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砂塵の狼  作者: れのん
第5話 黒の川
12/21

【1】

 緑の生い茂る森の中、木の陰から漏れ出す光が、水面に美しく反射する。濁りの無い小さな湖には、その反射した光が、底にまで届き、湖の水全体を照らしていた。

 辺りにはしばらく目にしていなかった草木の緑色が、溢れんばかりに視界に入ってくる。緑の中には、紅色の木の実もところどころに見え、それがとても美しく映えていた。

 食べるにはやや早いかもしれないが、リンシンはそれを少しばかりもぎ取り、水に浸かりながらひとかじりする。苦味はかすかに感じられるが、さっぱりとした後味が十分に喉の渇きを潤していく。

 今まではずっと、砂漠の土の色を見ているばかりであったが、こうして優しい自然の中に浸れることに、この上ない幸せを感じた。

 砂漠のような暑さも寒さも感じない、非常に快適な美しい自然の中で、みずみずしい果実を口にしながら水浴びをできることに、言葉では表しきれないほどの感謝を覚えた。

 ようやく砂漠地帯を抜けた月華義団だが、これからはオアシス地帯を往く。まだしばらく、ところどころ乾いた大地を踏み続けるだろうが、もうすぐで、より豊かな草原に達する。それは、我々の旅の苦労がだいぶ減らされるということである。

 また、最近新しくギルドに加入したレイエンも、まだ素っ気ない感じは抜け切れていないが、段々慣れてきた頃ではあるし、きっとこれからの旅はもっと楽しいものになるだろう。

 リンシンはこれからの旅路のことを考えると、一人で嬉しくなり、足で水をかきあげ、ぱしゃぱしゃと音を立てた。


 段々と腹も減ってきた頃だった。

 もうそろそろ男共が朝餉を用意している頃だろう。まださわやかな朝日を浴びながら、涼しい湖の中に入っていたい気持ちだったが、せっかく食事を用意してくれる彼らを待たせるわけにはいかないので、リンシンは戻ることにした。


 体を拭いている最中、茂みから何者かの気配がした。リンシンは咄嗟にその気配の方向を向いて、疑った。

(兄さんかしら……)

 とは思ったが、それはあまり考えられない。いくら兄妹といえど、心を許している者同士であっても、紳士的な性格の兄が、わざわざ妹が水浴びをしているところまで来たりはしない。……何か重大な事件が起きない限り。

 この森の中のことだ、多くの生命も朝日を浴びながら、食べ物を探していることだろう。リスやウサギやらの生命がいるのは明白だった。


 しかし、その気配はやや様子が違った。

 どうやらこちらを警戒して、ゆっくりと近づいてきているようだった。

 リンシンは何となく、嫌な予感を察する。服には着替えず、体を拭いていた布で前を隠しながら、その茂みの方向を凝視した。


 しばらく凝視した後、その気配が止んだような気がして、リンシンはほっと肩をなでおろす。

(思い違いだったようね)

 こんなに和やかな場所に、何か危険なものが現れるはずはないと思い、着替え始めようとした矢先だった。

 気配のあった茂みから突然、木の葉のこすれる音が鳴ると同時に、小さな獣が飛びかかってきた。

「ぎゃーーーーーー!!??」

 リンシンは間一髪で回避し、着地をした獣に振り返る。


 そこには耳に届くほど長い牙を持った、非常に厳つい表情の野ウサギが佇んでいた。目は血走っていて、獰猛そうな様子が見た目からでもうかがえる。ふらふらと足元のおぼつかない様子で、とても理性的であるとは言えない。

「さ、殺人ウサギ……!?」

 これはウサギではあっても、凶暴性を持ったウサギ。低級の妖怪の一種でもある、殺人ウサギという獣である。遭遇することは珍しいわけではないが、よくフェイロンが、じめじめとした暗い森の中に現れやすいと言っているため、こんなにも美しい森の中にまで現れるとは思いもしなかった。


 だが、そんなことを考えている場合ではない。ウサギはまたもや、第二の突撃を繰り出そうとしている。リンシンは恐ろしい気持ちになり、足が動かず、どうすることもできなかった。

 そしてウサギは助走をつけて、リンシンめがけて突撃を始める。

(やばい、やられる……!!)


