表裏
なんて愚かな。なぜ侵す。私が、なにをしたと言うのか。ただ放っておいてくれれば良かったものを。
日本の北方、ブナを中心とした広大な森林が県を跨いで位置している。木々がそこかしこで青々とした葉を茂らせて、降り注ぐ日光をその身に受けようと背伸びをしている。それらは季節によって新緑に染まり、黄金色に輝き、雪の華を咲かせる。巨大な自然の塊とでもいうようなこの森は、静かな雰囲気のもと鎮座しているのだった。
しかし、市街地と人里を結ぶ一角にて静寂は崩れかけていた。警告色の重機がエンジン音とともに生暖かいガスを飽きることなく吐き出している。所々を土や水分を失いきった泥で汚し、その近くでは枯れた声を荒らげて忙しなくうごめく男たちの姿があった。
彼らが何かの指示を出すたびに重機のクレーンが鈍重に動き、木を固定する。備えつけられたチェーンソーが細かな刃を激しく揺らしてブナの木に深く傷をつけ、間もあけずに引きずり倒す。乾燥した破裂音を残して一本、また一本と、倒された木が砂埃を巻き上げて、辺りの空気に濁った色をつける。
その様子を少し離れた木々の間から一匹の鹿が覗いていた。全身の栗毛は木漏れ日を受けて綺麗な色を映し、四肢は細く見えてしなやかな筋肉を内包している。そして、何よりも特徴的なのは空を仰ぐ大樹のような角。頭頂部から生える幹から八本に枝分れし、それぞれがまっすぐに伸びている。立派な体躯も相まってどこか威厳を醸していた。鹿はその場から動くこともせずただ、じいっと人間の様子を見つめていた。
――また、ニンゲン共か。森を踏み荒らし、私たちの棲み家を奪っていく。何をしたいのかは分かりかねるが自分らの行為がいずれ跳ね返ってくるとも知らない愚かな者共。ああ、それにしても喧しい、喧しい。
寝床まで響く聞きなれぬ音を確かめに来たがまさかニンゲンだったとは。私はここに居ることに不愉快を感じ、森の奥へと戻っていった。
……奴らのせいで、ここの様子も変わってしまった。空気は汚れ、異物が紛れ込む。獣の姿など見ることもない。かつては、この広大な土地に溢れていたと言うのに、今ではめっきりと私の仲間も見なくなってしまった。
そうなってから、どれほど経ったか。こうして私だけでいると、昔を思い出すことが多くなってしまった。
――かつて、私は縄張り争いで負けを知ることはなかった。生まれ持ったこの体、そして角の大きさゆえ。自身でも立派に思うこの角は私の誇りであった。この角で他の雄を圧倒し、群れの頂点に立っていたのだ。種を植え、子も増やした。自分の縄張りを示す匂いはその広さを増すばかり。一時期は、この森の主になって変わったかと馬鹿げた錯覚を覚えもした。何もかもがうまくいっていたのに。壊れ始めたのは、ニンゲンが現れてからだろうか。
初めのころは見つかっても何をされることもなく、私たちの方を見てただ喚いているだけだった。時が経るにつれて奴らは決まって変わった形の枝を持って森をうろつくようになった。
そうなってからは、近付いてはいけないと感じさせる雰囲気がしていたが、産まれたばかりの子はニンゲンを見たことなどなかったのだ。好奇心のままニンゲンに近寄ってしまった。引き戻しに行く暇さえなくニンゲンの持つ枝が光って耳をつんざくような音が響いたと理解したときには子は動かぬものになってしまった。
それをきっかけに、何度も何度も何度も同じようなことが続いた。群れの子が先に消え、雌も少しずついなくなった。日が出てから沈むまで、寝床にいても、食物を探していても。奴らはどこにでも現れ、どこででも殺してくる。気が狂うほどに仲間を失い、いつのまにか、私だけとなっていた。
ニンゲンと光る枝。これらに怖じた私はより深い森の奥へ潜み、仲間にも会うことなく過ごした。安心して眠ることなどできず、森の間を縫って日が射す瞬間、視界いっぱいに光が広がったときは我を忘れてのたうちまわったこともあった。
――私たちが、何をしたというのだ。
そう思い、ただただ長いときを過ごした。
なぜ、おびえなければならないのだ……。
彼――鹿――が知らないその当時。日本各地のお茶の間ではマスコミが時事問題を国民に報せていた。生真面目に、まるで人のフリをしているロボットのようなアナウンサーが淡々と手前の用紙を読み上げる。
『……。次のニュースをお伝えします。日本北部に生息しているシカの一種が、絶滅寸前だという調査結果が出た模様です。レッドリストにも登録され、対策が自治体などで設けられる予定とのことです。なぜ急にこのような事態になってしまったのか、専門家の方にお尋ねしましょう……』
少し離れた席に座る禿頭の男がさも得意気に語りだした。「密猟」、「貴重な香料」、「土地柄」など簡単に述べてからこう言う。「私が思うにですね」それから専門的な用語を並べ立てて、べらべらと垂れ流す。テレビに映る人間たちは時折頷いて、さして興味のない話を受け流していた。禿頭はひとしきり話し終えるとしたり顔で乗り出した身を席に再び収めた。
それを見るどこかの家の主婦がさもすべてを理解したような口ぶりで「かわいそう」などと呟いた。
『……教授、ありがとうございました。それでは、次のニュースです。あの俳優に熱愛報道! ……』
ニュースの話題がゴシップに変わると、先ほどまでのことなど忘れてしまったようにテレビに齧りつくのだった。
