心の扉(5)
「……夢?」
「そう、夢だ。神官になったのもその取っ掛かりに過ぎない」
今まで誰にも話した事がないそれを、何故ケアンに話そうと思ったのか。常の彼なら、特に理由などないと笑ってかわした事だろう。その程度には自分の抱える『夢』が、非常に困難である事を理解していた。
後にこの時の事を思い返しては、ルネットはその時の自分の行動を不思議に思う事になる。
気まぐれ、と言ってもいいかもしれない。あるいは──心の何処かで『誰かに知って貰いたい』と思っていたのだろうか。ふと、ケアンになら話してもいいか、と思ったのだ。
「僕は『神官が何の為に存在しているのか』──その謎を解明したいと思ってるんだよ」
「……何の為に?」
ルネットの口からそんな事が出て来るとは思わなかったのか、それともその事を疑問にも思っていなかったのか、きょとんとした顔でケアンが繰り返す。
ケアンに限った事ではない。大部分の神官が当然のように受け止めていて、疑問にすら感じないその『謎』は、ルネットにはとてつもなく魅力的だった。
「そう。僕達は何故、聖晶なんてものを持って生まれてきたんだろう。……そんな事を考えた事はないかい?」
生まれ方は一緒なのに、普通の人とは違う生き方を生まれながらに選択肢として持つ意味は?
人を害すると神官としての『資格』が失われるが、そもそも何の為にそんな『資格』を持っているのか?
それを解明したいと思ったからこそ、ルネットは神官の道を選んだ。
「人が死んで何処へ行くのか──それよりは解明できそうな謎だと思わないかい? まあ、その為には君が好きで僕が嫌いな普通の『勉強』もある程度は必要になる訳だけどね。……神官になって後悔はしてないよ」
ただの人になってしまっては、その謎は追いかけられない。だからこそ、平凡な人生を選ばずにいろいろと面倒な制約に縛られる神官であり続ける道を選んだ。
時折、窮屈さを感じはするが、自分で決めた道だ。そこに後悔はない。言葉にして、ふと思い付く。
「うん、そうだ。ケアン、君もどんな事でもいいから生き甲斐を見つけるといい」
「生き甲斐……?」
「どんなくだらない事だっていい。その為に人生をかけてもいい、と思えるような事を探すんだ。それがあれば何処でだって楽しく生きて行ける」
ただ流されて生きて行くのもまた人生かもしれないが、せめてそれくらいの目標はあったっていい。そう思っての言葉は、彼が思った以上にケアンの心を揺り動かした。
「……ルネットは、すごいね」
心の底から感心したように漏らされた感想に、逆にルネットはらしくない自分の言葉に照れる羽目に陥った。
「な、何を……、い、今のはあくまでも一般論だよ」
「そうなの? ……でもすごいと思う。自分のやりたい事を、ちゃんと持ってるもの」
覚えている限りでは、今まで接した神官達がそんな風に夢を語るのを聞いた事がない。だからこそ、一般論以上に言葉に説得力があるのだとケアンは思った。
一風変わった、あまり神官らしくないルネットが何故神官になったのか。そんな疑問から尋ねた事だったが、思いがけない収穫を得た気がする。
人生をかけてもいいと思えるような──そんな何かがあったら、確かに何かが変わる気がした。それは確かに今までの自分にはないもの。
「ぼくも、ルネットみたいに何か見つけられるかな」
「もちろんだとも」
その言葉に今までにない意志を感じて、ルネットは後押しするように力強く頷いてやった。
「意外と身近な所にそれはあったりするものだよ。何処にでも切っ掛けは転がっている。きっと……、君がこれから行く大神殿でもね」
「うん。そうだね、ルネット」
その言葉に励まされたのか、こくりと頷き、ケアンは笑顔を見せ──た、瞬間。ルネットは思わず固まった。
「……」
「……あれ?」
突然立ち止まってしまったルネットに驚いて振り返ると、ルネットの方も心底驚いたようにこちらを見ていた。
「ルネット? どうしたの?」
「え、あー……、いや、ちょっと不意打ちで……」
すぐに自分を取り戻したルネットは数歩でケアンに追いつくと、そんな意味不明の事を口走り、小さくため息をついた。
「ケアン、君……気付いていたかい?」
「……何を?」
「僕は今、初めて君がちゃんと笑った顔を見たよ……」
「えっ?」
そうだっただろうか、とペタペタと自分の顔を触る仕草は微笑ましいが、無意識にあの笑顔が出て来るなんて、ある意味将来がそら恐ろしいとルネットは思った。
緊張や不安から抜け出せた証かもしれないが、今まで見せなかっただけにその威力は強烈でうっかりルネットですら思考が止まったほどだ。
「うん、そうだ。ケアン、君は取り合えず笑う練習をした方がいいね」
「笑う……練習?」
突然妙な事を言いだすルネットにケアンは首を傾げる。
「人が怖いならなおさらだ。無理でもいいから、人に会ったら笑ってみせるといい。多分、それは君の武器になる」
考えてみれば、ただでさえ大神殿はじい様ばあ様の園である。能力も経験も積んだ彼等だが、逆にケアンほどの年齢の子供には弱いのではなかろうか。
しかも基本的に他人の事情に首を突っ込む事を避けるこの自分ですら、ついつい『お人好し』にしてしまう位に心根が素直で庇護欲を駆り立てる所があるケアンだ。
