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砂塵の狼  作者: れのん
第4.5話 番外編
10/21

【2】

 次の日、フェイロンは藁を売りに行くため、街の市場へと向かった。そこで藁を売った帰り道には、いつも、商会の多くある場所へ行った。

 何を買えるわけでもない。しかし何かが欲しいわけでもない。

 フェイロンは市場に入っていく隊商を見るのが好きだった。

 大量の荷物と西洋絨毯で身を包んでいるたくさんのらくだが、列を成し、街の門から入ってくる。そして絹や壺、宝石、骨董品などの特産品を市場に売っていく。時には牛鬼という大きな獣に乗って、西洋からの大量の商品を乗せてくる隊商もあった。


 様々な特産品を乗せて、この大陸中を旅する。その果てしないロマンを、フェイロンはもっと幼い時からずっと感じていた。商会を覗いている時間が一日のうちで一番楽しく、わくわくとして、胸が高鳴った。


――いつか自分も商人になり、大陸を旅してみたい。


 様々な文化と土地を見たい。西も東も、どれほど果てしない道が続いているのか。それをその身で感じてみたかった。


 だが、商人になるにはまず読み書きも計算もできない状態から脱却しないといけない。

 しかし朝から晩まで藁を編み続ける生活の中、私塾に学びに行ける金も時間もあるはずがない。だから時々、市場で隊商を見る時間を惜しんで、私塾の講義を密かに聞くこともあった。それでも、基本がわからないからか、講義をいくら聞いても理解することはなかった。自分に合った教養に触れたくても触れられないまま、世の中が見えてくることもなく、市場で見る商人たちがどんなやり取りを繰り広げられているのかを理解できることもなかった。


 その日、フェイロンは市場からの帰り道に黒い闇を見た。

 遠くにあったからばれないよう慎重に逃れたが、また嫌なものを見てしまって、隊商を見て高揚していた気分も落ち込んだ。

 しかしふとその闇のそばをよく見てみると、男が立っているのが見える。

 その男はとても美しいすがたの僧侶だった。それだけでも、フェイロンは目に留まったが、さらに僧侶は錫杖を闇に向け、数珠を手に持ち、険しい表情でお経を唱えていた。


 お経が終わると、闇はゆっくりと消えていった。

 フェイロンは驚きのあまり唖然とした。どうして闇が見えているのか、どうして闇が消えたのか何が何でも聞きたくて、僧侶が立ち去ろうとした時、勝手に足が彼の方へ動いていた。

「お坊様はあの黒い物が見えるの?」

 フェイロンは逸る気持ちで尋ねた。

「黒……?」

 僧侶は訝しげに呟いた。とても若いが、落ち着いた雰囲気のある、背の高い僧侶だった。

「君にはあれが黒い物に見えるのかい?」

 僧侶の問いかけにフェイロンは少しどきどきしながら頷いた。今まで自分だけしか感じ取れなかったものを、感じ取れる人に出会えたからだった。

「残念ながら私には見えない。ただおどろおどろしい気配がしたから、祓っていただけなんだ」

 僧侶は膝を折り、フェイロンに視線を合わせて尋ねた。

「君にもあれが感じ取れたのかな。どんなふうに見えたのか、教えてくれるかい?」

 フェイロンは一瞬恥ずかしくなり、控えめになったが、正直に話した。

「黒くてもやもやした煙みたいに見えるんだ。汚くて、怖い……きっと、妖怪じゃないと思う。でも妖怪よりも、もっと怖い……」

 そこでフェイロンは僧侶の顔色を伺った。とても真剣な眼差しを向けられていて、一瞬狼狽えたものの、大人にこんなにも真剣に話を聞いてくれたのは初めてであり、内心嬉しくなりながらも言葉を続けた。

「それにさわると、何日も体がだるくなるんだ。それだけじゃない、不吉なこともいっぱい起こる。この前あの黒いものに触った人はずっと寝たきりになって、物狂いになった」

「そうか……」

 僧侶は立ち上がり、何か考え事をするかのように指を顎にあてた。

 しばらく何も言ってこないので、フェイロンはぱっと頭に思い浮かんだことを彼にたずねた。

「ねぇ、お坊様。あれの祓い方を教えて」

 僧侶は考え事から我に返ったように、生返事をしたが、すぐに言葉を返した。

「……闇を祓うには一朝一夕では不可能だよ。たくさん勉強して、たくさん修行をしないといけないんだ」

 少し残念そうな顔をするフェイロンを見て、僧侶は袖から一つの数珠を差し出して、また言葉を続けた。

「とにかく、それらにはできるだけ近づかないことと、目にいれないこと。それでも不安な時があるだろうから、これを持っていなさい」

「……いいの?」

 そう言うと、僧侶はとても優しい笑顔になった。

「えぇ。常に持ち歩いていなさい。何か困ったことがあれば、私の寺へ来るといい。ちょうどこの町の北東にある、湖に浮かぶ水連がとても美しい寺です」


 その夜、藁を編み終わり、床についた後、フェイロンは日中、僧侶からもらった数珠を見つめた。

 はっきりとはわからないが、なぜかいつもより心が澄み渡るような気分になる。こんなにも小さなものなのに、いつものような不安感を消してくれることがとても不思議に感じられた。

