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二 護り神

                     §


 ……うーん。

相変わらず、凄い字だ。


 リポート用紙を一枚手に取って、まじまじと眺める。

縦書きだったら草書体、というところだろうか。

こんなものを全文正確に入力するなんて、並の人間にはまず無理だ。

『これでもまだ余裕を持って書いた分だからなあ』

美矢はそう言っていた。

という事はおそらく、美矢が草稿を書く横で、書き上がった分を片っ端から私が入力する時には……もっと凄い字になるのよね。


 さっき美矢から受け取った数枚のリポート用紙を前に、私はちいさく溜息をついた。


 とりあえず出来ている分だけでも入力する事にして、オープンカフェから出た後、私は美矢の下宿に立ち寄って修士論文の草稿数枚とUSBメモリを預かってきた。

メモリに少しだけ、美矢が自分で打った分が入っていると聞いてほんの少し期待したけれど、冒頭序文の二、三枚程度しかないとの事。あってないようなものだ。

まあつまり、私が全部イチから打つしかない訳ね。

家に帰って、早速取りかかってみたものの、一枚目からして既に作業は難航の模様を呈している。

何しろこれが、凄いクセ字なんだもの。

美矢のお母さん、つまり私の伯母が、

『うちのよっちゃんは字が下手で……』

ってしきりに嘆いていた幼い頃そのままに、美矢の字は大人になっても一向に改善される気配がない。

流石に私は、生まれた時からの付き合いで、小・中学校は文字通り『机を並べた』仲――宮江島の小・中学校は人数自体少ないから、同じ学年だったら九年間同じクラスになる――だから、何とか読めない事もないけれどね。


 最初、下書きが全然出来ていないとうそぶいて私を驚愕させた美矢だったけれど、その後で

『一応三割位は下書き出来ているから』

ときたので……何だ、私に是が非でも入力を引き受けさせるために大袈裟に言っただけなのか、とちょっと安心した。

……が、ほっとするのは早かった。

三割と言っても、最初から順を追って三割、という訳ではない。人にそのまま渡して入力してもらえそうな草稿が全体の三割位、という事なのだ。

つまり、草稿数枚の内容はバラバラ。一枚毎にまとまってはいるけれど、草稿同士の繋がりはないらしい。

その状態じゃ確かに『出来てない、全然』としか、言い様がないわね。

『とにかく中身はどうでもいいから字面だけベタ打ちしておいて欲しい。全部入力した後で前後関係は調整するから』

って、言われたけれど。


 そもそも読むだけでも大変なこれを、どうやってベタ打ちしろって言うんだ。


 字が解りにくい場合、それでも前後の内容から意味を推し測る事が出来れば、大抵の場合何とかなる。

卒論の時はほぼ章毎にまとまった草稿を渡されたから、大体の内容を説明されれば後は一々聞かなくてもどうにか読み取れた。

……そう、私、卒論も手伝ったんだよね、入力作業。

しかもあの時は、美矢と同じ学部だったから、締切日が同じ卒論を自分も抱えていて。

余裕を見て前々日に徹夜して仕上げて、締切日前日に提出して、さあ今日はゆっくり寝るぞ、と思った矢先に……今回みたいに、美矢に泣きつかれたんだった。


 今回の場合、あの時よりは時間的にまだ余裕があるけれど、条件はより過酷だ。

卒論の時よりも更に読みづらい、みみずがのたくったような字の草稿、しかも前後関係がバラバラ。そしてそれはまだ全体の三割程度で、この後の草稿はもっと解読困難になる事が予想される……のだから。

資料・史料の取りまとめの方は後輩をバイトに雇うって言っていたけれど、この作業だけはいくらお金を積んでも、引き受けて職務を完う出来る人はいない……と、思う。

それを何とかこなせるのは多分、私くらい。

そして美矢も、私がそれを自覚していて、だから絶対断らないって、確信しているからこそこんなむちゃくちゃな頼みごとをしてくるのよね。

……ま、しょうがないか。

総領を護るのは斎姫の役割だから。


 ふっとそう思った、次の瞬間。

我ながら自分の考えた事が可笑しくて、私はひとり、くすくす笑った。

総領と、斎姫、か……。



 どうにか慣れてくると、キーを打つ手も早くなってきた。

会社でも入力を急ぐ作業は私に回って来る事が多いって位、タッチタイピングはお手のもの。

問題はとにかく、美矢の文章を如何に迅速かつ正確に読めるか、という事だけ。それによって作業の進捗の度合が大幅に左右される。

もちろん、ただ解読してそのままベタ打ちしている訳ではない。

誤字・脱字は無論のこと、文章としてつじつまが合わない言い回しのミス位はチェックして直している。そこまで頼まれている訳ではないけれどささやかなおまけだ。

私は日本文学、美矢は日本史と、専攻が違うから流石に内容まではよく解らない。

草稿の前後が繋がっていないからはっきりしないけれど、それでもどうやら『南海の島々に関する歴史』らしいというのだけは、わかった。

沖縄……だけじゃない、広く周辺の小島や、鹿児島沿岸の『海に生きる人々』を取り上げているようだ。

何か、歴史というより、民俗学に近いような感じ?

