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光の庭(3)

 ざわざわと、少し遠くから人の気配。

 時折聞こえてくる話し声は、途切れ途切れながらも、忙しく立ち動く彼等の存在を伝えて来る。


 …マ様が……りに……

 ど………たの?……

 ……んでも……務中……、北領……が…れにな……──


 薄暗がりの中、そんな声の断片に耳を傾けながら、ミルファはじっとそこにうずくまっていた。

 ── もう、間もなく約束の時間。

(やっぱり、駄目か)

 今までやって来た神官達とはちょっと違うような気がしたから、もしかして、と思っていたのに。

 そんな事を考えながら、今も自分を捜しているであろう、神官見習いの少年の事を思い返してみる。

 思えば、彼くらいの年齢の少年と話をしたのは初めてだった。何しろ、一番年の近い兄でも五つ年上だし、母が違えば滅多に顔を合わせない。

 この離宮に仕えている人々には当然家族があって、自分と同じ年の子供もいるに違いないが、そうした子供達と親しく話などする機会はまったくといってなかった。

 それ以前に、そもそも彼等がミルファの前に姿を現す事もない。

 仮にも皇女であるミルファと接して、失礼があってはならないと親が遠慮するからだ。だからこそ、今日顔を合わせた少年が、何だか特別な感じがしてならなかったのかもしれない。

 ろくな会話をしていないが、優しそうな顔と声をしていた、と思う。それに自分の一方的な言葉を、怒りもせずに受け止めてくれた。

 …ちょっと、もったいない事をしてしまっただろうか。今更ながら、そんな事をミルファは思った。

 どうせ試すにしても、もう少し話してからでも良かったかもしれない。

 今後、彼のように年の近い子供と話す機会があるかもわからないし、彼のように笑って自分の言葉を受け止めてくれる人物が、現れるかどうかなんてわからないのに──。

 そんな風に考えていた時だ。

 カチャリ、と控えめながらも隠れている部屋の扉が開く音が聞こえてきた。

 あ、と思ったが、ミルファはやはり黙ったまま、そこに蹲り続けていた。ここで反応しては意味がない。

 やがて、ひたひたと足音が近付いてくる。

 そして。


挿絵(By みてみん)


「…時間ぎりぎり、ですね。これで私の事を認めて下さいますか?」

 数多くの衣服が吊り下げられた衣裳部屋。

 その隅に紛れるように隠れていたミルファを覗き込んで、彼はにこりと空色の瞳を細めるとそう言った。


+ + +


「…どうして、ここにいるってわかったの?」

 差し伸べられた手を取って立ち上がると、ミルファはまずその事を尋ねた。

 自慢ではないが、ここに隠れて見つかった事はたった一度しかない。それを一刻という限られた時間で見つけられた事が、純粋に不思議だった。

 すると彼はその口元に微苦笑を浮かべて、種明かしをしてくれる。

「先程、南領妃様にお会いしたんですよ」

「え、お母様? もう、帰って来られたの?」

 意外な名前にミルファは目を丸くする。

 何しろ、彼女の母は日々多忙で、基本的にこの離宮へ戻るのは夜遅くなってからだ。時として、帰って来ない事も少なくない。

 言いながらも、先程聞こえていた言葉の断片を思い出す。

 そう言えば、誰かが来たような事を話していた。よもやそれが帰って来た母の事だとは思いもしなかったけれど。

 だが、かつて隠れていた自分を唯一見つけた母の名が出た事で、彼がどうやってここに辿り着いたのか薄々理解出来た。

「お母様に聞いたの?」

 母ならたとえ知っていても簡単に居場所を教えそうにはないのに、と純粋に不思議で確認すると、

「正確には手がかりを教えて下さっただけですが。『木の葉を隠すには森の中』── 確かにここなら、なかなか見つからない訳ですね」

 言いながらその目は、ミルファの服装をまじまじと見る。

 当然ながらミルファが身に着けているのは子供用のドレスだ。布地をたくさん使ったそれは、普通の場所に隠れては簡単に見つかるだろうし、何より汚れたり破れたりもするだろう。

 動きやすいように仕立てられ、汚れなどにも強い生地を使われていても、この格好ではおいそれと普通の隠れん坊で隠れるような場所に隠れる事など出来はしない。

 半ば感心したようなその視線に、ミルファは褒められたような気分になって少し嬉しくなる。

 皇妃の私室のすぐ側にあるこの衣裳部屋は、誰でも入れるようになっていて、実を言うと、過去に何度か女官達もここまでは辿り着いていた。

 でも、彼女達は中を一通り眺めると、そのまま素通りして息を潜めて隠れているミルファに気付かずにまた出て行ってしまうのだ。

 よもや、皇女殿下ともあろう人が、衣装と衣装の間に挟まるようにして床に蹲っているなど、有り得ないとでも思っているかのように。

(今まで、お母様以外には気付かなかったのに)

 母のその『手がかり』から衣裳部屋を連想するまではわかるが、衣服の事まで考えが回るなんて、目の前の人は見かけによらず頭がいいのかもしれない、とそんな感想を抱く。

 ── 自分は、負けたのだ。

「……」

「…ミルファ様?」

 急に笑顔を消して考え込んだミルファに、彼はどうしたのかと声をかけてくる。その顔をちらりと見て、ミルファは仕方ないと言わんばかりの口調で口を開いた。

「…明日から、よろしく頼むわ」

「!」

 やはり何処か居丈高な言葉。けれどもその言葉の意味する事に気づき、彼の目は丸くなる。やがてそれは、見ているこちらまでも穏やかな気持ちになる、嬉しそうな微笑に変わった。

