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砂塵の狼  作者: れのん
第4.5話 番外編
11/21

【3】

 次の日、フェイロンが起きたのは、もう太陽が真上に上っている頃だった。

 隣で寝ていたリンシンとディジャンはすでに外に遊びに行っているようで、店の中は昼休みで飯を食いに来た町人が、続々と食事をしに来ていた。店の喧騒は居間にも聞こえてくる。

 フェイロンが起きたことに気付いたおばさんは、厨房から料理をしながら大声で呼んだ。

「フェイロンちゃーん!! 起きたかい!? ちょっと店が忙しいから手伝っておくれ!」

「は、はいっ……」

 寝起きでまだ頭が冴えない感じだったが、フェイロンは急いで厨房へと向かった。

 客の皿を下げることや、料理を運んでいくこと、手が空いたら皿を洗うことを頼まれた。客の食い終わった皿を厨房へと下げて、卓をひとつずつ拭いていき、おばさんが料理を作ったら、それを客に運んでいく。最初はなかなか慣れずに、客に運ぶ料理を間違えることもあったが、すぐに慣れていった。

 昼休みの終わる頃になると、客の数も減って、だんだんと暇な時間が多くなっていった。

 あまりの絶え間ない忙しさに息が上がったが、いつもやるような地道な仕事とはわけが違う達成感を覚えた。

 客もいなくなり、フェイロンが卓を拭いている時、おばさんに小さな布袋を差し出された。

 その布袋の中身には、小銭が入っていた。見た目だけでも10枚以上は入っている。

 フェイロンは驚いた表情をさせながら、おばさんの方を見た。おばさんは申し訳なさそうな、優しい表情で、言った。

「お駄賃だよ、いきなり手伝わしちゃってごめんねえ。それで許しておくれ」

 しかし、フェイロンはおばさんにその布袋を返す。

「い、頂けません。夕べあんなにもごちそうを頂いたので……」

 するとおばさんは手を振って、大きな声で言った。

「そんなのとは別よ! だって、あんなにもきらきらした表情のディジャンを見たのは初めてだもの! あれを見られただけで、もっとお礼をしたいぐらいだわ」

「え……?」

 おばさんは少し、寂しげな声になる。

「父ちゃんは一昨年亡くなってね……私が女手ひとつであの子を育ててるけど、いつも仕事ばかりでなかなか相手してあげられないのが気の毒なのよ。あなたたちがあの子のそばにいてくれて、母ちゃん嬉しいわ」

 おばさんはフェイロンの頭を撫でる。

「本当に、来てくれてありがとうね。困った時はお互い様なのよ。フェイロンちゃんもどんどん、うちを頼ってね。できることは全部助けてあげちゃうんだから」


 困った時はお互い様。

 なぜかその言葉が、フェイロンの中で繰り返されるようだった。

 フェイロンはその布袋を受け取り、大事に持った。初めて、本当に意味のある労働をして、意味のある対価をもらえたことが、とてつもない喜びだった。


 その後はおなかを空かせただろうリンシンとディジャンが、遊びから帰ってきて、おやつになった。昨日も食べた桃饅頭だったが、とてもおいしく感じられた。


 楽しげなリンシンを見ていてとても申し訳ない気持ちがあったが、そろそろ帰らなければならないことを言わなければならなかった。いつ帰ってくるかわからないが、家に不在のままだと両親に怒られるため、早めに家に帰らなければならない。

