07.殴って黙らせればいいのよ
柊の家の前、『五十嵐』の表札がかかる木造二階建ての一軒家を目の前に、雪は立ち尽くしていた。
その先へと足を踏み出さないといけないことは理解しているのに、家の敷地に続く門の前で、靴の裏からアスファルトに根が生えたかのようにピクリとも足を動かすことができずにいる。時刻は午後五時を過ぎていた。陽が西にゆっくりと傾き、オレンジ色に染まる陽射しが雪の頰に差し込んでいる。昼の元気な太陽に焦がされたアスファルトが、その熱をもってじわりじわりと雪の体に襲いかかる。ふつふつと汗が額から湧き上がる。引き返す場所もなく、帰れる場所は目の前のこの家しかない。頭では分かっているのに、足が言うことを聞いてくれない。
雪が葛藤に明け暮れていると、ガラス張りの玄関扉が音を立てて開いた。中から、笑顔の素敵な女性が顔を出す。祭の母の美咲であった。
「あら、帰ってたのね」
美咲は雪のことを見ると、その笑顔をさらに柔らかくて温もりのあるものに変える。
「そんなところでどうしたの? 何か面白いものでも見つけた?」
門の向こうで、明らかにその家の者ではない不審な訪問者の雰囲気を出す雪に美咲は笑顔を崩さずに問いかけてくる。
「う、ううん……」
雪は意を決し、アスファルトに生えた靴の裏の根っこを引き抜くかのように、ゆっくりと重い足を一歩踏み出す。門を開いて敷地に入り、そのままなに食わぬ顔で美咲の横を通り抜け、五十嵐家の敷居を跨いだ。
馴染みのない玄関が目の前に広がり、他人の家にお邪魔した時の嗅ぎ慣れない匂いが鼻をついた。
「おかえり」
ぽつりと、背後から投げかけられた言葉は優しさに満ちていた。振り返るとそこには、目の前にいるのが自分の娘であることを信じて疑わない、投げかけた言葉と同じくらい優しさに満ちた美咲の笑顔があった。
「た……ただいま……」
かつて雪の人生の中でこれほど不安に苛まれたぎこちない『ただいま』もなかったと思う。この言葉を口にする時、目の前には馴染みのある空間が広がっていて、当たり前になった匂いに嗅覚はなにひとつ反応を示さず、慣れ親しんだ母と父の「おかえり」の声と笑顔が心に自然と安心をもたらしてくれていた。
雪はそんなことを感じながら、たたきの上で靴を脱ぎ、家の中へとあがる。記憶の断片を手繰り寄せて祭の家の見取り図を頭の中で描き、おぼつかない足取りで廊下を進んで祭の部屋がある二階を目指した。煤けた階段を一つ一つ慎重に上り、警戒心を絶やすことなく、どうにか祭の部屋に辿り着く。後手で扉を閉めて、
大きく息を吐いた。
とりあえず落ち着ける場所を求め、雪はベッドの上に遠慮がちに腰を下ろした。もう一度、深く呼吸をして息を整える。
部屋の角に立ってこちらを見ている姿見の鏡に、そっと目を向けた。銀色の中にいつもの見慣れた自分の姿はない。
肩の前を流れ落ちる一つに纏められた長い髪が、母親譲りの端正な顔が、トレーニングで引き締まった上半身が、スラっと伸びる長い足が、いつも元気で明るくて自信に満ち溢れている祭の姿が、到底見せることのないであろう不安な目でこちらを見つめ返していた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
雪は一時間ほど前の記憶を辿る。
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祭の右手に引っ張られる形でスイッチに手をかけた。
全身の力が抜け、視界がゆっくりと霞み、やがて真っ暗になった。
頭の中がぼんやりとしてきて、ゆっくりと思考が溶けていき、やがて真っ白になる。
ありとあらゆる感覚が消えてなくなり、何時間も経ったような、ほんの数秒しか経っていないような、奇妙な感覚が訪れた。
やがて真っ白になった頭が、ゆっくりと思考を取り戻し、ぼんやりとする意識の中でまぶたを持ちあげると、霞む視界に白衣を着た女性が映った。
「やっぱここにいたわね。まぁ、こんだけ分かりやすく形跡残してたら探すまでもないけど」