 目の前にウサギが飛びかかってきた時、リンシンは目をぎゅっと瞑った。こんなにも小さな獣に殺されてたまるかという思いもあったが、どうすればいいか、最後の最後まで考え付かずにいた。




 しかし、その瞬間、耳の真横から、ヒュン、という素早い風のような軽い音が鳴った。

 そして、その音の後、ウサギが「ギャッ」と鳴き、ぼとりと地面に倒れ伏した。

 目の前には、頭を矢で貫かれて絶命してあるウサギが、赤い血を流しながら倒れていた。

 軽い音のした後ろの方向からがさがさと、茂みの擦れる音がしたため、リンシンは咄嗟に後ろへ振り返った。


 そこには、大きな西洋弓を片手に持ったルーフンが佇んでいた。装具をつけていないため、おそらくまだ狩りの最中だったのだろう。腰には捕獲したウサギやリスなどの小動物を吊るしている。

 助けてくれたことに感謝と安心感を覚えたリンシンだったが、すぐに自分が服を着ていない状態だったということを思い出して、前を隠してしゃがみこんだ。

「ちょ、ちょっと。どこ見てんのよ、早く向こう行って!!」

 リンシンは必死に叫んだが、ルーフンはいつもの飄々とした表情をさせながら、立っている。

 何も思っていないということはわかりきっていることだが、その時のルーフンはいつもより、何も考えていなさそうな雰囲気だった。

 ルーフンは、リンシンには目もくれずに、仕留めた殺人ウサギをつかみ取り、腰に紐で吊るして、また茂みの向こうへと、ふらふらとした足取りで帰って行った。


 思えば、ルーフンは砂漠越えをする時はほとんど寝ていない。

 きっと疲労が溜まっているのだろう。今では話しかけても応えない、ただひたすらキャラバン護衛と朝餉を仕留める機械となっている……。

 夜の見張りなどは、レイエンに手伝ってもらったことはあったが、やはりルーフン自身の彼への信用が足りないのか、自ら見張りをやろうとするのだ。

(街に着いたら、たくさん寝させてあげないとだめね……)

 リンシンはなぜか申し訳ない気持ちになり、服を着て、キャンプへと戻った。


 ** ** **



「今日こそ次の街へ着きます。皆さん、疲弊してますでしょうが、ルーフンおじさんこそが限界です、もうひとがんばりですよ」

 メンバーや後方の商人たちとは違い、疲れた顔色を見せないフェイロンは楽しそうに皆に言った。いつも暗い車の中にいたフェイロンだが、久しぶりに緑豊かなオアシス地帯に入ったためか、今日はらくだの上に乗って、キャラバンを率いている。

 レイエンはいつものようにルーフンと反対側の守りについて、同時に、荷物を乗せたろばをひく。以前、壊滅させた盗賊団から頂戴した宝物はまだ残っており、運搬動物たちの足を遅くさせていた。

 しかし、もうすぐで大きめの街に着けるということから、捨てるにも捨てられず、ここまで運んできてしまったのであった。

 次の街、且末国では、絶対にこの宝物たちを売り飛ばさなければならない。こんなにも重く、かさばるものをいつまでも運んではいられない。

 砂漠の旅は非常に体に負担がかかるものであったが、砂漠を越え、緑豊かな地帯に入った今、砂漠にいた頃悩まされ続けた心臓の痛みが消えていることに、レイエンはふと気が付いた。もう慣れてしまいそうになっていたが、砂漠にいた頃よりも体がとても軽かった。

 そしてそれと同じ頃、舗装された道に差し掛かると、行商人なども見るようになっていく。久しぶりに見知らぬ通りすがりの人々を見て、今まで我々が通ってきた砂漠は、人間の入るべきところではないということを改めて思い知らされたようだった。

 道の脇には、野花がぽつぽつと咲いている。そしてもっと進むと、畑や田んぼも見えてきた。

 道を沿ってまっすぐ行った向こうには、且末国の街並みが見えてきた。高い建物はあまりないが、とても素朴な家々が木々と共に立ち並んでいる。その素朴さが、ほかの街を見るよりも、さらなる安心感を生む。

 街へと続く畑や田んぼの道も、人間の築いている文明の証である。今まで道すらも無かった砂漠に比べれば、遥かに快適な環境であった。

 しかし、畑や田んぼの実り具合を見てみると、大したこともなさそうで、それが少し違和感に思えた。確かに今は実りの時期ではないのだが、それにしても茎や葉に活気が見られない気がした。


