心の扉(3)
知らない場所、知らない人。
語られる、自分の知らない『自分』。そして向けられる自分ではない『自分』を見る目。
大きな流れに逆らう力もなく、ただ流れて行くだけ。幼い身でそれは、一体どれ程の恐怖だろう。
いっそ、『神童』という名に溺れられる程に育っていたなら良かったのだろう。せめて見出されるのが、もっと後だったなら。
──けれどもう、ケアンの時は動き出してしまっている。
「……これが確かであるとは限らないけれども」
迷いは、消えた。
この決して短くはない道中を共にする者として、少しでもケアンの抱えた不安を解消してあげたい一心で、ルネットは自分の思いついた可能性を口にした。
「君は、もしかして古代語が読めるんじゃないのか?」
「古代……語?」
その単語を初めて聞いたかのように、ケアンが不思議そうに繰り返す。
「うん。今じゃ呪術師くらいしか知る者がいない古い言葉だ。あいにく僕は学がないもんでね。ここでそれを確かめる事は出来ないけども……多分、君が読んだ本は古代語で書かれた本じゃないかと思う」
それはあくまでも可能性の一つ。
しかし、主神殿に置かれている蔵書で、読めるだけで特別視される物として考えられる物はそれくらいしか思いつけなかった。
太古の時代の言葉で書かれたそれらは、現代の文字とはあまりにもかけ離れていて、今では読める者は数少ない。しかも当時は全て手書きである。それぞれの手癖も加わる為、余計に難解な物となっているという。
今も術にその言葉を用いる呪術師もその多くが口伝で伝わっている為、文字自体を正確に知る者はろくにおらず、仮に読めたとしてもその意味まで理解する事が出来る者はさらに限られるそうだ。
もし、その能力が備わっているのだとしたら──大神殿が欲しても、不思議ではないかもしれない。だが、一方で謎にも思う。
(神殿はこんな小さな子供や、呪術師の協力を請うてまでして、一体何を探しているんだろう……)
かなり以前から、神殿が山のような蔵書から『何か』を探し出そうとしている事はルネットも知っていた。それが何なのかまでは、地方の一神官であるルネットには預かり知らない所だが……。
「もし、そうなら──君はもっと自信を持っていい。神殿は純粋に君の能力を評価して、大神殿に召喚したという事だからね」
「ぼくの…能力……?」
「ああ、そうだとも」
励ますように肩を叩き、殊更明るい口調でルネットは続けた。
「それでも不安なら、はっきりと問いかけるべきだ。相手が神殿の長である主席神官様であろうとね!」
「え、で、でも……っ」
流石に乱暴な結論だったのか、ケアンの方が慌てる。その顔から先程まであった不安が多少なりとも消えた事を確認して、ルネットはきっぱりと断言した。
「大丈夫だ! 君にはそうする権利がある!」
「権利……?」
「だって、そうだろう。もしかしたら焦ったのかもしれないが、神殿は君に選択の余地を与えるのを忘れているんだからね」
今までのケアンとのやり取りだけでもそれは明白だった。
本人が何の為にはるばる北の果てから大神殿に行くのか理解しないまま──つまり、きちんと説明する時間も、さらには自覚させる時間も与えずに──先へ先へと進ませているのだから。いくら相手が幼い子供だからと言っても、これは明らかに周囲の先走りとしか思えない。
──この幼さで大神殿などに入れば、ケアンが将来神官以外の人生を選択する事はまずないだろう。神殿しか知らずに育った人間が、敢えて未知の世界で生きようと考えるとは思えない。
ルネットが神官の道を選んだのは、興味の対象が神殿にあったからだ。それがなかったら故郷に戻って、ばかをやったり農作業をしたり、適当な所で嫁を貰って、子供が出来たり孫が出来たり──そんな風に、おそらくごくありふれた人生を送った事だろう。
