心の扉(1)
ケアン七歳、大神殿入りの道中篇。
ケアンが北の主神殿から帝都の大神殿へ向かった時の物語です。
「見えてきた」
「……?」
北領から帝都へと至る主街道は、多少歩きやすいように整えてあるとは言え、険しい山岳地帯を抜ける事もありその道程が厳しい事で特に知られていた。
自然と口数が減るその道のりで、久し振りに口を開いた連れの言葉に、じっと地面を睨んでいた目を上げる。そこはまさに山頂付近で、進行方向に広く何処までも広がる平野が見渡せた。
「ほら、見るといい。あれが、君がこれから行く帝宮だ」
言いながら指で指し示す方向には、確かに街並みが存在していた。灰色の石造りが多い北領のものとは異なる、赤や白の煉瓦が目立つ。それだけで違う世界へ紛れ込んだような感覚がした。
「帝……宮……」
耳慣れない単語を無意識に反芻しながら、その場所をまじまじと見つめたケアンは、やがてその目を大きく見開いた。
「大きい……!」
思わずそんな感嘆の声が零れた。
明るい色彩の街並みの中央に、ここからでもわかるほどに広い敷地といくつもの建物を内包した場所がある。おそらくそれが、帝宮──皇帝がおわす場所に違いない。
普通に生活している限り、この世界を統べるとはいえども、『皇帝』という存在は遠いものだ。先日、帝都にある大神殿へ入る事が決まった時でさえ、特に意識には昇らなかったけれど──。
「あそこに、皇帝陛下がいらっしゃるのですか?」
今更ながら自分がそんな雲の上の存在がいる場所近くへ行くのだという意識が芽生え、微かな興奮を覚えながらそう尋ねると、今まで共に旅をしてきた付き添い役の青年神官は少し驚いたような顔をした。
(あれ……?)
自分は何か変な事を言っただろうか?
そんな心配が胸を過ぎったが、それは杞憂だった。浅黒く日焼けした顔に何かを面白がるような笑顔を浮かべ、彼は何故か感心したように頷いた。
「ふうん、何だ。そういう顔もちゃんと出来るんじゃないか」
「え?」
言われた言葉の意味がよくわからない。困惑を隠せずに彼の言葉を待つと、十は年上の彼はさらに訳のわからない事を尋ねてきた。
「ところで、君。知らない事を知る事は好きかい?」
「はい?」
──北の主神殿を発って、もう数月。
子供の足の上に北の街道は難所が多く、この山を越えても先程見た帝宮まで軽く一月以上はかかるだろう。その長い道中、幾度か付き添い役は代わり、彼と引き合わせられたのは実に数日前の事だ。
その間、必要最小限の会話はしてきたものの、今のように彼が気安く話しかけてきた事はなく、ケアンもどう接して良いのかわからずに後を着いてゆくばかりだった。
思えば、きちんとした自己紹介すらしていない。
知っている事と言えば、彼がルネットという名前であること、この山裾にある地方神殿の正神官でこの山岳を越える神官達に水先案内人として付き添う事を専門的にしていることくらいだ。
何しろこの街道を通って大神殿に入るのは、普通はそれなりの経験と年齢を重ねた神官である。老齢に差し掛かった者も少なくない。
神官である以上、賊の類や獣の襲撃を恐れる必要こそないが、いかに聖晶も老化に関しては何一つ効果はないし、ついでに方向感覚も補佐してはくれない。そして意外と盲点だが、直接の災厄ではないからか、病や飢え、乾きに対しても何の力も持たないのだった。
山の気候は気まぐれだ。さらに北領は僅かな平野部ですら夏でも涼しいほどで、山頂付近には雪が残っている場所だってある。
──詰まる所、道に迷って遭難すれば神官だろうと死ぬ。
そんな厳しい山道を進むには方向感覚に優れ、柔軟な対応能力を持つ案内人が必要不可欠なのだ。
簡単に受けた説明によると、青年──ルネットは元々この付近の出らしく、神殿に入ったのも十歳と通常よりも少々遅かったので険しい山道にも慣れているし、さらにこの周辺の地理には明るいのだそうだ。
