第6話 正しさは、近すぎると見えなくなる
お茶会翌日も噂は広がり、エルネアとリリアの距離は学園中に注目されていた。そんな中、カイエルはエルネアの変化を鋭く見抜き、彼女自身もまた否定しきれない感情のズレを自覚する。さらにリリアが囲まれる場面で反射的に助けに入ったことで、計画に感情が混じり始めた現実はもう見過ごせなくなっていた。
昼下がりの学園は、だいたい退屈にできている。
午前の授業が終わり、昼休みを挟んで午後の最初は座学。窓から差し込む光は柔らかく、教師の声は単調で、板書は綺麗すぎる。眠気を誘う条件としては満点だ。
――本来なら。
「ねえ、エルネア様」
小さな声が横から来る。
「これ、どこまで書けばいいですか?」
私は視線を落とす。リリアのノートは、最初の二行だけがやたら丁寧で、その下が急に雑になっていた。途中で分からなくなったのが丸分かりだ。
「そのまま最後まで写せばいいわ」
「最後まで、って」
「板書は途中で止まらないものよ」
「確かに」
納得するのが早い。だが手は止まったままだ。
「……分からないところがあるなら聞きなさい」
「聞いていいんですか?」
「聞かない方が後で面倒でしょう」
「それはそうですね」
素直に頷き、リリアはペンを持ち直した。ほんの少しだけ、彼女の体がこちらへ寄る。距離が近い。昨日より、さらに近い。
私は一瞬だけ息を止める。
やめてほしい。
そういうのは、本当にやめてほしい。
だがここで席をずらすと、それはそれで目立つ。周囲の視線は、相変わらず薄くこちらへ向いている。完全に無視できるほどではないが、露骨でもない。だからこそ厄介だ。
「ここ、なんでこの式になるんですか?」
リリアがノートを指差す。
「前の段階と繋がってるように見えなくて」
「繋がっているわよ。変形しているだけ」
「変形」
「この部分、共通項をくくっているでしょう」
「……あ、本当だ」
彼女の声が少しだけ明るくなる。理解した時の顔だ。
その顔を見て、私はほんの一瞬だけ思う。
――分かると、嬉しいのね。
当たり前のことだ。誰だってそうだ。けれどそれをこんなに素直に出せるものかと、少しだけ意外に思った。
「ありがとうございます、エルネア様」
「授業中よ」
「小声です」
「そういう問題ではないのだけれど」
それでも彼女は笑う。やはり距離が近い。思考より先に、感情が前に出るタイプだ。私とは真逆だ。
だから、やりづらい。
授業が終わると同時に、教室の空気が一気に軽くなる。椅子の音、会話のざわめき、移動する気配。その中で、リリアがすぐにこちらを見た。
「さっきの、助かりました」
「授業だから当然よ」
「でも、教えてくれる人とくれない人がいるので」
「あなたの場合、聞き方に問題があるのでは?」
「そうですか?」
「だいぶ」
即答すると、彼女はまた笑った。否定しないあたり、自覚はあるらしい。
「じゃあ、エルネア様の聞き方を真似します」
「やめなさい。混乱するわ」
「混乱するんですか?」
「あなたと私では前提が違うもの」
「前提?」
言葉を選ぶ。ここで雑に答えると、余計に距離が詰まる。
「私は、相手にどう見られるかを先に考える」
「私はあんまり考えてないです」
「知っているわ」
「でも、それってそんなに大事ですか?」
その問いに、私は一瞬だけ答えを探した。
大事だ。大事に決まっている。貴族社会では、見え方がすべてと言ってもいい。どれだけ正しくても、どう見られるかで評価は変わる。だから私は、常にそこを管理してきた。
前世でも同じだ。評価されるために、どう見えるかを計算して動いた。結果を出し、隙を見せず、正しい選択を重ねる。それが“完成”に近づく方法だと信じていた。
だから――
「大事よ」
私は言う。
「少なくとも、ここでは」
「でも」
リリアは少しだけ首を傾げた。
「そればっかり考えてたら、自分がどうしたいか分からなくなりませんか?」
言葉が、少しだけ引っかかった。
「……分からなくなる、とは?」
「だって、相手にどう見られるかって、相手のことじゃないですか」
「そうね」
「でも、自分がどうしたいかは、自分のことですよね」
当たり前のことを言っている。
当たり前なのに、その言い方が妙に残る。
