七 すれ違い
§
「姉ちゃん、本気でこれ全部持って帰るのか?」
すぐ後ろを歩く、弟の美道に言われて。
「だってしょうがないでしょ、当分、宅配便受け取れる時間に帰れないんだから!」
私は半ば八つ当たり気味に叫んでいた。
お昼前に本家の祖父母と伯父が帰宅してきて、うちの両親と美道も呼んでの昼食会になり。
その後ひとりで、堀之内の母方祖父母の所に挨拶に行き、ゆっくりして夕飯を食べて行けばと祖母に引き留められるのを泣く泣く断って辞去して。
母にも同じ事を言われたけれど、明日出勤だしあまり遅くならないうちに帰宅したいからと、四時台の高速船に間に合うように宮前の実家を出て来た。
本家と、堀之内と、それから実家と。
それぞれがあれもこれも持っていけと、お米やら野菜やらミカンやら漬物やら味噌やら、果ては頂き物の缶詰に海苔と、袋一杯に持たせてくれた。
しかも、美矢の分もって事で、一件につき二袋。
双方の両親祖父母の有難い愛情の発露ゆえに、重いから要らないなんて……間違っても言えない。
お米や乾物等、常温保存のきく物は箱に詰めて、直近の休日……と言っても金曜日なんだけど、到着日時指定で宅配便で発送した。
美矢の分の生もの系は、クール便で直接美矢の下宿に届くようにした。多分平日でも受け取れるはずだから。
だからこれでもかなり量を減らしたつもり、なんだけれど。
「途中で底、抜けないかなあ……」
港まで持って行ってやるよと、大袋ふたつ分のお土産を両手に持ってついてきてくれた美道が、ぼそりと呟くのを
「やな事言わないでよ。言霊って知ってる?そういうのって言った通りになる事が多いのよ」
振り返って、たしなめる。
一応、念の為に袋二枚重ねてはいるけれど……そう言われると不安になる。
やれやれ、といった表情の弟の後方に、大分遠ざかった実家の屋根が見えて。
視線を少し上に向けると……実家の裏手の山の頂上にある、氏神様の社殿の屋根が、午後の西日を浴びてきらきらと光っている。
その光に向かって。
――どうか家まで袋をもたせて下さいますように。
宮江の『斎姫』にしてはあまりにもささやかでいじまし過ぎる願い事を、私は心の中で念じた。
船を待っている間、港湾事務所前のベンチに腰掛けて、美道と色々な話をした。
姉弟とは言え、遠く離れている上になかなか会う機会がないので、こんな風にふたりで話すのは物凄く久しぶりの事だった。
大学から島を離れた私とは対照的に、美道は高校を卒業後、島の町役場に就職した。まだ四年目の若手ながら、ベテラン並みに頼りになる存在として重宝がられているらしい。
「あ、そだ姉ちゃん!三月の中頃に出張でそっち行くんだけれど、よっちゃんに泊めてくれって頼んでおいてくれない?」
「ええ?そんなの自分で頼みなさいよ」
反射的にそう返して、あ、と思った瞬間。
美道が、怪訝そうな顔で私を見た。
「何?よっちゃんと喧嘩でもしたのか姉ちゃん?」
「何よそれ?してないわよ。ただそういう頼み事は、ちゃんとした社会人なら自分が直接電話とかでするものじゃない?あ、メールなんて論外よ?」
さらりと否定しつつ、弟の不心得をたしなめる姉のポーズを取る。
「美矢、この間修論出したばかりだから、多分今のうちだったら直接連絡取っても大丈夫よ?もう少したつと口頭試問の準備とかで忙しくなるだろうから早めにね?」
駄目押しとばかりにそう言うと
「判った」
頷きながら、美道はまだ微妙に疑わし気な目を私に向けている。
……そうよね、変だと思うわよね、やっぱり。
以前だったら、美矢への伝言は『判った伝えとくわ』って二つ返事で引き受けていたんだから。
ここ最近……あの朝、家から送り出してからずっと、美矢とは全く連絡を取り合っていないから、気まずさが先に立って、咄嗟に断ってしまった。
美道の疑惑を、それでも何とか逸らそうと
「まあ、私はしてないけど、彼女とは大喧嘩したらしいわよ、美矢」
私は美矢のプライベートを持ち出すという反則技に出た。
「え?彼女って修士の同期の……?」
思った通り、美道が食いついてくる。
「違う違う、情報古いわねえ。それは前の前の彼女。今カノは年上のお姉様らしいよ?」
「前の前、って……俺それ聞いたの、半年前だぞ?」
どんだけ遊んでんだよっちゃん……と、呆れ顔で呟いた美道は
「でもさ、そんな事に詳しい姉ちゃんも凄いと言うか、相変わらずと言うか、だな」
ぼそっと言って、ふっと笑った。
「相変わらず?」
