一 末裔たちの午後
§
「だーかーらぁ」
年末年始の慌ただしさが一段落ついた、日曜日の昼下がりのオープンカフェ。
コーヒーカップを手にしながら、私は何度目かの説明を繰り返していた。
「今週はすっごく忙しいの。だから週の真ん中の休日はとっても貴重なの。ゆっくりしたいの。そこんとこ、解るよね?」
「解る、けどそこを何とか」
「だーめ!社会人なんかあてにしないで、自分の修論くらい自分で何とかしなさい!」
誰が何と言っても、駄目なものは駄目。
私、宮江弓佳は、今度の木曜日に関わる一切の願い事に耳を貸さない事を、ここに誓う。
例えそれが仲良しの従兄の切実な願いであっても。
「ゆんちゃん冷たい……」
私の目の前でテーブルに両手をついたまま、上目遣いの恨めしげな顔で、彼はそう怨じた。
「……あのねえ」
全く。
祖先の霊も御照覧あれ。
これが当年とって二十四歳にもなる、宮江一族の直系の末裔の姿です。
末裔って言うよりこれじゃ『なれの果て』って言った方が正しいかも。
……今が戦国時代でなくて、本当に良かったと思う。
こんなのを総領に仰いだら、一族滅亡間違いなしよ。一の姫の私だって、責任取れないわ。
「美矢」
ため息まじりに私は言った。
「貴方には、プライドというものは、ないの?」
「何それ美味しい?」
……駄目だ、こりゃ。
私と美矢は同い年の従兄妹。
それも、父親同士・母親同士がそれぞれ兄弟・姉妹という、かなり血のつながりの濃い関係だ。
私達の一族――何とも古めかしい言い方ね、これ――は、代々瀬戸内の宮江島という小さな島に住み、鎌倉から室町・戦国時代の頃には、付近一帯の海を支配した程、権勢を誇っていたらしい。
今の世になっても、宮江島に住む人の六割程は宮江姓を持つ一族の人間で占められている。
私も美矢も、一族の直系の流れを汲んでいる。と言っても、美矢のお父さんが長男で私の父は次男だから、正確に言えば美矢の家が直系で、美矢はそのたった一人の総領息子。
そして私は、父方の祖父母から見れば女の初孫。
本家の美矢はひとりっ子で、姉も妹もいない。
つまり、我が一族風に言えば私は『一の姫』。
世が世ならば巫女として、一族の為に一生を神に捧げなければならない立場だった、という訳。
冗談じゃない。そんなの、やってられないわよ。
一族の存亡を賭けるなんて戦もなく、恋愛も結婚も自由な今の世に生まれて、本当に良かったとしみじみ思ってしまう。
誰とどうしようが文句は言われないもの。
伝説の悲劇の斎姫みたいな末路なんか、真っ平ごめんだ。
ただ、今の世の中においてもなお、ウチにはタブーが存在する。
流石に、一の姫が生涯独身を通さねばならないなんていう時代錯誤なものではないけれどね。
昔だったら、おそらくは何の差し障りにもならなかった事だ。
美矢の両親と私の両親は、父親同士・母親同士がそれぞれ兄弟・姉妹という間柄。
だから、私と美矢は絶対に結婚しては駄目、なんだと。
要するに、血が近いから遺伝上のリスクが高い、という、とても近代的なタブーなのだ。
……まあでも、そんな事、許されなくても全く不都合はないわね。
子どもの頃から親に、『よっちゃんとは結婚出来ないからね』と事あるごとに刷り込まれて育ったけれど、わざわざ言われなくても美矢と結婚なんて絶対有り得ないし、冗談でもお断りだ。
大学四年間でも遊び足りないなんてうそぶいて、本当にそういう理由でかどうか謎だけれど就職せずに大学院へ進学して、あちらこちらで浮き名を流して遊びまくる事、更に二年。
揚げ句、修士論文の提出締切ギリギリになって慌てて私に協力を乞いに来るというような、どうしようもない甲斐性なしなんだから、美矢って。
だーれがこんな奴、だわよ、ふん。
§
「弓佳、頼む!一生のお願い!この通り!」
「ちょ、こんな所で恥ずかしいからやめてよっ!」
席を立ってその場に土下座しようとする美矢を、私はどうにか押しとどめた。
「大体、締切までまだ一週間位?それだけあればまだ自力で何とかなるでしょ?」
「一週間ないよ。今日を入れても、あと六日足らず。金曜日の五時までに提出だから」
「六日あればワードの打ち込み位、楽勝じゃない。下書きが出来ていれば」
「出来てない」
憮然とした面持ちで、美矢はぼそりと呟いた。
「……はい?」
聞き間違いかと思って、私は美矢の顔をまじまじと見返した。
「だから出来てない、全然」
「出来てないって、全然……って……え?」
……嘘でしょ?