 僧侶の名前を聞けなかったことがとても気がかりだが、彼の寺へ訪れればいいだけのことだ。

 明日は寺へ行ってみよう。

 その晩はいつもよりもずっと安心して眠ることができた。


 次の日から市場へ藁を売って帰るまでの寄り道の時間は隊商を見るのではなく、数珠を与えてくれた僧侶の元へ行くことにした。

 市場や家とは反対の方角にあるため、少し歩かないといけない。だから寺にいられる時間は限られたが、僧侶といるととても安心できた。


 僧侶の名は頑慶と言った。

 どうやら長安から遥か向こう、東の海を渡った先には大陸の人間とは異なる文化を持つ島があるらしい。頑慶はその島から、この大陸の文化を学ぶためにやって来た僧侶であるようだった。

 留学をした後、一度故郷へ帰還したようだが、更なる仏の教えを学ぶため、そして多くの人への救済を施すために個人でこの長安へ来て、大きな寺を建てたという。

 フェイロンでも、その徳の高さが充分わかるほどの高僧だった。

 それでも頑慶は、路傍の野ねずみのような卑しい子どもにも、平等の優しさを見せた。


 フェイロンは頑慶に勉強を教えてもらうようになった。毎日線香が燃え尽きるまでの時間は頑慶の講義だった。彼の講義はとてもわかりやすく、すぐに頭に入ってくる。

 親にはここで勉強していることを伝えていないため、いられる時間はとても少ないのだが、彼の講義がわかりやすいのと、大雑把だがたくさんのことを学べることが、とても楽しく有意義な時間に感じられた。

 まずフェイロンが勉強したのは、読み書きと計算だった。線香の半分を読み書きにあて、もう半分を計算に使った。特に計算は、ものの単位の計算や、そろばんを使ったりと、難しいことが多かったが、商人になるにはとても重要な技術であるため、集中して学んだ。

 最初は何事も慣れなくて苦しいことばかりだったが、だんだんとできるようになっていった。自分が以前よりもずっと賢くなったと実感できるのが非常に嬉しかった。


「向こうの学校の授業とは違って、すごくわかりやすい」

 私塾の講義とはまったく違う、学びの体感できる授業に充実を感じつつもその仕組みに不思議に思ったフェイロンは、無邪気に頑慶に言った。

「学問所の講義を受けたことがあるのかい?」

 頑慶は不思議そうな顔をして問いかけた。フェイロンは、少し恥ずかしくなり、すぐに言い加える。

「あ……こっそり窓で聞いていただけだけど」

 頑慶は少し困ったような顔をしたが、すぐに優しい顔をして教えてくれた。

「それは今、あなたの力量に合った勉強をしているからですよ。勉強というのは段階がある。まるで王宮へ続いている、とてつもなく長い階段のようなものだ」

 フェイロンは、長安の王宮の階段を思い浮かべた。もちろんその階段を上がったことはおろか、王宮への門をくぐったこともない。ただ、門の手前から、その長い長い統一的な美しい石段を遠くから見たことはあった。

「あなたはまだ、階段を登ろうとする段階でしかない。それに比べて学問所の講義とは、遥か上に上がったところにある段なのだ。一番下からでは、どう登ろうとしても、遥か上にある段には辿り着けないでしょう? つまり学問所の講義は、理解できるほどの知識を持っていないからこそ、とても難解に聞こえるのです。今のあなたであれば、きっともう少しばかり、わかるようになっているでしょう」

 フェイロンは何となくわかったが、少し腑に落ちず、首をかしげる。

「そうかな……すごく難しく聞こえたけど」

「学問は、ひとつひとつ続けていくものです。2,3の段は追い越せることもあるでしょうが、一歩で10の段を上がることは不可能だ。時間をかけて、上がるものなのです。まだまだ大成するのは難しいでしょうが、心掛けていればきっと、立派な大人になれますよ」

