陽が当たっていたのなら美しかったであろう庭を着飾る楓の木々は、その霧によって一段と不気味な色に染まっている。あまり長居したくないような場所だ。
心の中では少し戸惑いもあったが、夢であるのなら仕方が無い。目が覚めるまでその不思議な空間を調べることにした。詳しくはわからないがその空間に何処か見覚えがあった。だから何か自分の記憶に関する意味があるのでは無いかとレイエンは思ったのである。
一歩踏み出してみると、布を引き摺る感覚と身体の重みを感じた。来ている衣服を見てみると、長い袖と裾の豪華な漢服だった。ますます自分はいったい何者で、どうしてここにいるのか謎が深まる。
庭園の木々はあまり整えられていないようだった。かつて滞りなく手入れされていただろう背の低い植物群は無造作に散らかっており、雑草もところどころから伸びている。そればかりではなく湖の水は酷く汚れて腐った臭いをしているし、石畳にはコケが生い茂っていた。雨が降った後のようで地面は少しぬかるんでおり、泥を踏む音がよく響いている。植物と雨、土、湖の腐敗臭の混じった臭いが酷く厄介だった。
しばらく歩くと、前方に大きな影が見えた。霧で隠れてよく見えないが、おそらく建物だろう。レイエンはその方向にまっすぐ歩いて行った。蔦に覆われた月門をくぐった先には、大きな建物が見えた。石畳を挟む灯籠には赤い灯が点いている。この人の気配が無い場所で点いている炎を見て、こちらを待っている者がいるのではないかと思えた。レイエンは固唾を飲み、ゆっくりと扉の方へと足を運ばせた。建物へ近付くにつれて緊張感と恐ろしさが膨れあがってくる。それと同時に心臓の鼓動が早くなってきた。いつものように邪気に晒された時のような、吐き気と悪寒と、心臓の痛みが襲ってくる。
階段を上がり、レイエンは扉の前に立った。
本当のところ、その扉を開けたいとは思えなかった。忘れてはいけない恐ろしい出来事が、この扉の向こうで行われた記憶があった。どんな出来事だったかはわからない。だがそれはきっと記憶を失う前に体験したことだろう。根拠は無いが確信できる。そんな意味づけでもしなければ、この不穏な場所にいることを認められる気にはなれない。
――この中に、自分の正体がわかる手がかりがある。
レイエンはそう信じて、重い扉を開いた。
しばらく暗闇を感じていたと思ったら、その扉の向こうを知るより先に夢から覚めてしまった。
心臓の痛みは無いが、浅い眠りをしていた後でもあり体中がだるかった。汗がしみた服が身体にまとわりついて、とても気分が悪い。レイエンは身体を拭くため部屋を出た。
入り口付近の広間ではフェイロンとミンミンが背の低い長椅子に座って向かい合い、派手な装飾の盤上をじっくり眺めている。盤が西洋的なデザインをしているため一瞬よくわからなかったが、二人がやっているのは象棋(将棋のようなボードゲーム)だった。おそらく西洋人向けの商品だろう。
編み目の盤上には円盤形の駒が向かい合って対峙している。ミンミンの方が劣勢なのか、その愛らしい小顔はとても険しい。
レイエンはその試合を見届けぬままに、宿から出てすぐそばにある井戸へと向かった。身体を拭いている内に宿から「何なのよ、もう!」というミンミンの声が聞こえてきたため、その試合の勝敗が手に取るようにわかった。
身体を拭いてから、また二人がいた広間へと戻ると、入り口でふくれっ面をさせて駆けて出て行くミンミンとすれ違う。フェイロンの方を見やると、にやにやしながら彼女の背中を見送っている。
「彼女の読みもなかなか鋭いのですけれどね……もう少し冷静な心を持たなければなりません」
フェイロンはそう言いこぼし、盤と駒を片付け始める。レイエンはその片付ける様をぼんやりと眺めながら、先程見た夢を彼に話すべきか考えていた。普段、些細なことでもいいから何か変わったことが起きたら話して欲しいというふうに言われている。
レイエンが迷って何も話せないでいると、フェイロンから先に尋ねてきた。
「どうなさいましたか?」
「……おかしな夢を見た」
「通りで顔色が悪いと思いました。良い夢ではなかったようですね」
「良いとも悪いとも言えない。ただ不思議な夢だった」
