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03.なにが?

 三時間目の始まりを告げるかねが校内に鳴り響いた。

 

 柊が座る席の前には、淡いピンクが透ける祭の背中がある。


 去年は久しぶりに別のクラスになったかと思ったら、今年はあっさりと同じクラスになった。名簿順で前後になるのはともかくとして、くじ引きでランダムに決められた席の位置まで、家と同じ前後同士になった時はさすがに笑うしかなかった。


 後ろの席には、暑苦しいオーラを全身からにじみ出させている友人の松野まつの清隆きよたかが陣取っている。清隆は柊が所属する男子テニス部の部長を務めており、スポーツ刈りの頭に日焼けした褐色かっしょくの肌、筋肉きんにくりゅうりゅう々の大柄な男である。暑苦しいのは見た目だけでなく、青春であればスポーツ、恋愛、友情とジャンルを問わず熱くなり、その心の内も、外見に劣らぬスポ根丸出しの暑苦しさのかたまりのようなやつである。

 

 そして、雪はグランド側の窓際の列の最後尾、教室の隅の方にいた。背が低い上に、視力もあまりいい方ではないらしく授業中や図書館での勉強の時はメガネを掛けているのに、あの隅の席は少しこくな気もするのだが。


 柊達が所属する2ーDではホームルームが行われており、議題は今月に行われる文化祭の出し物についてである。議論はなにやら盛り上がりを見せていて、目の前のおさげ髪が元気に揺れ、挙手きょしゅと発言を繰り返していた。


 柊の意識はその議論の輪から外れたところにあって、今朝の出来事に思いをせていた。


 右の手のひらを見つめる。


 いつもとなんら変わりない手のひらがある。


 だけど、この手には一昨日おとといまでにはなかった二つの記憶がある。


 今朝、触れた雪の手の感触を思い出す。


 昨日触れたのと全く同じ雪の細い指先が、昨日触れたのよりも温かい雪の体温が、この手に触れた。それも今朝のは昨日のよりも、確実に握ったと言えるようなものだった。

 

 本当は離したくなんてなかった。ずっと触れていたいと思った。自惚うぬぼれでなければ、雪だってきっとそれを望んでくれてるはずなのに。 


 自分の手を握りしめたまま石となった雪を思い出す。


 これではまるで何かの呪縛じゅばくにでもかけられているようではないか。


 以前、清隆に言われたことがある。


 クラスの連中たちが、柊と雪の一向に進まない恋路を『鈍足どんそくカップル』と称して、面白おかしくうわさしているらしいことを。足の遅いカメ同士がペアを組んで二人三脚をしているようだからという理由でつけられたらしい。


 噂の内容は、じつに身勝手でくだらないものばかりだった。


 二人は純情を誓い合っていて二十歳を迎えるまでキスをしない約束をしている、などというのはともかくとして、雪はキスをすると子供ができると信じ込んでいるだとか、柊は実は同性愛者でありカモフラージュのために雪と付き合っているのではないかだとか、単純に勃たないやつなのではないか、などと後半になればなるほど品のない内容であった。


 そんなくだらない噂はどうでもいいとして、柊が思うのは、恋人としての自分達の歩みはやはり遅すぎるのだろうか、ということである。


 クラス内でもカップルとして認知はされているし、学校で一緒にお昼を食べたりもしているが、そんな噂が立つ一番の原因は初々しさの賞味期限が長すぎることなのだろう。視線が合えば、雪が頰を染めて逸らし、柊もそれにつられて羞恥を感じる。会話もどこかたどたどしさが抜けきらず、半年も付き合っているカップルのそれと言えるものではない。なにより実際問題、武勇伝として語れるようなことはなにひとつ起こっていないし、固まった雪を無理やり押し倒す勇気も卑劣さも自分には持ち合わせてなどいない。根も葉もない噂ではあるが、それを真っ向から否定できるだけの出来事がないのも事実である。