 フェイロンはリンシンと家の裏へと連れていき、二人きりになる。

 リンシンも何やら感づいているようで、すでにやや表情がくもりがかっていた。フェイロンはリンシンの目線に合わせて、しゃがみながら、説得を始めた。

「リンシン、そろそろ家に帰らなくちゃならない。明日売りに出す藁を編まなくちゃならないし、父さんと母さんも帰ってくるかもしれない」

 やはり、おてんばで頑固な彼女は素直に聞き入れたくないといった様子だった。

「……やだ」

「でも、家にいないと、怒られてしまうよ。また明日の昼にでも、ここへ来ればいいじゃないか」

 そう言っても、リンシンは俯くばかりで頷くこともしなかった。だんだんと、肩が震えて、鼻をすする音が聞こえてくる。

 そして、とうとう、リンシンはフェイロンに抱き着いて、言った。

「やだ、やだよ。お兄ちゃん、帰りたくない……」

 フェイロンは唇を噛んだ。できることなら、リンシンの言う通りにしてあげたかった。しかし、いつまでもディジャンの家に世話になっていられないし、自分の家庭の事情もある。フェイロンも、このまま店の手伝いをしながら、皆と暮らしたい気持ちがあった。リンシンのあどけない笑顔が在り続ける場所にいたくてたまらなかった。あの暴力的な親の元から離れたかった。両親が帰ってくれば、また現実に引き戻されてしまう、あの夢のように楽しかった時間と別れなければならないのだ。


 幼い頃からずっとこちらを苦しめてきた親という呪いが、この身を縛る。

 自分の家庭と、他所の家庭は別なのだ。たとえ他所の巣が居心地よく思えても、結局は自分の巣へと戻らなければならない。

 しかし、その時のフェイロンはリンシンに「仕方ないことなんだ」と言う気になれなかった。

 ずっとこのままでいいのだろうかという、半信半疑な思いが、その胸の内に広がるばかりで、かける言葉が見つからない。


 フェイロンは、リンシンの手を引いて、おばさんの元へと戻った。

 おばさんに帰るということを伝えると、少し寂しげな顔をしたが、「また来てね」と優しく声をかけてくれた。

 リンシンは俯いてばかりで何もしゃべらなかった。

「えーっ! もう帰っちゃうのかよー!?」

 ディジャンはいつもの大きな声で、そう残念そうに言った。無邪気に駄々をこねるディジャンに、おばさんは軽くげんこつを入れる。


 フェイロンは暗い顔のリンシンを連れて、家へと帰った。

 親はまだ帰ってきていないようだったが、いつ帰ってくるか分からないので、二人で藁をひとつひとつ編み始めた。藁のそのざらざらとした感触が、現実に戻ってきてしまったのだと実感させられる。

 作業をしている間は、二人はずっと黙ったままだった。その沈黙が、非常に重たく、いつもの沈黙とは別の、もっと居心地の悪い不気味なものに感じた。


 夜中になってくると、編まれたものがとても雑なものになってくるのに気が付く。フェイロンはこんなことをしているぐらいなら、飯店の手伝いをした方がよっぽど良いと思えてきた。飯店の手伝いは、単調な雑務ばかりをしていたフェイロンにとってはとても複雑な仕事だったが、やりがいはずっとあった。仕事などというものに、初めて意味を見出した瞬間だった。

 その時、フェイロンはおばさんからもらった小銭の入った布袋を見ながら、ふと、小さな疑問を抱いた。

 この金は、いったい誰のものになるのだろう?

 今までは、親の酒代のために金を稼いでいた。その日に稼いだなけなしの金は全部親の酒に溶けていく。

 しかし、今回おばさんからもらった報酬は、フェイロンに与えられたものだった。

 親のための金などではない。自分が払った労働に対して相応に与えられた金なのだ。その小銭一枚一枚がすべて、自分のものなのだ。

 それに気が付いた時、この家にいること自体が馬鹿らしく思えてきた。


 フェイロンは藁を編む手を止めた。リンシンは変わらず編み続けていたが、もう眠くなってきているのかうとうととしている。そんな彼女の手を握って真剣な表情を向けた。それに驚いたリンシンは、唖然とした表情でこちらを見つめた。

「リンシン……」

――家を出よう。

 そう、言葉が出そうになった瞬間だった。

 家の戸が、勢いよく開く音がした。

 フェイロンは振り返ると、そこには厳しい顔をした父親が立っていた。いつもの旅行よりも早い帰宅に少し疑問に思ったが、何を言われるかわからなかったので、フェイロンは構えた。

