領主夫人は見習い中(3)
以前教えられ、幾度か実際に訪れた事のあるジュールの執務室まであと僅かという所で、ミルファは足を止めた。
「……?」
気のせいだろうか。今、進行方向で何かが割れるような音がしたような──。
廊下にはミルファの他に人気はない。そこに並ぶ扉はどれも重厚で、閉め切られた状態では中のちょっとした音は聞こえないだろう。微かでもミルファの耳に聞こえたのだとしたら、相当大きな音だったと考えられるが──。
しかし何処から聞こえたのか定かではなく、しばらく待っても変化がなかったので再びミルファは歩き始めた。
いかに南の領館の中とは言え、完全に安全ではない事はわかっている。
南領の兵士達を信頼していない訳ではないが、何処に父である皇帝の間諜が潜んでいても不思議ではないのだ。警戒し過ぎるという事はない。
おそらく何かある前に自身を守る呪術師──ザルームが対処するに違いないのだが、それに甘える気はミルファになかった。
今は非力でしかないが、万が一の時に自分の身を自分で守れるようになりたい。もっともっと、様々な事を学ばなければ。皇帝に立ち向かい、対峙する為にはただ守られているだけでは駄目だ。
おそらく周囲には良い顔はされないだろうが、武器の使い方も機会があれば習得したいと思考を巡らせていた、その矢先。
ガシャン!!
「!?」
再び何かが割れるような音が響き、ミルファは鋭い視線を前方に走らせた。
今度は複数が重なった音だった。まるで棚から割れ物がまとめて落ちたような──しかも音の発生源は聞き間違えようもなく、目と鼻の先にあるジュールの執務室からだ。
更に女官らしい人物の悲鳴のような声まで聞こえた気がして、ミルファの心に緊張が走った。
(まさか──叔父上の身に何か!?)
ミルファにとって、現領主である祖父コリムも母の弟であるジュールも大切な存在だ。
血の繋がりがあっても、一月ほど前に初めて顔を合わせた彼等に対してまだ『肉親』であるという実感は薄いが、それでも万が一でも自分の為に彼等が傷つく事はあって欲しくないと思っている。
ミルファは反射的に走っていた。ザルームを呼ぶという選択肢すら忘れて、叔父の身に何があったかを確かめねばと思ったのだ。
ジュールの執務室へと辿り着くと、ミルファは躊躇なくその扉に手をかけた。
一瞬扉を叩くべきか悩んだが、もし非常事態なら相手を怯ませる事が出来るかもしれないと考え、そのまま勢いよく扉を開く。
「叔父上、大丈夫ですか!?」
中に飛び込み、ミルファは言葉を失って固まった。
「……っ」
ジュールの部屋は予想以上に散々な有様だった。部屋の隅に置かれた花を活けた大きな花瓶は、原型を留めない無残な姿を床の上に晒し出し、中に入っていたであろう花も中の水ごと飛び散っている。その巻き添えを食ったのか、それともこちらが元凶だったのか、磨かれた木の小卓もかつて記憶にあった位置から相当離れた位置で転がっており、瀟洒な意匠の足が一本折れていた。
更に執務机からも積んであったと思われる書類や茶器と思われる者の残骸が、盛大に床に散らばっており、まるでこの部屋だけ嵐が訪れたのかと思えるような状態だ。
──が。
ミルファが固まったのは、決してそれらだけが原因ではなかった。
「ミ、ミルファ様……!」
「……サティン……?」
惨状の中にいたのは、部屋の主ではなく先程別れたサティンだった。
サティンとて、この南の領館に仕える女官だ。ジュールの執務室にいてもなんら不自然な事はない。ない、のだが──。
だがしかし、その格好はと言えば何故か半ば脱ぎかけの下着同然。不自然以外の何物でもなかった。
何があったかはわからないが、朝はきちんと結われていた髪も乱れており、気のせいか目も涙で潤んでいるように見える。
ミルファはなんと声をかけて良いのか心の底から悩んだ。サティンもそうなのだろう。完璧に凍りついた顔は見ていて気の毒なほど強張っている。