 情けないと思う一方で、今朝の出来事のように当事者である自分たちにしか分からない苦労もある。最初の頃を思えば、それなりには精一杯やってきたはずではあるのだ。


 なんせ、雪との出会いと言ったら、まともに会話もできなかったくらいなのだ。




 ーーシュウに大事な話があるの。


 祭がいつになく真剣な表情でそう言ってきたのは、今をさかのぼる半年ほど前のことだった。


 が傾き、夕陽が差しこむ部活終わりのテニスコートで、着替えたが済んだら北棟校舎の裏手に来てほしいと告げられた。北棟校舎の裏手は普段から人気ひとけの少ない場所で、この時間帯に人がいることはまず考えられなかった。


 二月の十四日だった。

 

 バレンタインデーだった。


 祭に告白される、と思った。


 色んな想いが頭を巡り、着替えに取り掛かった。部活終わりの汗臭い体にいつも以上に清涼せいりょうスプレーを吹きかけ、気が動転しているあまりワイシャツとカーディガンのボタンをかけちがえては付け直し、かがみで髪と服の乱れがないかをチェックして、昼間食べた『古河屋の特製カレーパン』の匂いを消すためにミント味のタブレットをむさぼるるように噛み砕き、心の準備を整えて、ようやく北棟校舎の裏手へと向かった。


「お、お待たせ」


「おっそーーーーーーーーい!」


 祭の怒声が寒空の下、北棟校舎の裏に響き渡った。


「男のくせに着替えるのにどんだけ時間かかってるのよ! それもこんな寒い中、か弱い女の子を二人も待たせるなんて!」


「ご、ごめん……」


 肌を刺すような冷たい風を頬に受け、柊は申し訳なくなりすぐに謝った。祭も着替えないといけないわけだから、少しは時間がかかっても問題ないと思ったのだが失敗した。普段からもたもたしている自分が念入りに準備を整えるようなことをして、フットワークの軽い祭のスピードに敵うはずなどないのだ。


 だけど、果たして祭を『か弱い女の子』の部類に入れていいかははなはだ疑問であった。柊の記憶が確かなら、祭が体調を崩したのは小学生の時にクーラーをつけたまま布団もかぶらずに寝て引いた夏風邪と、中学生の時に起こした食べ過ぎによる腹痛の二回のみである。それも夏風邪の時は寝込むどころか、ケロっとした顔で登校し、体育の授業までこなし、柊がやたらと顔の赤い祭を心配して無理やり保健室に連れて行き、熱を測らせたら風邪を引いていることが発覚したというすさまじい鈍感さと強靭きょうじんぶりを見せつけたのである。動きやすさの観点から、冬でも祭のスカートの丈は相変わらず短い。その分ニーソックスを履いて防寒するあたり、祭も人並みに寒さを感じるのだろうと思いはするが、冬場になれば隔年かくねんで風邪を引き、緊張による腹痛をしょっちゅう起こす自分の方がか弱いくらいなのだ。情けない話ではあるが。


 しかし、問題なのはそんなことではなかった。


 か弱い女の子を二人も、と祭は言った。


 事実その場で柊を待っていたのは祭一人ではなかった。


「この子のことは、あたしが温めてたから大丈夫だけどね」


 祭は大切な卵を温める親鳥のように、小柄な女の子を抱きかかえていた。


 夕陽の光が差す女の子の横顔が、少しだけ見えた。


 見たことのある女の子だった。


 高校に入学していつの頃からかは忘れたが、祭と一緒にいるのをよく見かけるようになった女の子だ。祭と同じクラスであることだけは知っていたが、名前は知らない。そういえば以前、市のテニス大会で祭の応援をしに来ていたのを見かけた気もする。


 祭は女の子の華奢きゃしゃな肩に手をかけると、柊の方に向けさせ、


「ほーらぁ、自己紹介くらいは自分で言いなってば!」


 女の子の背中をぐっと柊に向かって押し出す。女の子は押し出された勢いにつんのめり、実にぎこちない動きで柊の前に立った。


「……こ、こ、こ、ま……つ……こまつ…………ばら……です……」


 消え入るようなか細い声で、女の子は柊に向かってゆらゆらと風にゆられる会話の第一投目をどうにかこうにか投げてきた。視線はあちこちを彷徨さまよっていて、夕陽の光を浴びてでは済まないくらいに頰は赤く、少しサイズの大きいベージュのカーディガンの袖口で指先をもぞもぞと擦り合わせて、全身から緊張をにじみださせていた。