 頑慶はそういって、優しく微笑んだ。

「いつか、一番上の王宮に辿り着けるかな」

 フェイロンは、目線を教科書へ落としながら、独り言のように、ぼそりと呟いた。しかし、頑慶は首を横に振った。

「残念ながら、辿り着くことはないでしょう。この世にそこへ辿り着いた者はいません」

「どうして?」

 フェイロンは、少し寂しげな表情をさせて、尋ねた。頑慶は優し気な表情で、また教えてくれた。

「なぜなら、学問とは、常に進化し続けているからだ。時が経つにつれ、階段の一段が増えていく。階段は上へ上へと伸びていく。それは止まることはない、今までも、今も、そしてこれからも……」

 それを聞いて、フェイロンはその頂へ至れないことに一瞬だけ惜しい気持ちもしたが、すぐに、なぜかわくわくとした気持ちになった。

 誰も、階段の最上段へ辿り着いた者はいない。それは日々、学問が成長し続けるためだ。人間が最上段へ到達しようと駆け上がるたびに、階段は増えていく。人間が備えられる知識が増えていく。この世の真実が増えていく。

 それを理解した瞬間、学問の本当の奥深さを初めて強く実感した。


 やがて読み書きや計算ができるようになると簡単な教科書は読めるようになっていった。

 さまざまな教科書を読む内に興味を持ったのは歴史や文化などが書かれた本だった。まだ将来私塾に通うような子どもが夜の寝る間際に読むような、おとぎ話のような本だ。

 どうしてこんなものが綴られているのか、とても不思議に思った。まるで今までその出来事をすべて見てきたのかと思えてくる筆者の言葉遣いがとても面白かったが、それと同時に疑わしくもあった。

 だから、歴史という学問に最初に触れた時、フェイロンは頑慶に「この世には、ずっと生き続けている人がいるのか」と聞いてしまったものだった。頑慶はその突飛な質問にしばらく笑ってから答えた。

「時代には必ず、出来事を記録する者がいます。同じ人間ではない、様々な人間が文字を使ってその日を記しているのです。彼らが連綿と綴ってきたものが、今日に語り継がれている歴史となります」

 頑慶はそう教えてくれたが、フェイロンにとっては目から鱗が落ちるような思いだった。いつも自分は同じような一日を過ごしていたためか、その日の事柄を記す、という作業にとても違和感を覚えたのだった。だが、その作業がどんなに楽しいことだろうかとも思った。もっと自分の知らない今までの歴史もこれからの歴史も探ってみたく感じた。

「ねぇ、この世にはずっと生き続けられるような人はいないの?」

 フェイロンはそう問いかけると、頑慶は顎に手をあてて、少し眉を寄せながら答えた。

「不老不死……伝説でしか聞いたことはありませんね。不老不死になるための修行や、実際にそれを行っている者は確かに存じますが、本当に存在するということは聞いたことがありません。きっとおとぎ話の範疇でしょう」

 フェイロンは「ふーん」と生返事をした。


 ある日、フェイロンは両親が遠方へ仲間と酒を飲みに行くということを玄関口でひそかに聞いたので、少し嬉しくなった。いつも親の仲間が来たときは、2,3日ほど家にいない。親がいないから早く帰らずとも、怒られることはない。頑慶の元でいつもより多くを学ぶことができるチャンスだった。

 次の朝、子どもには何も言わずに、両親は楽しそうに家から出て行った。リンシンも両親が少しの間不在になることに気が付いたのか、向かいの飯店の息子であるディジャンにそのことを告げていたらしい。ディジャンは、その間、自分の家で遊ばないかと誘ってきた。まだ喋るようになってから間もないほどに幼いディジャンだったが、無邪気な笑顔で我が家に訪れた。

 ディジャンはリンシンと仲が良く、いつも外で遊んでいる仲である、今までも家に誘うことはあったらしいが、リンシンはいつも断っていた。

 しかし、今は断る理由がない。両親は半日ぐらいで帰ってくることもないだろう。

 フェイロンとリンシンは、ディジャンの家へ遊びに行くことにした。


「かあちゃーん! リンシンとフェイロンおにいちゃんつれてきたー!!」

 ディジャンが店の戸を思い切り開け、大きな声でそう呼んだ。油のにおいが中から吹き込んでくるのを感じる。店の中は、数人の客が麺をすすっていて、奥の厨房からは料理をしている音が聞こえてくる。

 ディジャンが呼んだ母親は、厨房で料理をしており、こちらに気が付くとすぐに料理している手を止めて、そばに来た。細いディジャンとは違い、でっぷりと太っていて、堂々とした感じの、それでもとても朗らかな笑顔が印象的な、肝っ玉母さんだった。

