第九話 透明な恋煩い
1
あいつとの出逢いは、陽気な天気に恵まれたある春の日だった。
間違え続けて誤解されていた高校生の俺に、自分はもう長くはないからと『猫のあしあと』の店長という役職を当時の店長から与えられて。数年かけてなんとか失敗をせずに働けるようになった頃、外にまで溢れていた花の中に、一生懸命花に水やりをしていたあいつがいた。
彼女は隣に建っている小さな花屋『ミミズクの家』のバイト、道重陽鞠。花が好きな大人しい奴で、花だけではなく常に何事にも一生懸命な四歳年下の女性だった。
人は間違える。
俺はほんの少しの間違いで、高校時代の時にヤンキーだと誤解されていた。そんな時に出逢った奴らの中にいたのが、あの男――瀬越――だった。
「あれ? ……お金足りないや」
「ちょ、何やってんのよバカ里見」
「ごめんごめん。花夜、ちょーっと……」
「……わかってるわよ。絶対に返してよね?」
有賀から足りない分のお金を借りた里見の会計を済ませて、俺は目で二人を追った。幼馴染みにしては仲が良すぎるが、あれでまだつき合っていないのが憎い。想い合えるまっとうな高校生の二人が羨ましい。
店の外に出た二人の背中を追い終わって、けどその瞬間に俺は別の人物を視界に入れた。いかにもガラが悪い奴の姿は覚えてる。瀬越だ。
なんで瀬越が来たのかと、焦った俺はすぐに立ち上がった。立ち上がっただけでその場から動けないでいるが、視線は俺の店ではなく店長不在の『ミミズクの家』へと向かう瀬越を捉えていた。
『ち、違います!』
少しして陽鞠の声が『猫のあしあと』にも聞こえてきた。
俺は反射的に体を動かして、店内に置かれている物を蹴っ飛ばしながら店の外に出る。すぐさま方向転換をして、『ミミズクの家』の自動ドアが完全に開く前に中に入った。
「おい!」
俺は瀬越の肩を掴んで自分の方に顔を向けさせる。瀬越のサングラス越しの瞳は俺を見て見開かれ、すぐさま目を細められた。
「……え?」
その時に見えたが、店の奥にいた陽鞠が涙を流していた。それを見てしまったら最後、限界まで抑えていた感情がさらに溢れだす。
「お前、陽鞠になんの用だ!」
「あ?」
「答えろ!」
耐えられなくなって拳を握りしめた。
瀬越が見た目通りに花を買うというガラじゃないのは知っている。客として来ていたのなら俺だって何もしなかったが、陽鞠が泣いているのなら客として来たわけじゃないのは明らかだった。
「と、透也さん! 待っ……」
「透也? あー……、どっかで見た顔だと思ったら、てめぇ、透也じゃねーか」
「…………」
サングラスを外した瀬越は俺を見下ろした。偽物だった俺とは違って本物の瀬越は俺よりも体格がよく、目付きは鋭い。普通に喧嘩したら昔も今も俺が負けるとわかってしまう。
「この女、もしかして透也のオンナなのか?」
「違う」
即答をした。
事実だが、口にすると悔しい。
「ふーん、あっそ。まぁ興味ねーけど」
「だったら帰れ」
「あぁそうだな。気分わりーから帰るわ」
瀬越は俺の手を払って『ミミズクの家』から出ていった。俺は瀬越が何かをしないかと見えなくなるまで目で追う。瀬越が完全に視界から消えた後、俺は陽鞠に視線を戻した。
「……透也さん、どうしてここに?」
「店の中からあいつの姿が見えた。陽鞠も何か叫んでいたし、来てみれば……」
さっきまでにあった出来事を説明しながら、俺は側に行きたくて陽鞠に近づいた。
「!」
「来てみれば、お前が泣いていた」
「な、泣いてません!」
嘘をつくな。
俺は無言で陽鞠の目元を拭う。小さな陽鞠は弱々しくて、俺とは住む世界みたいなものが違って、俺は陽鞠みたいに泣きそうになった。
「目が赤い。あいつに泣かされたんだろ?」
「……違います」
じゃあ、それ以外で何があったら泣くんだ。
俺には陽鞠が嘘をついているように見えた。ただただ陽鞠の涙を拭い続けて、陽鞠が笑ってくれるのを願う。
不意に陽鞠が後頭部を俺の胸板につけた。この感情の正体を知りながら、こいつの彼氏でもないのに陽鞠の頭をつい撫でる。
「陽鞠」
「はい」
「無事で良かった」
「……はい」
今はそれだけで精一杯だった。
それ以上のことができなくて、俺は自分の店に戻る。