「え、えっと……上本柊です」


 緊張が伝染してくる。

 

 続く言葉は互いに持ち合わせていなかった。


 沈黙に耐えかねた柊は、助けを求めて祭に目を向けた。が、突き返される。他に何か言うことないの? といった風な表情が返ってくる。


 柊は必死に考えを振り絞り、そしてひらめいた。


「こ、小松さん……ば、薔薇って名前なんだ! 漢字で書くの大変そうだけど、いい名前だよね」

 

 祭以外の女の子と話す機会など、そうそうなかった。この手のシュチュエーションに免疫などあるはずもない。柊はゆらゆらと揺れるその球に翻弄ほんろうされ、見事にグローブの土手で弾き、慌てて拾い直したかと思うと、あろうことか明後日の方へ向けて大暴投をした。

 

 雪は自分の手の届く範囲から大きくれていく白球を見送ることしかできず、黙って俯いてしまった。両者の間を行き交うはずの白球は遠い彼方かなたで放物線を描き、地面にバウンドして、やがて力なく動きを止めた。


 柊は己の犯した失態に気づくことはなく、投げ返した白球が雪のグローブめがけて飛び込んでいったと信じて疑わず、次の返球に備えてグローブを構えて待っていた。両者が待ちの姿勢をとる。


 再び、沈黙が場を支配した。


 一陣の冷たい風が吹きつける。


 凍りついた北棟校舎の裏手に、なにもできずに立ち尽くす雪と、なぜなにも返ってこないのか不思議に思う柊と、怒りに震える祭、三人の姿があった。


 静寂を破ったのは、祭の蹴りだった。


 柊がまた祭に助けを求めようと目を向けると、猛スピードで突っ込んでくる祭の姿があった。


 その勢いを一切殺すことなく、飛び蹴りをお見舞いされた。


 女の子から返ってくる言葉を待っていたら、なぜか祭から蹴りが飛んできた。わけが分からず、蹴り飛ばされた柊はる形で吹き飛んだ。

 

 硬いコンクリートの上に尻餅をつく。受け身などとれるはずもなかった。


「な、なにすんだよぉ」


 実に情けない声が出た。殴られるよりも、蹴られる方が数倍はこたえるのだ。


「うるさい、バカっ! 小松原は、みょ・う・じ! 名前はユキよ! あんたが訳わかんないこと言うからユキが困ってるじゃない!」


 その言葉に、柊はようやく自分の犯した大失態に気がついた。差し伸べられる手などあるはずもなく、痛む尻を押さえながら、自力でどうにか立ち上がり、


「ご、ごめん……俺、てっきりフルネームなのかと……」


 祭の後ろでアワアワとうろたえている雪に謝る。よもや女子が男子を飛び蹴りして吹き飛ばすなど、雪には想像もつかなかったのだろう。柊の謝罪に雪はとんでもないとばかりに首を左右にぶんぶんと振り、ふわりとした髪の毛を振り乱す。


「まったく! ほんっと、あんたって肝心なところでいつもいつも」


 祭は悪態をつきながらも、ようやく二人の間をとりなし始めた。


 柊は痛みの治まらない尻をさする。


 初めからそうしてくれていれば、この体もいらぬ痛みを負わずに済んだのにと柊は思う。だいたい自分は何も聞かされていなかったのだ。いきなり呼び出されて、初対面の女の子から自己紹介を受けて、一体なにをどう答えればいいというのか。


「まぁいいわ。あんまりシュウのこと悪く言うとユキに怒られそうだから」


 祭の意味深な言葉に、雪はさっきよりもアワアワとうろたえ始める。


 そこで柊はようやく、ひょっとして、と思った。


「この子ねー」


 にひひと祭は笑みを浮かべ、


「シュウのことが好きなんだって!」


 その瞬間、破裂音をあげると共に雪は盛大に燃えあがった。オレンジがかった夕陽の色など目ではないくらいに、肌を刺すような風の冷たさなど関係ないかのように、耳まで真っ赤にして火だるまになっていた。


