15.嫉妬のかたち
放課後の保健室に、柊の悲鳴がこだました。
怒りくるった雪から怒涛のように繰り出されたパンチとキックの嵐になす術のなかった柊は、保健室の冷たい床へと崩れ落ちた。
そこでようやく傍観者に成り果てていた梨香子が、ぜーぜーと息切れを起こした病み上がりの雪を心配して(ボロ雑巾のように床に横たわった柊は放置し)二人の間に入った。
「はーい、ストップ! 気持ちはわかるけど、そのくらいにしとかないとまた貧血起こしちゃうわよ。とりあえず、彼の言ってることが本当かどうか確かめましょ。そこで寝てる女の子も具合悪そうだし、続きはその後でも遅くないから」
梨香子はあごで祭の方を指し、手に持っていたコーヒーカップとせんべいの袋をテーブルの上に置く。
雪もそれに従い、荒くなった息を整えベッドの上に腰を下ろした。
もしも疑いが晴れなければ、自分は一体どうなってしまうのだろうと柊は床に顔を埋める。
ぺたぺたとスリッパが床を叩く音が聞こえる。
数分ほどして、体温計の通知音がなり、梨香子が声を発した。
「熱はそれほどないわね。軽い日射病かしら? しばらく横になってれば大丈夫だと思うわ。それとその子のシャツの中から体温計が出てきたから上本くんの言ってることは本当かも」
その微かな希望となる証言に、床に埋めていた顔をあげる。
雪の顔がすぐそこにあった。しゃがみこみ、両手でほおづえをつき、じっとりとした眼差しをこちらに向けている。
「ホント〜はえっちなことしようとしてたんじゃないの?」
「ち、ちがうって! 祭の介抱をしようと思って!」
雪はなおも、むぅ〜っと黒目がちのきれいな瞳を細めて心のなかを見透かそうとしてくる。ふだんはすぐに逸れるはずのその二つの瞳に圧倒された柊は、つい視線をそらしてしまい、慌ててフォローの言葉を口にした。
「だ、だいたい、ほら! 祭のぺったんこの胸なんか興味ないってば!」
「ぺったんこで悪かったわね!」
背中に雪のスリッパの裏がずんっとのしかかる。
わけがわからなかった。雪は同学年の女子でも十分大きい部類に入る。まさしく胸を張っていいレベルであり、『ぺったんこ』などという言葉とは無縁のはずなのに。
引き上げられたスリッパの裏が数回背中を叩いた後、雪はふぅっと息をつき、
「まったく、まぎらわしいことしてたあんたが悪いんだからね」
雪はたしなめるようにそう言うと、床で横たわっている柊の腕を体で抱きかかえるようにとる。
「ほらぁ、しっかりしなよ。このくらいで情けないなぁ」
そのまま小さな体をめいっぱい使い、一本釣りのごとく柊の体を引き上げようとしたのだが、柔らかいものが腕に当たるのを感じた柊は、
「だ、だいじょうぶ! 自分で立てるから!」
慌てて背もたれのない診療用の丸イスにしがみついて自力で這い上がった。
「なんだぁ、やっぱ平気なんじゃない」
雪は軽く笑いながら、肩をばしばしっと叩いてくる。
「それじゃあ、あたしは用事あるから先に帰るね。祭ちゃんが目を覚ましたら、ちゃんと家まで送ってあげなさいよ」
雪は柊にそう言い残して扉を閉めて保健室出ていっーーたかと思うと、扉がまた開き、すき間から顔をのぞかせた雪が射抜くような目を柊に向け、「それから、祭ちゃんと手をつなぐのはいいけど、間違ってもキスしたり押し倒したりなんてしたら絶対に許さないから」震えあがるような冷たさで言い放つと、扉をピシャリと閉め、今度こそ廊下を叩くスリッパの音が一気に遠くなり、嵐のようなひと時が保健室から過ぎさった。
梨香子はテーブルの上に置いたコーヒーカップを手にとると、ずずっと音を立て、
「君の彼女は寛容なのか厳格なのかよく分かんないわね」
柊は否定も肯定もできなかず、なんとも複雑な面持ちでため息をつく。
曲がりなりにも彼氏として多少は雪のことを理解しているつもりでいたのだが、さっぱり分からなくなった。梨香子同様に最後の言葉の意味ももちろんだし、快活さと凶暴性を今日の雪からは感じる。そのうえ、まるでずっとそうしてきたかのように自然とこの体に触れてくるではないか。
