06.はむはむ
テニス漬けの週末がゆっくりと終わりに向かっていた。
連日朝の九時から練習を始め、昼からの自由参加の練習も当然のようにバリバリとこなし、祭は日曜夕方四時の通学路を逆方向に辿っていた。ほんとはもっと遅くまでやっていたいのだが、誰一人として付き合ってくれないのだ。志保も体力のある方であり、もう少し練習しようよと頼んでみたが、「さすがに連日であんたに付き合うと、私明日学校に行けなくなるような気がする」と苦い顔を浮かべて断られてしまった。男子部の練習に柊が残っていれば、くたくたになっていようが、どんなにへばっていようが、無理やりにでも起き上がらせて付き合わせたのに。今頃、柊は雪と楽しくデートを満喫しているのだ。
まだ夕暮れの陽射しと呼べるものではない、黄色がちの陽光を背に浴びて、祭はふと立ち止まる。
遠くのほうで、ひぐらしが鳴いていた。
今頃、柊は雪と楽しくデートを満喫しているのだ。
いつも通り映画館に足を運んで、冷房がキンキンに効いた薄闇の中でスクリーンに目を向けながらも、意識は隣に座るかわいい雪に釘付けなのだ。このくそ暑いのだから、帰りにアイスやかき氷の一つでも買って、二人で分けっ子しているかもしれない。わざわざスプーンを二つもらって別々の方から掘り進め、平らげる寸前のところでスプーン同士がぶつかり、間接キスしちゃった、などと頰を染めあっているかもしれない。誠にいいことではないか。
遠くのほうで、ひぐらしが鳴いている。
日中の強い陽射しに焼かれたアスファルトから、ねばつくような熱気が立ち込めている。テニスをしている時はどんなに暑くても気にならないのに、歩いているだけだと肌は熱を敏感に感じとる。
祭は再び歩みはじめる。冷房に冷やされた風を求めて、焼けたアスファルトの上を一歩一歩家に向かって突き進んだ。帰って、シャワーを浴びて、アイスキャンディーを口に突っ込んで、弟の小太郎を相手にテレビゲームでもやろうと思う。
携帯が鳴った。
テニスバッグの中で、阪神タイガースの応援ソング『六甲おろし』の着メロが流れている。祭はめんどくさそうに取り出して、ディスプレイを確認する。
メールだった。
『本日中にテスト結果を出すから、例のものを持ってきてほしい』
柊の姉の上本桜からである。桜は二つ年上で、今は大学に通っている。その大学で所属しているサークルは、なにやら色々と開発研究に力を注いでいるらしく、祭はたまにその成果物の検証に付き合わされていた。その内容は実用的なものから、きなくささを感じるオカルトじみたものまで様々である。
今回、桜に渡されていたのは実用的なものであり、テニスのラケットであった。衝撃の受けた場所を検知して記憶してくれるらしく、後からパソコンに繋いで、そのデータを取り出せば、ガットのどのあたりでボールを捉えているのか、スウィートスポットからどの程度外れているのかなどが分かるらしい。なんだかすごいなぁとは思ったものの、祭には仕組みの理解はもちろんのこと、そのデータをどう役立てればいいかの検討も及ばず、なんとなくデータが見れれば面白そうだし、練習の時に適当に使ってくれればいいからと渡されたので、いつも通り軽い気持ちで引き受けた。
そのラケットは今ちょうど持っているテニスバッグの中に入っている。練習でも何度か使用したから検証は問題ないと思う。なんだか普段使ってるラケットに比べて、やけに重く感じた気もするのだが。
自宅には寄らず、柊の家に直行した。
インターホンも鳴らさずに、玄関のドアノブに手を掛けて開く。玄関のたたきに柊が愛用しているナイキのシューズがあり、その隣におおよそ上本家の女性陣は履かないだろう洒落たミュールが行儀よく鎮座しているが、祭はそのことに気づかない。