「うん。相変わらずよっちゃんの世話焼いてんじゃないの?だからそんなによっちゃんの事、詳しいのかなって」
「ああ、うん、まあね」
……流石に修論の全文ワード入力の事は話せないので、曖昧に返事する。と。
「でもさ、姉ちゃんみたいなのって、彼女の立場から見たらどうなんだろうな?」
「え?」
「他の女があれこれ彼氏の世話を焼いているって、あんまりいい気しないんじゃないか?」
「いや、だって、他の女ったって従妹、だよ?それに私と美矢は……」
結婚出来ない、って言われている位なんだから別に、と言いかけるのを
「そりゃ俺みたいに事情を知っていれば別に何とも思わないけどさ、普通、いとこって結婚OKなんだぞ?一般的には十分、他の女なんだって」
美道があっけらかんとした口調で、容赦なく遮ってくれた。
……今まで思ってもみなかった事を、いきなり指摘されて。
「そっか……そう言われたら、そうかも」
うーん、と考え込みそうになった所で、プワーンという汽笛が聞こえた。
「あ、船来たぞ、姉ちゃん」
促されて、私は立ち上がった。
高速船の搭乗口で美道に渡されたふたつの袋は、思っていた以上にずしっと重かった。
「袋の中に、丈夫な袋入れてあるから!ヤバそうなら早めに使えよ!」
「えっ!」
思いもかけない弟の言葉に、有難うと返す間もなく、船の入口が閉められた。
仕方がないので、手を合わせて拝むジェスチャーをすると、美道が笑顔で手を振ってくれた。
その顔が、だんだんちいさくなり、遠くなる。
船の向きが変わって見えなくなるまでそうしていて、空いている席に座って、早速袋の中を見た。
チェック柄の紙の上に丈夫そうなビニールがかかっている大袋が二枚、入っている。
この柄には見覚えがあった。確か、港湾事務所の売店で売っていたものだ。
もしかしたら美道、私が乗船券を買っている間に、買って入れておいてくれたのかな。
遠ざかっていく宮江島の島影に向かって、私はもう一度、拝む姿勢で頭を下げた。
よく気がつく弟と、早速願いを聞き届けて下さった氏神様への、感謝の念を込めて。
§
ルルルル……
ドアを開けたらいきなり電話のコールの御出迎え。
ドアを施錠してふたつの袋をその場に下ろし、慌てて部屋に駆け上がって受話器を取る。
「はい、宮江です」
『あ、俺』
「……美矢?」
一瞬ちょっと、面食らった。
話をするのは……あの時以来だから。
受話器をきゅっと握り直して、自分を落ち着かせるようにして。
「何か、電話遠くない?」
『うん、今、実家から』
「宮江に帰ったのっ?」
今度こそ思いっきり、びっくりした。
「どうしたのよいきなり」
『人の事言えないだろ弓佳。おまえ昨日今日こっちに居たって?』
……うっ。
『今朝、電話入れたら留守電だし、ケータイも繋がらないし、メール飛ばしてもレス来ないし、まいっかと思って帰ってみたら、おふくろがおまえ来てたって言うから』
「あ、うん……ケータイ、家出る時に忘れちゃって」
『おまえんち行ったら、夕方近くまでいたって?綾子叔母さんに『どうせなら一緒に帰ってくれば良かったのに』なんて言われてさ。知らなかったってのも何だと思って誤魔化しといたけどな。『どうしたのいきなり』っての、そっくりそのままおまえに返すよ』
呆れている様子が、受話器越しにもありありと伝わって来る。
「ごめん、言おうと思ったんだけど、修論の後始末とか忙しいんじゃないかって、思って……」
言い訳でしかないような事を並べてみたら、
『何を今更、らしくない遠慮してるんだよ?』
やっぱり軽くいなされてしまった。
いつもだったら確かに、相手の都合がどうだろうが、とにかく実家に戻る時はお互い一言言ってから行くものね。相手の家への言伝てとか引き受ける事もあるし。
でも、何か今回は、電話もメールもしづらかったから。
……ああ、私やっぱり、どこかでこだわってるな、あの日の事。
「で、修論の方、どうだったの」
『ああ、一応補足の文章や資料も出来たんで、教授に提出して、それで暇が出来たから久々に帰ってもいいかなと思って』
「お疲れ様でした」
『いや、弓佳も、いろいろ有難うな。おふくろにもフォローしといてくれて、助かったよ』
「いえいえ」
美矢に改めてお礼を言われるなんて滅多にない事だから、何か可笑しくて笑いがこみあげて来る。
『あれはホント、苦労したもんな。卒論とは大違いで。資料集めるのに鹿児島やらあっちこっちの島やら、果ては沖縄まで足運んで』
……え?