「あらら! 遊びに来てくれたのかい! ちょっと待ってね、すぐにおやつを用意するから!」

 ディジャンの母はフェイロンに目を向けて、不思議そうな顔をした。

「リンシンちゃんはよく見るけど、その後ろの子は見たことない子だね?」

 ディジャンと会うのは何回かあったし、遊んだこともあったが、彼の親と会うのは初めてであった。フェイロンは少し控えめな声で、挨拶をした。

「初めまして、リンシンの兄のフェイロンです。リンシンがいつもお世話になっています」

「初めまして、とっても良い子ね。二人とも歓迎するわ。奥へいらっしゃい」

 優しい声でそう言うと、おばさんは先に厨房より奥の座敷へと子どもたちを案内した。


 土埃の全くない、綺麗な居間へ案内されると、少し待っていてと言われたので、丸い卓の前で三人で座って待った。少しすると、おばさんが、饅頭の乗ったお盆を卓の上に置き、温かいお茶を人数分出してくれた。

「母ちゃんお手製の桃饅頭だよ。今蒸しているのもあるから、どんどん食べてちょうだいね」

 大人のこぶし大ぐらいの大きさで、ほのかに桃色がかった饅頭が、子どもたちの前に差し出される。ディジャンは喜んで、すぐにその饅頭を掴んでほおばり始めた。リンシンはフェイロンに目を合わしてきた。彼女も初めてもてなされるのか、とてもわくわくとした表情をして、瞳を輝かせている。ディジャンがもぐもぐと食べているのを見て、リンシンはそっと饅頭を手に取り、彼女も口にする。

 フェイロンはどちらかというと、手を付けて良いのだろうかと戸惑った。今までそのようなものが目の前にあったことがなかったため、それが自分にもてなしてきたものなのかどうか、非常に疑わしかった。

 どうすればいいかわからなくて、おばさんに目線を向けると、にっこりと微笑んで、「遠慮なくお食べ」と言った。

 フェイロンは、おそるおそる、饅頭に触れて、一口食べる。

 今まで感じたこともないような優しい味が、口の中に広がった。中に入っている桃の餡は、時々食べられる雑穀米などよりもずっとずっと甘く、それでいてとてもなめらかだった。

 気が付けばフェイロンは、どんどんとその優しい味の饅頭に食らいついていた。リンシンもディジャンも同じものを食べて、笑顔になっている。その光景がとても微笑ましくて、思わずこちらまで笑顔になった。


 おやつを食べた後は、日が暮れるまで外で遊んだ。いつも、町を駆け回っているディジャンとリンシンは、フェイロンも知らないような隠れ道を知っていて、それらに連れていかれると、驚かされると同時に胸が躍った。町のいろんなところを見て回っていると、今まで感じたことがないほどの開放感に浸されていく。

 フェイロンにとってディジャンとリンシンとはだいぶ年が離れているが、一緒に遊んでいてとても楽しく、充実した一時だった。


 町のはずれの丘の上で、柑子色に輝く夕日を3人で眺めた。

「きれーだねー……」

 リンシンはうっとりするように、その沈んでいく夕日を見つめる。

 その表情を見た時、フェイロンは今までも、こんな風景を見せてやればよかったと少しの後悔を感じた。

「またここに来ようね」

 リンシンがそう言った途端、ディジャンの腹が盛大に鳴った。

「はらへったー。おれん家かえろー!」

 フェイロンはもう少しその夕焼けを見ていたい気もしたが、自分も一日遊び続けて疲れていたし、腹も減ってきていたので、ともにディジャンの家へと帰った。


 ディジャンの家は飯店のため、おばさんがいろいろなごちそうを振る舞ってくれた。どれも食べたことのない味と量、何よりも温かい出来立ての料理を食べることができた兄妹は、とても有意義な夕餉を過ごした。

 ディジャンとリンシンは日長遊んでいたからか、夕餉を終えるとすぐに眠りについてしまった。フェイロンは家の人々が寝静まったのを見て、家から飛び出し、頑慶の寺へと早足で向かった。

 こんな夜中に寺を訪れるのは、さすがに迷惑だろうと思ったが、それに気が付く時にはすでに寺へと着いてしまっていた。昼間だったら、何人かの修行僧も寺の出入りをしているが、さすがにここまで夜も更けると、誰もいる気配がしない。

