09.バカな話だよなぁ
四時限目の終了を告げる鐘が鳴りはじめる。
級長が挨拶の号令をかけて、数学講師の梶谷が教室を後にし、教壇の上には黒板に描かれた数式の羅列だけが残された。待ちかねた昼休みを迎えた教室は喧騒に包まれる。その喧騒が連鎖するように他の教室や廊下も一気に賑わいをみせる。
四時限分の疲労と空腹に苛まれる柊の目の前に、今朝から姿を隠していた違和感の影がまた現れた。
鐘が最後の一小節をゆっくりと鳴り終える。それでもなお、二つのおさげ髪は柊の目の前にきちんとそびえ立っていた。授業中一度も崩れ落ちることなく、授業からの解放感に包まれるこの一瞬を持ってしても祭の背中は数式と戦う姿勢を崩さずにいた。
月曜日には祭の苦手な数学が二度もある。今終わりを告げた四時限目と、締めをくくる六時限目である。四時限目は授業開始から三十分、六時限目は授業開始から二十分、そこで祭はいつも戦線離脱を図るのだ。いつも所有者が机に突っ伏すせいで、否応なしに升目の描かれた天井の白を見つめさせられている二つのリボンが、今日は柊から視線を外すことなくこの時間を過ごし終えていた。
なにか悪いもの(この場合は良いものというべきなのかもしれないが)でも食ったのではないかと思う。
薄気味悪いものを祭の背中に感じながら柊は席を立つと、少しだけ周囲に気を配りながら、毎週お弁当を作ってくれる健気な彼女の元へと向かう。
焦った。
机の上に崩れ落ちている雪の姿が目に飛び込んできた。
「こ、小松原!? どした!? どこか具合悪いのか?」
慌てて駆け寄る。肩を揺さぶろうとして、そこに触れてはいけないバリアが張られてるかのように、ぎりぎりのところで手を止めた。
「……ん? あれ? 授業は?」
むくりと起き上がり、雪は寝惚け眼をこちらに向ける。
「……もう終わったけど?」
普段見せることのない無防備な雪のその表情に、柊は少しだけ頰が赤くなるのを感じた。
「もしかして、寝てた?」
「……みたい」
雪はそう言うと、んーー、と伸びを一つする。
「こ、小松原でもそんなことあるんだな」
「え、えへへ、まぁ、たまにはねぇ」
赤くなって俯くかと柊は思ったが、雪は気さくに話を切り返してきた。少しだけ和やかな雰囲気になる。なんだか今日の雪はいつもより話しやすいような気がした。軽い談笑に花を咲かせていると、背後から遠慮に凝固させられた声がとんできた。
「あ、あの……二人とも、今日、私も……お昼一緒させてもらっても……いい、かな?」
聞きなれた声色の聞きなれないその口調に柊は悪寒を感じ、振り返ると、そこに気味の悪いものを見た。
黄色の弁当包みを手に提げた祭が、微かに頰を赤らめ、上目遣いにシュンと立っている。
世界が終末でも迎えるのではないかと思った。
およそその時が訪れたとしても、見ることのないであろう光景が目の前に広がっている。
祭のありえないくらいにしおらしいその姿に、柊が言葉を失っていると、
「もちろん、いいに決まってるじゃん! ね? シュっ……ウ、エモトくん」
雪が快活に返事をした。
「あ……ああ……俺は……構わないけど……」
どうにか声を絞りだし、柊が答える。
「それじゃ、中庭にレッツゴー!」
祭はまた何か良からぬことを企んでいるのだろうかと柊が警戒する中、雪が元気良く音頭をとり、教室を出ようとしたところで、雪が手ぶらであることに祭が気づいた。
「ゆ、雪、お弁当箱は……?」
「え? お弁当?」
祭の言葉に雪が一瞬だけ固まる。
「あっ! ごめん、作るの忘れてたぁ」
