表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

花言葉シリーズ

ミモザ ―貴方の名前も知らないまま、私はその声に恋をした。音信不通になり途切れた声、再会を告げる最後の朗読―

作者: 佳月
掲載日:2026/06/21



「琴音、もう寝なさい。明日も早いのでしょう」


 階下から聞こえる母親の厳格な声に、琴音は「はい、おやすみなさい」と、いかにも『聞き分けの良い娘』らしい声音で返事をした。

 部屋の明かりを消し、ベッドに潜り込む。厚手の遮光カーテンの隙間から、わずかな街灯の光だけが部屋に差し込んでいた。窓辺に置いた小さなミモザの鉢植えが、暗闇の中でかすかに揺れている。

 門限は二十時。外泊は禁止。派手な友人と遊ぶことも許されず、親の敷いたレールの上をただ静かに歩く日々。窮屈で、息が詰まりそうで、けれど反抗する勇気もない。

 そんな琴音にとって、ベッドの中だけが、世界で唯一の『自由な隠れ家』だった。

 琴音は枕元からスマートフォンを引き寄せ、使い古した有線のイヤホンを耳に差し込んだ。起動するのは、フォロワーがたった一人しかいない、音声配信アプリの鍵アカウント。

 マイクを口元に近づけ、親に聞こえないよう、毛布にくるまって小さな声で呟く。


「……こんばんは。今日も、あっという間に一日が終わっちゃいました。でもね、窓辺のミモザの蕾が、少しだけ膨らんでたんです。それが今日の、私だけの小さな特別」


 なんてことのない、誰の目にも留まらない日常の吐露。

けれど、録音を終えて投稿ボタンを押した数分後──画面に小さな通知が灯った。


『こんばんは、ミモザさんの声はやっぱりいい声だね。ざわざわした心がすっと落ち着きます』


 コメントの主のアカウント名は、シンプルに『けい』。

 彼こそが、このアカウントにたった一人だけ存在するフォロワーだった。

 すぐに通話のリクエストが届き、画面をタップする。イヤホンの奥から、鼓膜を優しく撫でるような、低くて、少し掠れた心地のいい声が響いた。


『こんばんは、ミモザさん。今日も一日、お疲れ様』

「……こんばんは、慧さん。お疲れ様です」

『うん。今日も大変だった?』

「いつも通りですよ。でも、慧さんの声を聴けたから、なんだか元気になっちゃった。」


 イヤホンの向こうで、慧がふっと小さく笑う気配がした。その吐息の音さえも、まるで耳元で直接囁かれているように近くに感じる。

 本当は、お互いの顔も、本名も、何をしている人なのかも知らない。

 けれど、世界中の誰に本音を打ち明けるよりも、このイヤホン越しに繋がっている時間の方が、琴音にとっては圧倒的にリアルだった。


『……君の声、なんかホッとするんだよね。』


甘く、どこか切なさを帯びたその声に、琴音の胸がトクンと跳ねる。

これは家族には知られてはいけない、夜だけの秘密の逢瀬。この時の琴音はまだ、知る由もなかった。

 耳元で自分を優しく甘やかすこの声が、昼間は世界中を熱狂させている、あの天才声優・REIのものであるということを──。



「……よし、これで控室の準備はオッケーかな」


 11月、秋晴れの文化祭当日。

 琴音は、普段は教授たちが会議で使う大きな教室の前に立ち、小さく息を吐いた。胸元には『学園祭実行委員会』と書かれたネームプレートが揺れている。

 厳格な両親に「大学の公式行事だから」となんとか説得して勝ち取った、初めての実行委員の仕事。今回のゲストは、今アニメやSNSで爆発的な人気を誇るという声優・REIのトークショーだった。


(声優の、REIさん……。本当にすごい人気なんだな……)