 父親は、兄妹の周りにある網掛けの藁を見て、激怒した。

「まだ終わってねえのか!! いったい昼間何してたんだ!!」

 激昂して、殴られた戸に穴が開いた。フェイロンはリンシンを隅に逃がして、父親の前に立った。

「ごめんなさい、今から急いで仕上げます」

「今からじゃ遅えんだよ、このクソガキが!!」

 父親は、思い切りフェイロンを殴り、蹴り、突き飛ばした。フェイロンが倒れた拍子に、懐からおばさんからもらった報酬の入った布袋が飛び出る。そして小銭のこすれる音が、室内に響いた。

 思わず、心臓が跳ね返りそうな思いをした。

 父親がその布袋を拾い上げ、中身を見ると、

「いつの間にこんな金稼いでたんだ?」

 と、枚数を数えながら唸るように言った。

 数え終わると、父親はその布袋を懐に入れ、またどこかへ行こうとした。

「まぁ今日の酒代はこれで足りそうだな」

「や、やめろ、それは……!!」

 フェイロンは布袋を奪い返そうと、父親の足にしがみついた。蹴られた痛みで起き上がれず、足にしがみつくことしかできなかったが、すぐに蹴り飛ばされて、壁にぶち当たる。

「お、お兄ちゃん!!」

 心配した表情で、リンシンが駆け寄ってきた。

 フェイロンは出てくるなと言いたかったが、腹を蹴られた後でなかなか声が出ない。息を整える前に、先に父親が何かに気付いたようで、頭をかきながら、独り言を呟いた。

「あぁ、そうだった。昨日賭けで負けたんだったか……」

 父親は再度、家の中に上がると、今度はフェイロンではなく、リンシンに向かっていった。そしてリンシンの服の襟をつかみ、片手でひょいと持ち上げた。いきなり持ち上げられたリンシンは怖くて、抵抗をしたが、それにも構わず、父親は外へ出ていこうとする。

 フェイロンはとても、嫌な予感がした。

「……リンシンをどこへ連れていく気だ!?」

「借金返すためにこいつを売り飛ばす。まぁ大した金にはならんだろうがな……」

 嫌な予感があたり、フェイロンは思わず、今まで父親に発したことがないほどの大声で叫んだ。

「ふざけるな!! リンシンを離せ!!」

 フェイロンが父親の腕を掴む。

「親に盾突くんじゃねえよクソガキ!! てめえらが稼げねえのが悪いんだよ!!」

 父親は、フェイロンの手をふりほどいて、次には動かなくなるまで蹴り続けた。


 大粒の涙を流しながらこちらを見るリンシンが目に映った。

 父親はこちらを気にもせず、リンシンを連れていく。

 身体中が痛かったが、今はそんなものを感じている暇はなかった。フェイロンは今にも飛んでしまいそうな意識を保たせ、立ち上がった。そして、そばにあった薪割り用の小斧を手に取り、父親に振りかざした。