「両方大事だとは思うんですけど」
リリアは続ける。
「エルネア様は、どっちが先ですか?」
どっちが先か。
そんなもの、決まっている。
私は迷わず答えようとして――ほんの一瞬だけ、言葉が止まった。
昨日、私はリリアの手首を取った。
あの時、どう見られるかを先に考えたかと言われれば、違う。
まず動いて、その後に“まずい”と思った。
順番が、逆だった。
「……状況によるわ」
結局、私は曖昧に答えた。
「常にどちらか一方というわけではないもの」
「そうなんですね」
リリアはあっさり頷いた。
「じゃあ、昨日はどっちでした?」
「昨日?」
分かっていて聞いているのか、無意識なのか。判断に困る。
「お茶会の時」
彼女は言う。
「私の手、引いてくれたじゃないですか」
やめてほしい。
その話題を、こんな場所で持ち出さないでほしい。
私は一瞬だけ周囲を見る。幸い、すぐ近くに聞き耳を立てている気配はない。だがゼロではない。ゼロではないからこそ、余計に面倒だ。
「……場を収めるためよ」
私は短く答える。
「あなた一人の問題ではなかったもの」
「そっか」
リリアは少しだけ考えるような顔をした。
「でも、あの時」
彼女は続ける。
「エルネア様、ちょっと焦ってませんでした?」
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
なぜそこを見るのか。
「焦っていないわ」
「そうですか?」
「そうよ」
「……うーん」
納得していない顔だ。だが、それ以上は追及してこない。代わりに、少しだけ笑った。
「でも、焦ってるエルネア様も、ちょっと見てみたいかも」
「見せるつもりはないわ」
「残念です」
軽い。あまりにも軽い。
なのに、そのやりとりの後に残る感覚は、軽くない。
私は机の上のノートを閉じる。
「次の授業、移動よ」
「はい」
リリアも立ち上がる。相変わらず自然に隣へ並ぶ。距離が近い。だが、さっきほど強く拒絶する気にはならなかった。
それが一番、厄介だ。
廊下へ出ると、向こう側からルーカスが歩いてきた。こちらを見つけた瞬間、分かりやすくにやりと笑う。
「いい感じに距離詰まってるね」
「第一声がそれなの、やめなさい」
「事実じゃない?」
「事実かどうかの問題ではないわ」
「じゃあ何の問題?」
「あなたが楽しそうに言っていることよ」
ルーカスは肩をすくめる。否定する気はないらしい。
「でもさ」
彼は少しだけ声を落とした。
「エルネア嬢、前より分かりやすくなったよね」
「何が」
「リリアに対して」
その言葉に、私はほんの一瞬だけ足を止める。
「意味が分からないわ」
「分かるでしょ」
ルーカスは笑う。
「前は全部計算で動いてた。でも今は、ちょっとだけ違う」
似たようなことを、今日二回聞いた。
カイエルと、ルーカス。
観察者と、直感型。
アプローチは違うのに、言っていることは同じだ。
それが、嫌に引っかかる。
「あなたまでそんなことを言うの」
「そんなこと?」
「変わったとか、分かりやすいとか」
「だって変わってるし」
あっさりと言う。
「それ、悪いこと?」
「……」
「僕はいいと思うけどね」
軽い言葉だった。
軽いのに、否定しきれなかった。
そのまま三人で歩き出す。会話は途切れ、足音だけが続く。私は前を見ながら、頭の中で同じ言葉を繰り返していた。
変わった。
分かりやすい。
予定外。
それらは全部、私が避けてきたものだ。管理できない要素。完成を遠ざけるノイズ。
なのに今、そのノイズが少しだけ、邪魔に思えなくなっている。
――それが、一番まずい。
次の授業の教室へ入る直前、私はふと自分のケースへ視線を落とした。
黒薔薇のひびは、昨日よりほんの僅かに進んでいる。
変化としては微小だ。
だが、その進み方が、以前とは少し違って見えた。
ただ壊れていくのではなく、何かに引っ張られるように、ひびが伸びている。
理由は分からない。
分からないのに、目を逸らせなかった。
私は黒薔薇から視線を外し、教室の中へ入る。
正しさを優先してきたはずの思考が、少しだけ鈍っている気がした。
そしてその鈍りを、私はまだ、完全には否定できなかった。