こうして森の奥に潜むようになってから三度、角が生え変わった。ニンゲンと出くわすこともなく、孤独ではあったが比較的平穏に過ごせるようになった。だが最近、先程見た様に森を壊していくニンゲンが現れ始めた。あまりの騒音に寝床を変えようか、とも考えさせられる。
そんなことを思いながら奥地へ進んでいくと、ふとニンゲンが木の陰から見えたことに気が付いた。あの騒音に足音が掻き消されていたことを悟ったのはは少し経ってからであった。ニンゲンは大きな紙のようなものを持って背を向けている。
あまりに突然で、思わず脚が止まってしまう。思考が二巡、三巡したのちに逃げよう、と考えた。誇りであった角を振るうことは即座に棄却した。それほどまでに、私には強くニンゲンへの恐怖が染み付いてしまっていたのか。
その場を離れようとしたとき、目の前のニンゲンが振り向いた。四角い、小さな箱のようなものを首から提げていた。目が逢う直前、脚が動く。鬱蒼とした木々と茂みの中へと走り出す。広い視界の端で、何かが光った。体が硬直してしまいそうなのを抑えて、がむしゃらに逃げ出した。角がときたま辺りを擦り、低く伸びていた枝が体のあちこちに引っ掛かった。それでも、脚は動き続けた。
止まったのは日が沈んだことを知ったときだった。空が塗り潰されてからも、眠ることはできなかった。怯えて、耳をすませ、目玉を動かし続けることしかできなかった。
その一方でテレビが読み上げる。
『本日未明、三年前絶滅寸前と報じたシカの一種が東北の森林地帯で発見されました。道路工事をしている会社の作業員が写真に捉えたことで発覚した模様です。これを受けて、近隣の地方自治体、団体がこれからの方策を話し合う予定です――』
にわかに、世間が騒いだ。「保護しろ」「かわいそう」「すぐにやれ」などと目の前に提示された問題に目先の判断で意見を高らかに発する。抗議の電話をする者、投書をする者もでてきた。大勢の人間が一丸となって一匹の鹿に救いの手を差し延べようとしていた。
ニンゲンと出会ってしまった日からまともに眠れぬまま、幾度かの夜を迎えた。感覚を張り巡らしたまま、なけなしの食欲を満たす。すぐに寝床に戻り、脚を折って休息をとった。と言っても、ただ息を潜めてそこに居るだけだった。動き回る気力など湧きはしなかった。
明け方。遠くから、木の葉を踏みしめる音が耳に届いた。立ち上がる。同じ音がまた聞こえるのではないかと、体がこわばる。くしゃ、と地を踏みしめる音が聞こえた。複数。森の生物とは違う、軽くも強い足音。
――ニンゲン。
すぐにその場を離れた。足音のした反対の方向へ。昔の縄張り、過ごし慣れていた森の方へと針路をとる。背後の音が遠ざかっていくのを確かめながら、四本の足を連続させて動かす。木の葉を踏み砕き、地面を全力で蹴る。溜まった疲労からか、蹄がいやに重く感じる。泥の中を進んでいるようだ。目に入るブナの木は、表情を変えず流れ去っていく。さして変わらぬ景色ばかり続く。
だが、縄張りの長として君臨していたからこそわかる私の本能が行く道を指し示す。進む先に雑音が混じるが、気にしている暇はなかった。駆けるしかなかったのだ。
間もなく視界が、開けた。森は途切れていた。代わりに私の縄張りだった場所はいくつもの異質なもので埋め尽くされていた。あちこちに、明かりがついている。かつての棲み家を失ったショックより、どこに進めば良いのかという混乱が先だった。目の前の異質な場所に飛び込むか、どうか。
悩んでいる間に物陰から野太い声が聞こえた。『枝』を持ったンゲンがこちらを向いている。体が先に動いた。横に駆けて、茂みへと飛び込もうとするがそれよりも先に光が瞬いた。チク、とした痛みを感じても構わなかった。けれど、いつからか力が抜ける。いや、抜けているかどうかもわからない。ただ、意識が混濁としていくことだけが理解できた……。
雪をならしたような場所にいた。周りは鈍い色をして均一に伸びた棒に囲まれている。
眠りから覚めたような心地になる。同時に、強い光が目の前で破裂した。体は飛び退き、ぼんやりとした映像が急速に色を持ち始める。そこにはニンゲンが一杯にひしめいていた。それぞれ奇妙な形をした黒いものを手にしている。また光る。黒いものからだった。辺りの棒のせいで逃げ場がないがこの棒は幸いなことに細い。角で壊してやろうと頭を振るうがなんの手応えもない。角がなくなっている。まだ落ちる頃ではないはずなのに。光る、光る。痛みはないが、いつ殺されるかわからない。棒に体当りをするが、まるで木の胴にぶつかったみたいな感触だった。光る、光る、光る。それでも逃げ出したい一心でまたぶつかる。光る。ニンゲンがざわめきだした。光る。光る。光る。三度ぶつかると頭から脚の先までじんと痺れた。棒が私の血をほのかに浴びている。光る。ここはどこだろう、なぜ私はこんなところにいるのだろうか。森へ帰りたい、仲間に逢いたい。どうしてこんなところにいる? 私が何をしたというのだ、貴様らが勝手に森を荒らしていたのではないか、仲間を奪ったのではないか。帰せ、返せ。戻りたいのだ。
もう一度、体を打ち付ける。光る。ニンゲンがはっきりと騒ぎ出したのが聞こえた。意識が白む。
――ここから出してくれ……。
つたない文章ですが、読んでくださりありがとうございました。
題名である『表裏』は、鹿と人間の考え方が絶対に混じり合わない、という意味でつけました。
この意図が伝わるような文章にできなかったのが悔しいです。