 無我夢中で首に向かって振りかざしたが、一瞬肩に背負われているリンシンの顔が見えると、狼狽えてしまい、斧は父親の首より下の方に下がっていく。

 だがその一撃は転倒させて、リンシンを解放するのに充分なものだった。

 大量の血液が吹き出す。

 狼狽えたために、力がこもっていたわけでもなく、その傷口は深いものではなかったが、片足の太腿を切りつけたため、父親はまだ立とうとすれば立てるような状態だった。

「こ……の、クソガキ、が……ッ!!」

 父親は醜く呻きながらフェイロンを睨んだ。だが、立ち上がると足を引き摺りながら、逃げていった。

 本当に逃げたわけではないだろう。彼はいつか、我々兄妹を殺しに来る。

 フェイロンは疑心暗鬼になり、追いかけてとどめをさそうとしたが、リンシンが立ち上がりそばに寄ってくると、なぜかとどめをさしにいけなかった。

 とどめを刺すつもりだった。

 だが、リンシンの前ではやりたくなかった。

 また、父親に仲間を呼ばれてリンシンが危ない目にあうかもしれない。フェイロンは血塗れた斧を隠して、リンシンの目線に合わせて、途切れとぎれの声で言った。

「ディジャンの家に、向かうんだ。絶対に、僕を追い掛けてきちゃだめだ」

 心臓が痛くなり始める。フェイロンはそれを異常だと思わず、繰り返し、伝えた。

「ディジャンも、おばさんも、眠ってても、戸を叩いて起こすんだ。絶対に、朝が来るまで外に出ちゃいけない。絶対に、眠って、朝を待つんだ」

「い、嫌だ! お兄ちゃんどこ行くの? 怖いよ、どこにも行かないで」

 リンシンは泣きながら、フェイロンに抱き着いた。

 フェイロンは思わず、このままリンシンと共に逃げたい気持ちになったが、そうは行かなかった。

 絶対に父親を殺さなければならないという強い思いが、煮えたぎり始めている。

 殺すなら今しかなかった。


 月の光すらも届かないほどの分厚い雲から、大粒の雨が降ってきた。

 リンシンを一人で向かわせるのはあまりにもかわいそうだったから、フェイロンは彼女を連れて、ディジャンの家へと向かった。

 兄妹は全身雨に塗れたが、そんなこともきにせず、走り続けた。

 しばらく戸を激しく叩いていると、寝間着のおばさんが驚いた顔で出てきた。

「ど、どうしたんだい二人とも!?」

 雨足と風が強くなってくる。おばさんは夜中でも容赦なく大きな声でそう兄妹を呼び掛けた。

 リンシンの背中を押して、家に入るよう促す。その後、フェイロンは感情の無い声でおばさんに声をかけた。

「リンシンを、よろしくお願いします」

 そう呟いた後、走って家から離れていった。おばさんもリンシンも叫んで呼び止めようとしたが、大きな風が吹いて、二人とも立っていられず、家へと逃げ込む。

 その後も二人に何度か呼び掛けられたが、すべて嵐の音でかきけされて、わからなくなった。


 フェイロンは嵐の中を走りながら、これから父親を殺すことの覚悟を決めた。

 その時の自分の感情を一言で表すというなら、まさしく「鬼」だった。

 その間、フェイロンの中には、リンシンを守ることと、父親を殺すこと以外何も無かった。


 雨に滲んだ血痕を辿り、路地裏に入っていくと、足を引き摺りながら、急ぎ足で我々を探している父親に出会った。

 父親は目の前に現れた子どもがフェイロンだと気付くと、怒号をあげながら、持っていた棍棒を振りかざす。

 しかし、フェイロンはそれに当たる前に、父親の腕ごと、斧で叩き落とした。父親は激しい叫び声をあげながら倒れ、痛みにもがき続けた。

 フェイロンはその姿を見下ろすと、途端に、今までそいつにされてきた暴力の日々が脳裏に映されていくようだった。


 その不愉快な悲鳴を止めるために、何度も何度も斧を振り下ろした。声が無くなるまで、その憎たらしい体を切り刻んだ。

 もう何も鳴かなくなると、刃が肉に当たる生々しい音ばかりが聞こえて、とても虚しさが残る。気が付けば、無我夢中になって切り刻み続けたその体は、もはや原形がわからない。辺りには雨と血の混じった、とても嫌な臭いが漂っている。


 フェイロンは我に返っていく内に、何か嫌な気分を感じ始めた。

 どこからともなく、大きな闇が、とてつもない圧力と共にこちらに近づいてくるような気がした。


 逃げようとしたが逃げる暇など無かった。


 気がつけば、目の前に大きな闇が広がっていた。

 一歩足を引いた時にはすでに遅く、フェイロンはその大きくて黒い闇に覆い包まれた。闇が通りすぎていった後には、体の奥から、嫌なものが沸いて出てくるような気分がしてくる。

(まずい……)

 すぐに頭が割れそうな程に痛くなり、吐き気がしてきた。悪寒に震え、斧を握っている力も無くなり、するりと手から斧が地面へ落ちる。

 全身の力が抜けていくような気分だったが、座り込んでしまえばもう二度と立ち上がることができないような気がして、必死に両足で立った。そしておぼつかない足取りで路地裏を抜け、頑慶のいる寺の方へと向かった。