気が付いたら豪華な漢服を着て、楼閣に立っていたこと。そこはとても暗く、不気味な荒れた庭園だったこと。そして最後には誘われているかのように大きな建物へ辿り着き、重たい扉を開けて中に入ろうとしたが、しばし暗闇に陥り、そのまま夢から覚めてしまったこと。とにかく印象に残っていることを詳しく語り続けた。
「はっきりとはわからないが……なぜかその場所に来た覚えがあるんだ。いや……俺はそこにいたんだと思う」
確信の持てない独り言を呟き、フェイロンの方に視線を向けると、彼が真剣にこちらの話を聞いていたようで、変に目が合ったと思ってしまい、レイエンはすぐに顔を背けた。
「他にも何か気になることはありますか? 夢のこと以外でも」
一瞬、昨日街で見かけた漢服の男が頭の中を過ぎる。大勢が行き交うバザールの中で、彼はレイエンだけを見ていた。彼に見つめられている時、その場所には男とレイエンだけしかいないような感覚があった。
気になりはするが、あの男が記憶に関わっている確証は得られない。彼と向き合っていた時間はあまりにもわずかであったから、もしかしたら勘違いだったかもしれない。
「いや、特にない」
「そうですか……」
フェイロンは少し黙った後にまた口を開いた。
「私は夢のことにはあまり詳しくはありません。ですが、あなたがその夢の場所の記憶が曖昧でも在るというのなら、あなたの中には潜在的な記憶があるということは考えることはできるでしょう」
するとフェイロンは、レイエンを長椅子に座るよう促した。そして続けて話始めた。
「これはあくまで私の仮説ですが、あなたのその苦しみは他者の術によって、意図的にかけられたものです。呪いと称して結構です、そういった部類のものです」
「呪い、か……」
レイエンはその苦しみが呪いであることに妙に納得して、安堵の胸を下ろす。だが、その呪いが誰にかけられたもので、どんな正体を持っているのかを知らなければ、根本的な解決にはならない。
「その呪いの正体はなんなのかわかりません。ですが、レイエンさんの体内にあるとは思います。正体がわからない限り無理矢理取り除くにはとても危険なので、私も為す術がありません。あなたはその呪いの正体を突き止めるために、この大陸を旅しなければならないでしょう」
レイエンは静かに頷いた。
「あなたはきっとこの西域よりも、東に用事があると思います。共に東へ参りませんか。月華義団の商売をしながらになるので、かなりの時間がかかると思います。一刻も早くその呪いを解き明かす術が知りたいのであれば、ここで一人ですぐに東へ向かうことも許しましょう」
この呪われた身一人でまたあの砂漠を渡るなど、自殺行為にしかならない。フェイロンがいてくれたから邪気に満ちた危険な砂漠を渡ることができているのだ。
「一人でまたあんな砂漠渡ったら……俺、死ぬだろ。普通に考えて」
レイエンが苦笑しながら言うと、フェイロンは何処か嬉しそうにして、柔らかく微笑んだ。「ふふっ……私もそう思います。それでは、まだ月華義団の商売に協力お願いしますね。まずはウテンに着いたらしばらく休んで、次の交易のための荷造りをします。そのあとはサマルカンドへ行って少しばかり商売と観光……その後は天山南路に乗って、東へと向かいます」
フェイロンは少し声を低くして、また話を続ける。
「レイエンさん、あなたは東へ向かうまでの間、呪いに抵抗する力を強めなさい。旅の中では特別な訓練は出来ないから、毎晩私と瞑想をすればいい。あなたの身体ではとても危険な行為かもしれませんが、身の安全は私が保証します」
それから……と言ってフェイロンはこれからの策を淡々と喋り続ける。レイエンはそんな彼を見て、思わず言葉を遮ってまで問いをかけた。
「なぁ、なんでお前はそこまで俺に親身になってくれるんだ? こんなどこから来たのかもわからない、記憶喪失の男を……」
レイエンは俯いて、言葉を続ける。
「こんな面倒な奴、放っておいた方が時間の無駄にならなくて済んだんじゃないのか」
フェイロンは少し黙り、その答えを考えるかのように顎を撫でた。
「……いろんな理由がありますよ。まず第一に、私もかつてあなたと同じように邪気に悩まされたから、まぁ、放っておけないんです」
