第5話 観察者は、予定外の優しさを見逃さない
マルティナ主催のお茶会に出席したエルネアは、リリアへの探りと悪意を見抜きつつ場を制御しようとする。だが花の話題の最中、リリアの赤薔薇にまたひびが入り空気は一変。怯える彼女をその場から連れ出したエルネアは、もはやその破滅を他人事として扱えなくなりつつある自分に気づき始める。
お茶会の翌日、私は自分でも驚くほど静かな朝を迎えた。
静かといっても、状況が落ち着いたわけではない。ただ、屋敷の中だけはまだ学園の噂から切り離されている、というだけの話だ。窓から差し込む朝の光も、ミナが淹れた紅茶の香りも、いつも通りだった。変わったのは私の方で、変わっていないものを前にすると、逆に昨日の出来事ばかりが頭に残る。
リリアの赤薔薇に増えたひび。
サロンの空気。
あの子の手首を、私が人前で取ったこと。
……最悪だ。
「お嬢様、今日はパンを二つとも召し上がるのですね」
「何か問題でも?」
「いえ。昨日より食欲があるのはよいことかと」
「別に食欲がなかったわけではないわ」
「昨日の夕食、少ししか召し上がっておられませんでした」
「あなた、最近報告書みたいに私を観察していない?」
「身近な観察者ほど優秀でございますので」
嫌な言葉を聞いたせいで、私はパンを持つ手を止めた。
観察者。
その単語で真っ先に顔が浮かぶのは、当然カイエル・グランフォードだ。宰相家長男、緑薔薇、違和感を見逃さない男。あの目は、たぶん昨日の一部始終もきっちり見ていた。私がどういう順番で口を開いたか、どういう場面で立ち上がったか、どのタイミングでリリアへ触れたか。ああいう男は、そういうどうでもいい差分ほど見逃さない。
面倒だ。本当に。
「今日は馬車を少し早めましょうか」
ミナが何でもない調子で言う。
「なぜ」
「学園へ着く前に、お嬢様が心の準備を終えられるように」
「もう終えているわ」
「でしたら、今その表情にはなりません」
鏡を見なくても分かる。たぶん少し嫌そうな顔をしている。私はそれ以上何も言わず、残りの紅茶を飲んだ。
学園へ着いた瞬間、嫌な予感は現実になった。
視線が多い。昨日までより、明らかに多い。ひそひそ声も遠慮が薄い。中庭の昼食会とお茶会の件が、きれいに繋がって広まったらしい。黒薔薇の令嬢が、特例入学の平民ヒロインをまた庇った。しかも、手まで引いて連れ出した。誰がどう聞いても噂になる。
教室へ入る前から、私は少しだけうんざりしていた。
「おはようございます、エルネア様!」
そしてうんざりの原因が、自分から朝の挨拶をしてきた。
廊下の窓際に立っていたリリアが、私を見つけた瞬間にぱっと顔を明るくする。あまりにも分かりやすい反応で、近くを通る生徒がちらちらこちらを見た。やめてほしい。せめてもう少し段階を踏んでほしい。
「……おはよう」
「返してくれた」
「挨拶くらいはするわ」
「今日は元気そうですね」
「あなたに顔色を管理された覚えはないのだけれど」
そう言いながらも、私はさりげなく彼女のケースを見る。赤薔薇のひびは昨日のままだ。増えてはいない。とりあえず朝の時点では、だが。
リリアはその視線に気づいたらしい。ケースを少し持ち上げて見せた。
「今のところ、増えてないです」
「そう」
「心配してくれました?」
「確認しただけよ」
「その確認、ちょっと優しくなりましたね」
「気のせいでは?」
即答すると、リリアは笑った。否定が効いていない。最近ずっとそうだが、この子は私の棘を“会話の癖”くらいにしか思っていない節がある。困る。非常に困る。
「フローレンス嬢」
そこへ別の声が入った。
振り向けば、カイエルがいた。今日も整いすぎた制服姿で、いかにも貴族の子息らしい落ち着いた顔をしている。けれど目だけは、最初からこちらを観察していたのだと分かる位置と角度だった。
「おはようございます」
リリアが素直に返す。
「おはよう。昨日は大変でしたね」
「そうですね。ちょっとだけ」
「ちょっと、で済ませるのですね」
「済ませないと疲れるので」
その返しに、カイエルがほんの少しだけ目を細めた。興味を持った顔だ。やめて。これ以上、この子に興味を持つ人間を増やしたくない。
「エルネア嬢も」
今度は私へ向けて言う。
「昨日はお疲れさまでした」
「お気遣いどうも」
「あなたが疲れているのは本当でしょう?」
「それを本人より先に断定しないでくださる?」
「断定ではなく観察です」
言った。本人が堂々と観察と言った。こういうところだ。だから苦手なのだ。
「朝から詰めるのはやめて差し上げたら?」
軽い声が割り込んだ。ルーカスである。どうしてこう、主要人物は私の平穏を狙って同じ時間に集まるのか。
「カイエル、顔がちょっと怖い」
「そう見えるなら、君の見方に問題があるのでは」
「いや、観察モードの君、普通に怖いって」
ルーカスは笑いながらそう言い、私とリリアの間に半歩だけ入り込んだ。壁になったつもりなのか、単に面白がっているだけなのか判断に困る位置取りだ。
「君たち、朝から並ぶと目立つよ」
