第五話 陽炎に似た日
1
翌朝に目を覚ますと、八時だった。
里見のことは心配だけど、案外よく眠れていたような気がする。
昨日の夕方頃に車に轢かれた里見は一晩中手術をしてどうなったのか。そう思うといてもたってもいられなくて、私はかけ布団を剥いだ。
「…………」
剥いだはいいものの、どうすればいいのかわからなかった。蒸し暑い気温で汗ばんだパジャマがいつも以上に気持ち悪くて顔をしかめる。すると足音が私の部屋に近づいてきた。
『花夜……?』
その声の持ち主はお母さんだった。
昨日、里見の彼女のはつのから連絡を受けた私は、お母さんに説明もせずに家を飛び出した。その後里見のお母さんに言われて家に帰ってきた時、私のお母さんは無言で私を抱きしめてくれた。
お母さんの匂いに包まれながら、お母さんも知らされたんだ、と思う。きっと私たちが病院を後にしてすぐにおばさんがお母さんに連絡をしたんだろう。
そして多分、学校には今日知らされる。
「……何」
『夏期講習は、やっぱり行かないの?』
やっぱりってことは行かないってわかっているくせに、なんでわざわざ聞きに来たんだろう。
「行かない」
行きたくない。
行けない。
『……わかった。学校には休むって連絡を入れておくからね』
そして足音が遠さがると思った。けれどお母さんは一歩も動かない。
『花夜、あのね。里見君はまだ目を覚ましていないらしいんだけど、手術は成功したんだって』
「本当に?!」
一気にベッドから飛び下りた私は、扉を引いてお母さんに詰め寄った。お母さんはわずかに微笑んで「本当よ」と頷いた。
「だから、お見舞いには行ってあげなさい」
私は「うん」と深く頷いた。一階に下りていくお母さんを見送りもせずに私は部屋に戻る。
お見舞いなんて言われなくても行くに決まっている。私は面会時間を考えて、時間をかけて着ていく服を選んだ。
朝食を食べ、シャワーを浴びれば後はすぐだった。里見の好きな梨をたくさん持って家を出ると太陽の光が肌を焼く。
「あっつ……」
梨がダメにならないように小走りで駅まで向かうけれど、これはこれで汗を多くかいた。汗拭きシートで汗を拭いながら、ホームで電車が来るのを待つ。
昨日の夜も同じ方法で病院に向かったはずなのに、よく覚えていなかった。不安に心を押し潰されそうになりながらずっと走っていたような気がするけれど。
――里見。
唇の形を動かして無音の声を漏らした。
駅のホームで電車を待っている時は、だいたい私の側にいて一緒に待っていたはずなのに。もしかしたらと周りを見ても里見の姿形もなかった。
「……里見」
震える声で今度は漏らした。
なのにいつまで経っても誰も返事をしてくれない。
「…………」
今まで冷静さを保っていた心が、昨日のように焦りや悲しみを交ぜた不安にまた押し潰されそうになった。すると電車がホームに入ってきて、私は詰まっていた息を吐いた。
電車に揺られて数分。総合病院がある場所は学校の近くだから、結局私は学校の最寄り駅で電車を下りた。学校と同じ方向のゆるやかな坂を登る。
ゆるやかだから体は全然疲れないけれど、里見のことが心配で心の方が疲れそうになる。けれどその前に真っ白な壁の病院が私の視界に入った。
里見の病室だと言われた部屋の前に来て、私は服装を確認した。派手な服装は避けて来たけれど、これでいいのかも正直わからない。
昔何かの福袋に入っていて、似合わないからと一度も着ないでタンスの奥に眠っていた淡いピンク色のワンピースに視線を落とす。ワンピースについたしわが気になって、私は何度も無意味に伸ばした。
一通り終わって扉をノックしようと手を上げる。そして固まった。
(……どうしよう)
ここまで来て急に里見に会うのが怖くなった。助かったとは聞いているけれど、どんな姿をしているのか想像もしたくない。
(でも、会わなきゃ)
私は悪い考えを捨てるために首を横に振ってノックをした。返事がくるなんて思ってなかったから、思いきって開ける。個室になっている病室に足を踏み入れて、その時初めて人影を確認した。
長くてキレイな黒髪を持つ少女は、私が入ってきたことにしばらく気づいていないみたいだった。
「……ぁ」
その少女が誰だかわかった瞬間、私から声が漏れる。少女、水戸部はつのは私の声を聞いてゆっくりと顔を上げた。
