第7話 正しさは、守るほど窮屈になる
授業中も自然に距離を詰めてくるリリアに対し、エルネアは戸惑いながらも応じてしまう。自分がどう見られるかを優先してきたはずなのに、感情が先に動く瞬間が増えていることに気づき始める。さらに周囲からも変化を指摘され、計画に混じり始めた“予定外”は、もはや無視できないものになっていた。
放課後の空気は、昼よりもずっと正直だ。
授業が終わり、帰る者、残る者、誰かと話す者。人の流れがばらけるぶん、関係も露骨になる。教室に残る顔ぶれだけで、その日の“距離”がなんとなく見える。
今日は、残る側だった。
「エルネア嬢、少し付き合ってくれる?」
声をかけてきたのはルーカスだった。椅子を逆にまたがるように座り、こちらを見ている。あの姿勢でよく教師に注意されないものだと思う。
「内容によるわ」
「雑談」
「信用できないわね」
「ひどいなあ。カイエルと同じ扱い?」
「同列にしないでほしいわね。あちらは観測、あなたはただの思いつきよ」
「それ、だいぶ評価低くない?」
ルーカスは笑いながら立ち上がった。否定する気はないらしい。むしろ楽しんでいる顔だ。
「まあいいや。歩きながら話そうよ」
「断る理由はあるのだけれど」
「あるのに断らないの、優しいよね」
その言い方が、最近どうにも引っかかる。
優しい、という評価をされるたびに、私は反射的に否定する。だが完全に否定しきれていないのも、自覚している。
面倒だ。
「……少しだけよ」
「やった」
軽い返事だった。勝手に喜ばないでほしい。
校舎の外へ出ると、夕方の光が少しだけ赤みを帯びていた。中庭を抜け、人気の少ない裏庭へ向かう。昼とは違い、人の気配がほとんどない。話をするには都合がいい場所だ。
ルーカスは途中で立ち止まり、くるりとこちらを振り返った。
「で、さ」
「何かしら」
「エルネア嬢って、“正しいこと”好きだよね」
またそれだ。
私は一瞬だけ目を細める。
「好き、という言い方は正確ではないわね」
「じゃあ何?」
「必要なだけよ」
「へえ」
ルーカスは少しだけ首を傾げた。
「必要だから、やってる」
「そう」
「じゃあさ、それって楽しい?」
その問いに、私はほんの少しだけ考える。
楽しいかどうか。
そんな基準で、今まで動いてこなかった。
「楽しい必要はないわ」
私は答える。
「正しいことを選べば、結果が出る。それで十分でしょう」
「結果が出たら、満足?」
「満足、というより――納得、かしら」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ違和感があった。
納得。
それは前世で求めていたものだ。結果を出し、評価され、認められて、ようやく得られるはずだったもの。
けれど、私は納得できないまま死んだ。
「納得ねえ」
ルーカスがぽつりと呟く。
「それって、最後にできればいいやつ?」
「……何が言いたいの」
「いや、単純に疑問」
彼は少しだけ空を見上げた。
「納得するためにずっと我慢して、最後に“これでよかった”って思えたら勝ち、ってこと?」
「極端ね」
「でもそんな感じじゃない?」
否定しきれなかった。
私は無意識に視線を逸らす。
「それが効率的よ」
代わりにそう言った。
「無駄な選択を減らして、最短で終わる」
「終わる、か」
ルーカスが小さく笑う。
「やっぱりそこなんだね」
「そこ、とは?」
「終わることが前提」
心臓が、ひとつだけ強く鳴る。
そこを突くのか。
「当たり前でしょう」
私は平静を装って言う。
「人はいつか終わるものよ」
「そりゃそうだけどさ」
ルーカスは肩をすくめる。
「エルネア嬢の場合、“ちゃんと終わること”が目的になってる」
言葉が、少しだけ鋭くなる。
「……それの何が悪いの」
「悪いとは言ってない」
「なら問題ないでしょう」
「うん。でもさ」
ルーカスは、今度は真っ直ぐこちらを見た。
「それって、途中どうでもよくなるよね」
一瞬、言葉が出なかった。
途中。
その単語が、妙に重く落ちる。
「どういう意味かしら」
「そのままの意味だよ」
彼はあっさり言う。
「最後に納得できるかが大事なら、途中で何を感じたかって、あんまり関係なくなる」
「……」
「楽しいとか、嫌だとか、そういうの全部、“どうでもいい”に入る」
それは、私が今までやってきたことだった。
感情は後回し。
必要なら切り捨てる。
結果がすべて。
それが正しいと思っていた。
「でもさ」
ルーカスが続ける。
「それって、ちょっともったいなくない?」
その言葉に、私は眉をひそめる。
「もったいない?」
「うん」
彼は笑った。
「せっかく生きてるのに」
軽い言い方だった。
あまりにも軽くて、冗談みたいに聞こえる。
なのに。
その一言が、妙に胸に残った。
「……あなたらしいわね」
私は小さく言う。
「全部軽くするの、得意でしょう」
「軽くしてるつもりはないよ」
「そう見えるわ」
「それはエルネア嬢が重くしてるだけじゃない?」
返しが速い。
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
「正しさってさ」
ルーカスは少しだけ声を落とした。
「守れば守るほど、動けなくなるよね」
その言葉は、さっきまでのものよりずっと静かだった。
「こうしなきゃいけない」
「間違えちゃいけない」
「ちゃんと終わらなきゃいけない」
ひとつひとつ、言葉を並べていく。
「それ全部守ってたらさ」
彼は言う。
「途中で“これ嫌だな”って思っても、止まれないでしょ」
その瞬間、頭の中に前世の光景がよぎった。
終電。
資料。
上司の顔。
評価。
体調。
――止まれなかった。
止まる理由より、止まらない理由の方が多かった。
だから続けて、続けて、続けて。
そして、終わった。
「……」
私は何も言わない。
言えなかった。
「ねえ、エルネア嬢」
ルーカスが少しだけ顔を覗き込む。
「今の話、どう思った?」
どう思ったか。
そんなもの、決まっている。
否定したい。
全部違うと言いたい。
正しい選択を積み重ねることが、間違いなわけがないと。
でも。
完全には言い切れなかった。
「……極端よ」
私はようやく言葉を出す。
「全部が全部、そうなるわけじゃない」
「そっか」
ルーカスはあっさり頷いた。
追い詰めるでもなく、納得したふりをするでもなく、ただ受け取るだけ。
その態度が、逆に引っかかる。
「でも」
彼は最後に付け加えた。
「エルネア嬢がちょっとだけ止まりたそうに見えたのは、気のせいじゃないと思うよ」
――図星だった。
私は何も返さない。
返せない。
ルーカスはそれ以上何も言わず、くるりと踵を返した。
「じゃ、今日はここまでにしとく」
「……勝手ね」
「そういう役だから」
軽く手を振って、彼は去っていく。
一人になった裏庭は、さっきよりも静かに感じた。
私はその場に立ったまま、少しだけ目を閉じる。
正しさ。
納得。
終わり。
それが自分の軸だと思っていた。
でも今、その軸が少しだけ揺れている。
ほんのわずかだ。
崩れたわけではない。
ただ、ひびが入ったような感覚。
――ひび。
私は無意識に、自分のケースを取り出す。
黒薔薇は、いつもと同じ場所にある。
そして。
ひびは、確かに少しだけ進んでいた。
昨日より、わずかに。
だが、その伸び方が――
どこか、不自然に見えた。
まるで。
何かに引っ張られているみたいに。
私はその違和感から目を離せないまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。