 一行は且末国の街の門を通ると、早速門番の兵士が敬礼をしながら、先頭を歩くフェイロンに話しかけてきた。

「ようこそ、且末国へ。あなた方を歓迎します」

「ありがとう。早速で申し訳ありませんが、露店許可を頂ける所を教えていただけますか?」

 すると兵士はやや、気の毒そうな顔をして、応えた。

「……露店許可、となりますと、領主様のお屋敷になりますが」

 その反応にフェイロンは不思議そうに、首をかしげると顔をすると、兵士はもう一度、言い直すかのように、言葉を付け加えた。

「あぁ、いや。許可が下されるのは難しいかと思われます……あまりご期待なされないほうがよろしいかと」

「おや、そうなのですか? どうして?」

 兵士は短いため息をついて、視線を落としながら言った。

「領主様がここ一年ほど、どの商人にも通商の許可をお与えになっておりません。訪ねるに越したことはありませんが、きっと許可は下されないでしょう」

「……では、かつて営業権を商人に与えていたことはある、ということですね? 充分ですよ」

 フェイロンはにやりと笑った。兵士は何やら戸惑った表情ではあったが、フェイロンはそのまま門を通り、そしてキャラバンも後に続いて街に入っていった。


 道の脇には落ち着いた雰囲気の素朴な街並みが並んでいる。民家はどれも背の低い建物であり、建物も民衆も派手な服装をしていない。誰も富裕であるようには思えないが、貧しさも感じられない。とても穏やかな街だった。

 月華義団はまず、宿に向かって、荷物を置いた。この街でもいくつか仕事があるが、皆長旅で疲れているので、今日と明日は休日となった。

 そのはずだったが、レイエンだけはフェイロンに呼ばれ、急きょ彼の仕事を手伝うことになった。

 これから領主に露店の許可をいただきに、ついでに領主自身との商談のために、領主の屋敷へ向かわなければならない。

「俺だけ休日出勤か……」

 街の道中、レイエンは呆れた顔をさせながら、不満げに言った。

「まぁまぁ。私もいるんですからいいじゃないですか」

 フェイロンはにこにこと楽しそうに言った。レイエンは口には出さなかったが、「お前と一緒だから、嫌なんだ」とでも言いたげな顔をさせた。

「そもそもルーフンを連れていけばいいじゃないか。商談に着いていくだけだろう」

 ただでさえ普段酷使されている彼を、もっと働かせろとは思わないが、彼こそフェイロンの護衛に相応しいだろうとレイエンは思った。

「ルーフンおじさんは砂漠越えした後、一日二日は起きませんよ。お腹でも切り刻まない限り、どんなに揺さぶっても起きません」

 先程、宿に着いた途端、倒れるように寝椅子にもたれかけ、その瞬間に眠りについたルーフンを思い出す。「疲れた」というような言葉は一切口にせず、疲労感も顔に表さない彼だったが、あれだけ働いていて疲れていないわけがなかった。

「ルーフンおじさんの負担を減らそうと、あなたを雇ったというのに、彼が分業しようとしないのでは、意味がありませんよねえ。また厳しく言いつけないとだめですね」

 フェイロンはため息をつきながら、言った。

 レイエンが夜のキャンプの見張りをやろうとしても、キャラバンを襲撃する妖怪を退治しようとしても、そのすべての仕事をルーフンが奪ってくる。そうでもされては、こちらのやる気がなくなってくる。


 ルーフンという奴隷は、フェイロンが五年前に買った奴隷であるとレイエンは聞かされた。生まれた時から奴隷であり、そして残虐性の持ち主であった。主人が変わる度に主人を殺害し、食らい、とうとうその凶暴性に手に負えなくなった奴隷商人たちが処刑をしようとした際に、仙人修行から帰ったばかりのフェイロンが買ったのだという。

 仙人修行を経て、人の心を操れる術を手に入れたフェイロンがルーフンを飼い慣らすのは、造作もないことだった。言うことを聞いて、優れた仕事をすれば、一日中褒め、逆に言うことを聞かなければ、一日中犯し、身も心も痛めつける。その調教があってようやく使役することができたのだ。