呆れるように肩をすくめて、後ろの開け放たれた二つの扉を見る。廊下を挟んだ二つの部屋が開けっぴろげになっていた。
「で、この子が柊の彼女の雪ちゃんね。はじめまして、柊の姉の桜よ」
桜がそう声をかけたのは自分に対してではなかった。わけが分からず、桜の視線を追うように隣を見た。
ぞっとした。
鏡の向こうにしか映し出されてはいけないはずの自分の姿がそこにあった。それは平面に映し出されたものではなく、紛れもない立体物としてそこに存在しているように見える。いったい何がどうなっているというのか。雪の頭が困惑に包まれていると、その立体物は声をあげた。
「さくらちゃん、何言ってんの? あたし、祭だよ」
何かがおかしい。隣にいる人物は明らかに祭の姿形をしていない。間違いなく自分の、小松原雪の姿なのだが、だとすればここにいる自分は一体何者だというのか。
桜は少し怪訝な表情を浮かべ、ケーブルを握る二つの手とその先に続く機械に目を向け、
「ふむ、なるほど」
と顎に手を当てながら、なにかを心得たようにうなづいた。
「祭、こっち向いてみな」
桜がこちらを指差す。
「えっ!? な、なに!? あたしがもう一人!? なんで!? ドッペルゲンガー!?」
こちらを向いて、パニックに陥っている己の姿があった。隣にいる、おそらく祭と思われる人物は、こちらを、自分のことを見て五十嵐祭の姿であると認識した。これは……
「残念だけど、ドッペルゲンガーじゃない」
桜は屈んで視線をこちらの高さに合わせると、白衣のポケットからコンパクトミラーを取り出し、祭と思われる人物に向けた。桜が言わんとしようとしていることの先が見えてきたような気がして、雪の中に突拍子もない半信半疑が生まれる。
「え!? なになに!? どうしてユキが鏡の中に!? も、もしかして!」
桜が期待の表情を浮かべる。
「この鏡を覗き込むと、自分の好きな人の顔が映るとか!? さくらちゃん、すごい! こんなものまで発明してたんだ!」
「……あー、もういい」
桜が大きくため息をつく。
「……ごめん、祭にまどろっこしい説明して理解してもらおうと期待した私が悪かったわ。二人とも、きちんと説明してあげるから、ちょっと私の部屋にきて」
機械を手に取り、自室へと戻る桜の後に二人は続いた。もちろん扉はきちんと閉めていく。
桜は回転式の椅子に腰を下ろし、二人は足の踏み場もない床の上にどうにか着地地点を見つけて腰を下ろした。
「あんたたち、この装置使ったんでしょ?」
椅子に足を組んで座る桜が、二本のケーブルをぶら下げている機械を二人に向かって差し出す。
「うん、これってあれでしょ? 二人の相性を測定するっていう」
祭であろうと思われる人物が答える。
「ほー、祭にしてはよく覚えてたな。まさにあの装置からデザインとインターフェースを流用したんだよ。ちなみにあれは正確にいうと測定者二人の運命を定量化するーー」
「あー、もう難しい話はわかんないからいいよ!」
話を遮られた桜はため息を一つ吐いて、本題に入る。
「いい? これは対象者二名の脳の中身を入れ替える装置なの。今、雪ちゃんの体には祭の記憶と思考が入ってて、祭の体には雪ちゃんの記憶と思考が入ってるわけ」
雪の頭の中を『まさか』と同時に『やっぱり』が駆け抜けた。半信半疑の思惑が信に向かって傾いていく。
「ええ!? 体が入れ替わったってこと?」
「んー、正確には脳の中身を入れ替えてるんだけど……まぁその解釈でも被験者にとったら問題ないし、分かりやすいか」
「それで、あたしたちはどうなるの? このまましばらく生活しないといけないとか?」
「ああ、大丈夫、大丈夫。もっかい使えば元に戻るから」
「あ、そうなんだ」
桜の言葉に祭は少し拍子の抜けたような表情を浮かべた。雪はほっと胸をなでおろす。
「そういえば、結局自己紹介がきちんと済んでなかったわね。はじめまして、柊の姉の桜よ」
桜は椅子を回転させて、先ほどとは違い今度はこちらに顔を向けて言った。
「こ、こちらこそ、遅くなって、すいません。は、はじめまして、上本くんと、お……お、付き合いさせてもらってる、こ、小松原雪です」