「お前もこういうのに苦しんでいたのか?」
「私は生まれつき邪気に弱く、呼びやすい体質であり、無防備にこの身体をそれらにさらされてばかりいました」
するとフェイロンは、少し表情を曇らせて、話を続けた。
「仏のご加護によって守られている長安から出て砂漠へ近付くと、いつも心身を蝕まれそうになりました。だから旅をしたくても、途中で引き返すばかりだったんです。あの時はリンシンやディジャンも商売に協力してくれていましたから、私がこんな弱い身体では彼らにも迷惑がかかってしまう。だから私は仙人の修行を始めたんです。修行は中途半端に終わらせてしまいましたが……俗世へ戻ったことで、この大陸には無限の邪気が存在していることを知りました。だからある種の使命感なんてのもありますよ」
フェイロンはさらに声を低くする。
「それに……私はこの体質のせいで、とても良く面倒を見てくださった大切な師を亡くしています。次はリンシンやディジャンを苦しめてしまうかもしれない。そんなことで、大切な人を失うのは嫌ですよね」
「だけど……俺はあんたの幼馴染みでも、家族でも無いだろ」
そんな俺を、親身になって助けてくれる理由がどこにあるというんだ。レイエンはそう心の中で続かせて言った。
「あなたは初めて出会ったあの時、私のことを信じてくださいました。だからあなたのことを大切に思う……あなたのことを救いたいんです」
フェイロンはそう言って、また優しく微笑んだ。レイエンは溜息を吐いた。
「そんな理由で足りてんのかよ」
「足ります、私は嫌われ者なんですよ。私のことを信用してくださる子は皆大好きです。レイエンさんのことも大好きですよ」
レイエンは思いっきり俯いて、羞恥に耐える顔を隠した。
「よっ……くも、まぁ……そんな恥ずかしいことを言えたもんだなあ……」
「ふふふ、本当の気持ちですよ。ねぇ、レイエンさんは?」
「は、はぁ? なにが」
するとフェイロンは、レイエンの膝に手をかけて、顔を近づけてきた。その瞳に引き寄せられるかのように、目と目が合う。
「レイエンさんは、私のこと、どう思っているんですか?」
彼との距離が近くて、レイエンは思わず冷静さを失わせる。やたらスキンシップが多いへらへらした奴としか思っていないが、今日のフェイロンの言うこととその色気は、普段のスキンシップとは全く違う、どこか本心のものが見えた。
「な、は、べ、別にお前のことなんか大して思ってねえ、けど……その」
途中まで言って、口籠もらせる。フェイロンの眼を見ると、余計にごまかすことができない。
「い、いつも相談とか乗ってくれたりするのは……ありがたく思ってるよ……」
「ふふふ、可愛い」
「か、可愛いって言うな!!」
顔を真っ赤にさせるレイエンに、フェイロンは口に手を当てて微笑んだ。可愛いと言われたことをいまだ気にするレイエンを構わず、フェイロンは次に手を合わせて上機嫌のまま言った。
「さぁ、今日はみんな休日ですよ。レイエンさんも街で遊んでいらっしゃい」
そんなこと言われても何をすれば良いのか、というような表情をさせていると、それに察したフェイロンは、少しの小銭が入った金袋を手渡してきた。
「まずはミンミンさんと一緒にお出掛けしてきなさい。多分まだ外でいじけていると思いますから一緒に連れてってあげてくださいね。買い物をした序でに遊んでくると良い」
「何で俺があんなガキと一緒に」
そんな文句も関係なく、フェイロンはレイエンの背中を押して無理矢理宿から追い出す。
「ほらほら良いから! それじゃあ、いってらっしゃーい!」
フェイロンに外出を促されるまま宿から出たレイエンは彼の調子に流されてばかりの自分にうんざりしていたが、そんなことをしていても仕方が無いので、まずミンミンを探し始めた。
フェイロンの言った通り、ミンミンはキャラバンの荷物が置いてある宿の裏で、彼女の商品である武器の大きなかごにもたれかかり、ひっそりと蹲っている。クァンを収納している手鏡を寂しげな眼差しで見つめている。
試しに名前を呼んでみると、まだ機嫌がなおりきっていないのか冷たい声で「何よ」と返事した。レイエンは、生意気なガキだと思いつつ、フェイロンから貰った金袋に入っていた買い物リストをミンミンに見せた。