舌をぺろっと出し、頭に手を当てて謝る雪を見て、柊は祭の癖が雪に伝染しているのではないかと思い、少しだけ心配になる。
「いや、全然っ! そういうこともあるよな」
楽しみにしていた雪のお手製弁当が食べられないのは残念だが、忘れたものは仕方がない。雪とて完璧な人間ではないのだ。それに毎週弁当を作ってきてもらっている分際で文句を言えるはずもなかった。
「じゃ、購買いこうか。……祭、悪いけど先に中庭でいつもの場所取っといてくれるか?」
雪のお手製弁当を求めていた胃袋は少しだけ後ろ髪を引かれていたが、頭を切り替えて昼飯の確保に取りかかる。さすがに昼食抜きで午後からの授業や部活を乗り切る自信はない。
「……う、うん。じゃあ、私は先に中庭で待ってるね」
祭は少しだけ思い悩むような表情を浮かべてから返事をすると、陽光の降り注ぐ中庭へと一足先に向かった。雪と柊は購買を目指して若い喧騒が溢れ出る廊下を肩を並べて歩きはじめる。
隣を歩く雪の肩がいつもより少し近い。
だが、柊の頭の中は祭の不可解な言動のことで占有されていて、いつもより近くで揺れている桃の香りがする綺麗な毛先にも、握り締めると壊れてしまいそうな華奢な肩との距離も、気に止める余裕がなかった。
「なぁ、小松原」
「……ん? なに?」
「今日の祭、なんか変じゃないか?」
「へんって?」
「なんか不気味なくらい静かだし、さっきもこうなんていうか、しおらしいというかさ、ご飯一緒に食べていいか、ものすごく遠慮気味に聞いてきたし」
「……それで?」
雪の声が少し低くなる。
「いや、だから、そのしおらしさとか遠慮気味なのが、もうかなりおかしくないか?」
「……祭ちゃんだって、遠慮するときくらいあるんじゃないかなぁ?」
雪のこめかみにほんの少し青筋が浮かんでいることに気づかず、柊は続ける。
「いや、それはないって。そりゃさすがに初対面の大人には、ほーんのちょっとくらい遠慮するかもしれないけど、俺たち相手に遠慮するなんて120パーセントありえないよ! それはあいつの幼馴染である俺が保証する」
柊が自信を持って声高に力説すると、雪のこめかみの青筋が一層色濃さを増した。
「……じゃあ体調がすぐれない、とかじゃないの?」
雪が少し投げやりに予想を口にする。
ありえなくはない、と柊は思った。
祭が体調を崩す可能性は極めて低いが、どこも調子が悪くないのにあんなにしおらしい祭が存在することの方が、体調を崩す可能性よりはるかにありえないことである。体調が悪いのなら不気味なくらいに静かなのも納得がいくし、そういえば今朝も顔が赤かったような気がする。そう考えた柊は、この時期に祭が体調を崩しそうな出来事の可能性を少し呆れた調子で口にした。
「だとしたら、あいつまた冷房かけっぱで布団も被らずにへそ丸出しで寝たんだな」
何かがミシミシと音を立てる。
「……どうして、そう言い切れるの?」
「祭が普通に生活してて体調壊すなんて、俺たちに遠慮するのと同じくらいありえないって。家族全員インフルエンザにかかってんのに一人ピンピンしてたくらいなんだから。祭が体調壊すときは決まって自己管理の甘さによるものなんだよ。昨日も暑かったし、冷房が原因の可能性が高いけど、もしかすると食べ過ぎの可能性も十分あるな」
柊は顎に手を当てながら、自分の推理を面白おかしく雪に聞かせる。
「あいつ、さっきも数学の授業、寝ないできちんと聞いててさ、いっつも途中で寝るはずなのに。なんか悪いものでも食ったんじゃないかこいつ、なんて思ってたところなんだよ。あいつさぁ、中学の時に焼肉食べ放題に出かけて、食い意地張って時間制限ギリギリまで食い続けて翌日腹痛で学校休んだんだよ。それが中学三年間で唯一のあいつの欠席。それぐらい食い意地はってるから、なにかに当たってても全然不思議じゃないな」