そんなルネットと連れだって数日。時折こちらを気遣ってはくれたが、基本的にひたすら黙々と歩くばかりだったのである。てっきり無駄口を嫌う真面目な人だと思っていたのだが──よもや、こんな突拍子もない言動をする人だったとは。
「えと、……勉強は、好き、ですけど……?」
困惑しつつも何とかそれだけを答えると、彼はやれやれ、と言わんばかりに肩を竦めた。
「僕が聞いたのはそういう事じゃないんだがね。……まあ、勉強好きというのは良い事だよ。好きでいるに越した事はない」
「……はあ」
「はっきり言わせて貰うと、僕は子供らしくない子供は好きじゃない」
そうなんですか、としか言いようがないほどにきっぱりと言い切られる。それはすなわち、多少婉曲的ながらも自分の事を言っているのだと聡いケアンはすぐに理解する。
──大神殿始まって以来、最年少の大神殿入り。
それがどんなにすごい事なのかなど、当事者ではあるものの、ケアンにはよくわからない。
地方神殿から主神殿に移ったのも、そして主神殿から大神殿へ移る事になったのも、自分の意志とは関係のないところで決まった事だからだ。
それでも、その事を好意的に見てくれない人がいる事はわかる。
まだ世間一般の常識すらわきまえていない子供に、何処よりも規律の厳しい大神殿で見習いが勤まるのかと難色を示す神官達を今まで立ち寄った地方神殿で幾人も見てきた。
面と向かって言ってくる者こそいなかったが、そういうものは自ずと伝わって来るものだ。だが、ルネットはそうした神官達とはまた違った見解を持っていた。
「子供は多少、悪ガキでいいと思うわけだよ」
「わ、悪……?」
今まで嘗てないほどに砕けた──はっきり言うと神官とは思えない──言葉に耳を疑った。一瞬、言っている意味がわからなかったほどだ。
「ええと……?」
「取り澄ました子供なんて、可愛げも何もあったもんじゃない。頭でっかちな子供より、頭が少々空っぽな方がいいに決まってる。何も知らない子供の時にしか見えない物だってあるはずなんだ」
ずばずばと気持ちが良い程に自説をぶちかます彼の顔は、随分と楽しげで。遠まわしに貶されているのかもしれないが、不思議と嫌な感じがしなかった。
「──と思っている所に、君の付き添い役に指名されただろ? 正直な所、僕が一番嫌いなタイプの子供だろうと……まあ、そう思い込んでいたんだ。何しろ、引き合わされる前から君の色んな噂を聞き及んでいたしね。主座神官様のお気に入りだとか、それで大神殿入りすると目されていた補佐神官長を差し置いて大神殿に入っただの、色々ね」
「……そうなんですか」
「うん。引き合わされた時の挨拶からして、何となく卒のない感じもしたし。こりゃ鼻持ちならん子供だと思ったんだが……。でもそれは僕の勝手な思い込みだったようだな。済まない、君は単に礼儀正しく真面目な子供だったんだな」
「ええと……?」
当事者を置いてけぼりにして、さくさくと自分で納得してしまうとルネットはそのままぺこりと頭を下げた。
今までの無口な様子が嘘だったかのような──むしろ、今まで黙っていた分を取り戻すかのような勢いだ。ケアンはその間、口も挟めず、ひたすら疑問符を飛ばす以外に何も出来なかった。
結局の所──何やら誤解が生じていた、という事なのだろう。
自分の事が良くも悪くも噂されている事は知っていたが、こうして面と向かってそれについて言及した上で頭を下げた人間など今まで一人もいなかった。
(──変な人だ)
最終的な感想はその一言に尽きた。そしてケアンもまた、彼に対する認識を改める。
「こちらこそ、済みません」
倣うように頭を下げて謝ると、ルネットは心底不思議そうな表情で軽く首を傾げた。
「んん? 何故ここで君が謝るんだい?」
「あの、ぼくも、あなたの事を誤解していたから……」
「ほう。でもまあ、それは仕方ない。今までの僕の行いを顧みるに、少なくとも好感は持たなかっただろうしね」
けろりとした表情で言い切ると、にっと意味ありげに笑う。
「?」
「ちなみに僕は素直な子供も好きだよ。その点、君は合格だね」
