野ばら(2)
涙の再会はそう長くは続かなかった。ろくに歓談も出来ない内に、伝令がコリムに会議の時間が近い事を知らせに来たのだ。
皇帝が乱心してから、領主に求められるものは目に見えて倍増し、時として皇帝から差し向けられる兵に対しての対応もそれに加わる。その多忙な中、何とか時間を工面しての対面だった。
コリムは去り難い顔を一瞬見せたものの(これも仕事第一のコリムにしては非常に珍しい表情だった)、すぐに意識を切り替える。
「申し訳ありません、殿下。積もる話はございますが、一度私は席を外させて頂きます」
あくまでも臣の態度を崩さずにコリムが告げると、ミルファはゆっくりと首を振った。
「謝る必要はありません。突然、先触れもなく来たわたくしに非があります」
その口調はやはり年齢の割りに大人びたものだったが、傍で聞いていたジュールには少し痛々しく聞こえた。
十二という幼さで親を失い、ここまでの道中はどれほど心細かっただろう。今まで帝宮という恵まれた場所で育ったのならなおさらだ。
本当ならばまだ親に甘えていても不思議ではない年頃なのに──。
そんな事を考えていると不意にコリムがジュールに目を向け、何事かと視線で問えば、コリムはミルファにジュールを紹介し始めた。
「私の末の息子のジュールと申します。恐れながら、血縁の上では殿下の叔父に当たります。私はこれにて失礼いたしますが、代わりにこれを残しますので……ジュール、いいな?」
突然話を振られて一瞬困惑したジュールだったが、すぐさま我に返り、自分の口からも挨拶を述べた。
「ジュールと申します。僭越ながら、父・コリムの代わりにお相手いたします」
そして一礼する。顔を上げると、ミルファは彼の顔をじっと見つめ、やがてその口元に笑みを浮かべた。
「……知っています。母から聞きました」
その言葉に、ドキリとする。母──つまりそれは、今は亡き南領妃サーマだ。一体、彼女から何を聞いたのだろう。
南領主コリムには息子が三人、娘が一人いた。上の兄二人は早くに亡くなった先妻の子で、サーマとジュールは後添えの子である。
兄二人は下の二人が物心つく頃には、それぞれ修行と称して地方官として旅立っており、何を思ったのかどちらもそのままそこで妻を娶り定住してしまった。
今でもろくに面識はなく、父であるコリムは領主の仕事で忙しく、ジュール達の母もジュールが三歳の時に病で亡くなった結果、ジュールにとってサーマは姉でありもっとも身近な家族だった。
……つまり、あまり思い出したくないような記憶も共有しているという事で。
思わず過去をいろいろと思い返したジュールは──おそらく聡明な姉がそんな事をするとは思えないが──サーマが変な事を話していない事を切に願った。
+ + +
数刻後──。
ミルファとジュールは領館の中庭に来ていた。南領に来るのも初めてなら、南の領館も初めてのミルファに中を簡単に案内したのだ。
あの父の様子なら、自分達を頼ってきたミルファを放り出すはずもないと思っての事だった。
また、まだ自身に子どころか妻もいないジュールにとって、ミルファ程の年齢の少女が好みそうな話題などわからなかった為でもある。
一通り歩き回り、中庭で一休みする事を提案すると、ミルファはそれを受け入れた。
庭の草花を愛でる為に設えられたベンチに腰掛けさせ、自分は立つ。いくら叔父と姪の関係でも、同じ席につく無礼は出来ない。
「お疲れではありませんか?」
よく考えるとボロボロの様子で辿り着いたのはつい先程の事だ。その事に思い至らなかった自分を反省しながら尋ねると、ミルファは『いいえ』と首を横に振った。
「ここまで来る間に、長く歩く事には慣れました」
「……」
あっさりとした物言いに、ジュールは胸を突かれた。
本来なら自ら南領までの道を踏破する必要などない身の上である。この幼く、華奢な身体で歩く事に慣れる程の道中はどれほどの苦労があっただろう。
その苦労を、当たり前の事のように口に出来るようになるには、相当な時間が必要になったはずだ。
──一年余り。
ミルファがここに辿り着くまでの時間を思い返し、ジュールはため息をついた。
「……叔父上?」
自分の言葉に表情を暗くしたジュールに、ミルファが案じるように声をかけて来る。
思えばそれはミルファが初めて自分を『叔父』と呼んだ瞬間だったが、その感動など感じるどころではなかった。
居たたまれない。
気がつくとジュールはその場に膝をついていた。視線の高さが合い、真正面からミルファの顔を見る事が出来る。
……その顔は、記憶に残る姉によく似ているのに、やはり何処か違った。
「お助け、します」
無意識にその言葉を口にしていた。
「必ず……、お守りいたしますから」