 以前ルーフンに「フェイロンを怒らせない方が良い」と言ったのはそういうことだったのかと、レイエンは腑に落ちた気がした。


「領主の屋敷はあっちだろう」

 フェイロンが領主の屋敷とは別の道に進んだため、レイエンは指摘をする。

「領主様のお屋敷に向かう前に、見ておくべきものがあります」

「見ておくべきもの?」

 レイエンが疑問の表情を浮かべると、フェイロンはやや低い声で話しだした。

「レイエンさん、ここまで来る途中……この周辺でもよろしいでしょう。何か気になることはありませんか?」

 気になること、と言われても、ただひたすらのどかな街並みが広がっているとしか思えない。レイエンが何も答えずにいると、フェイロンはまた言葉を続けてきた。

「人は? 作物は? この文明的な街には、どこかそぐわない不具合がありますね」

 そう言われた途端、レイエンはあることに気が付いた。

 先程、畑道を通っていた時に、作物の実りがやや乏しく見えた。それが関係しているのだろうか、川から街を横断する用水路の水は殆ど無かった。枯れているわけではなさそうだが、あえて水を通していない様子にも見えた。

 そして、貧民の住む小路地には多くのみすぼらしい人々が、茫然と座り込んでいる。

「仕事を失った者が多い……?」

 レイエンは呟くように、控えめに言った。

「えぇ、日照りでもないのに、なぜ浮浪者が多くみられるのでしょう。十中八九、この灌漑施設に問題があると思われます」

「だが、それが商談に関係あるのか?」

「且末国は商人に販売を許可していたと聞きます。本来であれば、また営業権を与えたいはず。……ですが、何らかの理由があって、交易ができないでいると考えられます」

 確かに、先程街を通ったが、バザールはまったく賑わいを見せていなかった。特産品に弱い街は商売に弱い。だからといってここは農作物という強みもあるが、やはり農作物の量に何か問題があるのだろうか。

「この国が抱えている問題としてあげられるのは、作物の不良です。飢餓になる規模ではありませんが、自国で消化するのに手いっぱいなのでしょう。この国は食糧が主な交換の品ですから、商売まで回せる作物はない。だから領主も、民も、よその商人と商売ができない。そういった悪循環に見舞われている……」

 フェイロンの声色が、徐々に、真剣な調子になっていく。

「そして何らかの理由で、その問題を自国だけでは解決できないでいる。そこで私たちが解決する。その代わりに私たちに営業権をお与えください。――うまくいけば、そういう筋書きです」

「なるほど……」

 レイエンは半信半疑のままだったが、仕方ないのでフェイロンにそのまま着いていくことにした。

 畑道をずっと歩いていくと、やがて用水路へと水を引いている川が見えてきた。先程の町とは違い、あたりには建物が少なく、仕事をするために使われているのだと思われる小屋が点々としている。

 一見、とても和やかに見えるのだが、レイエンには周囲に何か違和感が覚えた。

 みずみずしい色をした草原が風に揺れている。澄み渡る青空の下、明るく強すぎない日差しが、農地一体を照らしている。こんなにも平和な景色なのに、レイエンには、何かよくわからない気分の悪さが、その身に突き刺さるように感じた。

 さらに、川へ近づけば、以前砂漠にいたときのような心臓の痛みを感じた。まるで誰かに心臓を握りしめられているような、今にも潰されてしまいそうな恐ろしい感覚であった。もう感じることはないと思っていたからこそ、その痛みが思い出された途端、不安感が胸の中に溢れ出す。

 レイエンは痛みと吐き気に耐えつつ、ぼんやりとその川を見ていると、フェイロンが顔をのぞかせてきた。

「何か、感じるものはありますか」

 レイエンは一応頷くだけはしといたが、言わせなくてもわかっているくせに、と心の中で思った。意識が朦朧としつつも、レイエンはしっかりと両足で立ち、気を保たせることに集中した。

「私にはこの川が、黒く見えます。まるで墨の川のように、淀みの無い黒です」

 その言葉に、レイエンは少しぞっとする。嫌な気は感じるが、レイエンには、川の水は透き通って見えた。

 フェイロンは川の上流の、向こうにそびえる山を指しながら、落ち着いた声で言葉を続ける。

「きっと近くで戦があったのでしょう。それほど大きくはない、それでも多くの血と憎悪を撒き散らした、穢れた戦がありました。ただの人間ではこの川は普通の川に見えるでしょうが、かなり、深刻に、汚染されています」

 こんなにも気味の悪い水が、あの灌漑施設を通り、畑の周りに染み込んでいくというのだろうか。レイエンには、その川の水が透き通った色で見えたが、川全体から放たれる不気味さは痛いほどに伝わってきた。

 レイエンは心臓を抑えて苦しそうにしていると、フェイロンがいつものように数珠と札を手渡してきた。

 彼の浄化術が施されてあるそれらを身に着けていると、まだ痛みは落ち着いてくる。だが、それは一時的なもので、痛みは完全に消えることはない。早く立ち去りたいところではあったが、フェイロンは川周辺の調査を止めない様子だった。