 講堂へと続く廊下には、当選通知を持った同世代の女の子たちが、今にも泣き出しそうな顔で列を作っている。

 テレビもSNSも制限されて育った琴音には、その熱狂が少し遠い世界のことのように思えた。

琴音にとっての「大好きな声」は、世界にたった一人しかいないからだ。

 夕べのイヤホン越しに聴いた『慧さん』の声を思い出す。


『明日、ちょっと大きめの仕事があるんだ。上手くいくといいんだけど』

『応援してます。慧さんの声なら、きっとたくさんの人に届きますよ』

『……ありがとう、頑張るよ』


 いつも優しく、どこか寂しげに響く、私の大切なリスナーさん。

 琴音にとって、彼は何者でもない、夜だけの愛おしい秘密だった。


「琴音ちゃん! 悪い、受付の資料を講堂のステージ袖に届けてくれない!?」

「あ、はい! すぐ行きます!」


 先輩に呼ばれ、琴音は我に返って走り出した。

 資料を抱え、ゲスト控室の前の狭い廊下を急ぎ足で通り抜けようとした、その時。


 カチャリ、と重いドアが開く音がした。


「じゃあREIさん、そろそろステージ袖へ移動お願いします」

「よろしくお願いします」


 スタッフに促されて教室から出てきたのは、黒いキャップを少し目深に被った、背の高い男性だった。


(え──)


 琴音は思わず足を止めた。

 すれ違う、わずか数十センチの距離。彼がスタッフと喋りながら、琴音のすぐ横を通り過ぎようとした瞬間──。


「あ、ごめんね、そこ通るね」


 それは、スタッフを気遣う、なんてことのない軽い一言だった。けれど、そのトーンが、響きが、琴音の耳に飛び込んできた瞬間。ドクン、と心臓が爆発しそうなほど跳ね上がった。


(嘘……でしょ……?)


 芸能人には疎くREIという声優の声も聴いたことがなかった。

 それなのに、今、耳の奥を、脳の芯を激しく揺さぶったのは、毎晩毎晩毛布の中で、私だけに向けられていたあの優しくて甘いビロードのような低音──『慧さん』の声そのものだった。

 フリーズして動けなくなった琴音の横を、彼は何気なく通り過ぎていく。ただ、道を塞いでしまっていた実行委員の学生に気づき、彼は歩きながら顔だけをこちらに向け、キャップの隙間から綺麗に目を細めて笑ってみせた。


「頑張ってね」


 そのまま彼は、多くのスタッフを引き連れて、眩い光が満ちる講堂のステージへと歩いていってしまった。

 取り残された廊下で、琴音は抱えた資料を強く握りしめたまま、驚きで固まってしまった。

 直後、講堂から地鳴りのように湧き上がった大歓声が、壁を震わせて伝わってくる。


(慧さん)


 毎晩、誰もいない暗闇で、私の拙い言葉を優しく聴いてくれていた人。その正体が、今、何百人もの女の子たちを絶叫させている、あの「REI」というスターだったなんて。


(私の好きな人は……こんなに遠い、遠い世界の人だったんだ……)


 お祭りのような喧騒の中で、琴音は自分の小さな恋が、とんでもない秘密に繋がってしまったことに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。



 文化祭が幕を閉じた翌日。

 琴音は、緊張で冷たくなった手で、小さな紙袋と色鮮やかな色紙を抱えていた。

 厳格な両親に「昨日の学園祭の、実行委員としての最後の仕事だから」と告げ、許可をもらって向かった先。そこは、都心にある有名な声優事務所の受付だった。


「すみません、先日大学のトークショーに出演していただいた、REIさんへのお礼の品と、学生からの寄せ書きをお届けに参りました」

「あ、学園祭の実行委員の方ですね。ご丁寧にありがとうございます」


 丁寧に対応してくれる事務所の女性に、琴音はぺこりと頭を下げた。本当は、ここに来るのが怖かった。彼は雲の上の存在だと知ってしまったから。でも、実行委員としての役目を果たすため、そして何より、「もう一度、彼を見てみたい」という小さな下心が、琴音の背中を押してしまっていた。


