三 修羅場
§
「どこまで出来た?」
ドアを開けるなり、開口一番の科白が、それですか。
木曜日、午後二時。
大きなスポーツバッグを肩から下げた美矢を玄関に迎え入れて、ドアを施錠しながら。
「あのね、ひとに物頼んでるんだったら、もうちょっと他に言う事あるでしょ?」
背中越しに、私は失礼極まりない従兄をたしなめた。
「他に言う事って?」
気にも留めない風で、靴を脱いで上がる美矢。
「今日はお世話になります、とか」
「今日はお世話になります」
「大変な事をお願いして申し訳ありませんお姉様、とか」
「大変な事をお願いして申し訳ありません」
こちらに背中を向けたままの、抑揚のないおうむ返しの、全く気持ちが伴っていない事丸わかりの不毛なリアクションに
「『お姉様』、は?」
それでも更に注文をつけてみる私。
「だって弓佳、俺より誕生日、後だろ?嘘は言いたくないからな」
「……私より先に生まれたにしては随分と世話を掛けて下さいます事、『お兄様』」
思いっ切り嫌味ったらしく言ってやったその言葉に、美矢は振り返って、にっと笑いながら
「で、『お兄様』が頼んだ分、どこまで出来た?」
……誰かこいつの厚顔無恥っぷりを何とかして欲しい。
内心、歯噛みしながら
「……昨日預かった分まで全部、入力済んでるわよ」
本当は物凄く言いたくなかった事を、私は口にしていた。
美矢の顔がぱっと輝く。
「ホントか!助かった~ありがとゆんちゃん!恩に着る!」
……ひとの苦労も知らないで。
こう、手放しで喜ばせるのがしゃくだから、全部入力済だって言いたくなかったのに。
子どもみたいに無邪気な、満面の笑顔。
全く……美矢には、負けるわ。
追加分の草稿十数枚を受け取って、パソコンのスイッチを入れる。
ここから十数時間が、正念場だ。
タイムリミットは明朝六時三十分。平日出勤日の私の起床時間。
明日は仕事を休む訳にはいかない。徹夜だろうが何だろうが這ってでも出勤しなくちゃならない。
最低限そこまでに、入力したものをプリントアウトするだけの状態にしたい。
出来れば原稿用紙への全文プリントアウトまで終わらせたい所だけれど、何分、先が読めないからね。
美矢が来る前の入力作業中にしていた鉢巻きを手に取って、再びきりっと額に締める。
これは、受験勉強や資格試験とかのここぞという勝負時に、必ずやっている事。
子どもの頃に堀之内のじじ様……母方祖父に
『鉢巻きを締めると不思議と気合いが入るぞ?嘘だと思ったら宿題をやる時にやってみろ』
そう言われて実際にやってみたら、確かにそんな気がして、以来すっかりクセになっている。
……ふと、振り返ると。
コタツの前に陣取って、周囲に広げまくった資料やら原稿用紙やらの山に囲まれて、美矢が『合格』と大書された鉢巻きを額に巻いているのが、目に入った。
私の視線に気付いたのか、ふっと目を上げて。
「……堀之内直伝、キター!」
「合格って何よ合格って!」
互いに相手の頭を指さしながら、大笑いした。
とりあえずウエルカムコーヒーを――歓迎って状況でも心境でもないけれど――とキッチンに立って。
「その鉢巻き、受験の時の?」
前に卒論を手伝った時は無地の鉢巻きだったな……と思い出しながらカウンター越しに聞くと
「ん~?大学受験の頃のかな。ずっとしまってあったんだけど前のやつがボロボロになったから
これ使う事にした」
「亜希?奈美?」
「はあ?何だそりゃ」
資料を並べて執筆環境を整えていた美矢が、目を丸くしてこちらを振り返る。
「あ、どっちも高一で終わってたっけ?じゃあ、雛乃?」
「だから何で女の名前!」
「いやだって、それ手縫いじゃない?誰かが心を込めてひと針ひと針縫いましたって一目瞭然なんだけれど?」
私の指摘に、美矢はぐっと返答に詰まった。
「ヒナちゃんはミシン持ってたから手では縫わないか……あ、でも気持ちを込めるならやっぱり手縫いかなあ?ん~琴葉は確かミシンないから手で縫うしかないし、麻帆は……」
「いい加減女から離れろってば!大体何でそんなに詳しいんだよ!」
高校時代の美矢の歴代の彼女の名を次々と繰り出す私を遮るように、美矢が叫んだ。
「あ?だって女子全員、家庭科の授業一緒だったから。ミシンあるかないか位」
「そこじゃなくて!何でそこまで俺のプライベートを知ってる!」