「買い物を手伝ってくれ、仙人の頼むものはよくわからん」
「……まったく人使いが荒い奴ね」
確かに、とレイエンは心の中で同感した。
「買い物序でに遊んでこいとも言われた。何か欲しいものがあったら買えばいい」
「わかったわよ……付き合うわ」
ミンミンは気怠そうに立ち上がると、先にレイエンの前へと出て、そのままバザールの方に歩いて行く。レイエンは短い溜息を吐きながら、ミンミンの後を着いていった。
月華義団が泊まったキャラバンサライは、背の低い建物が多く、特にバザールは陽の光がよく届いているのでとても明るい。
朝のバザールは準備をしている店も多いため、賑わいは落ち着いている。だが早起きの老人が営むような店はもう開店していた。まだ朝の冷たい空気の残る静かな商店通りは、これから昼にかけて賑わっていく兆しを感じさせる。
その中で漢方薬や呪術関係の商品を取り扱う店へと赴き、ミンミンは買い物リストに書いてあったものをすらすらと頼んでいく。また他にも、怪我をした時のための包帯や鎮痛薬など、なるたけこれから遊ぶのに邪魔にならないような軽くて小さな生活用品を買いに行った。 買い物が終わるとどんどんと開かれていくバザールを二人してぼんやりと眺めた。ミンミンの機嫌もなおってきたようだが、どうにも彼女の無愛想さが気まずい空気を呼び起こす。レイエンは妙に落ち着かずにいた。
「好きなもん買ってくれば」
「別に、興味ない」
彼女のこういうところが、なんとも可愛くないガキだと思わせる。
レイエンは朝飯を取っていなかったことに気が付いて、開き始めてきた売店の内、ミンミンの口にも合いそうなところを探した。
「何か食う?」
そう問いかけると、ミンミンも朝飯を取っていなかったことに気が付いたようで、少しきまり悪そうにしながら小声で答えた。
「えぇ、そうね……」
「何が食いたい?」
「何でもいい」
そういう答えが一番面倒なんだけどな、とレイエンは思うだけで何も言わずに、適当に食べやすそうな屋台へと向かった。
高温に熱した煉瓦の釜からはサムサの香ばしいかおりがする。サムサとは羊肉をナンで包んだ、いわゆるミートパイのようなものだ。煉瓦の釜に張り付いているそれらをよく見てみると、生地には団花の押印が飾られている。麺包に刻まれるデザインは地域性のものなのだとか。
小銭を店主に手渡し、サムサを二人分受け取ってレイエンはミンミンの元へと戻った。ミンミンは最初、朝からこんな脂っこいものを食べさせるのはいかがなものかといったような嫌そうな顔をしていたが、ひとくち食べてみると意外にも口に合っていたようで、単調な言葉であったが「おいしい」と呟いた。レイエンも自分の分をかぶりついてみる。肉の脂身よりも先にごろごろとしたタマネギやにんじんの存在感がとても目立ったが、細かく刻まれてある羊肉からすぐにジューシーな肉汁が溢れ出てくる。とはいえそこまで脂っこくもなく、またクミンやフェンネルなどの香辛料を使っているのか、クセは強くない。レイエンにとってはもう少しばかり肉が欲しかったところだが、朝の胃には楽な一品だ。
レイエンとミンミンのその食事風景を微笑ましそうに見ていた別の屋台の店主が、温かいチャイを持ってきてくれた。
「旅の人、良かったらうちのお茶を飲んでいっておくれよ」
「いいのか?」
レイエンが小銭を出そうとすると、かっぷくの良い女性店主は、陽気に笑いながらあつあつのチャイを二人に押しつけてきた。
「構わないで、そこのお嬢さんがとっても可愛らしいから、特別に二人とも無料にしちゃうわよ」
「ありがとう」
タクラマカン砂漠に足を踏み入れたこの地域はどんどん旅が過酷になっていくことから、旅人たちの休む宿や市場の人々はとても気前が良い。またしばしばおもてなしが大好きである。
「二人は兄妹かしら?」
女性店主が不思議そうに尋ねてくると、ミンミンは即座に「違います」と答えた。
「……まぁわけあって旅しているだけの間柄だ」
レイエンはそう付け加えた。
「旅人さんなら今日のラクダレースには参加するの?」
「ラクダレース?」
二人が同時に聞き返すと、女性店主はまた微笑んで説明し始めた。