「はい…出来るだけ、眠くならないようにお教えしますね」

「ふふっ」

 彼の答えは、やはり今までの人間とは違っていて、ミルファはまたその顔に笑顔を浮かべた。

 それは、それまでの何処か勝ち誇ったような笑顔ではなく、八歳の少女に相応しい屈託のない輝くような笑顔だった。


+ + +


 その後、しばらく他愛のない話をして彼が帰っていった後、夕食をとる為に食堂へ向かったミルファは、そこに母親の姿を見つけて全開の笑顔になった。

「お母様! お帰りなさい!!」

 ぱたぱたと駆け寄ってきた娘に、南領妃サーマはにこりと微笑んでそれを迎えた。

「元気そうね、ミルファ」

 多忙な為、時として数日くらい顔を合わせない事もある娘の顔を、優しい笑顔が見つめる。

 それは、おそらく帝宮で皇帝の片腕として働く彼女しか知らない者が見たなら、その目を疑ったに違いない程自然で柔らかなものだった。

「今日はどうしたのですか、お母様。御一緒に夕食なんて、久し振りです!」

 喜びを隠さない興奮気味の言葉に、サーマはただ薄く笑って『今日は仕事が早く終わった』とだけ答えた。

 実際には、執務中に皇妃の一人である北領妃エメラが倒れたという知らせが入り、結果として仕事どころではなくなってしまったのだが、幼いミルファには関係のない事だと考えたからだ。

 北領妃エメラは皇帝が最初に迎えた皇妃だが、二人の子を挙げた後に体調を崩し、以来病がちになっている。

 こうして突然倒れ、それを皇帝が見舞いに行くのは、今はさして珍しい事ではなかった。

「…そう言えば、ミルファ。今日の勝負はどうなりました?」

 そしてさりげなく変えられた話題に、ミルファはその顔に複雑な表情を浮かべて、視線を下げた。

 それは今まで負けた事のない勝負についに負けてしまった悔しさと、年の近い『友人』が出来た喜びとがごちゃ混ぜになった、何とも微妙な表情で、サーマにはその顔だけで結果がどうなったのか手に取るようにわかった。

「…負けたのね?」

「……」

 はい、と素直に言えないミルファは無言で答える。しかし、その後に続いたサーマの言葉に、ミルファは再び顔を上げる事になった。

「良かったじゃないの」

「…え?」

 一瞬何を言われたのかわからない、そんな表情を浮かべたミルファは、笑みを深くしたサーマの顔をまじまじと見つめ── その顔に再び笑顔を浮かべた。

 その笑顔だけで、ミルファが悔しさよりも喜びの方を強く持っているとわかり、サーマも喜んだ。

 なかなかこうして二人で話す事もないが、いつもミルファが大人ばかりに囲まれて、一人でいる事が気になっていたのだ。

 十歳ながらも、穏やかで誠実な人柄を示すあの神官見習いの少年は、きっとミルファの淋しさを紛らわせてくれるだろう。

 彼もまた大人ばかりの中で生きている子供であるだけに、誰よりもミルファの理解者になってくれるはずだ。

 やがて、給仕人が食事を運んできて、久し振りに二人は親子水入らずの食事を始めた。食事をしながら、ミルファは先程まで彼と話していた事を楽しげにサーマに報告する。

「あの人、今まで隠れん坊をした事がなかったって言ってました」

「まあ…そうだったの?」

 答えながらも、サーマは特にその事実に驚きはしなかった。

 大神殿に七歳で入ったのなら、それも仕方がないだろうと納得する。するとミルファは楽しげに言葉を続けた。

「それだけじゃなくて、絵札遊びとか鬼ごっことか、そういう事もした事がないのですって。だから、お勉強を教えてもらう代わりに、わたくしがあの人に遊びを教えてあげるんです!」

「あらあら」

 ミルファの何処か自慢げなその言葉に、サーマは苦笑する。これでは本当に教師というよりは『友人』だ。

 けれども、サーマはそんなミルファが少し羨ましいと思った。かつて、ミルファのように大人だけに囲まれて育った過去を持つが故に。

 そんな事を思いながら、サーマはふと気付いた事をミルファに諭した。

「ミルファ。年が近くても、彼はあなたの教師なのですよ。『あの人』などと呼ぶような事はやめなさい」

「…はい」

 母の言葉に頷いたミルファだったが、すぐにその顔に疑問符が浮かんだ。何事だろうかと思うサーマに、ミルファは困ったように口を開いた。

「お母様。そう言えば、わたくし…あの人の名前を知りません」

「──」

 これには流石のサーマも絶句した。


+ + +


 その生涯で忘れ難いものとなる、『ケアン=リール=ピアジェ』という名前をミルファが知るのは、その翌日。

 陽光降り注ぐ、光の庭でのこと──。

『光の庭』はこれにて完結です。

ミルファがケアンのイメージを春の空に重ねるのは、瞳の色もですが、出会ったのが春だったという事もあるようです。

ミルファは性格が今とまったく違いますが、もちろん、変わったのにはそれなりに理由があります。

そちらはその内、本篇で。

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