「……ありがとうございます?」
「いや、今のは礼を言う所じゃないと思うが。そうか、天然気味でもあるのか……。ふむ、なかなかの逸材だな」
「???」
ケアンの理解出来ない所で一人納得すると、ルネットは表情を改めた。
「最初の質問の答えに戻ろうか。そう、あの一つだけでっかい建物に皇帝陛下がいる。……と言っても僕は中に入った事はないから、建物のどの辺りにいるかまでは知らないけどね。そして……あの敷地内のある大神殿に君は入るんだ。もしかしたら皇帝陛下と顔を合わせる事もあるかもしれないな」
「……っ」
言われてみてようやく、その途方のなさに気付く。
皇帝の身近な場所へ行くのだ、という意識はあったものの、顔を合わせる可能性がある事にはまったく認識が回ってなかったのだ。
普通の人間は存在は知っていても、死ぬまで目にする事はない──皇帝はそんな遠い存在なのだ。おそらく立ち位置としては自分達が信仰する神・ラーマナとさほど変わらない。神官であっても、大神殿にでも入らなければ皇帝など拝む機会はないだろう。
不意に今まで感じていなかった心細さが湧き上がった。何だか──とても遠い場所に一人で取り残されるような。
「おや……、今更怖気づいたかい?」
緊張と不安が表情に出ていたのか、からかうように声をかけてくる。
「怖がる必要はないさ。一応、皇帝陛下も僕等と同じ人間なんだから」
聞きようによっては暴言にも取られかねない一言を吐いて、ルネットはケアンの肩をポンポンと励ますように叩く。そうした気安い態度で接してこられた事は神殿に入ってからは数える程しかなく、純粋にケアンは驚いた。
思わず自分より上にある顔を見上げると、健康的に焼けた浅黒い顔が笑っている。何故かそれだけで、先程感じた心細さが消えていった。
「君が相応の好奇心さえ忘れなければ、何処だって大丈夫だ。僕が保証しよう」
「好奇心……ですか?」
「そう、『知らない事を知りたい』って気持ちだ。それが過ぎるとあまり良くはないが……差し当たって、初対面の人間の名前を知りたいと思うくらいの気持ちは必要だと思うね。特に君のような子供は」
「あ……」
そう言えば、彼とはろくに自己紹介もしていなかった。初対面の時にその機会はあったのだが
『あの、大変かと思いますがよろしくお願いします』
『ああ、よろしく』
という実にあっさりとした挨拶を交わしただけで、そのまま道中の打ち合わせに入ってしまい、自分の名を名乗る機会を失ってしまったのだ。
彼の名前は知っているが、姓をなんと言うのかまでは知らないし、逆に向こうも自分の名前を知っているのかさえ怪しい。
途中で何度か尋ね、また伝えようと思ったのだが、ただでさえギクシャクしていたのがさらに悪化しそうな気がして何となくしそびれていたのだ。
「まあ、今回は僕にも責任がある。変に懐かれたくないって思っていたから、会話する暇も隙も与えなかったし」
悪びれた様子もなくさらりと言い切り、ケアンは呆気に取られた。
どうもルネットは変わっているだけでなく、誰に対しても平等な友愛の心を持つべしという神官の在り方から逸脱している気がする。
「という事で今更だが自己紹介しよう。僕はルネット。ルネット=ボーシュ=チオン。年は十ハ歳だ。君は?」
「ケ、ケアン……ケアン=リール=ピアジェ、です。年は七歳です」
「合格」
白い歯を見せて笑うと、ルネットはその大きな手を差し出してきた。おそろおそる手を握ると、力強く握り返してくる。
「改めてよろしく、ケアン。ここから帝都内の地方神殿まで、無事に君を届けられるよう尽力するよ」
「こ……こちらこそ、よろしくお願いします」
「うーん……。まだ硬いなー。まあ、仕方がない。その辺りはこれからの道中で改善して行くとしよう」
(改善、って、……どうするんだろう)
やはり訳がわからない。
それでも、それまでにない気持ちが自分の中に生まれた事を自覚する。心が、浮き立つような。それは随分と久し振りに味わう気持ちだった。