 率直に、彼に助けを求めた。

 自分は今、あまりにも不吉な存在であると自覚しつつも、それが足取りを止める理由にはならなかった。頑慶なら何とかしてくれるような気がした。彼のもとへ行かなければ、このまま自分は死んでしまうような気がした。


 フェイロンは寺の門を叩いて、叫んだ。

 しばらくすると何人かの顔見知りの小坊主が門を開けて、驚いた様子で出てきた。

 フェイロンはそのまま倒れこんだ。苦しいのは増すばかりで、今にも、意識が消えてしまいそうだった。

 小坊主たちに寺の中へ運ばれると、廊下で頑慶が走ってくるのが見えた。

「何事です」

 頑慶はもう眠っていたのか、いつもの袈裟姿ではなかった。小坊主に運ばれていたフェイロンは一度降りて、頑慶に寄りかかる。

「ごめん、ごめんなさい。先生……僕は……」

 嗚咽と躊躇いが雑じり、最後まで言葉を言えず、ただひたすら増してくる苦痛と恐怖にもがいた。全身の力が抜けて、頑慶に抱えられると、フェイロンはひたすら謝り続けた。

 頑慶は頬に触れて、強い語気で言った。

「いけません。意識を奪われてはだめだ。フェイロン、気を保たせるのです」

 そう言い終わると、頑慶は小坊主たちに何か指示をし始めた。フェイロンはもはや、何も聞こえなくなり、薄れていく意識の中に、身を委ねた。


 非常に暗い闇の中に、長い時間いたように感じる。

 フェイロンは静かに、薄目を開けた。目の前に映ったのは、厳かな仏堂の天井で、周りは広い仏堂のように感じた。

 何が起こっているのかよくわからない状態だったが、フェイロンはゆっくりと首を横にやる。そこには頑慶がいて、とても厳しい表情をさせながら、低い声でお経を唱えている。

 フェイロンが不思議そうに眺めていると、頑慶がこちらに気がつく。するといつもの優しい表情になった。

「もう大丈夫ですよ」

 頑慶はそう、優しく小さな声をかけてくれた。

 これは夢なのだろうか。フェイロンは非常に意識がはっきりとしなかったが、とても穏やかで安心した気分だった。何より、目の前に優しい表情をした頑慶がいる。

「何も怖いことはありません。……まだ疲れは取れてないだろうから、休んでいなさい」

 頑慶の細い手がフェイロンの額に触れる。フェイロンはその安心感のまま、再び瞳を閉じた。


 次に目を覚ましたのは、やけに重たい静けさと寒さを感じた時だった。体は痛くないが、とても重苦しく起き上がるのもやっとである。

 フェイロンはその広い仏堂の中央で、一人きりだった。

 耳を凝らすと、外からかすかに鈴の音が聞こえる。こんな音がいつも寺の中でしていただろうか。そもそも今の時間はどれぐらいなのだろうか、いつまで寝ていてしまったのか。頑慶はどこにいるのだろうか。何もわからなかった。

 喉の乾きも餓えも、限界に達しようとしている。フェイロンは重い体を起こして、仏堂から出た。

 廊下に出ると、より鈴の音が聞こえてくる。よく晴れた朝で爽やかな風が吹いていたが、寺の静けさと似合わず、とても奇妙な空気感があった。だが、フェイロンは大して気に留めず、頑慶がいつもいる部屋に行った。

 しかし部屋には誰もおらず、余計に違和感を覚えた。

 フェイロンは何気なく、部屋の隅に飾ってある鏡を見た。

 するとそこに映った自分の姿に思わず喫驚する。


 リンシンと同じだった黒髪が、真っ白な色に落ちている。これは本当に自分なのだろうかと、一瞬疑ってしまうようだったが、顔はやつれているが、自分の顔であることは確かだった。