緊張しながら雪が正座して丁寧に挨拶を返すと、桜はぷっと吹き出してゲラゲラと大声で笑った。なにか自分はおかしなことを言っただろうかと雪は不安になる。
「いやー、ごめん、ごめん。こんなに礼儀正しい祭の姿は初めて見たから。中身が雪ちゃんだっていうのは分かってるんだけど、もう可笑しくて」
桜はそう言いながら、自分の太ももをバシバシ叩いて、なおも笑い続けていた。
「さ、さくらちゃん! どういうこと!? もう、ひっどーい!」
祭が隣で頬をふくらませる。普段は見せることのない自分の表情がそこにあって、少し気恥ずかしくなる。
「いやー、わるい、わるい。さ、面白いものも見れたし、早くそれ使って元に戻って」
桜に催促されて、祭と雪は手を繋いで先ほどの要領で機械のスイッチを入れたのだが、
「あれー? さくらちゃん、この機械動かなくなったよー?」
その機械はうんともすんとも言わない。メーターの中の針も死んだように固まっている。
「んー? おかしいな?」
桜は機械を手にとり、スイッチを何度も押してみるがやはり機械はなにひとつ声をあげなかった。
「おーい、姉ちゃん」
扉の向こうで、柊の声がした。
「あ! シュウの奴、やっと戻ってきたみたい。こんなに長いことトイレに篭ってるなんて、ユキ、やっぱりあたしがお説教してあげるわ!」
祭が立ち上がって、勢いよく扉を開く。
「あ、小松原、やっぱここにいたんだ」
柊は勢いよく扉を開けたのが思わぬ人物の姿をしていたためか、少し仰け反って虚をつかれたような表情を見せた。対面した祭の肩越しに、視線をこちらに向けて、
「それに祭も。まぁ小松原一人で姉ちゃんの部屋行くわけないし、さっき階段を上る騒音がしたから、お前が姉ちゃんの部屋に来てるんだろうとは思ってたけど」
「ちょっと! シュっーーんんっーーーーんーーーー」
いきり立って柊に食ってかかろうとする祭の口元を桜が後ろから抑えた。
「んっーーんんーーーーんーー」
「お、おい! 小松原になにしてんだよ!」
柊は突然のことに驚き、声を荒げはしたがその先に続く行動はなかった。
「柊、今ちょっと女同士で大事な話してるから、あんたは部屋に戻ってなさい」
「え、ええ!? 話ってなんだよ?」
「さ、さく……らちゃん、ぐ……ぐるじい」
桜に抑えられた口元の僅かな隙間を見つけて、息も絶え絶えに祭が絞り出すような声をあげる。
「見てのとおり、もう下の名前で呼んでくれるくらいの仲良しさんよ。ほらほら、大丈夫だからあんたは部屋に戻ってテレビ見るなり、漫画読むなり、ゲームするなりしてなさい」
桜が柊に向かって笑みを浮かべる。
「い、いや、けど……」
納得のいかない柊はどうにか食い下がろうとするが、
「あらら、かわいそうな雪ちゃん。柊が素直に従わなかったせいで、小姑との関係が悪化して将来惨めな思いをするのね」
「は、はぁ!? お、俺と小松原はまだ高校生なんだし、そ、そ、そんなんじゃーー」
桜のその言葉にあっさりひるんでしまい、
「いいから、あんたは部屋に戻ってればいいのよ!」
隙を見つけた桜は凄みを利かせて一気にまくしたてた。
「わ、わかったよ……」
「安心しなさい。雪ちゃんは、ちゃんと責任持って返すから」
柊はしぶしぶといった感じで踵を返すと自室へと戻った。桜は柊が部屋に入るのを確認してから、「無事に、とは言ってないけどね」と不安しか残らない一言を呟いて自室の扉を閉めた。こちらに向き直り、桜は白衣の胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、再び機械を手に取り、「うーん」と唸りながら、あちこちを舐め回すように見る。
「どうやら、故障したみたいね。乱暴にぶつけられたような跡が残ってる。多分これが原因ね」
「こ、故障……!?」
「ええ!? じゃあ、あたしたち一生このままなの!?」
「慌てないで。最後まで話聞きなさいよ。いい? この装置はもう完成してるの。私なんか、もうこれ使って三回も他人と入れ替わってるんだから」
「ええ! 三回も!? さくらちゃん、いつの間に……」