俺と陽鞠の関係は恋人ではない。
かと言って友達でも仕事仲間でもない。
俺たちの関係なんてその程度のものだったのだと、俺は今日、思い知った。
2
「とーや? なんか元気なくない?」
瀬越の件があり、外にはいられなくなって店内にいた俺に話しかけてきたのは、今日も就職の面接で失敗したニートの希々だった。
太陽が沈んだ頃にやって来た希々は、本を買うわけでもなく無邪気に俺に話しかけてくる。
「別に」
「別にってさぁー……」
希々はどこからか脚立を持ってきて、そこに座った。ジドッとした目で俺を見る希々は初めてかもしれない。
「赤字だったの?」
「そんなわけあるか」
「えー……。じゃあ何?」
「なんでもない」
希々はさらに訝しげな視線を俺に注いだ。
「私に嘘をついても無駄だよ? だって私、とーやのことずっと見てきたもん」
ずっと見てきたと言うよりは、ずっと離れなかったの方が正しい気がする。俺はカウンターの下に設置されている棚から私物の本を取り出して、挟んであったしおりを抜いた。
「とーや、本の上下逆」
「…………」
何事もなかったかのように俺は本を正しい向きに変える。そして希々はガッコガッコと危なっかしく脚立を揺らしながら
「あの陽鞠って子のこと?」
と確信をついた。
「…………」
「黙ったってことは図星? ぷぷぷ、とーやわかりやすーい」
「うるさい」
あの希々に確信をつかれたことが俺にはとてつもなく情けないことに思えて、本を閉じる。希々は「へぇー……。でもなんで? なんで陽鞠で元気がなくなるの?」と、当てずっぽうで発言したことを勝手にばらした。
「お前は知らなくてもいい」
「私は知りたいのー。それじゃダメ?」
「ダメだ」
「ケチ」
希々は頬を膨らませて腕を組んだ。
俺は希々から視線を逸らして落とす。ついさっき掴んだ瀬越の肩のゴツゴツとした感触が、手のひらから離れなかった。
「希々、お前、もう帰れ」
「何それ。とーやは私を追い出す気なのー?」
「そうじゃない。……今日はこれ以上、店を開ける気になれないだけだ。もう店を閉める」
「……ふーん。わかった。じゃ、またねとーや! その代わりに明日は私を雇ってよねっ!」
元気よく店を出ていく希々の後ろ姿は無駄に軽やかで、俺はつい返事を遅らせる。暗闇に同化しかけていく希々の黒髪に「雇わん」と呟いても、届くわけなかった。
「ったく……」
自分の黒髪を掻く。そして、いつもよるへりも約二時間早めに店を閉める準備をした。時刻は午後八時を過ぎたあたりで、俺はふと思い出す。
この時間帯は確か……。
体が勝手に作業を早める。心が俺を急かしていた。
「……と、透也さん?」
その声を聞くために。
「……陽鞠」
『猫のあしあと』のシャッターを閉めた後、少し息遣いが激しくなっているのは、普段俺が動かないからだろう。
あの春の日からずっと、決まった場所に座っているから。
「今日はどうしたんですか? お店、まだ開いている時間帯ですよね?」
「あ、あぁ。少し……」
「って、透也さん、顔色が悪いですよ?」
「え?」
『ミミズクの家』のエプロンを脱いだ帰宅寸前の陽鞠は、俺の方に駆け寄って俺の額に手を当てた。夏にしては冷たいような陽鞠の手に心配する。
「熱は……ないみたいですね。もしかして、お腹が痛いんですか?」
「いや、別に……」
「嘘です。だって、体調不良だから店を早じまいしたんですよね?」
本当の理由は陽鞠には言えず、そして、体調不良以外の理由を俺は思いつけなかった。心配そうに俺を見上げる陽鞠をこれ以上心配させたくなくて、俺は慣れない微笑みというものを作る。
「まぁ、そんな感じだ。けど今はもうなんともない。心配するな」
「……え、ですが」
「少し待ってろ」
ポカンと呆ける陽鞠を待たせ、俺は裏口から急いで店内に戻る。荷物を持って数十秒もかけないで戻ってくると、陽鞠は言われた通りに待っていた。
「送る」
「ひぇっ?!」
「……ひぇ、てなんだ」
地味に傷つく。
陽鞠は視線を伏せて「すみません」と前髪で顔を隠した。
「……いや。迷惑ならいいんだ」
「いえ! 迷惑なんかじゃないです! でも、透也さん体調悪いのに送ってもらうなんて申し訳なくて!」