お互いに見つめ合いながらも、どちらも二の句を継げずに黙り込む──なんとも奇妙な間が生じた。予想外の事に頭の中が真っ白なミルファに対し、サティンはみるみるその顔を蒼白に変えて行く。悲壮感漂うその表情は、どう見ても何かあったのに何があったのか気軽に追求できない雰囲気を漂わせる。
そんな別の意味で一触即発のぎこちない沈黙を破ったのは、その部屋の本来の所有者だった。
「まったく……、動くなと言っただろう。ほら、誰かが来る前に早く服を──」
荒れた部屋の奥、控えの間と思われる場所から現れたジュールは、入り口にいるミルファの存在に気付かずに室内に足を踏み入れ──ミルファの姿に気付くとぎょっと目を見開き、言いかけた言葉を飲み込んだ。
その手にあるのはどう見ても彼が所有しているには不自然な女物で、しかも南の領館に使える女官が身に着けている──つまり、普段サティンが来ている服とまったく同じ物だった。
……そんな状況で連想する事は一つしかない。ミルファの白い顔はたちまち赤く染まった。そのまま身を翻し、廊下に飛び出す。
「ご、ごめんなさい!!」
「え……、ミ、ミルファ!?」
後ろ手で扉を閉めるのも慌しく、ミルファは謝罪もそこそこにそこから逃げ出した。背後からジュールとサティンが何か叫んでいるような気がしたが、ミルファの耳には届かない。
(そ、そんな、叔父上とサティンが? 叔父上には叔母上が……でも、話を聞くように状況を作ったのはサティンだわ。ど、どういう事なの……!?)
──こと、男女の事に関してミルファは疎い。
南の離宮でも使用人達の間で恋が芽生えたり、付き合ったり離れたり、結婚したり子供が生まれたり──そういう事はもちろんあった。あったのだが、ミルファは子供だった上に皇女という身分もあり、直接そうした話が耳に入る機会がなかったのだ。将来が恋愛結婚である可能性も皆無に近く、あえて遠ざけていた部分すらある。
故に皇帝の追手に襲われた時は冷静でいられたミルファも、勝手が違う今回ばかりは混乱に陥った。ただ、混乱しつつもそうした事に『第三者が首を突っ込むべきではない』という事は理解していた為、結果としてミルファはその場から全力で遠ざかる事を選んだのだった。
皇女殿下が廊下を疾走するなどと思わない使用人が、素晴らしい速度で駆け抜けていく姿を目撃し、何事かと目を丸くする。無意識に自分の部屋に向かい、そこに飛び込んでようやくミルファは足を止めた。
まだ顔は火照っている。ずるずると腰が砕けたように、ミルファは放心したまま床に座り込んだ。今までの経験から、ふとザルームに助言を求めるべきだろうかと考えたものの、果たして何に関しての助言を貰えば良いのかわからなかったので自分で却下する。
取りあえず冷静さを取り戻そうと深呼吸を繰り返していると、やがて何処かからバタバタと走ってくる音が聞こえてきた。乱れた足音は唐突に激しい物音と共に途切れ、再び復活する──どうやら転んだようだ。やがて足音の持ち主はミルファの部屋の前で足を止めた。
「……ミミ、ミ、ミルファ様ぁ!!」
予想通り、その声はサティンの物だった。
走ったせいなのか、それとも取り乱しているのか──おそらく、両方だろう──もつれる口調には焦りがあった。
「誤解な、なさらないで下さぃい! わ、わたしは潔白ですぅうう!!」
今にも泣きそうな声で紡がれる言葉に、ミルファは首を傾げた。
(潔白……?)
という事は、先程のアレはなんだと言うのだろう。そこに追い着いたのか、ジュールの声が重なる。
「ちょっと待て、潔白ってなんだ。勝手になかった事にしないでくれ。あれはお前の仕業だろう!」
その不機嫌そうな声に、ミルファの頭は更に混乱した。
(え? やっぱり何かあったの??)
「ジュール様は黙ってて下さいッ! これは、わたしとミルファ様の問題ですわ!」
(ええ? 私に関係が?)