 きっと雪は祭にかつがれたに違いない、と柊は思っている。


 どういう経緯で雪が気持ちを祭に打ち明けたのかは分からないが、「ぜーったいに大丈夫だから、あたしに任せて!」などと大きなことを言い、その割にはなんの計画も立てず、天地がひっくり返ったて告白などできない雪の気持ちも理解せず、雪と初対面である自分の気持ちを考えようともせず、雪の魅力を持ってすれば断る相手などいるはずがないと、主観的な見解だけで場当たり的な直球勝負に出たに違いない。


「もちろん、付き合うわよね」


 その一言に、柊は逡巡しゅんじゅんする。


 ……祭に悪気はないのだ。


 雪に目を向ける。


 幼さを残した顔立ち、それをおおうようにふわりとした髪の毛が揺れていた。抱きしめると壊れてしまいそうな華奢きゃしゃな体、カーディガンの袖口からのぞく細い指先、虫さえも殺せないようなおとなしい性格、『か弱い女の子』とはまさにこういう女の子のためにある言葉だと思った。

 

 守ってあげたくなるような、かわいい女の子だと素直に思った。


 祭の方を少し伺う。

 

 考える。


 こんな情けない自分でも守ってあげられるんじゃないか、とは思った。


 それと、ついつい雪の膨らみを持った胸に視線がいったのも事実である。ベージュのカーディガンの間、胸元に付けられたリボンがなだらかな曲線に沿って滑り落ちていた。そこには思春期男子の夢と希望がぎっしりとつまっているように思えた。中学三年間でほんのわずかな成長曲線を描いた後、ぴたりとその歩みを止めてしまった祭のそれと比べると雲泥うんでいの差ーー




「ーーちょっと、シュウ!」

 

 いきなり脳天に痛みが走った。


「いってぇ!」


 その痛みに、柊の思考は記憶の深淵しんえんから今へと呼び戻される。冷たく吹く風の感覚が薄れていき、熱気のこもった夏の教室の空気が色濃くなる。


 垂直すいちょくに流れ落ちる、夏服の胸元に付けられたリボンが目の前にあった。


 視線を少し上げると、祭が握り拳を作り、整った顔を少し歪めてこちらを見下ろしていた。


「な、なにすんだよ!」

 

 柊は殴られた場所を押さえ、抗議の目を祭に向けた。まさか心の中を読まれた訳でもあるまいし、殴られる筋合いなどないはずである。


「声かけてもぜんっぜん返事しないからじゃない! ていうか、あんたねぇ、話ちゃんと聞いてたの?」 


「なにが?」

 

 柊が頭を押さえながら聞き返すと、祭はやれやれという表情を浮かべた。そして「まぁもう決まったからいいんだけどさ」と漏らすと、今度はしたり顏を浮かべる。


 祭の指先が教卓の方をビシッと差した。

 

 いつの間にか文化祭の出し物についての議論は終わり、一足先に休憩時間の様をていしていた教室の黒板に柊は視線を移した。


 夏休み明けの綺麗に清掃された黒の上に、白のチョークで見慣れた苗字が書き並べられている。


 一つ一つ辿る。


 お姫様役・小松原、王子様役・五十嵐、魔女役・松野、嫌な予感がする。



 主役・上本。



 当たった。


「今年の文化祭は熱くなりそうね」

 

 祭は柊の肩にぽんっと手をかけた。


「……なにが?」


 祭は腕を組むと、真っ平らの胸を張って、グランド側の窓の向こうの遠い青空を見た。陽は高く昇り、グランドを焦がすような熱気を降り注いでいる。セミの鳴き声が朝よりも大きくなっている。

 

 雪の方を見る。


 視線が交差した。


 頰を染めて雪はすぐに視線をらす。


 確かにこれでは『鈍足カップル』と噂されても仕方ないのかもしれない。

 

 だけど、会話のキャッチボールもろくにできなかった二人がこうして彼氏彼女として成り立っているだけでも成長したということで、少なくとも一向に膨らむ気配を見せない祭の胸に比べると自分たちの関係は少しは成長を見せたはずなのだ。


 三時限目の終わりを告げる鐘が校内に鳴り響いた。


 


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