雪に叩かれた肩に触れる。
嫉妬しているのだ、と単純に一言で片付けてしまっていいものだろうか。
昼間考えていたような、ときめく気持ちはずいぶんと薄らいでいた。
「なにかワケありみたいね。どれどれ、恋愛経験豊富な美人のお姉さんが悩める青少年の恋の相談にのってあげましょう」
梨香子はもう一度ずずっと音を立てると、メディカルボックスを持って柊の向かいのイスに腰を下ろした。
中田梨香子は確かに綺麗な女性である。整った顔立ちももちろんだが、明るめのブラウンに染めた髪や、それを後ろでまとめ上げることで露出したきれいな形の耳とうなじや、その耳に揺れているイヤリングなんかが大人の女性に憧れる男子の心をくすぐるらしい。豊富らしい恋愛経験と教職員の中では年齢が若いことを生かし、身体の悩みだけでなく、恋愛の悩みまで相談できる先生として女子生徒からもしたわれているらしい。
誰かに話を聞いてもらいたい気分ではあるし、梨香子は恋の悩みの相談相手として適当な人間であるようにも思う。が、先ほど雪との関係をしつこく聞かれたことに柊は少しだけ参っていた。あまり深くは話さず、軽く聞いてもらう程度にとどめようと頭の中で結論づける。
柊が考え込んでいるあいだ、梨香子は慣れた手つきで消毒をすませ、小さめのバンドエイドを取り出すと柊の鼻先に出来た傷にあらく貼りつけた。
「いたたっ、もう少し丁寧にしてくださいよ」
「なにいってんの! 男なんだからこれくらい我慢しなさいよ」
バンドエイドの上から梨香子のデコピンが飛んでくる。
「だいたいねぇ、彼女にあんな現場押さえられて、その程度で済んだだけでも御の字なんだから。フォローしてあげた私と、あんな状況証拠の一つで納得してくれた優しい彼女に感謝しないさいよ」
「でも、俺はほんとに祭を介抱しようとしてただけで、なんにもしてないんですって!」
「だとしてもねぇ、あの瞬間の彼女にはそれがわからないわけでしょ。実際ポロシャツの中に手を入れようとしてたのは事実なんだし、彼女を持つ男としてはあまりにも不用意だったんじゃないの? あの子、強がってただけで今ごろ一人で泣いてるかもしれないわよー」
「そ、それは……」
柊は返す言葉が見当たらず黙ってうつむいた。目に見えて傷を負ったのが自分であることは間違いないが、精神的に傷ついたのは雪なのではないかという思いが頭をよぎる。
「じゃ、上着脱いで」
「え?」
唐突に投げられた言葉に当惑した。
「湿布貼ってあげるから」
「べつにいいですって、そこまで痛いところないですから」
「だーめっ! 養護教諭として生徒のことは心身ともにケアするのが私の責務なの。目の前に負傷している生徒がいるのを黙って見過ごすことなんてできないわ」
「そんな立派な志を持ってるなら、さっきもう少し早く止めに入ってくださいよ!」
「あれは女として止めるわけにはいかなかったのよ。ほらぁ、先生が若くてキレイだからって恥ずかしがらない、のっ!」
ひんむいてやろうと言わん勢いで、梨香子が柊のシャツの裾に手をかける。
「わかりましたって! 自分で脱ぎますから、シャツ引っ張らないでください!」
柊はその手をはらいのけ、しぶしぶといった調子で着ているポロシャツを脱いだ。
「へー、結構いい体してるじゃない。さすがに運動系のクラブに所属してるだけのことはあるわね」
「そ、そうですか?」
ポロシャツ一枚とはいえ、裸になってしまうと冷房の効いた保健室の中は少し肌寒く感じた。が、むきだしになった上半身に梨香子の視線をまじまじと感じ、プラスマイナスゼロに落ち着く。
「うん、まぁ思ったよりって意味だけどね。男の裸なんて見慣れてる私から言わせればたいしたことはない」
その意味深な発言に柊は、業務上の話ですよね? と聞き返してしまいそうになったが、いらぬ扉を開いてしまい面倒な方向に話が進むと厄介だと思い、喉元まででかかっていた言葉を飲み込んだ。
