あなたに光があるように(2)
おそらくそれは時間にするならほんの僅かな時間の事だったに違いない。しかし、衝撃と苦痛がない交ぜになった状態で、それは永遠に続くかの如き苦行だった。
ついに意識が遠のきかけた時、青年が胸の上から手を退け、唐突に衝撃から解放される。
思わず吐息をつき、同時に先程まであった苦痛がほとんど感じない程に和らいでいる事に気付いた。
「……」
「どうだ。楽になっただろう?」
何処か得意げな口調で言い放ち、青年がにやりと笑う。
一体何をしたのかさっぱりわからなかったが、借りが出来てしまった事だけは確かだ。
「お前には手間暇かかっているんだ。そう簡単にくたばって貰っては困る」
「……、ありがとう……ございます……」
偉そうな言い草に思わず苦笑しながら、ザルームはせめてと礼の言葉を口にする。そして今度こそゆっくりと身を起こし、青年と向かい合った。
「では……、拝聴させていただきます」
居住まいを正しながらのその言葉に、青年は一瞬何の事だかわからないような顔になる。
やがてそれが先程の『説教しに来た』という言葉を受けてのものだと理解すると、眉間に皺を寄せ、ぼそりと真面目な奴と呟いた。
「説教はともかくだ。あまり長居も出来ないから要件だけ手短に聞く。──何故、呪法を使った?」
「それは……」
「お前の目を介して大体の所は見ていたが……、あれなら攻撃呪術で十分やれたはずだ。言っておいたはずだろう? 呪法は今のお前にとっては『毒』にしかならないと」
「……」
口調は決して荒い訳ではないが、嘘や誤魔化しを許さない言葉にザルームは沈黙する。実際、青年の主張が正しい事は彼自身がよくわかっていた。
だが、それでも呪法を使う事を選んだのは──。
「──偽善です」
ようやく答えたその一言に込められた苦さに、青年はぴくりと片眉を持ち上げる。
「黙秘か? ……まあ、黙っていても大体の所は予想しているけどな。あれだけ『魔物』化した人間に情けをかけるなと言ったのに、つくづく私の言いつけを破ってくれる」
ふう、と呆れ果てたため息をつき、青年は以前ザルームと交わした会話を思い出していた。
『お前達が「魔物」と呼ぶものの正体を知っているか?』
『正体……?』
『あれは、お前達と同じ人間だ』
『!? まさか……』
『信じたくない気持ちはわからないでもないが、事実だ。「秤」が壊された結果、こちらの影響が出てきているようだな。毒も僅かだと薬にもなる場合があるだろう。それと同じだ。ただ、この場合はその副作用が激しすぎるという訳だな』
『何か、それを防ぐ方法はないのですか』
『残念ながら今のところはない。今の皇帝には「秤」を再生させる能力もないし、こちらからだけじゃどうする事も出来ないんだ。潜在能力の高いもの程、強力な魔物になるはずだ。そして太陽の光がそれらを狂気に駆り立てる。……今後、益々その数は増えるだろう。皇女ミルファに彼等が襲いかかるような事も出て来るはずだ。その時──お前は彼等を殺せるか?』
その時、目の前のこの男は震える声で尋ねた。……彼等を救う方法はないのか、と。
生命の根源から変質してしまった彼等を元に戻す方法など、何処にも存在しない。仮に『人』であった頃の精神状態に戻せたとしても、肉体までは戻せない。
普通の人間ならば、変わり果てた自分の姿を受け入れきれなければその時点で精神崩壊を起こすだろうし、受け入れきれたとしても太陽がある限り、またいつ狂気に陥るかわからない。
今の時点で出来る事があるとすれば──彼等が血に飢えて苦しみ、狂い死ぬ事から解放してやる事だけだ。救いなど何処にも存在しない。
甘い、とは思うが、非難する気は起こらなかった。
自分とて身近な存在が魔物のようになってしまったなら、まず最初に同じ事を考えたに違いないから。そして、それが無理だとわかったら──。
(……せめて、最後は出来るだけ苦しまずに、か……)
おそらくそういう所だろう。
呪法は攻撃型呪術と異なり、確実に命を奪う事を目的にしている為か、発動と同時に即死する場合が多い。それは逆に考えれば、痛みや苦しみをさほど感じずに済むという事だ。
だが、呪法は基本的に対価が付き纏う。それを払うのは当然術者であり、場合によるとその命すら喪う事になる。
「偽善だろうがどうだろうが、そんな事で死にかけてどうする? それはむしろ、偽善ではなく自己満足ってやつじゃないのか? あるいは、自己犠牲精神か。くだらない。お前には……まだやる事があるだろう」
「──」
歯に衣着せない言葉に、ザルームは返す言葉がなかった。
言われた通りだと思ったからだ。あの時──確かに意識の端で考えた。この命がこの場で果てても構わない、と。
「……お前には役目があるはずだ。命を捨てるならその為に捨てろ。皇女ミルファがお前の存在に疑いを抱くのはわかっていた事だろう。どんなに尽くそうと、報われる事はない。お前は呪術と言う光で生み出された『影』に過ぎないのだから」