「それって、もしかしてあれ?夏に、南国ナンパツアーだとかおちゃらけてた……」
そのまま二週間位帰って来なくて、ある日ひょっこり御土産持って、真っ黒に日焼けした顔見せに来たから『これだから学生さんっていい身分よねえ』って嫌味を言ってやった……。
『ん、そうそう。あちこち歩き回ったから頭の先からつま先まで真っ黒に焼けたよ、あの時は』
……リゾート焼け、じゃなかったんだ。
資料集めるのに、炎天下をあっちこっち歩いて。
遊び惚けるなら十分過ぎる二週間、だけどそういう事なら、おそらく一分でも惜しい位だったんだろうな。遠いから何度も足を運べる場所じゃないし。
ふと。
前にも不思議に思った事が、頭を掠めた。
「美矢、聞きたいんだけど」
『何?』
「あのね、貴方、学部学生の頃、瀬戸内の歴史やっていたでしょう?」
『ああ』
「『資料集めで楽が出来る』とかノーテンキな事言ってね」
『そんな事まで覚えてんのか』
電話の向こうで美矢が苦笑しているのが、判る。
「何でそれ続けなかったの?その方がもっと突っ込んだ事出来たんじゃないの?」
すると
『……だからだよ』
妙に真面目な一言が、返ってきた。
「だから、って?」
『突っ込みたくなかった……ひらたく言えば、突っ込むのが、怖くなった、ってとこだな』
「何、それ」
……よくわからない理屈。
『おふくろから聞いたけど、弓佳、うちの総系図見たって?』
いきなり話が妙な方向にそれて、私は、
「え、え、うん、ちょっと、興味あって。自分のルーツだし……」
へどもどしながら、答えた。
『俺もあれ、昔から略系図の方は何度か見てはいたけれど、研究絡みで三年の頃初めて総系図の方読んでみて……詳しく読み込んでいくうちに、怖くなったんだ』
「系図見て?」
……あ。
それって、もしかして。
『略の方は総領の名前と官職しか載っていないけれど、総図の方は家族構成や死んだ年とか、かなり詳しく書かれているだろう』
「うん、そうだね」
『学問としての歴史じゃなくて、あれ見てるとナマの『事実』ってのをひしひし感じるんだな。結構怖いものあるよ』
「……美矢と同じ名前の人なんかいたりして、それも早死にしてるものね」
げっ。
私ったら、よりによって何を言っているの!
と。
『ああ、うん……そう』
気のせいだろうか。
どことなく歯切れの悪いような反応が、返って来た。
『二十八代目の、太郎左衛門尉美矢……明応四年に二十四で討死しているんだよな』
すらりと出てくるのは、自分と同名の人の事だから?
『俺と同じ名前の奴が今の俺の年で死んだっていうのも、考えてみれば怖い話だよ、ほんと』
うん。
私もそれ、解る。今なら凄くよく、解る。
でも。
「ま、御先祖の事って何となく他人事じゃないから、学問としてやるのはきついかもね。それにどうせなら今まで全然タッチした事のない方向をやってみた方が面白いと言えば言えるし」
頷く代わりに、私は話の方向を変えていた。
『そういう事。おかげで奄美やら沖縄とかに足伸ばせて遊んで来れたんだから。じっつに楽しい研究テーマだったよ』
「……旅費と滞在費、太郎伯父さんに出してもらったんだよねえ?」
『ん?そうだけど?』
「今の発言、そのまんま絹子伯母さんに話していい?」
『却下』
いつものノリの軽口にいつものノリで応戦しながら。
美矢の口調に、話がそれてほっとしたというような響きを感じたのも、気のせいだろうか……?