会話のとぎれた保健室に、ブラスバンド部の演奏がうっすらと流れている。ふと、女子テニス部は大丈夫だろうかと思った。なにもいわず、飛び出すように祭のことを保健室に連れてきてしまった。祭は部の元気印的な部長で、実際は副部長の志保がしっかりと練習の段取りをとっているようだから問題はないと思うのだが。
「半年だっけ?」
梨香子が問いかけてきた。
「なにがです?」
「付き合ってからよ。さっきの、元気な彼女」
「……それくらいですけど」
「もうキスはしたの?」
あまりのぶしつけな質問に柊は答えず、梨香子をにらみつけ、その先には触れるなというオーラを身体中から放った。
「まさか、まだなの? あんなにかわいい子なのに?」
梨香子はそんなもの痛くもかゆくもないという調子で続ける。柊はつとめて動じないように耐えた。
「もう高校生よ?」
柊の顔がほんの少しゆがむ。
梨香子は表情の変化を見逃さないように柊の顔をじっと見つめ、
「なるほど、キスはまだしてないのか」
「黙ってさっさと貼れよ!」
養護教諭としての志はどこへいったというのだ。生徒のことは心身ともにケアするのが私の責務、などと抜かしていたくせに思いっきり思春期の不安定なメンタルを潰しにきたではないか。
「あはははっ、この年頃の男の子はそうやってムキになってくれるから、からかい甲斐があるのよねー」
「相談にのってくれるんじゃなかったんですか?」
柊は少し苛立ちをにじませる。
「いやー、のるよ。ほらほら、からかいっていうのは愛情表現の一つで、相手との距離を縮める方法なんだからさー、そう怒らないの」
そう言うと梨香子は湿布のビニールをはがし、雪のこぶしの跡がうっすらと赤く残った箇所にはりつける。大して痛みがあるわけではないのだが、ひんやりとした湿布の感触は心地いいものがあった。
「ま、私が彼女だったら、自分にはキスも迫ってこないくせに、気心が知れてる相手だからって理由で他所の女のおっぱいまさぐろうとしてる彼氏なんて速攻で別れるけどね」
「だから、俺は無実なんですって! それに『おっぱい』なんて男の前で平気で口にする先生と小松原を一緒にしないでくださいよ! 小松原は普段ものすごくおとなしくて優しくてシャイな子なんです。あんな風に怒ったところだって今日初めて見たくらいなんですから!」
「えー、そんな風には見えなかったなぁ。てっきり、ああいうプレイが日常になってるカップルなのかと思ったんだけど」
「ちがいますよ! あとプレイって言い方もやめてください。今日はなんていうか、たまたま、タイミングが悪かったんですよ……」
「たまたま、ねぇ……」
力なく答えた柊に梨香子はどこか含みのある言い方をして立ち上がると、湿布からはがしたビニールをゴミ箱に捨てた。
「ほんとにその子、えーと、祭ちゃん? とは、なーんにもないわけ?」
「な、ないですって! 祭はただの幼馴染みでーー」
柊はしまった、っと思ったが時すでに遅かった。
「ほー」
そこまでの情報は出すつもりはなかったのに。
ブラスバンド部の演奏が止む。
梨香子は陽の光が降り注ぐ中庭の花壇に咲いた色とりどりの花に目を向け、「なるほどぉ、彼氏の幼馴染みかぁ」と小さくつぶやく。
窓の外でアブラゼミがジリリと声をあげた。
梨香子は遠くの空に目を視線を移し、ぽつりと漏らす。
「ほんとは彼女ずっと嫉妬してたのに言えなかったんじゃないの?」
柊はポロシャツを頭からかぶろうとするのを中断し、
「……やっぱり、そうなんですかね?」
「当たり前じゃない! こちとら伊達に25年女やってないんだから! 今までずっと怒ったところなんて見せなかった彼女があんな風になるなんて、よっぽど腹に据えかねてたに違いないわよ。彼氏がヘタレな上に、こーんなかわいい幼馴染みがずっと側にいるんだから、そりゃ気が気じゃないわよね」
「今さらっとものすごく俺のこと貶しませんでした……?」
ピポットターンの要領で勢いよくこちらに振り返った梨香子の瞳は、面白そうなオモチャを見つけた子供のごとき輝きにみちていた。梨香子は柊のツッコミなど気にもとめず続ける。