「えぇ、参加者は旅人限定のラクダレース。一等賞を獲得した子には、これからの砂漠越えにも耐えてくれる強いラクダと、そのラクダのために、ウテンへ着くまでに十分な餌や水を与えられるのよ」
女性店主は「もうそろそろ準備が整ってきた頃だと思うのだけど」と言い切る前に、店に他の客が来ていることに気が付いて、すぐに二人の元から去った。
確かにその情報は確かなようで、段々とバザールの向こうから喧噪が聞こえてくる。
「で、行くの?」
ミンミンがレイエンに向かってつまんなそうに尋ねてきた。
「まぁ……フェイロンに遊んでこいと言われてるし、他に見に行きたいとこもねえし……」
そう曖昧に答えると、ミンミンはまたもやつまんなそうな顔をして「ふーん」と言った。
「……とりあえず見に行ってみましょうか」
「そうだな」
二人はチャイの器を屋台に返してから、そのラクダレースが行われるという街の外れへと向かった。
少々の草と砂しか無いだだっ広い試合会場には一直線に柵が敷かれており、コースの端には20頭近くの屈強なラクダたちが横に並んでいる。外縁にいる人だかりは、まだ陽がそこまで登り切っていない早い時間だというのに随分と熱くなっていた。
背の低いミンミンはコースをまったく見られない上に、人だかりによって起こった砂煙を吸って息苦しそうにさせながら、どうすれば人だかりの多いこの場所からコースを見れば良いか考えあぐねている。
「持ち上げてやろうか」
彼女が煩わしく思っている様子をレイエンはしばらくの間見ていたが、そんなのを見ていても仕方ないので声をかけてやった。負けず嫌いな彼女は一瞬躊躇おうとしたがすぐに口をつぐんで、ジト目になりながら背中に乗っかかってきた。
レイエンは先程兄妹と間違えられたことを思い出して、無理もないかと思った。
「よ~!! レイエンとミンミンじゃねえか、お前たちも来てたんだな!」
後ろからディジャンの声がしたので振り返ると、ディジャンはこちらを見つめて、少しかける言葉に迷っているような様子をしている。
「……何かお前らめっちゃ仲良くなってんな!」
「は!? べ、別にそんなんじゃないわよ!!」
「こいつがラクダを見られないからおぶってやってただけだ」
二人とも早口で弁明をするが、その慌てぶりを見てディジャンはただにやにやするだけであった。ミンミンはいたたまれなくなったのかすぐにレイエンの背中から降りる。
「そんなことより、今日のラクダレースにリンシンが参加するんだぜ!」
「あの女、本当に自由だな……」
レイエンは溜息雑じりで呟いた。
「まーまー、優勝賞品はラクダと餌と水なんだから、参加して損は無いだろ。開始までまだもう少しあるから見に行こうぜ」
ディジャンに連れられるまま向かったのは、選手が待機しているスタート地点であった。リンシンは既にラクダに乗っており、男衆の視線を浴びている。
レイエンとミンミンが来たことに気が付くと、すぐにリンシンは彼らの元に駆け寄った。
「あら! あなたたちも来ていたのね。応援よろしくねー!」
リンシンの倍以上の背丈がある大きなラクダは、この地域の牧畜民が戦場で扱うために育てられているラクダだった。タクラマカン砂漠はこの大陸の中でも特に過酷な交易路であるため、たまにこのような軍用のラクダが出回る。2メートルほどにしかならないヒトコブラクダよりも早く動き、多くの荷物を運び、時には襲ってくる妖怪や盗賊に反撃を繰り出すことの出来る勇猛果敢なラクダである。
「もう始まっちゃうわね、それじゃあいってきます!」
リンシンはそのままスタート地点へと着き、レイエンとミンミンはディジャンが強引に人だかりを開いて、共に競争のよく見える柵の手前で開始を待機する。
レースが始まる前に、司会者が大きな声で挨拶と選手の紹介のための演説をし始める。
どうやらリンシンは選手の中で唯一の女性らしく、通りで観客からの視線がとても熱い。観客の男たちの中では「旅の踊り子らしいぜ」だとか「かわいい娘だな」だとかいろいろな意見を言われていて、それを聞いたディジャンは少しいらいらした様子になっている。リンシンはスタート地点からでも彼のその表情を見ることができて、そしてなぜだか面白い気分になった。
