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砂塵の狼  作者: れのん
第1話 砂塵の狼
1/21

【1】

 砂漠のゴツゴツとした道の上を荷馬車が走っている。完全に乾いてしまった土の上を走る車輪は、大きく鈍い音を鳴らし、車の中にいる人々を乱暴に揺さぶる。

 まだ若い青年は、汚れた車の中で、その絶望にあふれた光景をぼんやりと眺めた。力なく倒れている人たちが足元から広がっている。小さな車の中に、老若男女がひしめきあい、苦悩と恐怖で顔をゆがませている者が多く見える。車輪の音以外は、人々のすすり泣く声と苦しそうに呻く声が絶え間なく聞こえた。

 青年の表情は何も無かった。車の端でひっそりとかがんで、岩木のような眼差しでじっとその絶望を見つめた。

 もう息絶えている者もいるだろう。皆が垂れ流す糞尿の臭いだけでなく、腐乱臭すら鼻を突いてくる。

 その光景を見ていると、何やら我に返っていく気がした。ずっと感じていなかった、車の中の汚臭や、車の板の間から漏れる光や、外から聞こえる馬の足音や鳴き声が、いやになるほど、はっきりとこの五感をついてくる。

 どういうわけか、青年は、その足元で感情を失っている人より生きている心地がしているようだった。なぜ生きている心地があるのか、彼には理解ができなかった。

 それでもだんだんと意識がはっきりしてくる。

 何も感じたくないのに、絶望の世界が目と耳と肌を突いてくる。


 奴隷に慈悲は与えられない。

 奴隷として扱われた時点で「所有物」となるからだ。

 青年は奴隷商人に買われたことはなかったが、誰かの「所有物」となる状態は物心ついたときからあった。誰かの「所有物」であることが人生そのものだった。

 だからいつもと変わらぬ日々を送ることになるだけとしか思わなかった。何も行動を起こそうとする気が起こらなかった。たとえこの車が奴隷を運んでいる車だとしても、そして車の中にいる自分を含めた奴隷たちは今から売られようとしていることも、それに気付いていたとしても青年の行動の契機とはならなかった。

 むしろどうにでもなればいい。誰かに縛られる生き方しかできない自分には、それがお似合いだ。


 逆らうほどの価値を有してはいない。

 世の中に認められてはいけない。

 何も考えてはいけない。

 ただ自分を縛る者の言う通りに生きればいい。

 それ以外の生き方を考えることはできなかったから、それが自分の人生であっても構わなかった。


 荷馬車が止まった。

 まだ多少の力が残っている者は、何が起こったのだろうと車の板の間からわずかしか見えない外の景色を覗き始める。

 青年はそれを見ようとするのも煩わしく思えた。

 もう諦めればいい。奴隷商なんかに捕まって、絶望にうちひしがれる程度の身も心も弱い人間が助かったとしても、まともな世界で生きられるわけがない。

 自分も同様に、まともに生きられることはない。

 それにこの車の外へ出たとしても、武装した兵士が、まるで城を守るかのように威張り立って荷馬車を取り囲んでいる。弱った奴隷たちには、けして抵抗はできない。

 気配を読めば、十人近くはいるだろう。どれも鎧を着て、柄の長い槍を構えている。弓矢を持っている者もいるだろう。

 青年はうずくまり、奴らが車を開けてくるのをじっと待った。

 扉が開く。砂漠に反射してより眩しい白い光が車の中にあふれ出てくる。

「早く外に出ろ」

 武装した兵士たちは、車の中にいる奴隷たちを扉側から順々に引きずり出していく。まだ息がある者は縄で縛りあげられ、もはや絶命している者は道端に捨て置かれていく。

 扉から一番遠かった青年は、兵士から促されるまでもなく、最後に車から降り出た。

 地面に降り立った瞬間、視界がまったく別の景色に見え始めた。土色の砂漠の世界がとても狭く感じた。全身の毛が逆立った。

 青年は一瞬の隙をついてそばにいる兵士の後頭部を蹴り上げ、兵士の腰にある短剣を抜き取った。

 周囲の兵士たちは次々と剣を抜き、青年を取り押さえようとする。

 しかし、青年の人間離れした素早い動きに着いていける者はその場にはいない。

 兵士たちは細く短いナイフであっという間に命を落としていった。急所に的確で、また残虐でもあるその太刀筋を見た奴隷たちは、悲鳴をあげるよりも先に唖然としてしまっている状態だった。


 その姿――狩りの様子は、まるで狼のようであった。


 青年はその場にいるすべての兵士を殺しきると、後悔の念がその心を満たした。

 自分はまた、誰かの示した軌条に沿って生きようとしていたのに、その機会を自分で失った。幼い頃から刻まれた本能がそれを許さなかった。

 兵士たちを惨殺したナイフを地面に落とし、膝をつく。落ちた汗が、乾いた地面に染み込んでいくのが見える。


 また自由だ。

 恐ろしい自由だ。すべてに身を任せることのできない、不安に満ちた世界。

(どうすればいい……)