──あまりにも不憫だった。
皇女に対して哀れみの感情を持つなど、不敬に当たるのかもしれない。だが母を失い、さらに実の父から命を狙われるその身の上は、ジュールの感情を揺さぶるのに十分だった。
彼とて物心つくかつかないかの時分に母を失っている。だが、それでも彼には父も、兄も──姉もいた。
けれど、ミルファには。
その気持ちが通じたのか、ミルファはその大きな瞳を丸くして彼の顔を見つめた。姉と異なるエメラルドグリーンの瞳が揺れる。
一瞬泣くかと思ったが、ミルファは涙を零す事はなかった。代わりにその顔にぎこちない笑みを浮かべる。
「……お母さまの仰った通りだわ」
やがてぽつりと呟いた言葉は、今までの『皇女ミルファ』ではない、ただの十三歳の少女のものだった。その事を敢えて指摘はせず、ジュールは先を促す。
「姉が……、何か?」
「最大の理解者だと言っていました。同時に……、一番の味方だと」
「そうですか……」
あの姉が自分の事をそんな風に認識してくれていたとは思わず、ジュールは少し驚いた。
──思い返すのは、姉がこの南の地を去った日のこと。最後まで皇妃となる事を反対していた自分に、姉は言った。
『ジュール。祝福して欲しいとは言わないわ。でもいつか……、会いに来て。わたくしが選んだ道を、見定めに来て頂戴。わたくしは、不幸になどならない。絶対に後悔はしないわ。その姿を、見に来て頂戴』
……結局、その願いを果たす事が出来ないまま、姉は逝った。
今でも皇妃となった事を納得はしていない。姉も、本心では納得してなかったと信じている。
現領主の父を手助けし、南領をより良い場所に──そう願い、並々ならぬ努力をしていた人が、その権利を一方的に奪われて嘆かなかったはずがない。
けれど。
ミルファを見た時、ジュールは姉の言い残した言葉が嘘ではなかった事を知った。
かつて思い描いていた夢は、己の意志とは裏腹にその形を変えてしまったけれど。姉はきっと、幸せだったのだろう。
そうでなければ、ミルファの目がこんなにも真っ直ぐで澄んでいるはずがない。深い愛情を注がれ、受け止めて──そうして育った者でなければ。
だからこそ、ジュールもミルファを助けたいと思ったのだ。
「叔父上。わたくしは……いえ、私は父である皇帝に命を狙われています」
淡々と事実を口にするミルファの顔に、悲しみや恐れはない。だがその瞳は、一つの決意を伝えていた。
「私を匿えば、この南の地にも火の粉が降りかかるかもしれません。それでも、助けて下さるのですか?」
問いかける声。
それは縋るものではなく、純粋にこちらの意志を確かめようとするもの。
「──では逆にお尋ねしますが、その危険を知りながら、この南領へいらっしゃったのは何故です?」
「……」
「最初から、我々の協力を目的としたからでしょう?」
ずばりと言い放つと、ミルファは苦笑を浮かべた。
「──ええ、その通りです」
頷くと、ミルファはその手をすっと持ち上げた。
小さく傷だらけの痛々しい手に、思わず目を細めるジュールへ、ミルファは静かに内にある決意を口にした。
「私は、父に会いたい。でもそうするにはあまりにも、私は……私のこの手は無力です」
「……陛下に? ばかな……、それは自殺行為というものです。乱心なされてからというもの、陛下のなさりようは常軌を逸している」
「ええ、ばかげている事はわかっています。少なくとも、今の私にはどんなに頑張っても無理だという事は。でも──」
ぐっと、手を握り締める。
「力があれば……叶うかもしれません」
つまりそれは、この世界を統べる皇帝に牙を剥くということ。ミルファが何を望んで南領までやって来たかを知り、ジュールはぞくりと背筋が震える感覚を抱いた。
──畏怖、だった。
まだ年端もゆかない少女が抱く、そのあまりにも大きく無謀な望みに恐れを抱いたのだ。
皇帝に対する反逆の罪深さに対してではない。
もしそれが、ミルファが思い詰めた結果のものならそうは思わなかっただろう。単なる感傷に基づくものであったなら。だが、ミルファの目にあるのはそんなものではない。
為さなければならない──強い義務感と使命感がそこにあった。
「……──それは、罪です」
かろうじてそう答えると、ミルファはその顔に年に似合わない暗い表情を浮かべる。
「わかっています。『神』に準じる皇帝に対して剣を向けるなど、不敬にして不遜極まりない行為。……それでも、他に手がありますか?」
その為にミルファは南領へと来たのだ。皇帝に対抗できるだけの力を得る、その為に──。
「何故……、と聞いてもよろしいですか?」
僅かに掠れた声で尋ねると、ミルファはしばらく沈黙した後、表情のない顔でぽつりと答えた。
「……約束を、果たす為に」