はつのの手はしっかりと里見の手を握っているのがここからでも見える。肝心の里見は胸から上が白いカーテンに遮られていて、見えなかった。
目にくまがついているはつのは寝ていないように見えた。はつのは私を見て唇をわずかに噛んだ。
「ご、ごめん、はつの。私、邪魔だよね!」
慌てて部屋から出ようとするけれど、足が全然動かない。
邪魔だってわかっているのに。
二人にとって、恋人同士で一緒にいることが一番だってわかっているのに。
「…………行かないで、花夜」
だから、はつのがそう言ったのには驚いた。
「で、でも」
「私、一人だったら不安なの……。それに、花夜は…………邪魔なんかじゃないよ」
はつのは涙を流しながら自分の気持ちを吐露した。唇を噛んだのは涙を堪えるためだったんだとわかり、少しだけ心が軽くなった。
「ごめんね、花夜。花夜の方が里見君とつき合い長いんだから……花夜の方が心配なはずなのに。私なんかがここにいて」
「そんなことない!」
はつのは里見の手を自分の額につけて、祈るように泣く。私は病室の一番奥にいるはつのの側に駆け寄って、そして強く抱きしめた。
「はつのと里見は恋人だもん。だから、はつのはここにいていいんだよ」
「花夜……」
「それに里見は、はつのを守っ……」
『花夜に何かあったら、俺が守るね』
そこまで言って、不意に里見の台詞が脳裏をよぎった。
それは最近。本当にごく最近、里見の意思で、里見の声で聞いた台詞だった。そして私は、"初めて"一条里見を見た。
……とても、キレイな顔だった。
元からこんな顔だったっけ。まるで死人のような白い肌をしている里見は、ぴくりとも動かない。
「……キレイでしょ、里見君」
はつのの声が震えた。
「…………そうだね」
私は持ってきていた梨を枕の側の机に置く。そこには先に一輪の花が飾られていた。
部屋の奥からベッドを挟んだ手前に移動したせいではつのと対面するような形になる。ズキリ、と何故か胸が痛んだ。
「その花、私が持ってきたの。花夜は……梨?」
「うん、里見の好きな食べ物だから。……けど、無駄だったね。私もはつのみたいに花にすれば良かったなぁ」
今の里見を見て思う。
里見はもう目を覚まさないんじゃないか、って。
どうせ食べてくれない。そう思ってしまった私は最低だった。
「きっと無駄じゃないよ」
はつのは初めて弱音っぽいことを吐いた私に、慰めの言葉をかけた。その表情は悲しそうで見ていて辛くなるけれど
「里見君、きっとすぐに起きて食べてくれるよ」
次に見せた微笑みは無理なんかしていない、純粋なものだった。
はつのはもう、私以上に里見が目を覚ますと信じている。目の下にはくまがあって瞳は充血しているけれど、それは真剣そのものだった。
だからかはつのは静かに握る手を強くした。キレイな里見は苦しそうな表情をまったくしない。
私は立っているのが辛くなって、近くに置いてあった椅子を持ってきて座った。視線を落とすと里見の左手も布団から出ているのが見えた。
今、里見の左手は何も掴んでいない。
その白すぎる手を見つめ、私はしばらく逡巡した。そして恐る恐るその手を私の右手が握りしめる。
「あ」
かすかな里見の温もりか、まだその手のひらにはあった。里見は生きている。伝わった体温でようやく私はそれを信じられた。
「里見……」
里見の体温と同じくらいの温度の涙が、頬を伝った。押し殺していた恐怖が一気に溢れだしたような感覚になる。
はつのは目を見開いて、申し訳なさそうに俯いた。
はつのがいい人過ぎて私は何も言えなかったけれど、もしもはつのが私の嫌いな人だったら、棘のある言葉は遠慮を知らなかったかもしれない。
どうして里見なの。
どうして私を守るって言った里見がはつのを守って、こんな目に遭うの。
「里見、あんたはバカだけど……バカじゃないよね」
その胸に溢れたいろんな思いを言外に込めて。
はつのを彼女にしたこと。
私の言う通り、自分の彼女を守ったこと。
バカだけどバカじゃない。
チクリと何かが私の胸を刺した。ずっとずっと痛くて、それはぐちゃぐちゃと胸の中の感情をかき混ぜた。
「か……」
はつのが私の名前を呼ぼうとして、病室の扉が開く。私の座っている位置からだと、後ろにある扉も入ってきた人も見えなかった。
「あ、あの」
逆に扉が見える位置に座っていたはつのは慌てて席を立つ。
「はつのさん、立たなくていいのよ」
入ってきたのは里見のお母さんだった。もう一つ足音があるからおじさんも一緒なんだと思う。
