五 真夜中の不埒者
§
起きたら、真夜中だった。
部屋の電気はつけっ放し、バッグは玄関先に放りっ放し。
大学卒業以来久々の完徹は、予想以上に身に堪えた。
日中はどうにか眠気を堪えて職務を全うしたものの、流石に残業までは無理で早々に退社して。
帰りの電車の中では、寝たら乗り過ごし必至だと敢えて席に座らず立ち続け、帰宅するなりコタツのスイッチを入れて潜り込んで。
……後は記憶がない。
もちろん服も着たまま。
全く、しょうがないなあ。
タイトスカートにくっきりついた深い皺に目が行った時、思わず苦い笑いが込み上げてきた。
シャワーを浴びて、髪を乾かして。
改めて寝直そうと、ベッドにもぐった。
だけど。
中途半端に眠って変な時間に起きてしまったせいか、今度はなかなか寝つかれない。
明日も仕事なんだから、早く寝なくちゃ。
何とか寝ようと努力して。
とにかく、努力して。
何度目かの寝返りの後。
私はついに諦めてベッドから出た。
「あ~やだあ、もうないわあ」
寝酒のつもりで出した軽めのフルーツワイン、気がついたら丸々一本、飲んでしまっていた。
「なぁんで、眠れないのお?」
思っている事がストレートに言葉に出るっていうのは、酔っているって事かなあ。
と、その時。
ピンポン ピンポン ピンポン……と、ドアチャイムが三回、軽やかに響いた。
……なぁに?
うっそでしょう、もう二時よ。
でも、この鳴らし方には心当たりがあるから、出るしかない。
立ち上がると、少し身体が揺れた。
あ~、酔ってるわ。
ふらふらとインタホンに取りつく。
「はあい」
『弓佳ぁ?』
……やっぱり美矢。
それも、声の調子からすると、酔ってるわ……かなり。
「待って、開けるから」
おぼつかない指使いでマンションエントランスのロックを解除する操作をして。
ふらつきながら、手早く着替えを済ませて、不意の来客を待つ。
ややあって、部屋用のインタホンのチャイムが鳴った。
「はいはい」
ドアを開けると、顔を上気させた美矢が、
「いよぉ!」
片手を上げながらふらふらと中へ入ってきた。
さっきの、訂正。
酔ってるわ……物凄く。
「何、弓佳もやってたのかあ?」
カウンターの上のワインのビンをめざとく認めたのか、美矢が物憂げな声で言った。
キッチンから覗いてみると、ベッドサイドに寄りかかって、とろんとした目でこっちを見ている。
「ん~ちょっと寝酒のつもりで開けて、飲んじゃった」
「寝酒って、これ一本全部かよぉ、すっげえ」
酔いざましにとジュースを持って居間へ戻る。
「人の事言えるの?相当飲んできたみたいじゃないの~この酔っ払い」
返す言葉がちょっと舌足らずになっている私。
「俺は酔ってない!今からその証拠を見せてやる!」
据わった目つきで私を睨んだ美矢が、差し出したコップを受け取って。
二、三秒で一気にジュースを飲み干すと、勢いよくコップをテーブルに置いた。
「おおっと凄い!さっすが~!」
どこが酔っていない証拠なのかさっぱり理解出来ないながら、何となく感心して拍手してやると
「ふふふ~んどうだ、偉いだろ~」
何故か解らないけれど美矢は胸を張ってうそぶいた。
……困ったねえ、酔っ払いはこれだから。
言っている事もやっている事も全く意味不明だ。
こいつに比べれば私はまだシラフに近い。何と言っても酔っているってちゃんと自覚しているんだから。一応理性は保っている。
「どこでそんなに飲んできたのよ……大体、何で今頃ここへ来る訳?」
こんなに、ぐてんぐてんになる位酔って、こんな時間にアポ無しで家に来るなんて、学生時代からこのかた一度もなかった事だけに、私は内心驚いていた。
「今日は彼女とゴージャスなデートとやらで祝杯を上げるんじゃなかったの?」
「それがさぁ」
ろれつの回らない口調で、それでも美矢はぺらぺらと話し始めた。
「行った先で彼女とすっごい喧嘩になっちまって、そのまま別れてむしゃくしゃしてたもんだから、友達ん所へ転がり込んでえ……ウイスキー一本カラにしてやった、ざま~みろ~!」
……なるほど。
どこに行ったのか知らないけれど、ゴージャスなデート先での喧嘩ってどうなんだろうとか、いきなり転がり込まれた友達はさぞかし迷惑だっただろうなとか、色々思う所はあったけれど
「そりゃ……凄いわ」
何ともコメントの仕様がなくて、取りあえずそう返した。
「だろ~!何だってんだよ、あんな女こっちから願い下げだぁ!」
怪気炎を上げる美矢の側に寄って
「何、馬鹿な事言ってるのよ。まあとにかく落ち着きなさいって」
なだめるつもりで軽く頭を撫でると、
「俺には女なんていくらだって……」
いきなりその手を掴まれて。
一瞬の後、私は美矢の体重をもろに受けて、床に仰向けに倒れていた。
……息が出来ない。
状況を把握するのに、五秒はかかった。
唇を塞いでいるのは――唇?