柊は思い出し笑いをゲラゲラと浮かべながら話し続けた。そして、
「まぁいずれにしても、ほんとバカな話だよなぁ」
その言葉がダムを決壊させる止めの一撃であった。
「う・え・も・と・く・ん!!」
「なに?」
話と過去の回想に夢中になり、間抜けな声で返事をした柊は隣に目を向けて、ようやく気づいた。
「祭ちゃんのことになると随分おしゃべりになるんだねー」
雪は笑顔を取り繕っていたが、こめかみには青筋がこれでもかと言わんばかりに浮かんでいる。握りしめた拳をぷるぷると震わせバキバキッと骨を鳴らし、幼い顔つきの小柄な女子が放っているとは思えない殺気を身にまとっていた。
その姿とオーラに柊はたじろいだ。普段おとなしい雪が見せるそれは、祭を怒らせた時の数段薄気味の悪い強烈なもののように感じた。
何が気に障ったのかは分からないが、今自分はここで命を失ってもなんら不思議ではない。柊はガクガクと膝を震わせ、直面した恐怖に死すら覚悟したのだが、
「あたし、トイレ! 先行ってて!」
握りしめた拳は己の体に矛先を向けることはなく、雪はピシャリと言い放つと強烈な殺気を携えたまま、女子トイレのある方にずんずんと歩いていく。オーラを纏った雪の背中が廊下を突き進む。すれ違う生徒達が雪の発する異様なオーラにおののき、道を譲るように廊下の端に避難する。人波を左右に掻き分け、切り開かれた廊下を雪は闊歩した。そのまま女子トイレの表札がかかる入り口へと折れて、ようやく異質な殺気を纏った背中が見えなくなった。
死ぬかと思った。
柊は頰を流れ落ちる冷や汗を拭い去る。
今まで雪に祭の馬鹿話をしても怒ることなどなかったし、くすくすと控えめながらではあるが笑ってくれることも多かったのに。なにか悪いものでも食ったんじゃないか、のくだり辺りは笑ってくれるんじゃないかと少しだけ自信もあったのに。確かに今日は珍しいことがあったせいで、いつもより饒舌になりすぎたことは否定しない。なんだか雪からもいつもより話やすい雰囲気を感じた。そのせいで少し調子に乗ってしまっただろうか。
柊はさらに考える。
祭が雪の大切な友達だから悪口を言ったことに怒ったのだろうか。だとすると、やっぱり少し調子に乗りすぎたように思う。もし祭が本当に風邪でもひいてるなら、あいつのタフさを知らない雪にはやはり一大事であると感じるだろうし、タフであることを知っているからと言って昔の馬鹿話を持ち出した自分もあまりに白状に映ったかもしれない。無論、本当に体調を崩しているなら放っておくようなことはするつもりもないが。祭は自ら保健室に行くような真似はしないだろうし、小学生の頃の一件があるから連れて行かれないようにと自分には無理に隠そうとするかもしれない。少し強引になってでも真相を確かめて、事のいかん次第では保健室に連れて行こうと思う。
そこまで考えて柊は、もしかするとと思った。
もしかすると、雪は妬いたのではないか。
祭のことばかり話し、こんな風に祭のことばかり考えていることに嫉妬したのではないか。
普段はそんな素振りなど微塵も見せなかったが、ずっと心の内では祭への対抗心による嫉妬の炎をたぎらせていたのではないか。だとしたら、
「ちょっと、かわいいかも」
柊は先ほど感じた死ぬほどの恐怖をあっさりと忘れ去り、的外れな一人言をつぶやくと、少しときめいた胸を抱え、若い喧騒に揺れる廊下を軽い足取りで購買へと向かって歩く。