05.お前らの幼馴染力
待ち遠しかった放課後がやってきた。
今日は九月の一日であり、夏休み明け初日であり、週の初めの月曜日である。
ありがたいことに夏休み明け初日であるにも関わらず授業はフルタイム用意されていて、冷房のある環境下に慣れた体にはそれなりに堪える一日となった。
気力を失うことなくどうにか乗り切れたのは、昼に雪のお手製弁当を食べれたのが大きい。月曜日は大半の人間にとって、憂鬱なもので、連休明けの初日はどうしても足取りが重くなり、次の休みまでの日数を考えると気は滅入る一方であり、柊にとっても例外ではなかったが、月曜のお昼に雪が手作りの弁当を持参してくれるようになってからは、それまでよりも幾分晴れやかな気持ちで迎えられるものになった。
雪の手料理は彼女の繊細な性格を体現したかのように、味はもちろんのこと栄養バランスから色彩までしっかり考えられた丁寧な作りのものである。
好奇の目しかない教室は避け、中庭に出て木陰の落ちるベンチに座り、雪の物よりも一回りサイズの大きい弁当箱を受け取り、量以外は味も配置も同じ中身を、ゆっくりと流れる時間のなかで味わう。いつも無言の時間が訪れると、なにか話さなければと気持ちが焦るのに、この瞬間はそういったものがない不思議な時間だ。
週末のデートと月曜日の昼食。
両方とも祭の残した足跡のようなものである。
「ユキは料理もすっごい上手なんだからねっ! ユキの料理食べたら、シュウだってすぐユキのこと好きに……あ、そうだ! これからは一緒にお昼食べるわよ。ユキにお弁当作ってきてもらうから」
ものすごい自信で自分のことのように自慢して、いつも通り思いつきだけで話を進めていた。
「あんたね、待たせて悪いって自覚があるんなら、週末にはユキとデートすること! そうすれば、ユキのいいとこいっぱい分かるから!」
告白の返事をすぐにはできずにもたもたしていると、強引な約束を突きつけられた。
あの頃は二人三脚ではなく、三人四脚だった気がする。
どこに行くにも、何をするにも祭が雪との間をとりなしてくれた。お互い母国語が共通しているのに、会話のできない二人の間に入って通訳まがいのことをしてくれた。馬鹿みたいに騒がしくしてる祭が、緊張と遠慮の塊になっていた自分と雪にはなによりも救いであった気がする。
付き合ってもいないのにデートもお手製弁当も早いような気はしたし、祭の引っ張り方は足の遅いこちらに歩調を合わしたりだとか、手をとって進んでくれるなどといった優しいものではなく、あくまで自分のペースで進み続け、遅い二人はズルズルと地面を引きずられるような思いをすることも多かったのだが、今があるのはその強引さのおかげなのも確かである。祭が引っ張ってくれなければ、きっと自分と雪の間には何も起こることなく、高校生活の一クラスメイトとして埋もれる存在になっていた。
感謝しないといけないんだろうとは思う。
雪と付き合うことを決めて、告白の返事をして、人生で初めての彼女ができた。
その彼女はかわいらしくて、料理上手で、とても恥ずかしがり屋だけど優しい女の子で、不満などあるはずがない。
あるはずがないのだ。
雪と付き合い始めてしばらくすると、祭はいつもと変わらない笑顔で、いつもと変わらない元気な声で、
「二人で話もできるようになったんだし、あたしがいなくてももうだいじょうぶよね!」
そう言った日を境に、週末のデートにも月曜日の昼食にも顔を出さなくなった。
あれからそれなりの月日が経った。
文化祭の出し物の件は、祭の気まぐれなのか、自分たちがあまりにも不甲斐ないことを見かねてのことなのだろうか。
「シュウ! ここは絶対に死守するわよ!」
祭の気合の入った声に、柊の雑念は吹き飛ぶ。
テニスコートを囲むフェンスに隣接した緑の中でセミが、じわりじわりと声をあげている。四面あるテニスコートの入り口に一番近い面で、柊と祭と清隆と志保の四人は男女混合ダブルスをしていた。