 灼熱の太陽の下だというのに、全身が冷たく感じた。先程荷馬車に運ばれていた時よりも生きている心地がしなかった。

 彼は自由でいるときは何も考えられなくなる男だった。何かに縛られていないと生きていくことのできない男だった。

 年齢は十九とまだ若いが、それでも何かを選択する判断力はあるべき年頃である。しかし彼にはそれができない。

 できないというよりも、「本能がそうさせない」と言った方が適切であろう。

 だが、なぜ見張りの兵士たちを皆殺しにしてしまったのか。

 その矛盾に対する疑問が彼の頭の中を駆け巡るが、いつまでも答えは出てこない。

 やがて思考が停止してきた。

 砂漠の上に膝をついて、乾いた地面を見つめる。


「レイエン」


 誰かに名前を呼ばれたような気がした。自分のことを知っている人間はここにいるはずがないのに、はっきりと聞こえてくる。

 憎いはずなのに、すがりつきたくなるような声。


 不快でもあり安楽でもあった。

 

** ** **


「……ちょっと、聞こえてんのー?」

 聞き慣れぬ女の声が聞こえて、ふと我に返る。

 レイエンはその女の存在を視認するよりも早く、後ろに下がってナイフを構えた。

「あーあー!! 待って待って!! 別に何もしようとはしないわよ!! もう護衛はみんな死んじゃったわけだし!」

 目の前にいた女は慌てて手を挙げた。

 踊り子のようにやたらと露出の多い服を着たその女は周囲で唖然としている奴隷たちのように汚れた姿をしていない。黒色と、白色の不思議な髪色の二つ結びの若い女だった。あまり女らしさのある雰囲気がないが、周囲の奴隷たちほど貧しそうな見た目ではなかった。奴隷でなければ、奴隷車を引いていた兵士たちの仲間だろうか? だが、よく見ると武装をしていない。彼女の足には携帯されてある護身用の鞭が見えるが、人を殺せるような代物にも見えない。さらに、護衛を全員殺したというのにこちらに敵意を向けては来ていないから、本当に兵士たちの仲間だったのだろうかとレイエンは疑問に思う。

「お前、誰だ」

 レイエンはナイフを構え続けたまま、彼女に問いかけた。

「わ、私? えっと、名前はリンシン。この荷馬車の御者を頼まれた商人なんだけど……もう護衛がいないからどうすればいいかなって考えてた最中というか……」

 一瞬で兵士たちを殺した男にナイフを構え続けられる緊張感の中、リンシンは声がひっくり返りそうになりながらも答えた。

 確かに彼女からは殺気は感じられない。

 武器も何もなく、また捕らえようとする気配も殺そうとする気配も見られない。

 変な女だと思いながら、レイエンはナイフを構えるのを止めた。しかし、警戒を解くことはなかった。

「とにかくね。こんなんじゃ商売にならないし、またあなたに抵抗されたら不利だし……もうすぐで街があるんだけど、そこでご飯でもおごってあげるから、兄さんがここに来るまで私に着いてきてくれない? 来たくないなら別にいいけど」

「御者が勝手に奴隷を解放していいのか」

「いや、よくないけど……でも運がよかったら、あなたたちを助けてあげられるかもしれない。今回みたいな事態を、好機と見るか失敗と見るかは、兄さんの考え次第だから」

 リンシンはうっかり話してしまったと思ったのか、直後に口を手で抑えて、一息ついてからまた話し始める。

「とりあえず、今からこっそり街でご飯を食べましょう。お金は……この兵士さんたちからいただくとするかな。ちょっとしか振る舞えないけど我慢してね。あと、後ろの車に皆の荷物があるから、勝手に取ってきてね」

 そう言うとリンシンは兵士たちの死体から小銭を残さず取り出す。

 奴隷に飯をおごる。飯代を護衛の兵士から取る。

 レイエンはこの女が何を言っているのかまったく理解ができなかった。買われた御者であるのならば、本来であれば自分の仕事を完遂しなければ依頼料をもらえないはずだ。依頼料をもらうために、ちゃんと奴隷を依頼主に送り届けるはずだ。

 それなのに、なぜこの女は奴隷たちにこうも親切に接してくるのだろう。

 まさか飯をおごるという口実で街に来させ、依頼主に届けようとしているのだろうか?