「いい? 上本くん。いま君は小松原さんに試されてるの。さっきみたいにわかりやすいものならいいけど、嫉妬って一口に言ったっていろんな形の表現方法があるんだから、今後も彼女から出される細かなサインを見逃さないように気をつけなよー」
いろんな形の表現方法、そして細かなサイン。
その言葉に柊はいくつかの心当たりを思い出す。
今日雪は何度か自分のことを苗字ではなく名前で呼んできた。あれはふだんから自分のことを名前で呼んでいる祭への対抗心を抱えてることを伝えようとしたのではないか。雪のスカートの丈が短くなっていたのもそうだし、さっき起こそうとした時に腕に押しつけられたあの柔らかい感触も祭にないものを私は持っていると暗に言いたかったのではないかとも思えてくる。数々の不可解な行動の理由が祭を意識してのことだととらえれば納得がいくような気もしなくはない。だが、その一方で雪がそんな意地汚いことなどするかとも思う。
「小松原がそんなことするかなぁ……それに、さっきの意味不明な忠告はなんだったんですかね? 祭とは手を繋いでもいいみたいな」
「それも上本くんのこと試してるに決まってるじゃない! ほんとに祭ちゃんの手を握ったりしないか、どっかで見てるのよ。女の子を純粋な生き物だって信じたい君の気持ちは分かるけど、現実はそんなに甘くないの! ふだん、どんなに大人しい子でも、どんなに裏表なく生きてる子でも、恋の魔法にかかるとたちまち自分を見失ったり、逆に新たな自分の一面を発見したり、それこそ友情が恋の前にあっさりと消し飛ぶことだってあるんだから。それでも恋に生き、嫉妬に燃え、時に大切なものを失い、恋にも破れ、それでもめげずにまた新たな恋を探す。そうやって女は強くなるのよ!」
「わ、わかりましたから、少し落ち着いてください」
熱い語り口で、ずいっと迫ってくる梨香子を柊は平手を向けて制した。
やはりそんなだまし討ちのようなマネを雪がするのだろうかという思いと、雪がこんな酸いも甘いも噛み分けた女性と同じであって欲しくないという願望がある一方で、梨香子が言うようにとらえなければ辻褄が合う道すじがないようにも感じる。
「あんまりボケーっとしてると、こういうことは取り返しのつかないことになるんだからねー」
「そ、そんな脅さないでくださいよ」
「いやいや、脅しじゃないって。ほんと、気をつけなさいよ」
梨香子がわりとマジメな顔を浮かべたので、柊は少し不安になった。
もしも自分と雪の間に別れが訪れるとしたら、それは距離が開きすぎて自然消滅してしまうとかの消極的な恋愛がたどる末路のようなものであり、雪に愛想をつかされるだとか、嫌われるだとか、その結果彼女の方から別れを切り出されるなんてことは想像もしなかった。ボケーっと付き合っていたつもりはないが、結果だけを踏まえればそういうことになってしまうのかもしれない。自分は雪がずっとそういう思いを秘めていることにも気づかない鈍感な彼氏だったのだろうか。
柊が危惧を抱いていると、後ろのベッドでシーツのすれる音と祭のうめく声が聞こえた。
「あ、祭、気がついたか?」
柊はポロシャツを腕にかけたまま、祭が寝ているベッドを振り返った。むき出しになった大胸筋も心配そうに祭を見つめる。
ベッドの上でゆっくりと上体を起こした祭は、つつましく目をこすりあげた。
そして目を開いた次の瞬間、頭から蒸気を出し、祭はすぐさま卒倒してしまった。
「お、おい! 祭! 大丈夫か!?」
柊はポロシャツを頭からかぶって腕を通すと、慌てて祭の元に駆けよる。
「あらあら、随分とピュアな女の子なのね。上本くんの裸見て倒れちゃうなんて」
「祭は俺の裸なんかでぶっ倒れるようなやつじゃないですって! まだ具合がよくないんですよ! 早くみてやってください!」
「へいへい。まったくもう、そんなんだから彼女が嫉妬するってこと理解してるのかねぇ」
梨香子は後ろ髪をかきむしり、肩をすくめた。