うだるような暑さのグランドで行われた五時限目の体育よりも六時限目に行われた数学の方がきつく感じ、部活が始まる前はかなりへばっていて、もうこのまま帰宅したいと思っていたはずなのに、真昼の太陽に焦がされ陽炎の揺らめくテニスコートで元気に動き回っている自分は、思っている以上に運動が好きなのか、テニスが好きなのか。単純にくそ暑いなかで体を動かすことよりも、くそ暑いなかで頭を使うことの方がしんどいだけかもしれないけれど。
自陣コートのネット際で、低い姿勢でラケットを構える祭の後ろ姿がある。小刻みに体を左右に揺らし、後ろで一まとめにした髪の毛がその動きに合わせて揺れ動いていた。
最初はお遊びで始めたことだった。
男子の球を打ちたいと願う祭の向上心と女子と一緒にテニスを楽しみたい清隆の不純な思惑が見事に噛み合い、練習の合間の息抜きに男女混合で打ち合いをしていた。それが徐々(じょじょ)に試合の形を呈し、練習の一環となり、今ではコートの上で毎日のように繰り広げられる光景となっていた。
組み合わせは色々と試したが、市の大会で優勝したこともある清隆と祭の実力が頭一つ抜き出ているため、最も拮抗になる柊・祭ペアと清隆・志保ペアの組み分けに落ち着きつつある。
「おらおら、柊、五十嵐! お前らの幼馴染力はその程度かよ!」
焼けた鉄板のようなテニスコート、そのネットを挟んで斜めに対峙している清隆がラケットをこちらに向けて、校内中に響き渡らんばかりの馬鹿でかい声で挑発をかけてくる。
劣勢であった。
ゲームカウントは3-5、ポイントは30−40で王手をかけられていた。
おまけにサーバーは暑苦しい巨漢の男である。
体を弓なりにしならせ、清隆がボールを天に向かって掲げ上げる。
夏の青空に蛍光色の丸が浮かぶ。その丸を、鋼のような筋肉を使って鋭く振り下ろされたラケットの中心が打ち抜く。
パカァン、などという快音ではなかった。
軽い事故でも起きたかのような爆音とともに、文字通り弾丸のようなサーブが襲いかかってきた。
コースはそれほど厳しくはない。
どうにか拾う。ラケットを握る右手に撃ち抜かれるような衝撃を感じる。
サーブの勢いを去なした打球が相手のコートに返る。しばらく清隆との打ち合いになる。強烈なトップスピンのかかったストロークに少しひるみながらも、柊はその一球一球を正確に打ち返す。
「おらおら! 甘いぞ、柊!」
清隆の挑発にはのらず冷静に対処する。熱くなって力勝負を挑んでしまえば、到底勝ち目はない。ほんの少しずつ左右に揺さぶりを掛けて清隆の体力を削り、隊列を乱しにかかる作戦だ。
柊のその考えを先読みしたらしい志保が仕掛けにかかる。手の届く範囲に飛んできた甘い球を見逃さず、斜めに切れ込むボレーを叩き込む。
やられた、と思うと同時に、いける、と柊は思った。
その柊の期待に応えるように、祭が抜群の反応を見せてアクロバティックな体勢でボールに喰らいつき、鋭いカウンターボレーで清隆と志保の間を見事に射抜いた。
『よしっ!』
二人して思わず同じ声をあげていた。受け身をとって華麗に立ち上がった祭とハイタッチを交わす。
「ちくしょう、やるじゃねぇか!」
清隆が陽炎の向こうで不敵に笑う。言葉とは裏腹に悔しさなど微塵も見せず、全力でこの一瞬を楽しんでいるように見える。
「うーん、やっぱ、祭の反射神経と身体能力って異常だわ……」
志保が驚きと呆れの混じった表情で肩をすくめる。柊もそれに同情する。身体能力で劣り、足りない部分を頭や技術で補おうとする柊や志保のようなタイプの人間にとって、清隆や祭は決して計り知ることのできない異次元の存在なのだ。
「おらー! 次は五十嵐の番だ! 女だからって手加減しねぇからなー!」
清隆が祭にラケットを向ける。今度は異次元の存在達が斜めに対峙する番だった。
「あったりまえでしょー! こっから逆転するんだから! 手加減なんかしたら、ぜーったいにゆるさないんだからねー!」
背後から、清隆の声に負けないくらい元気な声が返ってくる。
地面と空から包囲するような熱気を、十七歳の若さが跳ね返していた。
流れ落ちる額の汗をリストバンドで拭う。
ゲームの行方はまだわからない。
勝負を決する最後の瞬間まで、試合はどちらにも転ぶ可能性を秘めている。