 ますますわけのわからない奇妙さが胸の内から沸いて出てくる。

 その真っ白になった髪を見つめていると、廊下から知り合いの僧侶の声に呼ばれるのが聞こえる。フェイロンは振りかえると、とても複雑そうな顔をしている僧侶が見えた。フェイロンはそれにも違和感を覚えた。

 だが、わけのわからないままなのは嫌だったので、その僧侶に問いかけた。

「どれぐらい寝てた? 頑慶はどこにいるんだ?」

 すると、僧侶は、悲しげな表情のまま、ため息をつきながら、静かな声で言った。

「……フェイロン、来てほしいところがある」

 そういうと、僧侶は先に行ってしまった。フェイロンは疑問を抱いたが、だるい足を引き摺りながら、それに着いていった。


 僧侶の後を追う度に、鈴の音がよりはっきりと聞こえてくる。

 僧侶に連れていかれたのは、お堂の前にある庭だった。いつもは何も用途の無い空間のため、あくまで「庭」という扱いだったが、今日のその場所は何やら仏具やしめ縄の囲いがあり、あまりにもおかしな空間だった。囲いの中の地面には、子どもの頭ほどの大きさの穴が開いてある。先程から響いている鈴の音は、ここから出ているのだろうか?


 フェイロンはその光景を見せられたとしても、わけがわからず僧侶の方に目を向ける。

 僧侶はその場所を見つめながら淡々と答えた。

「頑慶殿は、その下におられる」

 そう言われたとしても何もわからず、見つめ続ける。すると、僧侶は寂しげな表情をさせて、もう一度言葉を続けた。

「どうしても、お前の邪気を退けることができず、頑慶殿は御自らに邪気を移すことを御決断なさったのだ」

 フェイロンは一瞬、唖然としてしまう。

「だ……だからって、なんで土の中にいるんだ?」

 少しひきつりそうな声で問いかけた。何もかもが夢のようで、疑わしく思えた。

 だが僧侶は調子を変えず、寂しげな声で淡々と答える。

「……頑慶殿は邪気を受け持った。退けることができなかったのだから、頑慶殿の御身に移しても、祓うことはできない……彼はそのまま、御仏になることを決意したのだ。お前が倒れてから、三日前のことだ」


 立っていることができず、地面に膝をついた。そして、頭がぐらぐらとして、何もかもが現実ではない気分になった。

 今、頑慶はフェイロンの真下にいる。彼はその薄暗い石室で鈴の音を鳴らしながらお経を唱え続ける。御仏になるまで――死ぬまで、そこに、一人きりで最後の苦行を為す。


 フェイロンは鮮やかな装飾のしめ縄の囲いを倒して、穴の中に向かって、大声で叫んだ。

 


「どうしてだよ先生!! そんな場所で腐る必要ない!! 祓えないなんてまだわからないじゃないか!!」

 焦った僧侶や、周りにいた小坊主がフェイロンをその場所から離そうとしてくる。それでもフェイロンは構わず、叫び続ける。

「祓えないなら、僕が祓う……! いつか、祓えるようになるから……!! 早くそこから出てきてくれ!!」

 いくら叫んでも、穴からは鈴の音とお経の音が微かに聞こえるだけだった。

 数人の僧侶にその場所から引き剥がされ、取り押さえられる。フェイロンは彼らの手から逃れようとしたが、段々とその気が無くなってくる。

「お願いだ……先生……」

 涙が地面に零れ落ちた。

 側にいた僧侶が、背中をさすりながら、寂しげに声をかけてくる。

「……彼の御決意なのだ。フェイロン、わかってくれ。彼の道を、受け入れてくれ」

「……僕が、先生を殺した」

「違う、頑慶殿の御決意だ。お前を助けたのも、仏になるため最後の苦行につとめるのも、彼の意思なんだ」


 だが、自分が寺に来なければ、彼はあんな暗い穴の中に入ることもなかったのだ。

 あのまま頑慶に助けなど求めなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 あの時、ああすれば。

 それが繰り返し頭の中で駆け巡って、何が正しいのかよくわからなくなってくる。


 鈴の音を聞いているのが、どうしてもつらくなってきて、フェイロンはゆっくりと立ち上がり、寺から出て、家に帰った。

 貧民街の路地裏の人の亡骸は三,四日で片付けられているようなものではない。父親の亡骸はそこに置き去りにされたままだった。フェイロンはそれを見ることは無かったが、あの時の感触や臭いがまた思い出されるような気分だった。