生ぬるい空気に満たされた薄暗い廊下が真っ直ぐ伸びている。二階に続く階段の麓で、柊の母の上本紀子が身を屈めるようにして息を潜ませ、階上の様子を伺っていた。
靴を脱ぎ、もちろん揃えることなどはせず、家の中へとあがる。階上に気を取られている紀子の背後から顔を覗き込むようにして声をかけた。
「おばさん、こんにちわー!」
「ひゃ!」
紀子がその場に尻餅をつく。
「いたたっ、びっくりするじゃない祭ちゃん! もう、脅かさないでよね!」
尻をさすりながら、声を抑えて紀子は怒鳴った。
「えへへー、ごめんなさい。そんなに驚くとは思わなくて」
紀子は舌をぺろっと出して謝る祭を見ると、しょうがないわねぇという表情を浮かべる。
「どうしたの? 柊に用事?」
「ううん、今日はね、さくらちゃん」
「桜なら自分の部屋にいると思うわよ」
紀子は桜の部屋がある二階の方を指差す。
「はーい! ねぇ、おばさん、さっき何やってたの?」
祭の目から見ても先ほどの紀子は明らかに不審に映った。その紀子はちょっと聞いてよ奥さん、と言わんばかりのポーズをとり、
「それがね、柊ったら、彼女連れてきたのよ!」
「えっ!? ユキ、きてるの!?」
間接キスでもして頰の一つでもを染めあっているかと思ったが、まさか家に上がるところまできているとは思いもしなかった。
「あら、あの子、祭ちゃんのお友達だったの? ちょうどさっきね、来たところなんだけど、もうおばさんびっくりしたわよ! 柊の彼女があんな可愛らしい子だったなんて」
「えへへー、可愛いでしょー?」
祭はまるで自分が褒められたかのように喜び、誇らしい気持ちになった。
「うふふ、そうね。それに静かで真面目そうな子だったから、ちょっと心配じゃない? 今部屋にいるんだけど、柊が変な気を起こさないかしらと思って」
「ああ、それで二階の様子を伺ってたんだ。だいじょーぶ、だいじょーぶ、シュウにユキを押し倒す度胸なんかないって」
「それはそれで母親としては少し複雑なんだけど……」
紀子は苦笑いを浮かべる。
「お菓子でも用意して、あとで声掛けてみようかしら」
「あたしもさくらちゃんの用事済んだら、声かけよー!」
二人は野次馬根性丸出しにして、祭は二階に続く階段へと足を運び、紀子は台所に戻って茶菓子の準備を始めた。
階段を上り終えた祭は左右に伸びる廊下で立ち止まった。右手に柊の部屋があり、左手に桜の部屋がある。少しだけ思い悩んで、左手に折れると桜の部屋の前に立った。
「祭? 入っていいよ」
扉の向こうで、桜の声がした。
ドアノブに手をかけ、扉をあける。冷房に冷やされた風が祭の体を心地よく包む。
「いらっしゃい」
大量の分厚い本と書類の山に囲まれるようにして、回転式の椅子に座る白衣の後ろ姿があった。
「さくらちゃん、なんでいつもあたしが来たってわかるの?」
桜が椅子をくるっと回転させて、こちらを振り返る。
「単刀直入に言うとあんたの階段を上る足音って、うちの家族じゃありえないくらいバタバタうるさいのよ」
「あう」
「いつも言ってるでしょ。もう少し女の子らしくしないと、嫁の貰い手がなくなるって」
「それ、さくらちゃんに言われたくないもん」
「あはは、全くだ。それで、例のものは持ってきた?」
「うん。カバンの中にあるよ」
祭は肩からテニスバッグのストラップを外し、ジッパーを開いて三本入っていたラケットのうちの一つを取り出して桜に渡す。
「おお、これこれ。ちょっと待ってな。すぐにデータ出してあげるから」