草稿三枚、四百字詰め原稿用紙にして八枚分ぐらい打つあたりになると、そのくらいの事はおぼろ気ながら読み取れるようになっていた。


 海に生きる人々……ねえ。

故郷の島を思い出す。


 若者の大半は島を出るか近県の町に船で通勤している中、半農半漁で生計を立てているお年寄りが今なお多い宮江島。

遠い昔、水軍として近隣に名を馳せた頃から、海とは切っても切れない関係にあった宮江一族。


 そう言えば。

どうして美矢ってば、『南海』に生きる人々に、題材を取ったんだろう?

同じ事なら瀬戸内の、自分の御先祖の事にでも突っ込んだほうが面白そうな気がするのだけれど。

……確か、美矢自身が以前、そう言っていたんだった。

学部学生の頃は、ゼミに入る前から熱心に瀬戸内方面の歴史を研究していたのよね、美矢って。

『家の蔵の中に、いくらでも史料があるし。こういう時旧家の出ってトクだよな!』

ってほくほく顔で話してくれたのを、今でもはっきり覚えているのだけれど。

当然ゼミもその研究を続けられる所を選び、卒業論文はずばり『瀬戸内の水運』だったのに、何でそれを続けなかったのかしら?

いくら海繋がりとは言え、題材的には瀬戸内とは全く異なるし資料だって最初から集めなおしの調べなおしだ。

学部学生の頃の研究を発展させる方がはるかに楽だし、中身も濃くなりそうだと思うんだけど。

修士になったから、ここはひとつ、瀬戸内から外へ更に視野を広げたかったのかな?

『必殺遊び人』の異名を取る美矢だけれど、研究は一応大真面目に取り組んでいるみたいだし。



 『オナリ神とは、オナリセヂという固有のセヂの保有者であり、オナリセヂはオナリとして生まれたその時から……』

……ううっ。また出た。沖縄独特の言葉。


 方言って難しい。

いっそ英語とかフランス語みたいに、見た目にも文法的にも全然違う言語だったら、まだやりようもあるのだけれど、同じ日本語で違う言葉っていうのは、なかなかしんどい。

同じ言葉や、ちょっと似たような言い回しでも、地方によって意味が全く違ったりするのよね。

ある程度意味が解らないと、そもそも文章として合っているのか間違っているのかをチェック出来ない――何せ『解読』しなくちゃならないような草稿だからね――から、解らない言葉は解る範囲で調べながら入力作業を進めてきた。

こういう場合はインターネットの検索機能が物を言う。

専攻が全く違う私でも、図書館に行くまでもなく詳しい意味を調べる事が出来るのだから、便利なものだ。


 『セヂ』は、分かる。論文の中で説明がされていたから。

『物や人に憑いて霊能を発揮する霊力』とか何とか書いてあった。

『オナリ』と検索フォームに入力して、エンターキーを押す、と。

『おなり神』『オナリ神』『オナリ』の文字の羅列がぞろぞろと出てきた。

その中からいくつか、信頼が置けそうなものをチェックして、目を通してみる。


 オナリというのは姉妹の事。これに対して兄弟はエケリと言う。

琉球地方では、姉妹が兄弟に対して霊的に優越するという信仰が広く分布していて、兄弟を守護するとされる姉妹の霊威を『オナリ神』と称した、そうな。

なるほどね、納得。


 ……ふと、気が付いた。


 『姉妹が兄弟を霊的に護る』

それって、まるで。

まるで……宮江の『斎姫』の事、みたい。



 原則として『斎姫』は、総領の家の一の姫が任じた、という。

総領の姉妹から、総領の娘…つまり次期総領の姉妹へと、受け継がれてきたものだ。

『斎姫』というのは本来、自分の父または兄弟である『総領』の護りの姫、なのだ。

彼女達は、宮江一族の代表・総領家を守護する霊力を宿す身である事から、宮江一族そのものを護る斎巫女いつきみことしての役割をも課せられたのだろう。


 今の総領家――宮江の本家――には、子どもは美矢ひとりだけ。姉も妹もいない。

だから、私が『斎姫』になった。

もちろん今は『斎姫』なんて役職はない。昔『斎姫』が仕えたと言われている氏神様の神社には、今は神主様がいらっしゃる。

でも。

ひとつだけ、『斎姫』としての役割が、今の世にも残っている。


 その日。

たった一日、たった一度だけ、私は確かに『斎姫』に、なった。



                     §



 『よっちゃんの元服式で、弓佳が舞を舞うのよ』

母にそう聞かされたのは、十になったかならないかの頃だったと思う。


 元服式。

何とも古めかしいこの儀式は、宮江本家のみに今でも伝わるもので、長男、つまり次代の総領が満十五歳になる年の正月に行われる『成人式』である。

装束は直垂ひたたれ、それで『烏帽子親えぼしおや』というのが一族の成人男子から選ばれて、その人に昔の武士の被り物である烏帽子を乗せてもらうという、まことに古式ゆかしい儀式なのだ。