「だからね、たぶん一月くらいはかかっちゃうけど、修理は問題なくできるわ。これは保証するから安心して。装置が直るまではそのまま過ごしてちょうだい。それと、この装置のことが外に出るとまずいの。まぁこんなの開発しちゃうくらいだから、想像つくだろうけど結構やばい組織が関わってるのよね。あんたたちのことは被験者として書類申請しておくけど、入れ替わってる事実と装置のことは他言無用でお願いね」
桜は早口にそんなことを言った。突如つきつけられた一月の交換人生と、いきなり現れた怪しい組織の存在、それをあっけらかんとした調子で話す桜に二人は呆然とする。
「あのね、あんたたちなんてまだマシな方よ、見知った同性同士なんだから。私が入れ替わった相手、男なんだから」
桜は乙女であることを捨てて身も心も研究に捧げるマッドサイエンティストの鏡のようなことを言う。そんなことを言われてしまっては、文句の一つも言えなかった。いや、そもそも雪に他人に文句を言う度胸など、ましてや柊の姉にそれをぶつける度胸など持ち合わせてなどいないのだが。
「えーと、あたしは全然オッケーだよ! なんだか面白そうだし、それに入れ替わった相手がユキなんだもん!」
不安にかられる雪に、唯一の味方はなんの役にも立たなかった。
祭は立ち上がり、クルリと一回転して白のワンピースの裾をひらりと踊らせる。鏡を見つめて、にやけ面で頰をぺたぺたと触り、うっとりと幸せそうな表情を浮かべた。いつもより動きも表情も生き生きとしているように見える己の姿に、雪は途方もなかった予想が現実として目の前に存在していることをようやく実感する。
「で、でも……隠さないといけないんですよね? 家族もそうだし、特に上本くんは祭ちゃんのこともよく知ってるだろうし……気付いたりしないかな……?」
「大丈夫、そう簡単にバレたりしないから、安心して。さっきも言ったけど、あたしももう三回も入れ替わってるけど周りの人間には一度もバレなかったし、他の被験者も誰一人としてバレてないから。他人と人格が入れ替わったなんて話、ふつうに生活してたら考えもしないわよ。仮に自分たちから打ち明けても信じてもらえるか怪しいくらいなんだから」
「だってさ! だいたい、もしシュウが疑ってきたり、何か言いがかりつけてきたら、殴って黙らせればいいのよ」
「な、殴るって、そ、そんなぁ……」
「それに、これはチャンスだよ!」
祭が向き合う形で両手を肩にぽんっとのせてくる。
「ちゃ、チャンス?」
「そ! 普段あたしがしてるみたいにシュウに接してみなよ! あたしの体なんだからぜんっぜんおかしくないし、ユキにとってはいい特訓になるでしょ! で、機械が直って元に戻ったら積極的にシュウに迫って、ビックリさせてやりなよ!」
「せ、迫るなんて! で、できないよ……そんなこと」
雪は顔の血がふつふつと湧き上がるのを感じる。体が入れ替わっても、この思考である限り赤面症は治らないらしい。
「まぁまぁ、とにかく。せっかくなんだし、この状況を利用しない手はないでしょ?」
祭が笑顔で問いかけてくる。あっという間に雪の体を自分のものとして使いこなしているような、自然な笑顔だった。
「で、でも、そんな……利用するなんて……なんだか、祭ちゃんにも上本くんにも悪いような気がするし……」
「もぉー、なにいってんのよ! ユキの幸せはあたしの幸せなんだから、気にしないの! それに、シュウだってユキが積極的になってくれたら嬉しいに決まってるじゃない!」
祭がいつもより小さくなった体で、いつもより大きくなった雪の体を無理やり抱き寄せて頰ずりをする。
「安心して! こっちは今まで通りの距離を保つようにしておくから。ぜっーーたいありえないだろうけど、万が一シュウがこの体を押し倒すようなことがあったら、思いっきりぶん殴って阻止しておくから!」
祭はファイティングポーズをとり、握った拳をシュッシュと突き出す。その言動に雪は言い知れぬ不安を感じずにはいられなかった。
「まぁ、泣こうが喚こうが機械が直らない限り、あんたたちはこのまま生活しないといけないんだけどね」