何?
何これどういう事?
両手を押さえられて、身動きが取れない。
息苦しさに堪えかねて微かに顔を逸らすと……外れた顔が首筋に埋められた。
「弓佳……」
耳元で美矢が囁く。
「弓佳……っ……」
何か言おうとしたものの、声にならない。
子どもの頃のとっくみ合いのようで……だけど、明らかに、違う。
「……美……っ」
やっと出た声が……首筋に唇をつけられた刹那、掠れて途切れた。
右の胸に掌の温みを覚えた、刹那。
(……や……!)
自分がどういう状況にあるのか、はっきりわかった。
押さえられていた右手は自由になっている。
美矢の身体を押しのけようとすれば、出来ない事じゃない。
でも。
そうする気に、なれない。
このままじゃまずい。絶対、まずい。
焦る一方で
――どうとでもなればいい。
そう思う、私がいる。
シャツ越しに胸の膨らみを捉えた指が、ゆっくり動いて。
理性がふわりと、飛んでいきそうになる。
ああ、もう。
どうとでも、なればいい。どうなってもいい。
美矢なら、いい。
美矢なら……。
気がついたら。
美矢は私の耳元で、すやすやと寝息を立てていた。
起こさないように、そっと身をすさらせて。
ベッドの上からクッションを取って、横向きの美矢の頬の下に差し入れてやった。
クローゼットから客用の毛布を出してきて、うつ伏せに横たわった身体に掛ける。
酔いなんか、すっかりどこかへ吹っ飛んでいた。
何だったの、今のは。
……暴行未遂と言うには、結果が呆気なさ過ぎて。
キスされて、胸触られただけだから、セクハラってレベルかな。
……でも。
何故か、腹は立ってこなかった。
腹が立つより何より、とにかく不思議で。
何故、美矢がいきなりあんな事をしたのか。
あまりに酔っ払っていて気力が持続しなかったのか、途中で寝入ってしまって、おかげで事なきを得たのだけれど。
それより何より不思議な事。
それは、私自身の気持ち、だった。
あんな事をされても、こんな風にあれこれと状況を分析している自分の冷静さもさる事ながら。
――どうとでも、なればいい。美矢なら、いい。
何故私、あんな風に思ったんだろう?
もしも、美矢が寝入ってしまわなかったら。
そしたら私達……どうなっていたんだろう……?
美矢の平和そうな寝顔を見ながら、私はしばらくぼんやりと、考えていた。
§
「ごめんっっ!」
起きがけの美矢の第一声は、それだった。
「酔っ払って見境なくしてここへ押し掛けてきちまった……らしい。本当に、悪かった!」
「いいわよそんなの。大体、私も寝酒で酔っていたから、気が付いたら貴方がいたってな感じだし。いつ来たんだか、いつ寝たんだかも覚えてないんだよね」
床にはいつくばって土下座したままの美矢の前に
「そんな事より、ご飯でいい?一応パンもあるけど」
ご飯と味噌汁のお椀を並べて、私は言った。
恐る恐る、といった風にゆっくり頭を上げた美矢は、
「おっ、味噌汁!……とってもサンクス」
妙な謝辞と共に、箸を取った。
「よく眠れた?」
「ん、お陰様で」
そお、良かったねぇ。
言葉にすると、何か嫌味ったらしく響きそうなので、心の中でそう返事する。
私はあれから一睡もしていないんだ。
「弓佳って……毎朝こんなきっちり朝メシ作ってんのか」
箸を動かしながら、感に堪えたように美矢が言った。
「まあ、ね」
短く返しながら美矢の斜め横に座って、ご飯茶碗と箸を手に取る。
真っ赤な大嘘は、簡潔な方がいい。
いつもはパンとコーヒーか、卵かけごはんで済ませているけれどね。
「ご飯と味噌汁と……焼き魚と、煮っころがしと、酢の物……凄いな」
でしょ。
一睡もしてないから出来る荒技よ。
……なんて、言うわけにもいかないから、私はただ黙って箸を動かした。
「うまい!おかわりっ!」
一気に味噌汁を飲み干したらしい美矢が、空の御椀を目の前に突き出してきた。
「あーはいはいはい」
ご飯茶碗を置いて、味噌汁をよそう。
「弓佳、綾子叔母さんに料理習ったのか?」
「うん」
「そっか、だからか」
