野ばら(1)
そして──幼いその手は、自らを守る『棘』を手にした。
ミルファ十三歳、南領の生活篇。
ジュール視点で語られる、ミルファが南領へ辿り着いた頃の物語です。
その花は、その身に棘を持つ。
控えめなその花に似つかわしくない、鋭い棘。
花を手折ろうと手を伸ばす者を、その身一つで拒絶する。……触れる事も許さぬ、と。
その棘は身を守る為に。
その拒絶は何の為に──。
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その少女は、ある日突然、前触れもなくやって来た。
幼くも気高いその瞳の輝きは、汚れ、破れ、綻びたみすぼらしい姿でも損なわれておらず、同時に全てを拒絶していた。何者の前であろうと、屈しはしないと言わんばかりに。
虚勢──そう表現するには強い輝きだったが、おそらくその時はその意図が大きかったに違いない。
生意気というよりは、傲慢にも取られかねない態度で、その少女は門を守る衛兵へ臆する様子も見せずに言い放ったという。
「南領主、コリム・セザール・ジェファウトに面会を求めたい。──取次ぎを」
その言い分に、衛兵は対応に困り果てた。
肩よりも短いざんばらに乱れた髪と汚れた手足。ボロボロの衣服。痩せ細ったその身体を飾るものは何一つなく、付き従う者さえいない。
これを怪しいと言わずして、何と言えるだろう。
だが、彼等はその時その少女に確かに気圧されていた。親子どころか、孫と言っても差支えない少女にだ。圧倒されるその異様な存在感に、何者かと問われた少女はごく普通の口調で答えた。
「わたくしの名はミルファ・ライザ・カドゥリール。南領妃にして南領主の娘、サーマが娘。……祖父に会わせてもらいたい。取次ぎを……!」
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「──皇女殿下が、ですか?」
「そうだ。この私に会いたいとな。……ジュール、お前も立会いなさい。本物ならば会ってみたいだろう?」
「……」
現在、南の地を預かる父の半ば決め付けるような言葉に、ジュールは咄嗟に返事が出来なかった。
会ってみたいかと言われれば、確かに会いたいとは思う。何しろ、一年前に突然起こった現皇帝の乱心によって、この一年近く生死不明のままだった『姪』なのだ。
生きてこの地まで辿り着いたというのなら当然喜ばしい事だし、祖父に当たる父が心なしか嬉しさを隠せないもの仕方のない事だとは思う。
思う──が。ジュールは父程には素直には喜べなかった。
決して、姪に当たる第四皇女ミルファを快く思っていない訳ではない。
むしろその逆で、今まで直接顔を合わせる事こそなかったが、父の後を継いだ後に帝宮へ報告と挨拶をしに行く事を楽しみにしていた程度には、ミルファに対して好感情を抱いていた。
何しろ彼女の母──南領妃サーマは彼の実の姉にして、最も敬愛していた人なのだから。
そう、過去形だ。その突然の訃報に多くの人間が嘆き哀しんだ事はまだ記憶に新しい。サーマは南領の人々に非常に愛された人だった。
だが、同時にそれ故に困った事も起こっていた。
皇女ミルファの生死がわからなくなっていたこの一年ばかりの間に、ミルファの名を騙り、この領館へ押しかけてきた人間が何人も現れたのだ。
その多くが帝都からの流民であり、そうする事で寄る辺のない南領でより安全で豊かな生活を送れると見込んでのものだった。
何しろ皇女ともなると、生まれて何処かへ嫁ぐまで離宮からほとんど出る事なく育てられる。その顔を知る者は限られた者だけだ。
現領主のコリムは生まれて間もない頃に一度だけ、ジュールに至っては一度も会った事がない。だからこそ彼等はそんな思い切った事をしたのだろうが、そのどれもが偽者だと一発で見破られた。
……簡単な事だ。彼等は一つ大きな誤算をしていたのだ──南領の人間は帝宮や帝都に対して、ほとんど無関心だろうと。
だが他の地ならばさておき、この南領では帝都に無関心でいられる人間の方が少なかった。特に、娘を嫁がせた現南領主とその家族は──。
「……難しい顔をしているな、ジュール」
黙ったままの息子に視線を向け、コリムはおやおやと言わんばかりに眉を持ち上げる。
「また偽者かと疑っているのか?」
「はい。何しろもう、間もなく一年ですよ? その間、まったく消息が掴めなかったのです。生きていてくれたらとは思いますが……」
第一、この南領に向かったかすらも定かではないのだ。ここではない何処かで、潜伏している可能性だってある。
他の生き残った皇子・皇女はそれぞれの母の生地を頼ったという話ではあるが、ミルファは当時十二歳の子供である。そこまで考えが及んだかどうか、わかったものではない。