その不安を読み取ったかのように、桜が駄目押しの一言を口にして、雪は揺るぎない現実と戦うことを余儀なくされた。
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桜が言った通り、泣こうが喚こうがこの状況はどうしようもないのだ。悩んだところで仕方ない。悩みすぎるのは自分の悪い癖だといつも言い聞かせているではないか。
雪は両の手で頰を叩いて、現実と立ち向かうための喝を自分に入れる。姿見に映る祭の姿が頰に手を当て、その痛みが自分に伝わったことで逃れられない現状を再認識する。
部屋を見渡した。
ベッドの周りにトレーニンググッズが散らかっている。テニスの雑誌が我がもの顏で勉強机を占有していた。居場所を失い、追いやられた使用形跡のない参考書が奥の棚に綺麗に並んでいる。
壁に貼り付けられているコルクボードに目が引きよせられた。
小学生くらいの頃のものから去年のものまで年代のばらばらな写真がランダムな配置でコルクボードを埋めている。持ち主である祭がいるのは無論のこととして、そのほとんどの写真のどこかに柊も映っていた。どの写真の中心にも祭が位置している。中心の祭の容姿が幼くなるのに合わせて、写真のどこかに映っている柊の容姿も幼くなっていく。昔の柊が見れて、雪は少し嬉しくなり、その一つ一つを追った。色んな年代を駆け巡り、その中でも二人が一番幼い頃にとったであろうと思われる写真に目が行き着いた。
上本家と五十嵐家の家族が集合している写真で、小さな柊とその柊の背中に覆いかぶさるようにしてピースをこちらに向けている祭の姿があった。幼い祭はくっきりとした顔立ちで将来美人になることを予感させる眩しい笑顔をこちらに向けている。柊は祭に覆いかぶさられて少し下を向いてしまっているのだが、笑顔を作っていた。幼くてかわらしい顔つきをしているなぁと雪は思った。
この柊だったら恥ずかしがらずに上手く付き合えそうだ、などと戯けた妄想を雪が浮かべていると、勢いのある足音が近づいてくるとともに部屋の扉が容赦なく開け放たれた。
Tシャツに短パン姿の小柄な幼い男の子の姿があった。
「ねーちゃん、ゲームやろー」
ねーちゃん、と言った。
そういえば、祭から小学生の弟の話を聞いたことがあった。確か名前は小太郎だったと思う。
小太郎はテレビの脇に収納されているゲーム機を手際よく立ち上げ、長方形のリモコンを二つ手に取り、雪にその片方を手渡す。
テニスのゲームであった。
長方形のリモコンを片手に17インチのモニターと向き合って、雪は奮闘していた。生まれてこの方ゲームに馴染みなどなく、決して運動神経が良いと言える方ではない雪はやはりサーブミスや振り遅れを連発したが、しばらくすると徐々にコツを掴んでそれなりのラリーを繰り広げられるようになっていた。だが、一向に勝てる気配はない。ゲームカウントを一つ二つ勝ち取るうちに、小太郎が六つ奪い去っていく。
「ねーちゃん、今日なんか、ちょーしわるいな」
小太郎は不甲斐ない姉に歯ごたえのなさを感じているようであったが、勝てるのが楽しいのか一向にゲームを止める気配を見せなかった。雪も少しずつ上達していることに快感を覚え、そのまま小太郎の相手をしていると階下から美咲の呼ぶ声が聞こえてきた。
「ふたりともー、ご飯よー」
気がつくと、二時間近くもゲームに夢中になっていた。
「メシだ、メシだー!」と嬉しそうに声を上げながら小太郎がゲーム機を切って、リモコンを放り投げるようにして足早に部屋を出る。階段を下りる軽快な足音を耳に、雪は二つのリモコンを片付けて、ゆっくりと部屋を後にした。
夕飯とお風呂を終えて、雪は再び祭の部屋のベッドの上に腰を下ろした。