その時だった。


「お疲れ様でーす。……あ、姉さん、次の現場の資料って──」


 奥の廊下から、軽い足取りで歩いてきたのは、昨日とは違うラフな私服姿の慧だった。

 キャップを被っていない彼の髪は少し跳ねていて、ステージの上の完璧なスターではなく、どこか夜のアプリで話す『慧さん』の雰囲気を残している。


「あ、REI。ちょうど良かったわ。先日の大学の実行委員の方が、わざわざお礼を届けにきてくれたのよ」


 マネージャーに促され、慧が「え?」とこちらを振り返る。琴音の心臓が、耳の下でうるさいほどに脈打ち始めた。ばれたらどうしよう、でも、気づいてほしいような──。

 慧は「わざわざありがとうございます。」と、爽やかな笑顔で琴音に近づいてくる。琴音は俯き、震える声をなんとか絞り出して、彼にお礼を伝えた。


「いいえ……。あの、REIさんの朗読、本当に素敵でした。……これからも、頑張ってください。応援してます。」


 それは、ほんの一言。


 いつもの『聞き分けの良い娘』の仮面を脱いだ、琴音の、優しくて、少し引っ込み思案な──ありのままの言葉

 その瞬間、慧の身体が硬直した。


(──え?)


 慧の脳裏に、強烈なフラッシュバックが起きる。

 毎晩、仕事に擦り切れた自分を癒やしてくれる、世界で一番大好きな、あの「ミモザ」の声。イヤホン越しに、何十回、何百回と愛おしく聴き続けた、あの唯一無二の響き。


(……この声、ミモザ……!?)


 慧は衝撃のあまり目を見開き、目の前の小柄な女の子を凝視した。俯く彼女の胸元には、昨日の大学の実行委員ネームプレートが揺れている。そこにある名前は──『琴音』。


「君、もしかして──」


 慧が震える手で彼女の肩に触れようとした、まさにその時。


「REIさん! 車回しました、次の現場遅れます、急いでください!」


 別のスタッフが廊下の向こうから血相を変えて走ってきた。


「あ、ちょっと待って、今──」

「ダメです、生放送遅れます!」


 有無を言わさず、慧はスタッフたちに引っ張られるようにしてエレベーターへと連行されてしまう。

 閉まる扉の隙間から、慧は必死に琴音を見つめていた。その目は「見つけた」という確信に満ちていた。



 しかし、運命は残酷だった。

 その夜、事務所への訪問やお礼の片付けで、琴音の帰宅は20時半を過ぎてしまった。

 玄関のドアを開けた瞬間、リビングで腕を組んで待っていた父親の怒号が響いた。


「門限を過ぎて何をしている! 大学の行事にかこつけて、夜遅くまで浮つくなど、我が家の娘として許さん!」

「お父さん、これは実行委員の仕事で……」

「言い訳するな!」


 父親は琴音の手から乱暴にスマートフォンをひったくった。


「当分、これは没収だ。反省しなさい!」


 自室に閉じ込められ、静まり返った暗闇の中で、琴音はベッドに突っ伏して涙を流した。


(スマホがない。アプリが開けない。これじゃあ、今夜、慧さんとお話することができない──)


 同じ頃、連絡の途絶えた「ミモザ」のアカウントを前に、慧もまた、激しい焦燥感の中にいた。


「彼女が……琴音ちゃんがミモザだ。間違いない。……なのに、なんで繋がらないんだ……!」


 繋がらない糸。遮断された世界。二人の距離は、すぐ近くまで迫ったはずなのに、ここで途切れてしまった。



 スマートフォンを奪われてから、3日が過ぎた。

 夜のベッドの中は、息が詰まるほど静かで、冷たかった。慧さんの声が聴こえない毎日は、世界から色が消えてしまったかのようだった。


(せめて、お仕事の時の声だけでも、聴きたいな……)