 砂漠の生活からいつものことではあったが、フェイロンから数珠と札を与えられることと、邪気の避け方を教えられるだけで、何か改善策を教えてくれることはなかった。いつまでたっても、一時的に痛みを和らいでもらうだけで、専門家である彼から教えてくれることは何一つ無かった。

 またもや、何でもなかったかのような顔をするフェイロンにややいらつき、レイエンは言葉を途切れさせながら、文句にも取れるような質問をした。

「なぁ、俺は特に、"それ"に弱いようだ。リンシンたちは顔色一つ変えない。お前ならわかっているんだろう?」

「邪気のことですか? そうですね。あなたは他の人間よりも特に、弱いようです。並みの浄化じゃ効いているような気配がありませんもの」

 軽い口調で言われ、レイエンは眉を寄せる。

「……じゃあ何とかしてくれないか。毎回本当に苦しいんだ。俺では、それを見ることはできない、ただ苦しいだけなんだよ。確かにお前の術で、少し軽くなるが……俺、もうずっとこのままなのか? せめて俺でもできる対策があればいい。何かできないのか?」

 言い終わってからようやく、レイエンは自分の言っていることの情けなさを感じた。

 けれど、この痛みを感じる度に、彼へ頼ることがいやだった。砂漠にいた時、特に夜は毎晩、心臓の痛みが激しかった。そのときには必ず、フェイロンが浄化を施してくれたのだった。 何が俺を苦しませているのかとたずねれば、その都度、周囲に多くある邪気だと呟いた。けれども、同じ場所、近い空間にいるのにリンシンやディジャンは、痛みを感じていないのか、いつもと変わらない様子なのが、とても違和感であった。

「こういうものは、こまめに対抗していかないといけないものです。確かに今は苦しいでしょうが、丁寧に向き合っていけば、きっといつかは何も感じなくなります」

 フェイロンは優しく微笑んだ。

 だが、そんなことは、砂漠でも言われ続けてきた言葉だった。いつもと同じ調子で言われたレイエンは、また少しいらつき、フェイロンの腕を掴んだ。

「……言えよ。前から思ってた。お前はいつもはぐらかしてばかりだ。本当は何か、わかっていることがあるんだろう? ほんの少しだけでもいい、わかっていることがあれば、言ってくれ……」

 レイエンは苦しいものを吐き出すかのように言った。

 今までこんなに真剣に、彼に何かを求めたことはあっただろうか? 非常に言いづらい言葉であったが、その心は切実な思いだった。

 ただ、彼が以前から何かを隠し事していることは何となくわかっていた。どんな理由があって言わないでいるのかはわからなかったが、少しでも教えてほしかった。いつも含みを持たせたことを言っているが、こちらも苦しんでいる以上、知っていることは言ってもらわなければならない。


 その瞬間、フェイロンはにやりと怪しく笑った。

「言ってしまったら、怖くなってしまうよ」

 嫌に、はっきりと聞こえる声だった。レイエンは少しうろたえたが、声を振り絞って、答えた。

「構わない……俺がどうしてこんなに苦しいのか、わかるのなら……」

 沈黙が過った。

 そんなにも言いづらいことを抱えてあるのか、何を言いづらくさせているのか、それが非常に気になった。レイエンは固唾を飲んで、返答を待った。

 けれど次に彼が発した言葉は、思いもよらない一言だった。


「わからないんです」


 フェイロンは、淡々とした調子で答えた。レイエンはそんなことを言われるとは思っていなかったため、思わず間の抜けた声を出す。

「……は?」

 唖然とした表情でフェイロンを見つめたが、彼は、また言葉を続ける。

「体質、という言葉だけで片付けられるものなどではない、もっと複雑なものがある。……けれど、あなたを苦しめているものが何なのか、探ろうとしても見えてこない」

 レイエンはそれ以上何も言うことができず、視線を落とした。聞いた瞬間は何も感じなかったが、二人の間の沈黙のせいで、段々と現実味を帯びてきて、とても嫌な気分になった。また、若干の沈黙が続いた後、フェイロンはレイエンの耳元に顔を近づける。

「ねぇ、怖いでしょう? 私も怖いです。あなたが何を"持って"いるのか、どんなに見ようとしても、見えてこない、わからない……一体あなたは、何を隠し持っているのですか?」

 何を隠し持っているのかって?