 少し待ってみたが、このままいると切ない気持ちになるばかりだったので、どうすることもなく、家へと帰ろうとした。

 しかし振り返ったところに頑慶と出会った。向こうも驚いているようで、少し唖然とした様子だったが、すぐにいつもの優しい表情になった。

「こんばんは、フェイロン。こんな夜更けに、どうしたのです?」

「……こんばんは。昼間は来れなくて、ごめん」

 フェイロンは少し気まずそうに言った。数ヵ月ほど前に、頑慶の一日線香一本分の講義が始まって以来、それを一日も欠かしたことはなかった。だからこそ、初めて彼の元に行けなかったことがとても悔しく思ったし、申し訳なくも思ったのだ。それでも、頑慶は変わらず、優しい表情で「構いませんよ」と言った。

 頑慶はフェイロンの顔を伺って、一つ質問をたずねる。

「何か嬉しいことでもありましたか?」

「え、なんで……?」

 頑慶はフェイロンの頬に手を軽く触れて、言った。

「いつもあなたは、何か思い悩んだような、どことなく寂しげな雰囲気のある子ですが、今日はとても晴れやかで、良い表情をしています」

 フェイロンは意識をしてそんな表情をしているわけではなかったために、余計恥ずかしく思えた。そしてすぐに、

「今、親が家にいないんだ。だから今日は友達の家でずっと遊んでた」

 と、はにかみながら、言い訳のような説明をした。

「そう。よい時間を過ごしたようで何よりです。お勉強も大事ですが遊ぶことも大事ですよ」

 頑慶は笑うと、「少し散歩しましょう」と言って、寺とは反対の方向へと向かいだした。フェイロンも彼の横に並んで歩いた。そして、今日あった出来事を続けて話した。頑慶は変わらず、相槌を打ちながら話を聞いてくれた。

 話すことがなくなった後、少し沈黙がよぎったのが気になって、フェイロンはふと思い当たったことを頑慶にたずねる。

「今度、妹も連れてきていい? 少し、静かにできない子かもしれないんだけど」

「もちろん、ぜひお会いしたいです」

 頑慶は優しく微笑んだ。


 本当は寺に通っていることは、頑慶との秘密にしておきたかったが、やはり寺の穏やかな雰囲気と居心地の良さを感じると、彼女にも来てほしいという気持ちが強くなってしまう。

 二人は散歩をしながら、湖の上の美しい水連を眺めた。大きな亀の石像の口から、水が流れている。水面や花々が月の光に反射して、とても幻想的な光景に見えた。


 夕日も、花も、月の光も、今まで美しいと感じることはなかった。しかし、今は美しいと、かけがえのないものであると、心の底から思える。その光景を見ているだけでも、感極まって、熱いものが喉の奥から出てくるような気分になる。


 自分は確かに大きくなった。

 見た目のことなどではない。今までよりも世界がとても広く感じられたのだ。美しいと感じられなかった、目にも入らなかった景色が、今は魅力的であると感じられる。町で行き交う人々がよく見える、誰が子どもで誰が大人で、男で、女で、若者で、年寄りで、兵士で、商人で……それが明確に見えるようになった。

 フェイロンはその世界の変化が、自分の成長であるのだと、強く実感した。人間として大きくなったのだと自負できた。


 世界の変化だけではない。なぜか、未来が見えてきたような気もした。確信できるような未来ではないが、こうなりたいというような未来が、胸の内にはっきりと映し出されていく。そして今まで外へ向かうことが恐ろしかったのに、一歩踏み出せるような、むしろわくわくとした気分になれるような気持ちがした。


 今でなら、これからどのように生きていけばいいか、わかる。どのように生きたいのかを、自信を持って言うことができる。


 フェイロンは頑慶の方を向いて、今本格的に見えた未来を語った。

「僕は商人になる」

 そしてさらに語気を強くして、言葉を続けた。

「成り上がってみせる。だから、先生。その時まで待っていてよ」

 二人の視線が、まっすぐに合わさる。

 少し間を開けてから、頑慶は静かに頷いた。

「……もちろん。楽しみにしていますよ」


 もう夜も遅いため、フェイロンはその後、ディジャンの家に戻って皆が起きないよう静かに床へ着いた。

 フェイロンが寝ている位置からは、天井窓から丁度月が覗く。

 その月をみて、先ほど月明かりに照らされていた頑慶の姿が思い起こされた。一緒に散歩をしていた時は、自分が喋っているのに熱中して、何も思わなかったが、眠りかけの瞼の裏には彼の姿ばかりが映し出される。

 今までの人生で、あんなにも美しい人に出会ったことはない。そしてこれからも彼以上に美しい人に出会うことはないだろう。彼を想うだけで胸の奥がきゅっとなる。

 いつか彼の横に、本当の意味で並び立てる日を夢見た。そしてここまで成長させてくれた恩返しとして、彼の知らない世界も、見せてやれるような大人になりたく思った。

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