「……何で?」
コーヒーを入れながら、私は本気で首を傾げた。
「何でって、それ私に聞く?幼稚園から大学までずっと貴方と一緒の、この私に?」
「……」
何を今更、という私の内心の呟きを、言葉の響きに読み取ったのか。
美矢は唇を噛んで押し黙り、ぷいっと私に背を向けて、作業の続きを始めた。
美矢の女性遍歴は凄まじい。
幼稚園の頃のままごとみたいな初恋はともかくとして、実際に彼女として付き合った子の数は、小学校から高校に至るまででも両手の指では収まらない。両足の分を足せばなんとかギリギリ。
流石に大学に入ってからは、学部まで同じとは言え行動パターンが重なる事の方が少なくなったから、詳しい事情は知らないけれど。
共通の知り合い数人に聞いた所では、結構な遊び人だって噂になっているらしいのよね、美矢って。学部学生の頃から、今も。
「そう言えば今カノって確か、ウチの大学のOGだよね?西洋史専攻、だったっけ?」
「そんな事まで知ってんのか!」
資料から離れた場所にコーヒーを置きながらのツッコミに、美矢が目を剥いて反応した。
「驚くのは結構だけどコーヒーこぼさないでね?西洋史だった友達から聞いたのよ。なあに?四つだか五つ年上の、かなり綺麗なひとだって?」
正真正銘の『お姉様』ね、と呟きながら、にやりと笑ってやった。と。
「……そう。お姉様だもんでね、明日修論を提出した後でゴージャスな祝杯デート計画してくれてるらしいんだ。嬉しいねえ」
言われっぱなしで口惜しくなったのか。
美矢はふふん、といった顔で、そううそぶいた。
「あらそお?じゃあ何が何でも明日の提出、間に合わせなくちゃね。間に合わなかったらものすごぉく恥ずかしいわよねぇ」
「……」
またしても押し黙った美矢の頬を、横からちょこん、とつついて。
「何か私に言う事ないのかしら?ねぇ美矢君?」
と、美矢はコタツから出て私の方に向き直り、居住まいを正して、その場に手を突いて頭を下げ
「御協力の程、何卒よろしくお願い申し上げます……『お姉様』」
……勝った。
§
冬の陽は短い。
室内を染めていた、夕陽のオレンジ色の光が薄れる前に室内灯を点けて、それを区切りに簡単な夕食をふたりで摂った。
美矢は高校時代の早弁さながらの猛スピードで食事をたいらげ、ごちそうさまだけはそれでもきちんと言って、またコタツの上の草稿に向かい始めた。
少し、表情に焦りの色が見える。
私が今まで入力した分だけで、もう少しで原稿用紙百枚分に届こうか、という所なんだけれど、美矢の様子からするとまだまだ先は長そうだ。
静かな室内に、パソコンのキーを打つ音と、鉛筆を走らせる音だけが延々と響く。
十一時を回ったあたりから、微妙に眠気を覚え始めた。
まずい、ここで寝る訳にはいかない。
美矢も時折意識が飛ぶのか、顔を俯けたままこくりこくりと舟を漕いでいる事があり、気付く度に声を掛けて起こしてやった。
十二時を過ぎると、そうやって起こす回数が増えた。
いっそ一時間だけでも潔く眠ったらどうか、起こしてあげるから、と提案したんだけれど、まだメドがつかないからそんなに寝られない、と美矢は首を横に振った。
キーボードを打つ音に唱和していた微かな鉛筆の音が、また途絶えている事に気付いて。
手を止めて振り向くと……美矢がコタツに肩まで潜って、転がっていた。
席を立って、肩を揺らして。
「美矢、寝ちゃまずいんでしょ、起きて!」
促すと、美矢はうにゃうにゃ言いながら
「悪い……五分だけでいいから、寝かせて……」
辛うじて聞き取れる科白をそれだけ残して、また寝息を立てはじめた。
……どうしよう。
後どの位あるのか見当がつかないだけに、ほんの僅かでも寝る余裕なんかあるのかどうか、私には判断のしようがない。
ふと。
横になっている美矢の周りにいくつかに分けて置いてある原稿用紙の束に、目が行った。
草稿をまとめるための下書きなのかな、と思って、ざっと目を通す、と。
読みづらい字クセは変わっていない、けれど、一応読めない事はない程度の字で書かれている。
おそらく、美矢としては最大限に気を遣って丁寧に書いたものだろう。
きちんと章立てがされていて、箇条書き等で文章が整然と並んでいて、マス囲みの下にナンバリングがされている。
……もしかしてこれ、清書のつもりで書いた、原稿?