選手は若者から中年までいたが、いずれもこちらに視線を送っていたり、にやにやした表情を向けているやつらばかりだ。こういう者は大体がこちらの能力を甘く見ている。商人としての顔を出さない場では、どんなところでもこのような気分の悪い視線を向けられる。女であると判断しただけで、無意識の内に自分よりも下位の存在であると思い込む男ばかりだった。このような競い合いの場で、見た目だけで優劣を区別されることにリンシンは気分の悪さを覚えた。商談という、ギルドの顔だけを出すことの出来る場では、見た目で相手の能力をはかる暇はない。常に話術で人の能力をはからなければ、そのまま相手に乗せられてしまう。
見た目で区別される世界とはなんとも理不尽だが、何事も勝ち取れば良いのだ。勝ち取ることが出来たのなら、誰も上等な文句も煽りも出来やしない。
参加を志願したのはとても軽い気持ちであったのが、このスタート地点に立った時点で優勝を絶対に勝ち取ってやると強く感じた。
選手全員がラクダに乗った状態でスタート地点に並び立ち、レース開始の合図を待つ。爆竹の音がスタートを報せるまでの沈黙は、まるで時間が止まっているかのようだった。しかし爆竹が火花を散らし鳴り響いた瞬間、ものすごい勢いで20頭ほどのラクダたちが一斉に直線のコースを走り始めた。そして同時に、観客からの歓声が巻き起こる。
スタート開始時に何頭かがラクダに体当たりをさせてきた。リンシンは振り落とされないようにしっかり手綱を握り、内股でしがみつく。爆竹の音にすら怯まないラクダは、たとえ体当たりされてもスピードを落とさない。まさに軍用馬と引けを取らぬほどの凜々しさを感じさせる。
さすが牧畜民の育てているラクダということもあり、リンシンの信頼と敬意をすぐに察知して、お互い深く信頼しながら思いっきり走り続けた。途中ラクダが何かに興味をそそられコースからはみ出てしまったために、試合を棄権する者が出てきた。レースの中盤にさしかかると、ラクダは半数ほどになってしまった。
もうすぐでゴールを通るところで、優勝争いをしていた数頭のラクダの内、1頭の様子が急に変わり、首を振り回し始めた。気が付いたリンシンは様子が急変したラクダの方に視線を向ける。そのラクダに乗っている選手は疑問の表情を浮かべるばかりで、走り続ける以外に為す術は無い。リンシンはそのラクダの様子を警戒した。よく見ると口から泡を吹かせているし、舌をはみ出させているし、目は虚ろである。ラクダの様子がおかしくなったことを報せて試合を中断するよりも先に、とうとうそのラクダは気が狂って、ほかのラクダや選手に体当たりをしたり、乗りかかったりして襲い始めた。
予期できぬアクシデントに、観客がどよめく。
体当たりや爆竹の音にすら怯まないラクダでも仲間の狂乱には驚いたようで、各々落ち着きの無いいななきをあげる。
リンシンは突然気の狂ったラクダの体当たりを受け、宙に浮くほど飛ばされ、ラクダから落ちてしまった。さすがの主催者や観客も状況の酷さに気が付いたのか、すぐに試合を中断して事故のあったコース内へと入っていった。
ギルド仲間であるレイエンとディジャンとミンミンが真っ先にリンシンの元へ駆け寄った。リンシンは頭から血を流して気を失っている。
「う、嘘だろ。リンシン! 大丈夫か!! 生きてるか!?」
「いや落ち着けって! まだ生きてるから!」
青ざめているディジャンをなだめるレイエンも少しの戸惑いを感じていた。リンシンは呼吸はしているものの、出血をしている以上安心は出来ない。それに帰ってからフェイロンに何を言われるかも少し不安なところだ。
「とりあえず誰か医者を呼んできて」
ミンミンが落ち着いてその場の男衆に頼んだ。幸い、何か大事が起こった時のために街の医者が待機していたのですぐに駆けつけて、手当をしてくれた。
気の狂ったラクダは、いまだコース内で暴れ回っている。やがて誰にも手に負えなくなると、ラクダは麻酔の塗られた吹き矢を受けてその場で倒れた。
騒動は終わったが、リンシンだけでなく選手やラクダを止めようとしていた人々も怪我をしており、他のラクダたちもそわそわとしている。とてもレースを再開できそうな状況では無く、試合は中止となってしまった。