桜は机の上の四台のモニターと向き合い、手元のマウスをかちゃかちゃと操作する。ラケットの持ち手の底の部分を開くと、USBケーブルでパソコンと接続し、手際よく作業を進めていく。
携帯が鳴った。
『六甲おろし』ではない。ないのだが、それに負けないくらい色気のない、黒電話のコール音であった。何の感情もわきあがらない、無機質な音が鳴り響く。桜はその音源のスマホを手にとり、発信者の名前を確認すると、
「悪い、ちょっと電話。すぐ終わる」
短い言葉で祭に断りを入れ、聞かれたくない内容なのか、白衣を着たまま、わざわざくそ暑いベランダに出て話をはじめた。まさかあの桜に限って彼氏などということはないだろうが、と祭は思う。
手持ち無沙汰になり、桜の部屋を見渡した。
そこら中のページに付箋が貼られた分厚い本と小難しそうな文章の並んだ書類の山、デスクトップ型のパソコンが二台とノート型のパソコンが一台と机の上に立体的に並べられた四台のモニター、床のあちこちにガラクタにしか見えない機械やパーツが散乱していて、ほとんど足の踏み場もない状態だった。
そのガラクタにしか見えない機械の一つに祭は目をつけた。
前に柊と一緒に検証に付き合わされたことがあった。検証といっても、内容は大したことではなく、数十秒で終わるものであり、遊びに近い感覚であったが。桜はなんだか小難しいことを言っていて、よく理解できなかったが、ざっくり言うと対象者二人の相性を測定できる機器らしい。
その機械からは赤と青、二本のケーブルが伸びている。色には特に意味はないらしく、このケーブルの先端を一人が握り、もう片方のケーブルの先端をもう一人が握る。その状態でお互いの余った手を繋いでスイッチを入れれば、機械の真ん中に取り付けられたメーターが振り切られて二人の相性が数値として表示されるというものである。
手を握る。相性診断。向かいの部屋に柊と雪がいる。
いいことを思いついた。
機械を手に取り、軽快に立ち上がると、急ぎ足で桜の部屋を出た。真っ直ぐ進み、突き当りのドアをノックの一つもせずに無粋の看板を背負って立つような勢いで蹴破るように開いた。
「やっほー!」
「ま、祭ちゃん!?」
飛ぶこむように部屋の中へと押し入ってきた祭の姿に驚く雪の表情があった。今日は休日でデートの日で、雪は私服姿だった。白のワンピースが眩しいくらいに似合っていて、普段の数倍かわいく見えるその姿に、祭の心は一瞬のうちに撃ち抜かれる。
「ユ、ユキ! あんた、か、かわいすぎ! ああ、もう食べちゃいたい! 食べちゃってもいいよね!?」
畳み掛けるように、フローリングに置かれたクッションの上で雪は膝に手を当てて、ちょこんとかわいらしく女の子座わりしているものだから、祭の辛抱が堪らなくなるのも無理はなかった。祭は手にしていた機械を放り出し、はむはむと雪の柔らかい二の腕を甘噛みして幸せそうな表情を浮かべる。
「はむはむ、すべすべ、もちもち、ぷにぷに、ひんやり、おいしいよー」
「きゃ、ま、祭ちゃん、やーめーてーーえーー」
雪は越後屋と町娘の『帯回し』の要領で祭にノッたつもりだったのだが、
「あ、ごめん、ごめん、汗臭かったかな? 部活帰りで、一応清涼スプレーはしたんだけど」
祭は本気に捉えたらしく、ふと我に返ると、汗臭くないか自分の二の腕を鼻に当てて自分の匂いを確かめはじめた。
「あ、ううん、匂いは全然平気だよ」
それをさらに真顔で雪が返し、ピントのずれたやりとりが一段落すると、
「あれ? そういえば、シュウは?」