私は涙を拭って振り返った。ちょうどカーテンもあって、おばさんとおじさんの姿はまだ見えなかった。
「……いえ。私、もう帰りますね」
はつのはおばさんたちに一礼して、荷物を持って出ていった。一回だけおばさんははつのの名前を呼んだけれど、はつのは立ち止まらなかった。
「おばさん、おじさん」
「あら。花夜ちゃんも来てたのね」
カーテンを開けると里見によく似た二人がいた。二人の子供なんだから里見に似ているのは当然なんだけど。
「はい」
「今の子が里見の彼女なのかい?」
「そうです。水戸部はつのっていう名前で、去年の文化祭から付き合ってます」
おじさんは「詳しいんだね、花夜ちゃんは」とはつのが座っていた椅子に座った。
その言葉が引っ掛かったけれど、私も慌てて立ち上がっておばさんに席を譲る。おばさんははつのの時みたいに遠慮はしないで「花夜ちゃん、ありがとう」と言って座った。
「私もそろそろ帰りますね」
「花夜ちゃんも帰るの?」
「はい。里見の彼女と幼馴染みはもう充分話したので、後は親子水入らずっていうやつです」
「気を遣わなくてもいいのに……悪いね」
私はなるべく明るく見えるように首を横に振った。そしてはつのと同じように一礼して病室を出る。
扉を閉めてエレベーターがある方を向くと、はつのが奥の方で壁に寄りかかっていた。私を待っていたわけではないと思うけど、病室から離れて声をかける。
「はつの」
「……花夜。花夜も帰るの?」
「うん。はつのも帰っちゃうなら、親子でいた方が絶対いいでしょ?」
はつのは微笑むこともなく「そうだね」と呟いた。
「行こう。エレベーター来たよ」
はつのは無言でついてきた。エレベーターの中でもロビーに着いても互いに無言のままだった。
泣くだけ泣いた。
本当に言いたいことはきっと互いに隠したままなんだろうけど、少なくとも私は知ろうとは思わなかった。
冷房の効いた病院から、もう一度太陽が輝く外へと足を踏み出す。
「またね、はつの」
「うん。また」
私たちは手を振って病院の前で別れた。
私は緊張の糸が切れて、ため息に近い深呼吸をする。切っていた携帯の電源を入れると、驚くべきものが飛び込んできた。電話とメール、それぞれ約十件くらいもある。
「……大地?」
それは私の彼氏、古城大地からだった。一つ一つメールを見ていくと、内容は全部私の身を案じたもので目を見開いた。
大地は今日学校で里見の事故を知り、まっさきに私を心配したらしい。自分で言うのもあれだけれど、大地は"できた彼氏"だった。
折り返し電話をかけると、たいして待たずに大地が出てきた。私が何かを言う前に悲惨な声が耳元から聞こえる。
『花夜! お前、大丈夫なのかっ?!』
突然のことですぐに返事ができなかったせいか、次々と『早まるなよ!』『どこにいる?!』なんて叫びが間髪を入れずに飛び込んでくる。
「お、落ち着いてってば大地!」
気づけば私は自分の気持ちを落ち着かせる前にそう言っていた。ピタッと、先ほどまでの言葉の嵐が嘘のように止む。
『……花夜?』
恐る恐るといった感じで大地が私の名前を呼んだ。「うん」と短く返事をする。
『悪い。…………ちょっと焦ってた……』
「……ちょっとどころじゃなかったけど、気にしないで。心配してくれてありがとね。大地」
『バカ。当然だろ?』
それは偽りのない声だった。
『なぁ花夜。本当にお前、今どこにいるんだ? 学校には来てなかったみたいだし、家か?』
「ううん、里見が入院している病院の前。さっきはつのと別れたところ」
一応一人ではなかったことを報告して、大地に変な誤解を与えないようにする。
『病院か。どの辺にある病院だ?』
「学校の近くだよ。ほら、正門前のゆるやかな坂を下りて途中の小道に逸れるとある、あの病院」
『学校から近いんだな。わかった、すぐ行く。ちゃんと病院の中にいろよ? 花夜は"暑がり"なんだからさ』
「りょーかい」
電話を切って、力なく携帯を持っていた手を下げた。
そういえば私が暑がりだって、里見が大地に教えたんだっけ。教えなかったら私は暑い外で大地を待つはめになったのかな。
唇を噛みしめて。
私は冷房が効いて冷えすぎた病院の中へと戻った。
院内で俯きながら大地の到着を待つ。
「花夜!」
すると、案外早く大地の声が聞こえた。
「……大地」