ひとりでうんうん頷いている美矢に、
「何その『だからか』って」
御椀を渡しながら、私は尋ねた。
「ん、うひのおふふほほ」
「ちゃんと飲んでからしゃべってよ、日本語で」
味噌汁をずずずっと吸いながら訳の分からない事を言う美矢をたしなめると、美矢はごっくんとひとつ喉を鳴らして、ひと息つき
「うちのおふくろと、同じ味がする、って」
そう言って、笑った。
「絹子伯母さんと?」
「そう」
「そうなの?私全然気がつかなかったけど」
「そんな不思議な話でもないだろ?おふくろと叔母さんが一緒に、堀之内のばば様にでも料理を教わったとすれば、当然の結果じゃないか?」
「まあ、そりゃ、そうだけど」
母方の実家が宮江島の堀之内という場所にある事から、私も美矢も幼い頃から母方祖父母を『堀之内のじじ様・ばば様』と呼んでいる。
宮江島の半数以上の人は『宮江』姓で、同姓同名なんてのもざらだったりして、ややこしいから皆、『堀之内』とか『御浜』とか『御土居』という、家のある場所の古くからの地名に名前をつけて呼び合っている。
私の家は神社へ続く石段の上り口の近くで宮前と呼ばれているから、私は『宮前のゆんちゃん』。
美矢はちょっと厄介で、本家の男の子は生まれた順に『太郎さん』『次郎さん』と周りから呼ばれるのが習わしだから、通称は『本家の太郎君』。美矢と呼ぶのは近い身内だけ。
ちなみに美矢のお父さん――私の伯父は『本家の太郎さん』。ややこしいわね。
「弓佳が綾子叔母さんから習って、綾子叔母さんとおふくろがばば様から習って……ばば様がひいばあちゃんから習ったとかだったら、これってもしかして代々、母系で継承されてきた秘伝の味って事なのかな」
味噌汁に、今度は少しずつ味わうように口をつけながら、美矢が神妙な顔で頷いている。
「なあに?その、如何にも日本史的な見解」
たかが味噌汁に何を小難しい事を言っているんだ、と軽く揶揄する口調で聞くと
「もっと単純に言ってやろうか?」
破顔一笑で。
「これぞおふくろの味!って、事さ」
――このやろう。
私は口元に笑みを浮かべながら、心の中で呟いていた。
美矢、貴方もしかして、解ってるの?
私がその笑顔に弱い、って事。
どんなとんでもない事でも、その屈託のない笑い顔ひとつで許せてしまう、って事。
解っていてやっているんだったら、冗談じゃない。どうしてくれようか。
解っていてやっているんだったら……。
それでもやっぱり、許してしまうのかな、私――。
「じゃ、ほんとに悪かった!メシごちそうさん!」
そう言って、笑顔がドアの向こうに消えた時。
私の顔から、すうっと笑みが引いた。
洗い桶に浸けた食器を急いで洗って。
出勤のための身支度を整えながら、つらつらと考えた。
美矢は、従兄だ。
物心がついた頃から、当たり前のように傍に居た。何時でも、一緒だった。
幼稚園から小・中学校とずっと同じクラス、進学した高校も同じ。大学も学部までは同じ。
あんまり身近にいたせいか、二つ下の実の弟の美道よりも仲が良くて、お互いをよく知っていて。
まるで双子の兄妹みたいだと、周りによく言われていた。
男だとか、女だとか、関係ない所で繋がっていると、思っていた。
いや、そもそもそんな事、改めて考えた事もなかった。
美道が『弟』以外の何者でもないのと同じ理屈で……。
――いや、違う。
心の中で、何かがはじけた。
違う。
美矢は『従兄』以外の何者でもない訳じゃ、ない。
まして『兄妹』なんかじゃ、ない。
『兄妹みたい』って言われたけれど、『兄妹』ではない。全然違う。
……じゃあ、何?
私にとって、美矢って、何?
決して結婚が許されない、従兄。
一族の『一の姫』として、斎姫として護るべき、将来の総領。
――それって……まるで。
ずっと前から知っていたのに、今まであまり深く考えた事がない事実に、思い至って。
思わず息を呑んだ。
相思うことを、決して許されぬ立場で。
討死した総領と、その後を追って海に入った、従妹の斎姫。
まるで……あの伝説のふたりと、同じ――。