だが、コリムはそんなジュールに意味ありげに笑ってみせた。
「父上?」
「──報告をしに来た守衛がな、興味深い事を言っていたぞ」
その笑顔はサーマの訃報を聞いてからというもの、ほとんど見る事のなかった彼本来のもの。ジュールは驚き、思わずまじまじと父親の顔を見つめた。
「一体、何と?」
「『大変みすぼらしい形でしたが、顔立ちといい雰囲気といい──まるでサーマ様の子供時代を思い出させる様子でした』……とな。今年で六十になる男だが、その目には涙すらあったぞ」
「……」
「サーマを直接知る者がそう言う位だ。偽者という可能性は低いと思う。かといって、期待しすぎるつもりはないがな」
そう言いながらも、コリムの足取りは少しずつ早くなっている。
期待と──願いで気が急いているのだろう。ジュールはあえてそれを指摘はせずに、その速さに歩調を合わせる。
今度こそ本物かもしれない。
そう思うと、ジュールもまた自分の胸が高鳴っていくのを自覚した。やがて進行方向に、問題の少女が控えている部屋の扉が見えてくる。
まず最初になんと言葉をかけたらいいのだろう──そんな他愛のない事を考えながら、ジュールは益々急ぎ足になる父の後に続いた。
+ + +
問題の皇女殿下は、応接室の中央に置かれた椅子に腰掛け、二人の訪れを待っていた。
「お待たせして申し訳ございません。初にお目にかかります。私がコリム・セザール・ジェファウト──この南領を預かる者でございます」
口上を述べ、コリムが臣下の礼を取り、その後ろに控えたジュールもそれに倣う。真偽はさておき、相手が皇女ならば臣下として礼を尽くすのが当然の作法である。
たとえ血の繋がりがあろうとも、現皇帝の娘となれば皇帝に次ぐ身分にある者。非礼があってはならない。
──しかしこの行動は、同時に相手が本当に皇女であるかを見る、試金石の役割もあった。
傅かれる事に慣れていない偽者の場合、多くが領主自ら頭を下げる事に動揺しうろたえる。
あるいはうろたえる事はなくとも、初対面も同じなのに、コリムを『お祖父様』と呼び馴れ馴れしい口をきく。
……いくら状況が状況でも、帝宮で育てられた皇女が最低限の礼節を知らないはずもなく、そのような態度を取るはずがない。
もちろん、そうした性格である可能性はあるだろうが、ミルファは他でもないサーマが産み、育てた娘である。基本的な礼節すら守れぬような育て方はしないはずだ。
いくら外見がサーマに似ていようと、一瞬でもそうした態度を見せればそれまでだ。だが、対する少女は視線を揺るがせる事もなく、背筋を伸ばした毅然とした態度のまま彼等を見つめていた。
やがてゆっくりと立ち上がると、彼等を見据えたまま口を開く。
「……多忙な中、時間を割いて頂いた事、礼を言います。面を上げなさい」
紡がれた声は大人になりきれていない、細い少女のもの。だが、そこにある威厳は付け焼刃で身に着くものではない。
人に命じる事、人に敬意を払われる事に慣れていなければ。
許しを得て顔を上げると、二人はようやくまともに少女の姿を見る事が出来た。身を清め、衣服を改めたその姿は、彼等の記憶にある一つの面影を呼び起こす。いつまでも忘れがたい、面影を。
無残なまでに短く不揃いに切られた波打つ髪。強い光を放つ瞳はエメラルドグリーン。
一年近くに及ぶ逃亡生活の為だろう、その身は十三歳の少女のものにしては全体的に痩せて肉付きが薄く、必要以上に華奢に見えた。
そんな風に違う点はいくらでも挙げられたが、彼等はもはや少女を疑う気持ちなど持てなかった。
それほどに──少女は彼等の知る、今は亡き肉親に似ていたのだ。顔立ちだけでなく、その存在自体が。
「──……サーマ……」
思わずといった様子で、コリムの口から娘の名前が零れ落ちる。すると少女は、その口元に年齢に似合わない大人びた微苦笑を浮かべた。
「こちらに通される間にも何度か耳にしましたが……、そんなにわたくしは母に似ていますか?」
「ええ……。よく似ておられます」
皇女の問いに頷くコリムの目は、もはや南の地を預かる領主のものではなくなっていた。
その大きく齢を感じさせる骨ばった手が、皇女の痩せて傷だらけの小さな手を包み込んだ。それは公の場ならば、不敬とも取られて仕方のない行為だったが、皇女は黙ってそれを受け入れる。
「よく……よくぞ、生きていて下さった……!」
コリムは喘ぐようにそれだけ言うと、衝動に耐えるように唇を噛み締めた。
皇女の手を取ったまま沈黙する。もはや言葉は必要としない。ジュールはその日、生まれて初めて父の涙を目にしたのだった。