 生家には誰もおらず、リンシンもいない。母親もここ最近帰った形跡が無いから、きっともう帰ってくることもないだろう。

 フェイロンはディジャンの家に向かった。戸を開けると、厨房で料理をしているおばさんと目が合った。おばさんはその瞬間、おたまを投げ捨て、こちらに駆け寄ってきた。

「フェイロンちゃん、どこにいたんだい!?」

 とても心配そうな顔を見ると、とても申し訳ない気持ちがしてきたが、何か言葉を言う気力がなかなか沸かず、虚ろな目のまま黙っていた。

 おばさんの大きな声を聞いたリンシンが、奥の方から走ってくる。

「お兄ちゃん!」

 リンシンはフェイロンに抱きついて、泣き喚いた。

 泣いている妹が目の前にいるのに、意識がはっきりしなくて、撫でてやれる気力もなかった。

 号泣が落ち着いてきた頃、どうして髪の毛が白くなっているのか尋ねられたが、フェイロンにはわけを教えることができなかった。


 その日は家で過ごした。

 おばさんはずっと心配そうな顔をしていたが、おそらく察してくれていたのか、あの時何が起こったのかを聞いてくるようなことはなかった。

 我々兄妹は、ディジャンの家で世話になることになった。

 もう二度と、あの生家に帰らなくても良いのだと思うと、非常に心が軽くなるような気分だったが、それと同時に、どうしようもない程の虚無感にも襲われた。

 家はとても平和で、リンシンもずっと笑顔だった。あの惨劇を覚えてないのか、泣いていたのは兄に会えないことが心細かっただけのようだった。フェイロンにとっては、彼女にあの夜の記憶がないことが唯一の救いだった。

 夜、リンシンはフェイロンにぴったりとくっついて、眠った。

 彼女の寝顔を見ていると、何故か頑慶と過ごした日々が思い出される。短い日々だったが、その一日一日がすべて、鮮明に思い出される。そしてまた、後悔の念が胸の中に甦るのであった。


 頑慶は多くの人々へ救済を施すためにこの長安へ来て、寺を建てた。そして、あの寺で、最後の苦行をし、より多くの人々を救う御仏となる。

 彼は闇にのまれたまま死ぬよりも、最後の、究極の悟りを開くことを選んだ。

 もしかしたら、あの穴を広げれば、石室にいる彼を地上へ戻せるのではないかと何度も考えたが、それは彼の決意を踏みにじるのと同じことである。

 あれは、彼が選んだ道なのだ。

 彼がその選択をせざるをえなくなったのは、フェイロンの所為であるが、取り返しはつかない。悔やんでも、悔やんでも、それは虚無感を増すばかりである。


『僕は商人になる』


 フェイロンは頑慶に言った決意を思い出した。

 そして、その言葉通り生きなければならないと強く感じた。

 自分は彼に生かされたのだから。

 その尊い命を持って、救われたのだから……。


 頑慶が立派な御仏になってほしく思った。


 フェイロンはその後、毎日寺へと通い、頑慶が即身成仏をしている石室のある方を向きながら、お堂の中で正座をして、彼を見守り続けた。頑慶が立派に、御仏になるよう、毎日祈り続けた。


 いつしか、お経の声が、次には鈴の音が聞こえなくなっていった。


 千日後、御仏となった頑慶が、穴の中から出された。

 五穀断ちもせず、即興の石室での即身仏だったが、そのすがたはとても美しかった。真っ直ぐな背筋、穏やかな表情。厳かな佇まいが、まさしく御仏のすがただった。その美しい促進仏に、誰もが奇跡を感じた。

 御仏となった頑慶は鮮やかな袈裟と装飾に飾られ、寺の御尊像となった。


 フェイロンはその後、寺へ参ることはなかった。

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