「俺が送りたいんだ」
今日は瀬越との件もあったから、余計に陽鞠を一人で帰らせたくはなかった。偶然とはいえこの時間――陽鞠のバイトが終わる時間――に合わせて早めに店を閉めたのだから、送らないと俺の気が済まない。
「透也さん……」
陽鞠は、俺のぎこちないそれとは違って自然とはにかんだ。おずおずと俺の瞳を覗いて
「……よ、よろしくお願いします?」
と確かめるように首を傾げる。
「クエスチョンマークはいらないからな」
「……ッ、はい!」
ぐっと両手の拳を握った陽鞠と俺は、どちらかともなく歩き出す。
「そういえばお前、家はどこなんだ?」
「私の家は結構近いんですよ。歩いてだいたい十五分で、公園の目の前にあるんです」
それは近いと言うのだろうか。もしくは俺の感覚がおかしいのか。
「透也さんはどのあたりに家があるんですか?」
「あれだ」
「あれ?」
俺の指差す先に陽鞠が視線を向けて
「あれなんですか?!」
俺たちの店がある商店街から少し外れた道の、小さなアパートの一室を視認した。
「あそこに家があると、通勤時間が徒歩一分でものすごく楽だな」
「一人暮らしなんですか? 透也さん」
「あぁ」
すると街頭に照らされた陽鞠は目を見開いた。
「すごいですね、一人暮らし。私、まだ実家暮らしで……」
「一応社会人だぞ、俺は」
陽鞠は俺をなんだと思っているのか。色々考えてしまう。
「あ、そうでしたね」
「…………」
「え? す、すみません!」
考えてもわからなそうだ。
「あの、透也さんの家通りすぎちゃいますけど大丈夫ですか?」
「今さら何を心配してるんだ。……行くぞ」
すると、陽鞠は駆け足気味についてきた。何がそうさせたのかと考えて、単純な俺たちの歩幅の違いだと知る。歩くスピードを緩めて、陽鞠のペースに合わせて、夏の風が吹いて、風鈴の音がどこからか聞こえてきた。
「もう夏ですね」
「だな」
「私たちが出逢ってもう三ヶ月くらいですか?」
「だな」
これ以上なんて返していいかわからずに、俺は「だな」を繰り返した。陽鞠はそんな俺の返事に眉を八の字に下げて笑う。これは困った時の表情だって三ヶ月で知った俺は、夜空を見上げた。
「三ヶ月は早かったな」
「ですね」
「一年も早いんだろうな」
「ですね」
……あれ。
隣の陽鞠を見下ろすと、陽鞠は今度は横髪で顔を隠した。何が理由で顔を隠すのかはまだわからない分、ためらう。
「陽鞠」
「はい?」
「来週、ここから二つ向こう先の駅で夏祭りがあるらしい」
「あ、知ってます。大学の友達が教えてくれました」
「大学、この辺なのか?」
「夏祭りがある駅が最寄り駅なんですよ」
俺は口を閉ざした。
「あの駅はこの辺の駅とは違って大きいですからね。友達も楽しみにしてましたよー」
慣れてきたのか、陽鞠はいつもの雰囲気をかもし出す。陽鞠を送る理由を忘れかけていた俺も、気を緩ませた。
「透也さんは誰かと行くんですか? あ、希々さんとか」
「夏祭りには……興味がなくはないが、希々とは行かないな」
「そうなんですか? 私、お二人とも仲がいいので、てっきり一緒に行くのかと思っていました」
「まさか」
陽鞠は「……一緒に行かないんですね」と言葉を漏らす。すかさず俺は「お前は?」と返した。
「大学の友達はみんな恋人と行くらしくて、私は一人なんです」
聞いてみるものだと心臓が跳ねた。自分の行いを今ほどほめたいと思った日はない。
「なら、一緒に行かないか?」
陽鞠なら遠慮するかと思ったが、それは杞憂だった。
「行きたいです!」
いつも以上に嬉しそうに返事をする陽鞠の、その笑顔が俺の心をキュッとさせた。
3
二つ離れた駅でも普段より人が多い。夏祭り当日は混んでいて、俺は眉間にしわを寄せた。が、すぐに止めて陽鞠が来るのを待つ。
「透也さーん!」
カランカランという音がしたのは俺の聞き間違いなんかではなく、陽鞠の下駄の音だった。
「……浴衣、似合うな」
「あ、ありがとうございます!」
日本人離れした色素の薄い髪を持っているにも関わらず、陽鞠は本当に浴衣が似合っていた。
「透也さんも浴衣似合ってますよ!」
「……あぁ」