仮にも次期領主であるジュールをサティンは怒鳴り飛ばすが、余計に事態を混乱させるだけだった。おそらくこの場でもっとも冷静であろうジュールが、扉の向こうで深々とため息をつくのが聞こえた。
「……ミルファ、済まない。これには少々事情があるんだ。説明するから、顔を見せてくれないか?」
何処か懇願する響きのある声に、ミルファも少し落ち着きを取り戻した。全力で走ったせいで乱れた髪と服を簡単に調え、もう一度深呼吸する。
確かに扉越しの会話は周囲にも聞かれかねない。今更とも言えるが、このままでいてもお互いにとって良い事はないだろう。
意を決して扉を開くと、そこには涙で化粧が崩れてひどい顔になったサティンと、疲れた表情のジュールがいた。ミルファの顔を目にし、サティンの目に更なる涙が溢れ──。
「うわぁああん、ミルファ様ー!!」
叫ぶと同時に、体当たりする勢いで抱きつかれた。
「サティン!?」
うろたえつつも受け止めるミルファに、サティンは涙ながらに謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! こ、こんなつもりじゃなくて……!」
子供のように泣きじゃくるサティンにミルファはどう応えていいのかわからなかった。
救いを求めてジュールに目を向けると、その顔は苦笑を浮かべているが助けてくれる気はないらしい。
「わ、わたしの事、き、嫌いになりました!? そうですよね、そう思いますよね、でもでもっ、わたしはミルファ様が好きですぅううう!!」
サティンはまだ混乱しているようだ。まるで愛の告白めいたその言葉をどう受け止めてよいのか、更にミルファは困惑した。
「サティン……、あの、落ち着いて……? 取りあえず中に入って、ね? 叔父上もご一緒に……」
この騒ぎにまだ気付いていないのか、それとも気付いて気付かない振りをしているのか、今の所は周囲に人気はない。だがこの醜態は場合によってはサティンの名誉に関わるかもしれないと思い、ミルファは室内へと二人を招き入れた。
サティンはその間もミルファにしがみ付き、どっちが大人か子供かわからない有様だ。部屋に入るやいなや、ジュールは重いため息をついた。
「……そろそろ頃合だ。いい加減に諦めろ」
一体何の事かと思うと、その言葉に弾かれたようにサティンが顔を上げた。
「だ、駄目です!」
「いいや。そもそも無理のある話だったんだ。お前が嫌でも私が──」
「いやー! ひどいです、ジュール様!!」
(何が何やら……)
状況が読めずに一人ミルファは困惑する。
あの惨状とサティンがあのような有様だった事の説明をするだけに留まらない、他の何かがあると言うのだろうか。そんなミルファの疑問を読み取ったジュールが、疲れたように首を振った。
「お前が自分で言わないのなら、私が言うまでだ。ミルファ、実は……」
「や、だ、駄目ですってば!」
ジュールの言葉を必死に遮ると、サティンはようやくミルファから離れた。
相変わらず化粧の崩れたひどい顔の上に、急いで身につけたからか、それとも途中で転んだからか、乱れたひどい服装だ。しかしその顔には、何だかこれから戦場にでも向かうような悲壮な決意があった。
「ジュール様に言われるくらいなら、自分で言いますッ!」
きっぱりと言い切ったものの、見た目があまりにひどいので何処か滑稽だ。その言葉の勢いのまま、サティンはミルファに向き直ると、すっと姿勢を正した。
途端に乱れた服装ながらも、それなりに威厳が生まれる。そのままサティンは服の裾を摘まみ、皇女に対する最高礼を取った。
「……サティン?」
今までサティンが改まってそんな事をした事はなく──同時にミルファは閃いてしまった。
(まさか)
サティンは頭を下げたまま、緊張の為か震える声でミルファの閃きを肯定する。
「今まで皇女殿下を謀るような振る舞い、誠に申し訳ありません。わたしの本当の名前はコーディア……コーディア=サティン=ベルーダ。次期南領主であられる、ジュール様の……その、婚約者、です」