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心の扉(4)

 それは、いつも祖父が自分に語りかけてくれたこと。


 ──いいかい、大事な事だからよく覚えておきなさい。『勉強』とは、ただ知識を詰め込むだけの事を指すのではないんだ。


 他の家族の誰からもかえりみられない末の孫を不憫ふびんに思ったのか、祖父は父や母の代わりに言葉を教え、生きて行く上で必要となる常識や知識、知恵を与えてくれた。

 あまりにも幼かった彼にその教えの多くは完全に理解出来るものではなかったし、全てを吸収しきれるものではなかったけれど。

 それでも祖父が与えられるだけのものを与えようとしてくれる事は肌で感じ取っていたし、それがとても嬉しかった。

 祖父は明言こそしなかったが、一番求めてくれていた事はおそらくたった一つ。

 ――生きる事を、諦めないこと。

 その頃、すでに祖父は自身の死期を悟っていたのかもしれない。だからこそ自分が死んだ後に孤独になるであろう彼に、殊更愛情を注いだのではないか。


 ──見て、感じて、聞いて……感覚全てで受け止めたものの中から、可能な限り多くの事を掴み取るんだ。


 一面の、白。

 祖父に連れられ、降り積もった雪の上に二人並んで、重い灰色の雲に覆われた空を仰ぎ、凍てついた大地を見つめ、遠くに霞む山々を眺めた。

 祖父に連れられての散策は、特に吹雪いてなければ毎日のように行われる習慣のようなものだった。

 後々思い返せば、特に用もないのに外を歩き回るなど、酔狂以外の何ものでもないはずなのに、不思議と祖父のその行動をあの母ですら咎めた事はなかったから、何か意味のあるものだったに違いない。

 その時はただ、大好きな祖父と一緒に出掛ける事が嬉しいばかりだったけれど。

 凍てつきそうなほどなのに──実際、手足はかじかみ、吐く息は真っ白だったのに──祖父と二人でいると、不思議と暖かさのようなものを感じていた。

 まるで何かに、包み込まれるような。


 ──わかるかい?


 何を、と言われなくても、それがわかったような気がしたので、はいと答えると、祖父はその皺だらけの顔を綻ばせて嬉しそうに笑った。

 そして少し淋しげな目で自分の胸に下がった聖晶に目を向けると、いつものように残念だ、と呟いた。

 詳しい理由はわからないが、父母──特に母が喜んだ程には、自分が聖晶をもって生まれて来た事を喜んでいなかったのは確かだった。

 何が残念なのかと、一度だけ聞いた事がある。

 けれど祖父はただ微笑んで、『神の祝福を受けたお前にとって不必要な事だ』と答えるばかりだった。

 それが果たして、いつかは手放さなければならない事に対するものだけだったのか──今となっては謎のままだ。


 ──知らない事を知る事は好きかい?


 山頂で突然ルネットが口にした言葉は、不思議と懐かしい祖父を思い出させた。多分、祖父が言っていた『勉強』と同じ事をルネットは言ったのだ。


 ──君は……人が怖いんだね。


 ルネットの言葉は正しい。

 祖父とは特に言葉にしなくても、それとなく思っている事が伝わったせいもあるだろうが、他人と意志を疎通させる事は、ケアンにはとてつもなく難しい事に感じられた。

 詰まる所、怖いのだ。

 思った通りに言葉にして、もしそれが受け入れられなかったとしたら──。そう思うだけで、心も体も竦んでしまう。

 ルネットは言った。周囲に『神童』としてだけ見られてもいいのかと。

 心の中では嫌だと思う自分がいる。つまりそれは、自分の神殿とはまったく無関係な個人的な思いや考えも『神童』という言葉を通して受け止められてしまうという事だ。

 しかし、その裏には周囲のそうした目に甘んじてきた自分がいたのも確かだった。

 ──楽だったのだ。

 本当はもうわかっている。自分を隠さずとも、周囲がそれを頭ごなしに否定する事もなく、ましてやこの『場所』から追い出す事もないという事を。

 それでも怖かった。

 もう、自分には神殿以外には何処にも行く場所がない。家族の元へは帰れない。帰ったとしても、彼等はきっと受け入れてはくれないだろう。

 祖父は事ある毎に『違う』言ってくれたが、神殿に来るまで労働力になれない自分が『不要な子』だったのは事実。だから、どんな形であろうとも必要とされた事は純粋に嬉しかった。