「わかって……、おります」
言われなくても理解している。
この身は偽り。いつか世界に真実の光が満ちたその時には、消える運命。ここに在る限り、自分は契約という名の鎖に縛られる。魂すらも支配する──力によって。
「私がここに在るのは、皇女ミルファを皇帝の御座について頂くため。その為ならば、手段は選ばないと言ったのは私自身です。ですが……」
「……何だ」
「──出来る事なら、あの方を……、ミルファ様を苦しませたくはないのです」
目的の為に多くを切り捨てる事の出来る者ならば、何も感じず、何も思わずにその目的の為だけに存在出来ただろう。
けれど、ミルファは──。
「あの方は……、優しすぎるのです。この私ですら信じようとしている。心を許そうと、している。──決して出来はしないのに。そう出来ないように、なっているのに」
「……」
「そうすればする程、傷付くのはあの方なのに──やめようとはしないのです。だからせめて……」
「……契約を反故にしてでも、願いを叶えたいと? 重傷だな」
フン、と鼻先で笑いながらも、青年の目に責める色はない。
「強情なのは皇女ミルファもか。……その内、条件を満たす前に自力でお前のかけた術を破るのではないか? 仮にも『分銅』の一つだ、普通の人間と同じには行くまい」
「……そうならないよう、努力します。まだ早い……せめて──拠り所が、出来るまでは」
「敢えて疑われるような行動を取るとでも? 本当にばかだな……お前は」
青年はそう言いながら立ち上がると、足についた土ぼこりを払った。ザルームもそれに倣う。その薄い胸を、トン、と軽く拳で叩かれた。
「……?」
「本当にばかだと思うが──そういうばかだから、お前は信用出来る」
「王……」
ふわりと宙に浮き上がった青年を、ザルームは呆然と見上げた。
その言葉を言った瞬間に青年が見せた表情が、あまりにも幼く淋しげなものだったからだ。その理由の一端を知るザルームは、声をかけたい衝動を感じつつも沈黙を守った。
第三者が何を言おうと、結局何の慰めにもならない事を知っているから──。
「もう一度言っておく。私との契約を忘れるな、ザルーム。そして呪法は絶対に使うな。──お前の中の封印が解ける。それがどういうものかは、たった今実際に体験したお前ならわかるだろう。……食われるぞ、何もかもを」
「……はい」
彼が頷くのを確認すると、そのまま青年は思いだしたようにぽつりと一言言い残し、その姿を大気に溶け込ますようにして消した。
一人取り残されたザルームは、視線をさらに持ち上げ、天から見下ろす月を見上げた。
不吉な赤い月──それが意味する事は『蝕』。ただ、言葉通りの意味ではない。重なり合うのは実際の天体としての月や太陽などではなく──世界そのもの。
二つの世界が部分的に重なり合っている……相反する世界が。
それ自体は十年に一度程度の割合で起こる『自然現象』だったが、ここ数年、その頻度は月に一度程にまで増えている。おそらくそれも『秤』が壊されてしまった影響だろう。
この『過去を捨てた世界』でその事に気付いている人間が、果たしてどれほどいるのか。
今日流れた血を吸って染まったような赤い月は、全てが始まった夜を思い起こさせる。この手が血に染まっても、この身が血に塗れても──守ろうと誓ったあの夜を。
「…──ファル・エーシア・オルワ・マーナ、か……」
それは青年が彼に最後に言い残した言葉。その古い言葉の意味は『汝の上に光あれ』──行く末を祝福する言葉だ。
なんと自分に似つかわしくない言葉だろう。
自分はその呼び名の示す通り『影』でしかない。光だけでなく──その光を受ける物がなければ存在すら出来ない不確かなもの。
明かす事の出来ない秘密を抱えて、光なき道を進む。そしていつかは、光を取り戻した世界の下、全ての苦しみと共に消えるのだ。──その為にここにいるのに。
そう……、その言葉は、彼が命を捧げる主にこそ相応しい。
ただ祈る──彼女が傷付く事のないように。
ただ願う──彼女が幸福になれる事を。
あなたに光があるように。
それだけが、光を見つめる事しか出来ない影の願い。
過去、HPのアクセス御礼イベント的な感じで行ったキャラ投票結果を元にして書いた通称・赤い人視点の外伝です。
元々『天秤』は「なろう」みたいなサイトで公開していた作品だったのですが、こちらはHPだけで読める限定作品だったものです。
宗像の作品は割と脇役が好かれる事が多いのですが、まさか第一章・第二章を通じて活躍度の高いルウェンを抑えてこの人が一位になるとは思っていなかった当時の自分。
今回、一般公開するに当たって当時は曖昧だった設定部分で多少加筆を加えております。