そう言いかけたものの。
美矢の真面目な表情がその答えを物語っている事に気付いて、私は口を噤んだ。
果たして美矢は、
「嘘じゃない、マジ」
すっぱり言い切って、コーヒーを一口すすった。
「マジ、って、貴方ねえ……」
呆れた。
今度という今度は、徹底的に呆れたわよ。
幼馴染に育って、幼稚園から大学まで一緒っていう長い付き合いだから、美矢のこういう所にはすっかり慣れっこになって、大抵の事には驚かなくなっていた私だけれど、でも。
すう、っとひとつ息を吸って。
「ったくどうするつもりなのよこのボケェ!」
「何もそんな怒鳴らなくても……」
「これが怒鳴らずにいられると思うの!」
皆まで言わせず私は決めつけた。
「下書きなしであと六日で、何が出来るってのよ!貴方留年する気なのっ?留年したら就職パァなのよパァ!そこんとこ解ってるの!」
美矢は地元ではなく、こちらの公務員試験を受けて合格して、この春からの就職先が決まっている。それなのに。
「自分の置かれている状況にもっと危機感持ちなさいよっ!」
「だから、頼んでいるんじゃないか」
私の見幕を意に介さない風で、美矢は静かに言った。
「一応三割位は下書き出来ているから、まずそれを先に打っておいてもらって、水曜日までに書き上げた分は水曜日の晩に渡すから木曜の昼までやってもらって……木曜の午後から俺が弓佳の家に行って残りを書いて、出来上がったものから弓佳がパソコンに入力する」
「……」
「おまえの入力の速さなら金曜の朝までには十分間に合うだろ?」
「……」
絶句。
ここまで人の都合を無視した計画って、あり?
私、金曜日に仕事あるんだけれど、木曜は徹夜しろって事?
よくもまあしれっと、そんなずうずうしい事をさらりと口に出来るものだわ。
そう思いつつも
「……そんな簡単に、書けるの?史料だっているし、文献からの引用とかもあるよね?」
二年前の卒論の苦労を思い出しながら、つい問うと、
「史料は殆ど揃っているけれど、追加分の読み込みとか間に合わない分はコピーの切り貼りで何とかする。それは後輩に頼んで一日で出来ると。本論はもう、頭の中ではきっちり出来ているから、後要るのは引用文献の名前と著者名と正確な文章と、それから迅速にワード入力してくれる手くらいなものさ」
自信たっぷりにそううそぶいた美矢は、手にしたコーヒーカップをテーブルに置きながら、
「だてに院まで行ってない」
と言い切った。
……何、この自信。
『だてに院まで』の一言もそうだけど。
それってつまり、私がワード入力を引き受けるのを、当然の事として予定に組んでいる訳でしょう?
「……確信犯」
ぼそりと呟いた言葉が届いたのか届かなかったのか、美矢は不思議そうに首を傾げた。
「何?」
「やってあげるって言ってんの!」
殆どやけくそで叫ぶと、
「っしゃ!有難うゆんちゃんっ!」
自信過剰な従兄殿は私の両手を取って、ぶんぶん振った。
憎らしい位、満面に笑みをたたえて。
……全く、もう。
美矢には、負けるわ。