 日曜日。琴音は「大学のレポートを作成する」という名目で、ノートパソコンを自室に持ち込み開いた。

 ブラウザからアクセスしたのは、毎週日曜日の夜に生放送されている、声優・REIの冠ラジオ番組。

 番組の中盤、大人気の「即興一人朗読劇」のコーナーへ向かうため、番組は一度CMへと入った。


──その時だ。


 カサリ、とイヤホンの奥で、マイクが服に擦れるようなリアルな雑音が混じった。CM中のはずなのに、BGMの裏で、低く掠れた、ひどく切羽詰まった声が漏れ聞こえてくる。

 慧は、マイクが生きているとも知らずに、スタジオのスタッフに向けてぽつりと言い訳のように洩らした。


『……連絡つかなくて……。俺、あの「ミモザ」の声がないと、もう駄目みたいだ』


 ドクン、と琴音の心臓が大きく跳ね上がった。それはファンを魅了する『REI』の演技ではない、あの夜のアプリの時と同じ、剥き出しで脆い『素の慧さん』の声だった。直後、スタジオ側が気づいたのかブツッとマイクの音が絞られる。

 ネット上は一瞬で蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。


「今の声何!?」

「ミモザって誰!?」


 数秒後、緊迫した空気のままCMが明けた。スタジオのREI(慧)の声は、一瞬だけ激しく上ずっていたが、マイクを引き寄せると、あえてフッと不敵に笑ってみせた。


『──はーい、CM明けました! REIの1人朗読劇のコーナーです!あはは、みんな驚いた? さっきのCM裏の声、実は今回の朗読劇の主人公の、一番お気に入りのセリフを練習してたんだよね。……それじゃあ、始めようか。今日の物語を』


 慧はその場の即興で、手元にある台本のヒロインの名前をすべて『ミモザ』へと書き換えた。そして、圧倒的な熱量で演じ始める。


『……どこに行っちゃったんだよ、ミモザ。お願いだ、俺の前に現れてくれ。──俺、あの「ミモザ」の声がないと、もう駄目みたいだ』


 自分の本音を完全に物語のセリフとして昇華させ、切なく、狂おしいほどの表現力で演じきったのだ。

 ネット上のファンたちは一転して大熱狂に包まれた。


「さっきのは朗読劇の練習をしてたの!?」

「天才すぎる!」

「ミモザってヒロインの名前なんだね!」


 けれど、パソコンの前で息を呑んだ琴音の目からは、涙が溢れて止まらなかった。

 ファンはREIの練習していた所が放送事故で洩れたのだと思って歓喜している。でも、琴音には分かった。彼は、自分を探してくれているのだと。


(慧さん……会いたいな、私も声を聞きたいよ……)


 スマホはない。アプリも開けない。このパソコンには、オンライン授業用のマイクがついている──。



 次のラジオ生放送の前日。土曜日。

 琴音はノートパソコンの前に座り、震える手でマイクの録音ボタンを押した。親に声が漏れないよう、毛布を頭から被り、自分の「声」をデータに吹き込んでいく。


「REIさん……いえ、慧さん。私、ここにいます。スマホを親に取られてしまって、アプリが開けなくて……。でも、今も、ちゃんとあなたのラジオを聴いています。届いて、お願い……」


 録音した音声ファイルを、番組の『緊急お便り募集コーナー』のメールフォームに添付し、送信ボタンを押した。



慧はラジオに向けて打ち合わせをしていた。


「REIさん、明日のラジオのお便りフォームに、タイトル『ミモザ』っていう音声ファイルが届いてます。内容的にはREIさん宛てかなとは思うんですが聞かれますか?」


とスタッフからヘッドホンを渡された。再生ボタンを押した慧の耳に、ずっと探していた、世界で一番愛おしいあの「ミモザ」の声が届く。


『──スマホを親に取られてしまって……でも、今も、ちゃんと聴いています』

「……っ!」


慧は溢れそうになる涙を手の甲で手荒に拭うと、プロの顔に戻った。



 翌日の日曜日ラジオのエンディング。ファンからのリクエスト台詞を読むコーナー。

 慧はマイクの向こうのリスナーに向けて、悪戯っぽい声で語りかけた。


『さて、番組のラストなんですが……なんと先週僕がやった即興朗読劇「ミモザ」が、もの凄く大反響だったみたいで! ありがとうございます!そこで緊急大発表! なんと、あの物語の“エピローグ”をボイスドラマ化しちゃいました! 明日、公式YouTubeで配信スタートになります! 今夜は特別に、その冒頭のサンプルボイスを、どこよりも早く生披露しちゃいます。……心の準備はいいかな??』