神殿に入るのが少々遅かったというのもあるだろうが、少なくともそんな想像が出来るくらいには、選択肢が与えられていた。
だからこそ。
「いいかい、ケアン。これは年長者からの忠告だ」
自分でもどうして数日ほどしか一緒に過ごしていないこの子供に、ここまで心を砕くのかわからなかった。特別子供好きでもなかったはずだし、お節介を焼くのは性に合わないはず。
それでも放っておけない何かが、ケアンにはあった。
「あまり、人を怖がらない方がいい。僕のように何にでも首を突っ込めとは言わないけどね。一人という事に……『特別』というものに、あまり慣れ過ぎるのは良くないと思う。君の立場を考えると、人に対して臆病になる気持ちはわからないでもないがね」
「おくびょう……」
繰り返した顔は、何処か神妙なもの。それはまるで、確かにそうかもしれないと納得しているかのように見えて──反射的にルネットはその額を指で小突いていた。
ビシッ。
「そこで簡単に納得しない!」
「~~~ッ!?」
何の前触れもなかったせいか、それともそんな事をされたのが生まれて初めてだったのか、ケアンは驚きを……正確には、痛みを隠さなかった。
両手で額を押さえ、涙目でルネットを物問いたげに見つめてくる。
実際、直接的な暴力を禁じられた神官の身で、そんな激しいツッコミを入れるのはルネットくらいのものである。
うっかり手加減するのを忘れたルネットは心の中で冷汗をかきつつ、しどろもどろに言い訳を口にした。
「え、えーと……、ともかく、今のは……そう! いわゆる『愛の鞭』だ!」
「……」
なんだかとても乱暴な理屈というか、言い分のような気がする──と言うか、とても痛かったのだが。取り合えず何か自分が間違ったらしい、と素直なケアンは自分を納得させた。
「……もしかして、違う、と言うべきだったんですか……?」
「その、まあ、そこまでの覇気があれば望ましいというか……」
とは言っても、最初からそんな覇気があったら、今頃ケアンはこんな所にまで来ていなかったに違いないのだが。
「つまりだな。嫌だと思ったら、ちゃんと相手に伝えろという事だね」
「でも……。そんな事、失礼になるんじゃ……」
「だから子供のくせにそこで妙な遠慮をしない!」
むに。
「……???」
「……す、すまん。反射的に手が。今のは……その、いわゆる『教育的指導』だ、うん」
何が起こったのかいまいち理解出来ていない様子のケアンの顔から、両頬をつまんだ手(辛うじて横に引っ張る前に我に返った)を外しつつ、ルネットは下手な言い訳を述べた後に、はあ、と小さくため息をついた。
これはどうも、ケアンの性格をもう少し前向きにする所から始めねばならないらしい。
(……まあ、先は長いし)
旅は始まったばかりで、旅の終着点はまだまだ先だ。それまでに自分に出来るだけの事はしようとルネットは心に決めた。
自分でも余計なお節介だとは思うが、どう考えてもこの様子では大神殿の百戦錬磨の『じい様』達にいい様に利用される気がしてならない。
それはそれでそういう人生もありだろうが、自分自身の心すらろくに守る術を持たない者に、せめて一つくらい、武器を持たせてやりたかった。
完全に扉を閉ざし、やり過ごす事も確かに一つの方法だ。けれどそれではあまりにも勿体ない。世界には──世の中には、きっとケアンの心を動かし、成長させる物がたくさんあるに違いないのだから。
簡単に『武器』と言っても、それが何かまではまだルネットにも掴めていないが。それでも何かはあるはずだ。うっかり人生の貧乏くじを引いてしまった、この気の毒な『同胞』の為の武器が。
「よぉし、取りあえず先を急ぐか!」
未だに状況がわかっていないケアンが見ている事にも気づかず、一人張り切るルネットはさっさと歩き出してしまう。
──彼の思う、ケアンの為の『武器』がすでに効果を発揮している事に気付かずに。