その後は話がどんどん横にそれていって。
今日発送したクール便は明日は受け取れないからと、美矢が予め連絡して明後日の配達を指定すると言うので伝票番号を教えてやると
『色々ごめんな。修論でも世話になったし、お礼に何かご馳走したいと思うんだけど』
という有難くも殊勝な申し出があった。
美矢の奢りなんて滅多にない事なので、じゃ気が変わらないうちに、と来週末の夜を指定して
「何をご馳走してくれるのかな~楽しみだわぁ~!」
『言っておくけどフレンチフルコースとか期待するなよ。こっちはまだ学生なんだから』
というやり取りで会話を締め括った。
受話器を置いて。
そのままそこで、考えてしまった。
『怖くなったんだ』
それはきっと……私と同じ。
『俺と同じ名前の奴が今の俺の年で死んだって……』
二十八代目の総領・美矢。
その人の従姉妹の斎姫が、その人と同じ年に、同じ年齢で亡くなっていて、しかもそれが『弓』という名前らしい、と。
それを読み取った時の、私の心境、そのもの。
だから思わず、『美矢と同じ名前の人』の事を、口にしてしまった。
それは、美矢とは話題にするべきではないと……思っていた事。
だから何となく、あれ以上は突っ込みたくなかった。
これがもう少し前だったら、
『ねえ!それで、その美矢って人と同い年の、弓姫って従姉妹がいるでしょ!まんま私達じゃないの。どっちも二十四で早死にとか、勘弁して欲しいよねぇ』
って軽く話のネタにでもする所だったんだろうけど。
今は、何となく……出来ない。
そう言えば。
美矢と同じ名前の総領がいる、なんて言った時点で、いつもの美矢のノリだったら
『おまえと同じ名前の斎姫だっているだろうが』
って突っ込んできそうなものなのに。
あのあたりを読み込んでいるなら、間違いなく弓姫の事も判っているはずなのに。
美矢も、その事には触れなかった。
美矢と、私。
あの悲劇の伝説のふたりと何だか境遇が似ているって今更ながらに気付いて、頭の中がこんがらかって。
だから、伝説が伝説なのか、それとも本当にそんな事があったのか、判るものなら確かめてみたいと……軽い気持ちで系図を見た。
判ったのは、ナマの事実。
偶然にしても重過ぎる……事実。
同じ年に亡くなった総領と従妹の斎姫って、あのふたりしかいない。
初代からの総領と斎姫、全員の名前を根性で探して確認したけれど、他にはいなかった。
それがまさか同い年で、『美矢』と『弓』で、二十四歳で亡くなっている……なんて。
多分、それは唯の、偶然の一致。
美矢の名前も私の名前も、氏神様から頂いてきたものだ。
神主様が系図の事を知っていて、そういう悪ふざけをするとは思えない。
伝説の事まで頭が回らなかったとしても、片や討死、片や原因不明の若死にしている人達だ。
末永く命あれかしと願ってつける子どもの名前に、わざわざそういう人の名は選ばないだろう。
だから気にする必要はない……と、思う。
思う、けれど。
『結構怖いものあるよ』
本当にね、美矢。
おそらくは単なる偶然だからこそ。
だからこそ、怖い……事実だ。
電話機の留守電ボタンが点滅している事に、その時初めて気付いた。
そっと、ボタンを押す。
一瞬の間の後に、ピーッと音が鳴って。
『日曜の朝からいないって何なんだよ?まだ七時だぞ。あ、と、今日宮江へ帰る。急に決めたんだけど……んー、しょうがないなあ、また向こうから電話するから、じゃあな、遊び人』
伝言はそれひとつだけ。
もう一度再生ボタンに指を触れる。
ピーッ
『日曜の朝からいないって何なんだよ?』
ずっと聞き慣れた声の、半ば呆れているような響きが、耳に心地よい。
『じゃあな、遊び人』
「貴方に遊び人呼ばわりされるようじゃ世も末ね、この超・遊び人」
そう言い返して。
そこにいない美矢の代わりに電話機を、ちょん、とつついた。