古本Gメン
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
最近、本屋に置いてある本に、ビニール袋がかけられることが多くなってきたように思うんだけど、どう思う?
――プレミアがつきそうな付録を守るため?
まあ、それもあるよねえ。ひと昔前にも見かけたよ。輪ゴム止めしてある小冊子だかを切り取って持って行っちゃう人。厳密には付録自体に値札がついているわけじゃないけど、だからって窃盗罪に問われないなんてこともないだろう。なんか罪の意識というか、公共の利益というか、そのあたりの自覚が薄れてきているんじゃないの?
でもね、店によっては品物がなくなってしまうより、増えてしまうことによって、困った事態が引き起こされる場合もある。
――品物を補充したんだろ?
それもまた違う。実際、僕も昔に体験したことがあってね。若かりし頃の思い出のひとつさ。ちょっと聞いてみないかい?
僕たちの町に、ちらほらと新古書店が現れ始めて数か月くらい経った時。
僕は会計をしてくれた店長さんから声をかけられた。
四十がらみの男性。鼻とあごの下に短めのひげをはやしていて、長い黒髪を首の後ろで束ねている。
当時の僕にとっては、場末の喫茶店のマスターさんって感じだった。こう、知る人ぞ知る穴場みたいなお店を取り仕切っている、良くも悪くも底が見えない人、かなあ。
「君、けっこうこの店に来てくれているだろ? 良かったら『古本Gメン』やってみないかい?」
Gメン、と聞いてピンと浮かんだのが、黒いスーツにサングラス。髪をオールバック高にして、麻薬関係者を強引に取り押さえる人だった。
きっと「古本Gメン」とやらでは、取り押さえるのが万引き犯になるんだろう。そんな腕っぷし、僕にはない。
そう答えると、店長さんはGメンとは言っても「グラスプマン」のことだよ、と話してくれた。
「グラスプ……ええと、『把握』とか『支配』でしたっけ。漠然とした感じの」
「おっ、正解。英語はできるクチかい? そう、君に頼みたい『グラスプマン』とは、店の状態をおおまかにでも把握できる人のことを指す。店員さんでこと足りるじゃないか、と思われるかも知れないが、このエプロン着用が義務付けられているから、人によっては目をつけられちゃうんだよ」
店長さんはブルーの生地で作られたエプロンの端をつまんで、ひらひらさせて見せる。胸には名札がついているから、誰が何をしたかも名前と一緒に丸わかり。
「こうやって店員が『おとり』になっている間に、私服の『グラスプマン』が変わりゆく状況を把握するというわけだ。何が何やらと思うかもしれないが、詳しい話は引き受けてもらえたら話そう。どうだい?」
僕は無知だった。児童雇用とやらの詳細や条件も知らないまま、働いた日には昼ご飯をおごってくれるという、単純な条件であっさり首を縦に振ったんだ。
親や学校の先生に相談することもなし。当人たる僕には、一番、事情を知られたくない人たちに、知られずに済むということを、ありがたく思うばかりだったけど。
引き受けた僕に明かされた任務。それは、店の「表向き」の在庫の経過を知らせることだった。ここでいう表向きの在庫とは、棚の下に取り付けられている引き出しの中身を考慮しない、現在、表に出ている本たちの冊数のことだ。
「仕事の初めに、君には今現在の本の並びを把握してもらう。むろん、客を装ってもらうから、適当に立ち読みしてくれて構わない。ただし、定期的に巡回をして本の増減を確かめて欲しいんだ。気づいたことがあったら……」
「ちょっと待ってください。減るのはともかく、増えるってどういうことです? 頻繁に店員さんが補充するんですか?」
「いんや。お客さんが置いていくんだよ。本をね。買取カウンターを通さず、過去にここで買った本から取ったと思しきシールをはっつけて、偽装していくもんだから、質が悪い。いいお客さんだよ、ホントにね」と、店長さんは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「増えた本を見かけたら、くれぐれもその本には触らず、私たちに知らせてくれ。意図がばれるといけないから、仕事初めに合言葉たる『符丁』を教えるよ」
こうして、僕の古本Gメンとしての仕事が始まった。
図書館に行くと家では告げるけど、実際には店に直行だ、。
件の新古書店がオープンする十分前には店の裏手に回って、従業員室のドアを決められた回数と間隔でノックする。すると、店長さんが顔を出して、現段階での「表向き在庫」の数が書かれたA4の紙を渡してくれる。
ノックの取り決め。右上に「マル秘」のハンコが押された在庫の紙。コッテコテのお約束ギミックに、僕の心は躍った。
ざっと在庫の紙に目を通し、その日の来店一番乗りとして、動くようになった自動ドアをくぐる。そしてお客が来るまで立ち読みをして、時間を潰したよ。
この新古書店。本当にさりげなく本が増えていくんだ。