にっこり笑って慕われでもしたら、おそらくどんな頑固ジジイでも陥落するに違いない。
(うむ、ひょっとしなくてもこれはなかなかの武器じゃないか? 正に子供の特権だ)
などと、まだよくわかっていない本人を余所にルネットは心の内でほくそ笑んだ。そのまだ薄い肩を抱き、ルネットは白い歯を見せて笑うとびしっと親指を立てる。
「僕が保障しよう、ケアン。大丈夫だ、君には立派なジジババキラーになれる素質がある!」
「ジ、ジジババ……?」
今までほとんど耳にした事のない俗語に目を白黒させ、自分を置き去りにしてやたらと上機嫌なルネットの顔を見上げる。
何となく素直に喜んではいけない気がするのだが、気のせいだろうか。そんな風に困惑しつつ──気がつくとケアンも釣られたように笑顔になっていた。
もうすぐ、この楽しい旅は終わってしまう。ルネットと顔を合わせる事はもう二度とないかもしれない。
それでも──旅が終わっても、何かが続いて行くようなそんな気がした。
+ + +
──長いようで短い旅から、三年の月日が流れて。
「ケアン、主席神官様がお呼びだよ。ここの仕事はいいから行っておいで」
「主席神官様が……? わかりました、すぐに参ります」
入った当初はうまくやって行けるのかと不安ばかりだったこの場所も、今では居心地の良い場所に変わって。
「主席神官様の用事が終わったら戻っておいで。お茶にしよう」
「はい、ベジネ補佐神官様」
最初は必死に作っていた笑顔も、今では自然に浮かべられるようになって。
──ルネットが予見していた通り、三年の月日の間にケアンは大神殿のちょっとしたアイドルと化していた。
地方神殿でならさておき、主神殿、大神殿ではケアンのような年齢の子供に接する事がほとんどない老齢に近い神官達にとって、ケアンは神殿生活の潤いのようなものになっているらしかった。
「ケアンです。お呼びだと聞いたのですが……」
年代を感じさせる飴色の扉を叩いて声をかけると、中から入室を許可する穏やかな声が返って来る。
「失礼します」
「わざわざ済まなかったね、ケアン」
「いえ……。今日は何の御用でしょうか?」
主席神官の位──すなわち、神官の最上位──にある者が、見習いに過ぎないケアンに直接用事を頼むなど通常なら有り得ない事だ。
補佐やさらにその下の位階の者を通じて命じてもまったく不思議ではない。しかし、こういう呼び出しはすでに珍しくなく、周囲もそれを受け入れている始末だ。
結局の所、主席神官も他の神官達と同様、単にケアンを構いたいだけなのだが──当のケアンは位階を無視してまで何かと気にかけてくれる事に少しの申し訳なさと深い感謝と敬愛の念を抱くばかりで、その事実に気付いていなかった。
「うむ……。それがだね……」
いつもなら小気味が良い程の口達者な主席神官が、今日に限って妙に口が重い。
一体何なんだろうと思いつつ、急かす事なく言葉を待っていると、やがて主席神官は気が進まない様子でようやく呼びだした理由を口にした。
「ケアン……君に、頼みたい事があるのだよ」
「頼み、ですか? 何でしょう」
まだ幼いとは言えども、位階は絶対である。上司のそのまた上司のさらにその上(実際はまだ間にいる)の存在である主席神官の頼みとあれば、それはほぼ拒否権のない『命令』と変わらない。
だからこそ主席神官は言葉を濁したのだが、他に良い選択肢がない事は事実だった。彼は諦め、まだ何も知らない、真っ直ぐな目から心持ち視線を外してケアンを呼びだした用件を告げる事にした。
「君に皇女殿下の教師をしてもらいたいんだよ」
「教師……? って、あの、僕が、ですか……?」
何を言われるかと思ったが、それは正しく青天の霹靂のような言葉だった。困惑を隠さないケアンに、何故か主席神官は気の毒な人を見るような目を向けて繰り返す。
「末の皇女、ミルファ様に儀礼作法などをお教えしなさい。明日の午後、南の離宮へ伺うように。話は通してあるからね」
何故、教師の経験など欠片もない自分が?
そんな疑問はあった。大体、同じ帝宮の敷地内で暮らしているとは言え、皇家とはろくな接点もないのだ。皇帝やその近辺にいる人々ならともかく、問題の末の皇女殿下については名前くらいしか聞いた事がない。
どう考えても、自分に話が来る時点でおかしい。
節目節目の、皇家が関わる行事での儀式的な作法なら確かにケアンでも教える事は出来る。馴染みがない者にはややこしい部分があるのかもしれないが(たとえば神であるラーマナに対してと皇帝に対しては礼の仕方が違う、など)、神官にとっては日常的なものだ。
逆に考えれば、教え手は他にいくらだっているはずである、しかし、主席神官に逆らう理由もないし、すでに話は決まっているようなものだ。ケアンは腹を括った。
自分に出来るかどうかわからない。けれど──。
『意外と身近な所にそれはあったりするものさ。何処にでも切っ掛けは転がっている』
いつかの、ルネットの言葉を思い出す。彼の言葉は正しかった。
何がどう変わるかは、実行してみなければわからない。何が切っ掛けになるか、わからないから。
「はい、わかりました。主席神官様」
そして、光の満ちた庭で彼は見つける。
その人生をかけてもいい、と思える──そんな夢を。