 わかるわけがない。何を持っているのかはおろか、今この身に何かを持っているということすら、知らないのに。


 レイエンは急に恐ろしくなり、フェイロンから一歩遠ざかった。そのひきつった顔を見て、フェイロンはまた、優しく微笑んだ。

「ふふふ、でも大丈夫ですよ。わからないからといって、私も諦めているわけではありません。根気よく、一緒に解決していきましょうね」

 嘘めいた言葉ではなかったが、レイエンはまだ不安な気持ちは晴れないままだった。


 もしかすれば、この男の呪術師的な能力は大したものでもないのではないか?

 ただ「呪術師らしい雰囲気」を出しているだけで、その実力はそれほどでもないのではないか、と。

 レイエンはそう心の中で決めつけて、不安な気持ちを無理に消した。



 二人は次に粉挽き所へと向かった。

 川のそばに点々と立っている小さな粉挽き所だが、殆どの水車が稼働していなかった。水の圧力を利用して製粉する水車も、灌漑施設に水を送る水車も動いている様子はなく、おまけに忙しそうに仕事をしているような農夫すら見られなかった。

 ここまで業務がこなされていない様子を見ると、次の出荷の季節までに間に合いそうにも見えない。

 なぜ仕事が行われていないのだろうか? 

 しばらく水車小屋の前で水車を観察していると、体格の良い一人の農夫がこちらに話しかけてきた。

「お前たち、見ない顔だな? 何か用か?」

「こんにちは、私たちは旅の商人です。少しばかり質問があるのですが、お時間はよろしいでしょうか?」

 フェイロンがそう農夫に尋ねると、農夫はため息をつきながら腰を下ろし、小屋の壁にもたれかけながら携帯用の昼餉を食べ始めた。

「別に構わねえよ。……仕事がないからなあ」

 遠い目で川の方を見ながら、呆れたような口調で言った。明らかにうんざりしているような様子だが、フェイロンは構わずに、質問をした。

「水車が動いていないようですが、なぜ動かさないのですか?」

 すると農夫は、またため息まじりに答えた。

「……動かさないんじゃなくて、動かせないんだよ」

 そして、そばにある水車を見上げながら、言葉を続ける。

「半年ぐらい前だったか……突然、あの川の周りに妖怪が出るようになったんだ。昼間はまだ安全だが、夜になるとこの一帯にうじゃうじゃと出てくる」

 農夫は麺麭を一口、大きくかじり、頬張らせながら言った。

「それでな、あいつらは水車小屋を壊してくるんだ。直しても、また夜の内に壊しやがる。追い払おうにもきりがないし、ずっと前からここの地帯は放置状態さ」

 もう一度、川を眺めながら、やや寂しげな声でつぶやくように言った。

「俺はここの景色が好きだから、昼飯時によく来るだけで、仕事には手がつけられない。川からの水も引けないから畑の実りもよくねえ。このままじゃ、この街は落ちぶれちまうよ」

 レイエンはもう一度、川の方を見た。

 嫌な気分は拭えないが、それがなければとても良いところだ。どこまでも草原が広がっていて、川の水もゆっくりと流れていて、非常にのどかな風景である。

 しかし、農夫は汚染されてしまった川や草原の広がる風景を寂しそうな表情で眺めている。それを見るだけで、こちらもなぜか気の毒な気分になりそうだった。


 フェイロンはいつもの余裕に満ち溢れた笑みを浮かべながら、ゆったりとした声で農夫に言う。

「この事件、我々が解決いたしましょうか?」

 農夫はあまり信じていないのだろうか、次にこちらを見て、苦笑いをしながら言った。

「まぁ、お前らも旅の商人であれば、妖怪と戦ったことはあるんだろうが……簡単に行くかどうかはわからんぞ」

「ご安心ください。私たち、妖怪退治がとっても得意なんです」

 フェイロンはそう言いながら、レイエンの肩に手を置いた。一緒にしないで欲しいのでレイエンはその手を振り払ったが、フェイロンは依然としてやる気のようだった。

 農夫は半信半疑のような、戸惑った表情をさせながら立ち上がった。

「だが、俺は何も報酬を出せないよ。次の収穫を待ってもらわなきゃ、支払えない」

「それならご領主様からお出ししていただくので、ご心配無く」

 フェイロンはそう言うと、農夫から離れ、また街の方へと歩き出した。

 レイエンはそれに着いていき、農場から街へと再び戻った。

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