突拍子もないところに、違う作家のものがぽつんと現れてくれるのなら楽なのだけど、ところどころ穴が開いていたはずの、全数十冊シリーズ物の中に、同じ姿で潜り込むことがあって、つい、こちらの目の方を疑ってしまうようなパターンもある。
僕はお客さんの目につかないように、店の片隅で在庫の紙と照らし合わせながら、店員さんを呼ぶ。本には触らないようにとのことだったけど、肝心の店員さんは手でひょいとつまんで回収していってしまう。手袋も何もつけずだ。
あまりに不用心で、教育が行き届いていないのか、それとも僕が考えているようなものとは違うのか……疑問が湧いてくるばかりだったよ。
それもご飯をタダで食べられると思えば、気にするほどのものではなかったけれど。
Gメンを始めて半月。そろそろ仕事にも手慣れてきた。その日もまた、僕は表向き在庫の紙をもらい、ざっとラインナップを確かめ始めた。
リストを見ながら、ふと足を止める。昨日までは入荷していなかった、先月発売された漫画の新巻の名前があったんだ。
連載開始当初はあまり話題にあがらなかったものの、単行本にして一巻のラストから二巻の初めにあたるところで、いわゆる「神展開」が繰り広げられ、夏休み直前のクラスの話題筆頭をかっさらっていったんだ。
普段は漫画を読まない僕だが、そこまで話に上ると食指が動くというもの。しかし、あいにく近所の本屋では売り切れ続出で、取り寄せないと手に入らないほど。たまたま見かけたら手に取ろう、程度の熱意しかない僕にとって、この新古書店入りはありがたいばかりだった。
さっそく探り当てて、読み始める。劇画調で少しスプラッタ。妙なテンションのナレーションがちょこちょこ入る序盤は、少しノイズを感じたが、ナレーションがほとんど消えた一巻の中盤から、がぜんテンポに乗って面白くなる。
噂の一巻、二巻のつなぎも見事。まさかナレーションが、確かに嘘は言わないが、真実も話していない「信用できない語り部」とは思わなかった。
おかげで二巻からは、いろいろと吹っ切れている。
これは面白い。すぐに僕は二巻を読み終え、三巻目に手を伸ばす。
表紙をつかんだとたん、両目の内側で何かが跳ね上がった。心臓の鼓動、それを何倍にも大きくしたようなものが一回だけ。だが、それも一瞬で収まる。
緊張していたのかな、と僕はさほど気にせず、表紙を開いたんだけど、一ページ目からくぎ付けになった。
そこには一巻二巻で展開された、いかなる世界も登場人物も描かれていなかった。黒いクレヨンで塗りつぶしたかのような、野原が広がっていたんだ。
ところどころ、紫や緑色が混じっているのも見える。それらの色のクレヨンを、いっぺんに紙に押し付けて、何度も往復させたら、こんな柄になるだろうか。
ひと目見て鳥肌が経ったけど、印刷ミスじゃないのか、と思って僕はついぱらぱらと続きのページをめくるが、後悔したよ。
野原は一向に終わらない。どこも見開き二ページいっぱい。延々と暗い色調に満ち満ちて、光明が見いだせない。あの世界の続きはどこにもない。
最後までこれなのか。僕は焦燥に駆られて、次々にページをめくっていって気づいたんだ。
どのページもそっくりの黒い野原だが、違う。ところどころに挟まれた紫や緑の、辺りに染まらない色の断片たち。それがわずかずつ動いていたんだ。
アニメのコマ送り、パラパラ漫画と同じだ。
異色の粒たちはページをめくるたび、彼らはじょじょに集まり、模様を生み出していく。やがてそれらが、やぎのように湾曲した角になり、その下に伝うあごができ、整っていく輪郭の中で、福笑いのようにばらけたパーツが揃っていって……。
気づくと、僕はカウンター裏の、のれんが垂れた向こうにある、バックヤードに寝かされていたよ。帽子掛けとロッカーがいくつか並んでいる以外は、全然ものがない、シンプルな作りだ。在庫の紙を受け取る時に、何度かのぞいたからわかる。
体を起こすと、そこには正座をした店長さんがいて、深々と頭を下げた。
「申し訳ない。てっきり本が増えていくばかりと思っていたんだが、まさか本そのものを入れ替えてくるとは思わなかった。こちらの不手際だ」
僕は何が何だか分からない。けれど立ち上がろうとして、びっくりした。
僕の両手の爪には血がにじんでいたんだ。しかも、ところどころに紙片らしきものが挟まっている。
「すまないが、Gメンの件、今日限りとさせてくれ。あの本を『理解する』には君はまだ若く、危険だ。少し休んだら、裏口からそっと帰りたまえ」
店長さんは背を向ける。ただのれんをくぐる瞬間。店長さんの頭に、あの本の中で見たヤギの、湾曲した両角が見えた気がした。
店を出て表に回った時。もう開店時間なのに、自動ドアには電源が入っていなかった。けれど、そのガラス張りの向こうで、無数の本のページがずたずたに破られ、床いっぱいに散っているのが見て取れたよ。
そして、それらには固まった血痕が、いくつもこびりついていたんだ