今目を通している分は、ナンバーからして中間あたりのもの。
だけど内容には見覚えがあった。
『オナリ神とは、オナリセヂという固有のセヂの保有者であり』
冒頭に近い分の草稿として、前に渡されたものにあったのと、同じ文章。
そして。
読み進んでいくと、途中で赤ペンで消された部分や横に文章が書き足されている原稿が何枚もあった。文章を数行大きく赤ペンで囲んだ上に『○ページ○行目に挿入追加』と書かれている所も少なくない。
何となく……おぼろげながら、事情が見えてきた。
美矢は、私に入力作業を頼むよりも前に、手書きで清書まで終えていたんだ、多分。
それがこの原稿用紙の束。
だけど恐らくその後に何か問題が生じて、構成を根本的に組み直さなければならなくなった。
それが一週間前だとすれば。いや、十日あったとしても。
この原稿用紙の量の本文を、構成を変更しながら清書していたら、締切に間に合わなくなる危険性が高い。
最初に私が草稿と一緒に受け取った、あってないような量のワード文書は、手書きでなくワード入力しながら構成を変えた方が効率的だと思って作ってみたものだろう。
でも、美矢はパソコン入力が苦手だから、却って時間がかかるだけだったのかもしれない。
そもそも入力に慣れていたら、草稿の段階でテキスト文書にしているはず。その方が、途中で章立てや構成を変えるのも原稿用紙の文書形式に直して印刷するのも自由自在だから。
ぎりぎりまで自分で出来る限りの努力をして。
……そして日曜日に、最後の手段として私に泣きついたんだ、美矢は。
構成を変更しながら草稿を書き殴っても、横でそれを読み取って手早く入力出来る、私に。
ナンバリングの順番を追って、ざっと原稿に目を通してみた。
追加されている文章を含めた全体の文字数を概算して、既に入力済の分の文字数をそこから引いたら……普通の速さで打ってもあと二時間もあれば十分入力出来る分量だと、予測がついた。
後は、美矢がどれだけの速さで草稿を仕上げられるか、だ。
時計を見たら二時十分。
起こしてくれと言われた時間から、更に五分が経過していた。
私が何のアクションも起こさないからか、美矢は子どもの頃と変わらない無邪気な寝顔を天井に向けてすやすやと寝入っている。
――美矢。
あと十五分だけ余分に、眠らせてあげる。
美矢が途中で起こされて起きられるリミットタイムは寝入ってから三十分。それを超えたらまず、朝まで目が覚める事はない。
家が火事になろうが地震が起きようが、絶対に気が付かないだろうって位、熟睡モードに入ってしまう。子どもの頃からずっとそうだ。
だから。
クローゼットから手早く着替えを出して、洗面所に駆け込んで。
給湯パネルの時計を気にしながらシャワーを浴びた。浴びながらこの後の段取りを考えた。
シャンプーは今日は省略。乾かしている暇はなさそうだし、後の事を考えたら確実に風邪を引きそうだから。
五分そこそこで上がって、フリース生地のトップと裏起毛のパンツに着替える。
厚手の靴下を履いて、腰に使い捨てカイロを張って、愛用の赤い綿入れ半纏を羽織って、防寒対策は完璧だ。
朝食の準備は昼間のうちに整えておいた。五分もあれば食べられるようにしてあるから大丈夫。
明日、美矢を送り出したらすぐに出勤出来るよう、着ていく服や持ち物を全て整えて。
これで、明日の朝はギリギリまで作業に集中出来る。
そして、十五分が経過した。
エアコンを切って。
コタツのスイッチも切って、テーブル板を外して、コタツ布団を剥がして板を戻す。
換気を兼ねて窓を開けて網戸にして……そして。
「はいリミットっ!美矢、起きて!続き書くのよ続き!」
耳元で私が言うのと
「さ、寒いぃぃっ!」
叫びながら美矢が飛び起きるのとが、ほぼ同時だった。
「なな何でコタツ布団が消えてるんだよ!ってかエアコンは!まま、窓閉めろよっ!」
相当寒さが堪えるのか、美矢の抗議の声が震えている。
「俺を凍死させる気かっ!」
「んな訳ないでしょ。起きたんなら窓は閉めるから。はいこれ使って」
使い捨てカイロと、クローゼットの奥から引っ張り出しておいた真新しい紺の半纏を美矢に渡して、私は窓を閉めた。
「……何これ」
「あれ?覚えてない?学生の頃に絹子伯母さんがこれとお揃いで送ってくれたやつ」
私は自分が着ている半纏を示した。
「冬に勉強する時寒いだろうからって。今でも結構重宝してるのよ?貴方、ダサくて着れない、要らないって言ってたから、私のが駄目になったら使おうと思ってずっとしまっておいたの」
折角の親心なのに罰当たりね、と呟くと
「いやこんなのどうでもいいから、コタツ!それからエアコン!」
そう言いながらも寒さに耐え切れないのか、美矢は使い捨てカイロの封を切り、『どうでもいい』
はずの半纏を羽織っていた。
「しばらくコタツもエアコンもなしね。でないと貴方、また寝ちゃうでしょ」
「マジかよぉ!」
「私もあんまり暖かいと睡魔様が降臨しそうだし。まあ、時々エアコンはつけるから。早く続きを始めましょ?」
……流石にここで私に寝られては元も子もないと悟ったのか。
物凄く恨めしそうな目で私を見ていた美矢は、それでもそれ以上は何も言わず、布団がなくなったコタツに向かって、再びリポート用紙に鉛筆を走らせ始めた。
それを見届けてから、私も机の方を向いて、入力作業を再開した。