 自分の何処に必要とされるものがあるのか、自分では理解出来なかったけれど。それでいい、と思っていた。

 なのに──ルネットと一緒にいるとそれとは違う思いが湧いてくる。

 『神童』扱いをしなくなったルネットに、どう接していいのかよくわからない。わからないながらも、拙い手探りの言葉を受け止めて、まるで友人のように扱ってくれる彼に対する恐れが日に日に薄れてゆくのは隠しようのない事実だった。

 そうされる事に居心地の良さのようなものさえ感じていて、駄目だ、と思う。

 ルネットが自分に良くしてくれるのは、これが彼の仕事だからだ。もしくは、自分の境遇に同情してくれたから。……それだけなのだから。

 目的地である帝都内の地方神殿に着いてしまえば、そこで終わり。彼はまた元の地方神殿に戻って、今までと同じ生活を送るのだろう。

 しばらくは自分の事を覚えていてくれるかもしれない。でも、時が経つにつれ、過去のものになって行くに違いない。この旅は終わりがあるもので、ずっと続くものではないから。

 楽しい、なんて思っては駄目だ。

 ──祖父が死んだ時に、思い知ったはず。温もりを知れば、それを失った時に一人の淋しさを余計に感じるだけなのだと。

 そう、思うのに。

 どうして、いつまでもこの旅が続けばいい、なんて思ってしまうのだろう──。


+ + +


「ルネットはどうして神官になろうと思ったの?」

 ケアンがそんな事を尋ねて来たのは、彼等の旅も終焉が見えてくる頃の事だった。

 旅は非常に順調に進んでいた。

 不安定で気まぐれな山の天気もルネットが驚くほど安定を保ち、その間に二人の関係も変化していった。

 こちらから話しかけるばかりだったのか、ケアンからも話しかけるようになり、『ルネットさん』と敬称がついていたのが『ルネット』と呼び捨てになり── 。

 そうなるにはルネットの努力による所もあったが、ケアン自身がその影響を素直に受け入れた事が何より大きいと言えただろう。

 その変化を純粋にルネットは喜んでいた。

 歩きながら、あるいは休息を取る時に、少しずつ話を聞いた所によると、ケアンは北領でも特に冬が厳しく、貧しい人々が多い地方の生まれで、親ではなく祖父によって育てられたという。

 親に捨てられる子供は、北領では特に珍しい話ではない。

 だが、ケアンがその素直な心根に反して自分を出す事に臆病なのは、その辺りが深く影響しているような気がしてならなかった。

(僕の所は比較的豊かな場所だからなあ)

 雪と氷に長く閉じ込められる北領においても比較的南方に位置し、しかも鉱業を主な産業とする山岳地帯で生まれ育ったルネットに、その心情は理解出来るとは言えないものだ。

「僕が正神官になった理由かい?」

 何でまたそんな事をと思いつつも、自分がこの道を選んだ時の事を思い返す。神殿に入ったのもケアンとは違い、聖晶を持って生まれたからには取り合えず、という流れだった。

 両親も自分が神官になるなどほとんど考えていなかったようだし、当時すでに『悪童』の呼び名がついていたので、見習い期間が終わった後は故郷に戻って来ると思っていたに違いない。

 自分でも規律正しい神官の生活に適応出来るとは思えず、帰る気満々で神殿に入った。

 結果として、神殿は思っていた以上にルネットの好奇心を非常に刺激する場所で──自ら進んで正神官になった訳だが。

「ケアン、君は勉強が好きだって言っていたね」

「え……? う、うん」

 何の前振りもなく話を振ったからか、その空色の目を丸くしながら、ケアンはこくりと頷いた。

 ルネットの言葉がいつの言葉を受けたものか気付いたのか、少し考え込むように沈黙した後、すぐに言葉を続ける。

「ルネットが言う、『知らない事を知る』事とは違うのかもしれないけど……」

「そうだね。僕は普通の勉強は嫌いだ。算術なんて、やってると頭が痛くなる始末だよ」

 あっさりと勉強嫌いを認め、ルネットは笑った。

 思えば、神官になった理由を誰かに話す事は初めてかもしれない。とても肌に合っているとは言えない神官の世界に入ろうと思った理由。それは──。

 何故ケアンがそんな事を尋ねてきたのか不思議に思いつつ、ルネットは口を開いた。

「──僕にはね、壮大な夢があるんだ」

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