さらにこれにはおまけがつく。

式は宮江の氏神様を祀っている神社で行なわれるのだけれど、その神前で、これまた一族の女性がひとり選ばれて、舞を奉納するのである。

選抜の条件は、

『本家の娘、つまり元服する長男の姉妹か、いない場合は元服する長男に最も血が近い従姉妹等の女子のうちで最年長の者』

世が世なら『一の姫』、つまり斎姫にあたる女性ね。

昔、元服式で斎姫が舞を奉納した事にちなんでの事だそうだ。

それで、美矢の時はそれが私だったという訳。


 自分がいわゆる『一の姫』だって事は、その少し前に母方の祖母から聞かされていた。

それ以来、子ども心にも『私は宮江の一の姫なんだ』っていう、強い自負心を抱いていた。

『斎姫』なんて役職も言葉もとっくの昔になくなっているけれど、たった一日、美矢の元服式の時だけ昔の『斎姫』さながらに舞を舞う……それを、誇らしくさえ思ったものだった。

母に言われたその日から、私はそれまで肩先で切り揃えていた髪を伸ばし始めた。

数えで十五になる正月まで、四年。

そして、その日が来た。


 腰に届く程に伸びた髪を首のところで束ねて後ろへ垂らし、前髪をそいで段をつけ、白の鉢巻を締め、白小袖の上に濃紅こきくれないの長袴を履き、千早ちはやという神事用の薄い装束を羽織って、肩から腕に長い領巾ひれを二枚掛け、檜扇ひおうぎを持つ。

『ああ、どこから見ても斎姫様だよ、弓佳』

支度の整った私の姿を見て、母方の祖母は涙を流して伏し拝まんばかりであった。

流石にあれには面食らったわね。

元服式の主役は私ではなくて、美矢だというのに。

その『主役』は、濃紺に錦糸で縫いとられた文様――丸に波形の一の字が入った宮江氏の紋――があちこちに散りばめられた直垂を身につけ、何と御丁寧にもポニーテール……じゃない、昔の人の『総髪そうはつ』を結った髪型で、私の前に現れた。


 『やっだー何それっ!どうやって結ったの?』

『付け毛だよ。母さんにやられた……クラスの奴等に見られたら何言われるか……くっそ~!』

『でも、そこまでやるってのは、やっぱり総領の家の元服だからよね。すごいね』

『……俺は、自前の毛でそういう髪型が出来るゆんちゃんの方が、すごいと思うけどな……』


 そんな風に憎まれ口をたたき合っていたのだけれど。

いざ式に臨むと、美矢の格好って妙にその場の雰囲気に映えてね。

何しろ古式ゆかしい『元服式』だから。

いつもに似合わず神妙な面持ちで烏帽子を頭に乗せてもらっている美矢に、思わず、

『よっちゃん、格好いい!イケてる!』

って掛け声をかけたくなった。もちろん言わなかったけれど。


 その後、美矢や両親、おじやおば達、父方母方の祖父母達、その他親戚一同居流れる場で、私は舞を舞った。

その日一日だけの、美矢の為だけの、『斎姫』。

長袴の捌き方も、巫女舞の振付けも、腰まで届く髪も。

全て、この日の為にずっと頑張って、準備して来たものだった。

ただ一度、『斎姫』としての役割を完うする為に。

それだけの為に。


 扇をひと振りする度に。

領巾がふわりと揺れる度に。

心の中で優しい言霊が、踊った。


 『私が、よっちゃんを、護ってあげる』


 あの時から。

私は宮江の、総領息子の『斎姫』だ。

『斎姫』としての表向きの役割はあの一日で終わったけれど。

私の意識の中では今でも、そういう事だ。


 ふと。

伝説の悲劇の姫を、思う。


 恋する相手の元服式で、はからずも斎姫の任を受ける事になった彼女。

めでたくも晴れがましいそれは、ふたりの想いを引き裂く別離の儀式でもあった。

彼女も、舞ったのだろうか。

檜扇を翻して。

領巾の端を宙に舞わせて。

その時彼女は、扇のひと振りにどんな思いを込めたのだろう。



――護ってあげる。


 私が、貴方を、護ってあげる。


 どこに居ても。

どんな時も。

一の姫だから。

斎姫だから。

そして何より……



 何より――



 何より――何?

何か、眩しい。

ああ、朝か……朝……


 「あさあ?」

慌てて身を起こす。

何と私は、草稿の上につっ伏して、何時の間にか寝てしまった……らしい!

「げっ!七時!」

急いで支度しないと、会社に遅れてしまう。

草稿を片づけて。

服を着替えて。

せっかく気持ちのいい夢を見ていたのに、余韻に浸る暇もないったら……。


 そう、夢……夢。

誰かが、誰かに、何か言っていた。

とても優しい、柔らかいフレーズで。


 何て、言っていたんだろう?

……思い出せない。


 でもゆっくり考えている暇なんかないのっ!急げ私!


 ついぼけっと思いに浸りかけてしまった自分を叱咤しながら、髪にささっと櫛を入れて、メイクもそこそこに。

テーブルの上にあったクロワッサンを袋ごとひっつかんで、私は部屋を飛び出した。


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