食卓には豪勢な中華料理店の如くでかい皿がいくつも並び、明らかにタンパク質の比率が高いだろうと思われるおかずの群れが山のように盛られていた。最初は遠慮がちに箸を進めていたのだが、いつもより鈍く動いている箸に気づいた美咲に「どこか具合でも悪いの?」と心配されたので、そこからは遠慮を捨てて箸を進めた。祭の父は晩酌の缶ビールを片手に豪快に食事を貪りながら、阪神戦の野球中継を熱心に観ていた。雪の父は仕事以外では酒を飲まないので、晩酌を飲む父親というものがフィクションの向こう側のものとしてしか存在していなかった雪には目の前の光景が新鮮に映った。ときどき試合が大きく動く場面で雪に采配の話や選手の調子についてなどの話をするのだが、野球のことなどてんで知らない雪はその度に曖昧に相槌を打ってやり過ごすことにした。美咲の作った料理はとても美味しくて、日中散々部活に精を出した胃袋は正直にそれを求めた。遠慮さえ捨ててしまえば箸は次々に皿に盛られた料理を口へと運んだ。普段の雪が食べる三倍近い量を平らげた気がする。まさか、一度の食事で鶏と豚と牛を食べることになるとは思いもしなかった。
夕飯を終え、しばらく部屋で休憩してからお風呂に入った。
五十嵐家の風呂は床も壁もタイル敷きの少し古い雰囲気を醸し出している。しかし、雪にとって別段それは珍しい光景ではなく、お盆と正月に帰省する祖父母の家の風呂と同じようなものであった。それよりも雪にとっては、鏡の中の髪を下ろした祭の姿が新鮮に映り、肩を流れ落ちて背中をくすぐる髪の感触に言い知れぬものを感じた。その髪の毛をシャンプーで丁寧に洗い、柑橘系の香りがするいつもと違うリンスですすぎ洗いし、固形の石鹸を手に雪は己のものではない体を洗い、霞がかかった鏡に目を向けて、ふと思った。背の高さも髪の長さも胸の大きさも筋肉のつき方も全く違うが、祭の体は紛れもなく同性のものである。あのとき柊が腹痛を起こさずに部屋にいたら、入れ替わった先は柊の体であったかもしれない。相手が柊であったなら、自分には到底日常生活などまともに送れたものではなかったと思う。入れ替わったのが同性であったのは、親しい友人の祭であったのは、やはり不幸中の幸いだった。湯気が立ち込める風呂場で一糸まとわぬ姿となり、雪はそんなことを思った。
勉強机の向かいの壁に掛けられたアナログ時計に目を向ける。今日がゆっくりと終わろうとしていた。
一月近く、この体であらゆるものと関わらないといけないのだ。いつも笑顔を絶やさない優しい母、晩酌と野球観戦が好きな豪快な父、元気の有り余る腕白な弟、普段の三倍近くを平らげる胃袋、タンパク質の比率が高いけれど美味しくてついつい箸を止められなくなる美咲の食事、柑橘系のリンスの香り、トレーニンググッズとテニスの雑誌が散らかるこの部屋、銀色の向こうに映る祭の姿、それから、
視線を窓の外に移す。
夏の夜に佇む二階建ての一軒家があり、今日初めて訪れた柊の部屋のベランダがこちらに向かって伸びていた。窓から明かりが漏れだしている。あの向こうで、柊はなにをしているのだろうか。
ーーこれはチャンスだよ!
いつもマイナス思考の自分には思いつきもしないような発想だった。なにかを変えなければいけないと思いながら、なにも変えられずにずるずるとここまで来てしまった自覚はある。それもこれも、柊の目を見ては頰を染め、触れようものなら真っ赤になって動けなくなってしまう自分のダメな性格のせいだ。いつも明るくて元気いっぱいの祭のように自信を持って堂々と、柊と、色んなものと、向き合えるようになればいいのにと思っていた。
ずっと憧れていた祭に自分がなった。
期待がほんの少しだけ膨らむ。
だけど一番は悟られないように生活することだ。桜はああ言っていたけど、バレない可能性はゼロではない。そしてバレる可能性が一番高いとしたらそれは柊な気がした。祭の幼馴染で自分の彼氏である柊な気がする。
そっちのことに関しては自分がしっかりしないといけない気がした。
なにかを変えられるかもしれないという期待、慣れない生活に対しての不安、バレないように配慮しなければならないという懸念、色んな想いが頭を巡った。
天井から垂れ下がっている紐に手をかけ、部屋の明かりを消す。
それらの想いを胸に秘め、雪はいつもより硬いベッドに身を任せた。いつもより少しだけ高く感じる枕が頭の後ろにあり、柑橘系のリンスの香りが鼻腔をくすぐるなか、思考を睡魔にゆだね、ゆっくりと瞼を閉じる。