大地は汗だくで、寒い病院の中に入って涼しそうな表情をしている。
「良かった、無事だった……」
「さっきからなんなの、大地。『早まるな』とか『無事だった』とか。私が自殺でもすると思った?」
「あー……うん。かなり」
私はため息を吐いた。
「そんなわけないでしょ。里見が死んだわけでもないのに」
「……それもそうだな」
安堵のため息を吐いて。大地は唐突に私を抱きしめた。病院特有の薬品の匂いに混じって、大地の汗の匂いがする。けれど、嫌じゃない匂い。
「ッ! 悪い、花夜。匂うよな?!」
私に匂いを嗅がれたと気づいた大地は慌てた。
「ううん。ていうか、ここ病院なんだからちょっと静かにしてよね」
大地は一瞬目を丸くして、眉を下げて笑った。私が不審そうに見ていると口元を手で隠す。
「どうしたの、大地」
「いや。花夜はいつも通りで良かったなって思ってさ」
いつも通り、か。大地にはそう見えるんだ。
「行こう」
立ち上がって大地の言う私のいつも通りを装う。
「あ、ちょっと待って。俺、里見のお見舞いしたいんだけど……」
遠慮がちに、大地が私の顔色をうかがうように言った。なんで私の顔色なんかを見るんだろう。
「また今度にした方がいいと思う。今、里見の両親がいるから」
大地は「そっか。なら、また今度にするか」と呟いて天井を見上げた。それは私から見たら里見の病室を探しているみたいだった。
「……ごめんね」
不意に言いたくなった。
「なんで花夜が謝るんだよ。仕方ないだろ?」
歩き出した大地の後をついていく。外はやっぱり灼熱地獄のようだったけれど、病院の中の冷房に対する恋しさはなかった。
「なぁ、花夜」
「ん?」
「これからさ、気分転換にどっか行かね?」
総合病院の正門の前で大地はそう言って、静かに振り返った。口調は軽い感じだったけれど、大地の瞳は真剣そのもので。"気分転換"と言う辺り、大地なりの気遣いなんだと知る。
「……ごめん、無理」
それでも私は断った。
断るしかなかった。
大地は口を半開きにさせて息を漏らす。次の瞬間、大地は強く私の両肩を掴んだ。
「花夜、俺の方こそごめん。本当はわかってたけど、そう願ってたから口を滑らせた」
「だ、大地? 何を言ってるの?」
「花夜はいつも通りじゃない」
ぎゅっと、握られていた肩にさらなる力が加わった。
「だから俺は……」
「里見が事故に遭ったのは、デート中だったの!」
大地の手を振り払うと、大地は驚愕の表情のまま言葉を失わせていた。
「だから、無理なの……! ごめん大地……」
膝から崩れ落ちそうになることだけを我慢して。流れた涙は我慢の対象ではなく、枯れることを知らなかった。
ごめんね。……大地、本当にごめん。
私は里見だけではなく、大地までもを事故で傷つけたくはないの。
「だから、なんで花夜が謝るんだよ。花夜は悪くない。花夜は、"いつだって悪くない"」
大地は私の頬に手を添えてキスをした。
押しつけられるようなキス。
ただ唇と唇がぶつかったようなキス。
唇が離れてもしばらくは私も大地も無言だった。大地は私の頬から手を離して
「ほらな。今のは俺が悪い」
自嘲気味に笑った。
2
家に帰ってベッドに倒れる。服にしわがついても気にしない。というかどうでも良かった。
しばらく寝返りを打ってもなかなか落ち着かなくて体を起こす。すると、視界に鞄が入った。
(そういえば昨日から整理してないな……)
限界まで腕を伸ばして、手が届かないと判断すると立ち上がった。チャックを開ければ散乱している物の上に一冊だけ。見覚えのある表紙の本があった。
「……これって」
それは里見が図書室から借りた本で、オススメだからと言って又貸ししたものだった。
あの日、まだ一歩先の未来なんて知らなかった私たちは、無邪気に感想を語り合うと約束して。そして……。
「どうすんのよぉ、これ」
ポタ、と表紙に水滴がこぼれ落ちた。こんな気持ちになるなら約束なんてしなければ良かった。
後悔しても時間は巻き戻らなくて、私はそっと表紙を撫でた。一番最後のページを捲ると、返却日が書いてある。夏休み中に借りていたから日付は始業式のある九月三日になっていた。
カレンダーを見ると今日が七月二十九日だとわかる。
あと一ヶ月と少し。
それはこの夏休みのタイムリミットだ。
「それまでには目を覚ましなさいよね……バカ里見」
ぐいっと涙をワンピースの袖で拭って、私はその本を机の上に置いた。