 完璧な、プロの声。けれど、彼はカメラの向こうにいる「たった一人の女の子」を見つめるように、今の自分の本気の想いを重ね合わせて、サンプル原稿のセリフを紡ぐ。


『──先週はお騒がせしたけれど、僕の片想いは、ちゃんと届いていたみたいだ。 だから明日、僕たちの出会った記念日と同じ「15時」に、「あの黄色い看板の教室」の前で待っているね。僕の好きな物語の続きを、今度はちゃんと、君の生の声で聞かせてよ。』


パソコンの前で琴音は息を呑む。


「黄色い看板の教室」──あの日、二人が初めてすれ違った、あの大学のゲスト控室。


(これは宣伝にカモフラージュした慧さんからのメッセージ??)


『それでは、お相手はREIでした。明日の15時をお楽しみに。また来週!』


 番組のエンディングBGMとして流れてきたのは、音声アプリの通話の中で、二人が「この曲、すごく綺麗だよね」と笑い合っていた、誰も知らないマイナーな洋楽のメロディ。ヘッドホンを外した慧は、愛おしそうに画面の向こうへ微笑むのだった。



 翌日の、月曜日。

 ネット上では「あと1時間でREIくんのミモザ・エピローグが公開される!」と、ファンたちがソワソワしながら15時までのカウントダウンを始めていた。

 そんな中、琴音は親に「文化祭の片付けの最終報告があるから」と小さな嘘をつき、昼間のキャンパスを歩いていた。

 スマホを持たない琴音の手元には、時間を確認するための古い腕時計だけ。

 カチ、カチ、と秒針が重なり──ついに、15時を指した。

 世界中のファンが一斉にYouTubeの再生ボタンを押したであろうその瞬間、琴音があの日、慧の声を初めて生で聴いた、あの「黄色い看板の教室」の前に辿り着く。


 静まり返った廊下。

 あたたかい初夏の太陽の光が、窓から床へと白い四角を作って降り注いでいる。

 その光のなかに、私服姿の男性が一人、静かに佇んでいた。

 黒いキャップを目深に被っているけれど、その洗練された佇まいは、間違いなく彼だった。ファンがネットの向こうで彼の声を聴いている今、彼は本当に、この場所に立ってくれていたのだ。


 トツ、と琴音の靴が音を立てる。


 そのわずかな気配に気づき、彼がゆっくりと顔を上げた。キャップの隙間から覗くその瞳が、琴音を捉えた瞬間、愛おしそうに、くしゃりと細められる。

 慧は一歩、琴音へと近づき、あの夜のアプリの時と同じ、剥き出しの優しいトーンで微笑んだ。


「……やっと会えたね。ミモザさん?」


 芸能人のことなんて何も知らない。けれど、目の前にいる人のこの「声」だけは、誰よりも知っている。堰を切ったように、琴音の目からポロポロと涙が溢れ落ちた。


「……初めまして、慧さん。ミモザです。また会うことができて嬉しい」

「うん、俺も」


 慧は愛おしそうに手を伸ばし、琴音の小さな、少し震える手をそっと包み込んだ。その手のひらは、驚くほどあたたかい。

 慧は周りに誰もいないことを確認すると、彼女の耳元にそっと顔を寄せ、悪戯っぽく、けれど世界で一番甘い声で囁く。


「ラジオ、最後まで聴いてくれてありがとう。もうスマホがなくても、こうして手を繋げるから、迷わないよ。……これからは俺の隣で、君の声をずっと聴かせてくれない?」

「はい……っ!」


 

イヤホン越しに始まった二人の逢瀬は、あたたかい光の中で、もう誰にも邪魔されない「本物の恋」へと変わるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