部屋の主はようやく話題にあげてもらえた。正方形のテーブルを挟んで、雪と向き合う側のクッションの上はもぬけの殻になっている。テーブルの上には雪が使っているノートと向き合う形でもう一冊ノートが開かれていて、その白の上に逆さま向きの数式とその数式を描いたであろうシャーペンが所在なさげに転がっていた。
「さっき、お手洗いに……お腹押さえてたから、戻ってくるの遅いかも……」
「ぬぁんですってぇ!?」
祭は勢いよく立ち上がると、握りしめた拳をわなわなと震わせる。
「まったく、シュウのやつ! ほんっとしょうがないんだから!」
大事な時はいつもそうなのだ。小学校の遠足の日も、ベストエイトまで勝ち進んだのテニスの試合の日も、雪と初めてデートさせた日も、柊は決まって腹痛を起こした。今も部屋の中で雪と二人っきりになった緊張に耐えきれず、また腹痛を起こしたに違いない。
「ユキ、あたしに任せておいて! 戻ってきたら、思いっきりシュウに説教してあげるからね」
こんなにかわいい雪を部屋に一人放置して、トイレに篭るなど言語道断である。
「だ、大丈夫だから、私は全然平気だから!」
雪は祭の膝にすがり、懇願した。
「もー、ユキは優しすぎるんだよ。シュウにはちょっと厳しくするくらいでちょーどいいんだってばぁ」
「そ、そんなことないよ。上本くんも私に優しくしてくれるから」
雪は少しだけ頰を赤らめる。
「まぁでも、あんた達もとうとう家の中に上がる関係になったわけね」
祭が腕組みをして遠い目で窓の向こうを見ながら、しみじみと語る。
「ち、違うのっ! たまたまなのっ! 今日、図書館が臨時休館日で、いつもと予定が狂っちゃって……それで、上本くんが家で勉強しないかって言ってくれて」
「はいはい、わかったから。いずれにしてもユキがシュウの部屋に入ったことには変わりないんだから、よしとしようじゃない」
興奮気味に否定する雪の肩をぽんぽんと叩いてなだめ、祭は雪の横に腰を下ろす。そして先ほど放り投げた機械がフローリングの上に横たわっていることに気がついた。
「あ、そうそう、これ! 面白いんだよっ! 二人の相性を診断してくれるんだって! このケーブルの端っこを一つずつ握って、お互いの余った手を握るの。で、スイッチを入れれば測定開始!」
祭は手を伸ばしてケーブルの先端を掴むと、乱暴に機械を引き起こす。
「面白そうだから、あたしと雪で一回試してみよー! そ・れ・と、」
祭は雪の耳元に顔を寄せて、
「あとでシュウが戻ってきたら、二人で試しなよ」
憎たらしい笑顔を浮かべて雪の脇腹を肘でこつく。雪の顔がボッと赤くなる。ほんと可愛くて揶揄いがいがあるなぁ、と祭は思う。
「まぁでも、前やった時、あたしとシュウの相性、いじょーに高くでたし、結果は信用できそうにないから、もし低くてもぜんっぜん気にしなくてだいじょーぶだからね!」
「そ、そうなんだ……」
祭が気遣いのつもりで口にした一言に、雪はなんとも言えない表情で頷いた。
「はい、ユキ、こっちのケーブル握って!」
祭はテキパキとことを進める。雪の右手にケーブルを握らせ、もう一方のケーブルを自分の手で握り、余った方の手で雪の左手をぎゅっと握りしめる。
「いっくよーー!」
掛け声とともに雪の手を握った方の手を振り上げ、
「スイッチオーーン!」
重ねた二人の手で、機械のスイッチを入れた。
機会が低い唸り声を上げ、メーターの針が左右に震えながら、ゆっくりと右に振れていく。その後に起こったことはワクワク、ドキドキ、と高鳴る祭の気持ちに反していた。
全身の力が抜け、視界がゆっくりと霞み、やがて真っ暗になる。
頭の中がぼんやりとしてきて、ゆっくりと思考が溶けていき、やがて真っ白になった。