 奴隷たちもレイエンもリンシンという商人の対応に疑問を抱いていた。それでも皆、弱っているのは事実であり、振る舞われるかわからない飯のために、自分たちの荷物を取り出し、リンシンに着いていった。


 レイエンが自分の持っていた武器を取り出したとき、リンシンがまたこちらに寄ってきて話しかけてきた。

「あなた強いのねー。名前は?」

「……レイエン」

「ふーん、レイエンね……。盗賊なのに何で奴隷になっちゃったの? そんだけ強いのに」

 レイエンは一瞬、思考が止まった。そして視線を落としてけだるそうに答えた。

「別にどうだっていいだろう」

「そうかなぁ? ま、言いたくないことがあるなら言わなくてもいいけどね」

 そう言うくせに、少し沈黙が続くと、彼女はまた質問をしてきた。

「レイエンはさ、どこから来たの? 年は?」

「……あまり質問ばかりするな。面倒だ」

「そんなこと言わないでよ。せっかく、あの人たちよりも会話してくれそうな人がいるっていうのに!」

 リンシンは口をとがらせる。

 あの人たち、というのは後ろに続いている二十人ほどの奴隷たちのことをさした。

 奴隷たちは絶望と疑惑の眼をしている者もいれば、長い間車に揺さぶられて疲れ果てている顔をしている者もいる。確かに話しかけづらい様子ではあった。

 しかし、だからといって自分に話しかけてくることもないだろうとレイエンは思った。

「別に話す必要なんて無い」

「もー! 若いくせに不愛想ね! ご飯おごってやんないわよ」

「それとこれとは関係ないだろ……!」

 するとレイエンの腹が大きく鳴る。

「ほらほら~、お腹空いてるんでしょ~」

 彼女の絡みに心底うんざりするレイエンであったが、ため息を一つついてから面倒くさそうに答え始めた。

「……どこから来たかは言えないが……年齢は十九だ。もういいだろ。あまり話しかけないでくれ」

「へ!? 十九!? 若!?」

「ふざけてんのか。お前の方が年下だろ」

「失礼ね! 私これでも二十九よ。確かによく言われるけど……」

 レイエンはやや驚き、「嘘だ」とつぶやいた。しかしリンシンはそのつぶやきには構わず、独り言のように言った。

「いや、でも、あんた結構見た目老けてんのね~。通りで苦労してそうだわ」

 レイエンは俯いた。

 それ以降、町に着くまで話し掛けられることはなかった。


 しばらく歩くと、一行は敦煌にたどり着いた。

 敦煌は小さなオアシスだが、大陸を旅する商人たちが一時休息を取るための宿屋のような町である。

町の外れには湖があり、その周りにはわずかな緑が生い茂っている。砂漠の土色ばかりを目にしていた商人たちにとってその色は、一時の安息をもたらすだろう。

 また、騎馬民族の支配する地域であるため、商人たちが引くラクダやロバだけではなく、伝達用の足の速い馬や、鎖かたびらをまとう屈強な軍馬もそこら中の馬小屋で立っている。

 一番大きな建物は重層の立派な寺であり、巨大な大仏の隣にそびえ立っている。仏のご尊顔は、町の門からも見えた。それらの存在感のせいで、民衆の住まう居住区は狭く小さなものに感じる。


 レイエンを含めた奴隷たちは律儀にも、リンシンに飯をおごってもらうために着いてきていた。奴隷を運搬していた御者なのだから、奴隷の中にはリンシンのことを疑う者が多かった。そのことをリンシン自体わかっていた様子でもあったが、飯をおごる気持ちは本心であるようで、着いてきたくない者はどこにでも行けばいいというような様子でもあった。

 その商人らしくない振る舞いが、とても違和感を覚える。しかししばらく彼女のことを警戒していても、不思議と悪い感じはしてこないのだ。

 初めは疑っていた奴隷たちではあったが、だんだん表情も緩まっていき、飯店に着いた時には彼らはだいぶ打ち解けていた。


レイエンは出された飯を少しずつ口に入れながら、一人考えた。これからどうすればいいのか、終わりのない自問自答が、頭の中に埋まってしまう。

(俺はどうして奴隷の荷馬車にいたんだ……?)

 記憶の順序があいまいになる。自分には確かな目的を持った瞬間があったはずだった。ごく最近に、その目的を果たそうとする覚悟を強く決めたのだ。けれど、大切なことが思い出せずにいる。

 束縛への欲求から来る不安と、これから何かを果たさないといけない目的への使命感。

 これらが心に残るばかりで、具体的なものは何も見えてこなかった。何がこの思考を縛っているのかも考え付かなかった。

 自分の求めている物を探さなければならない。

 では、どうやって?

 やがてレイエンは食事の手を止め、俯いた。

周りは同行していた奴隷たちと、他の客たちの話し声が聞こえる。その喧騒と心のわだかまりが混ざり合って、レイエンは思考が止まった。

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