あまりほめられたことがない俺は、陽鞠と出逢ってから何度目かのそっ気ない返事をした。夏祭りのことをうっかり『ミミズクの家』の女店長に話し、面白がられて浴衣を着付けられたおかげだろう。
「行くぞ」
夏祭りがある駅は最寄りよりも混んでいるからという理由でここにしたが、正解だったかもしれない。電車に乗ってもそれなりに混んでいた。
一週間前と同じような夜空を見上げて、俺たちは歩き出す。
「陽鞠、はぐれるなよ」
人混みは大嫌いだ。けど、どうしても陽鞠と来たかった。どうしても来たかったから
「…………」
少しずつ手を伸ばして陽鞠の手を握りしめた。
「ッ!」
陽鞠は少しだけ驚いたみたいだが、俺の手を離さなかった。むしろ強く握りしめられている気がする。
「陽鞠、どこに行きたい?」
「私、金魚すくいがしたいです」
「金魚?」
「好きなんです、金魚」
なら、こういう夏祭りで売られているような金魚で満足していいのだろうか。俺はまた、陽鞠のことがよくわからなくなかった。
「ここか?」
「はい!」
陽鞠は意気揚々として、俺の手を握りしめながらしゃがみこむ。陽鞠が覗く水槽には赤と黒の金魚がいいバランスを保ちながら存在していた。
陽鞠が金を払って、何故か俺がボウルを持たされ、陽鞠は決して片手を話さずにポイを持つ。無理して繋がなくてもいいのに、そのことは言えず。俺はただ、今この瞬間を噛みしめた。
「わ、意外とすばしっこい……!」
「意外とって、まさか初めてなのか?」
「そうですよ? 金魚はお店でしか買ったことがなかったので」
なるほどな。
陽鞠自身も育ちが良さそうだし、金魚もちゃんとしたのを飼っていたのか。
「頑張れ」
陽鞠の動きを見て、ボウルの動きを常に変える。その瞬間、陽鞠のポイが赤い赤い金魚を乗せた。俺と陽鞠は無言で感極まる。陽鞠のポイから俺のボウルに移る瞬間、不愉快な声が降ってきた。
「よぉ、透也」
赤い金魚が水槽に帰る。
陽鞠や俺は固まって、振り返ることはできなかった。
「お前ら、つき合ってないんじゃなかったかぁ? くはっ、まさか俺に嘘をついたんじゃねぇーよなぁ?」
「……今もつき合ってないぞ、瀬越」
「嘘つけ。誰がどう見てもデートだろ? 透也」
時間が切れて、ポイとボウルを返した俺は瀬越に背中を向けながら去ろうとした。
「待てよ」
なのにあの日のように肩を掴まれる。俺は陽鞠の手を手放して、逃げるように目配せをした。それでも陽鞠は首を横に振る。
俺だけ無理矢理真後ろに向けさせられ、俺は一週間ぶりの瀬越を見据えた。瀬越は何も変わっていないままの瀬越だった。
「なんの用だ、瀬越」
俺たちが出逢った高校は、今思えばこの辺りだった。だからと言って瀬越には会わないだろうと思うのに。
「そうだなぁ。あるとするならてめぇ、なんでマトモなヤツになってんだってことだな」
「俺は元からそっちの人間じゃなかった。わかったならもう二度と俺にも陽鞠にも関わるな」
このまま瀬越と話していれば、陽鞠は必ずこの会話で俺の知られたくない過去を知ってしまう。だから俺はまた去った。
「透也さん……」
「悪い、陽鞠。怖かったか?」
「いいえ。例え、透也さんが昔ちょっとやんちゃだったとしても私は怖くないですよ」
その言葉がよく聞こえたのは、俺たちが人混みから抜けて見知らぬ公園に来たからだった。心なしかここの公園は陽鞠の家の近くの公園に似ている。
「だって私、今の透也さんのこと……」
「好きだ」
どうしても今、このタイミングで言いたかった。
夏というのは不思議な物で、心が少しだけ若くなってとんでもないことをさせたがる。陽鞠は急に顔を赤くして前髪と横髪で顔を隠した。髪で顔を隠すのはただの照れ隠しだったらしい。
「私も、好きです。今の透也さんも私の知らない昔の透也さんも好きです」
誤解しかされていなかった自分の過去を、こんな風に好きだと言ってくれる人が現れるなんて当時の自分は思いもしなかっただろう。
「ありがとな、陽鞠」
陽鞠には礼も言いたかった。
陽鞠にはもっと言いたいことがある。
あの日とは違う意味で俺は陽鞠を抱きしめて、陽鞠はボロボロと泣いた。
曖昧だった俺たちの関係に終止符をうって
新たな関係としてスタートするこれからに、想いを馳せた。