「分かっているわ」
「分かってるのにここに立ってるの、えらいね」
「褒めていないでしょう」
「半分は」
「最近、その半分理論が流行っているの?」
私がそう返した瞬間、リリアがふふっと笑う。ルーカスも笑う。どうして私が普通に返しただけで、そんなに空気が和むのか。意味が分からない。
意味が分からないまま教室へ入ると、今度はアルディオンがいた。第二王子は席に着いた状態でもきちんと絵になっているから腹が立つ。しかも、こちらを見た瞬間に状況を何となく察した顔をした。
「朝から賑やかだな」
「賑やかにしたいわけではありません」
「そう見えないところが、また難しいですね」
アルディオンが静かに言う。
それは私も思う。思うが、言われたくはない。
授業が始まってしまえば表面上は落ち着く。落ち着くのだが、今日は一時間目から少し妙だった。私は板書を写しながら、何度か視線を感じた。リリアからではない。あの子はもっと遠慮なく見る。もっと分析するような、比べるような、順番を追うような視線。
言うまでもなく、カイエルだ。
嫌な予感しかしない。
休み時間になった瞬間、その予感は当たった。
「エルネア嬢、少しよろしいですか」
机の横に来たカイエルが、礼儀正しくそう言う。礼儀正しいのに断りづらい空気を作るのがうまい。ずるい男だと思う。
「内容によるわ」
「雑談です」
「それが一番信用ならないのだけれど」
「手厳しいですね」
「あなた相手には当然よ」
周囲の生徒が聞き耳を立てている気配があったので、私は小さくため息をついた。ここで拒絶しすぎても噂になるし、受けすぎても面倒だ。なら場所を変えるしかない。
「廊下でなら」
「ありがとうございます」
ありがとうございます、ではない。勝手に決めさせたくせに。
廊下の端、人気の少ない窓際まで移動して、私は腕を組んだ。
「それで、雑談とは?」
「あなた、変わりましたね」
いきなり核心から来た。
私は数秒、黙るしかなかった。もっとこう、天気だの授業だの、どうでもいい話を挟むと思っていたのに。やはり観察者は面倒だ。
「何の話かしら」
「昨日の動きの順番です」
「……順番?」
「ええ。お茶会でリリア嬢のケースにひびが増えた時、あなたは最初に周囲を抑えた。その次に彼女を立たせた。そして最後に、彼女自身の状態を確認した」
そこまで聞いて、私は内心で舌打ちしたくなった。
本当に見ている。しかも“助けた”とか“庇った”ではなく、順序で見ているのが厄介だ。感情の話ではなく、思考の流れとして観測している。
「それが何か?」
「以前のあなたなら逆だったのでは、と思いまして」
「随分と以前の私に詳しいのね」
「有名ですから。ヴェルローズ令嬢はいつも無駄がない、と」
それはそうだろう。私は今世でずっとそうやってきた。最適解を選び、感情は後回しにする。余計な優しさは非効率だ。盤面の管理を乱す。
「でも昨日は少し違った」
カイエルは淡々と続ける。
「場を抑えるのは合理的です。彼女を立たせるのもそうでしょう。ですが、その前後の呼吸に、少しだけ迷いがあった」
「呼吸まで見ているの?」
「見えますよ」
「やめてほしいわね、本当に」
心からの感想だった。カイエルはそれに少しだけ笑う。
「責めているわけではありません」
「観測しているだけ、と?」
「ええ。そして興味があります」
「最悪の告白ね」
「そう受け取られるのは心外です」
たぶん本気で言っている。だからなおさら厄介だ。
「あなたはリリア嬢に対して、計算だけでは説明しきれない反応を取り始めている」
カイエルの声は静かだった。
「それは、あなた自身にとっても予定外なのでは?」
私はすぐには答えなかった。
答えられないからだ。
予定外。そう、予定外だ。私はリリアを死亡ルートから外したいだけで、仲良くなるつもりはない。必要なら適切な距離で誘導し、誰かと結ばせる。その過程で多少関わるとしても、それ以上は要らない。
なのに現実には、彼女の赤薔薇のひびが増えるたびに気になるし、怖がっている顔を見ると場を切り上げたくなる。今朝だって、ケースの状態を先に確認した。
合理的、と言い張ることはできる。
でも、それだけでは少し足りない気もしている。
「……あなたの興味に応える義務はないわ」
結局、私はそう返した。
「それに、観測が過ぎると嫌われるわよ」
「すでに多少嫌われている自覚はあります」
「多少で済ませているのが図々しいのよ」
「では、かなり?」
「自分で聞かないでくださる?」
カイエルはまた少し笑った。初めて見たときより、笑う頻度が増えている気がする。これもあまり良くない傾向だ。観察者が楽しみ始めると、ろくなことにならない。
そのとき、廊下の向こうで小さなざわめきが起きた。
見ると、リリアが教室の前で誰かに囲まれている。マルティナたちほど露骨ではないが、別のクラスの女子生徒が二人、話しかけるには近すぎる距離で立っていた。表情は笑っている。けれど逃がさない角度だ。
私は反射的にそちらへ一歩出る。
その動きを、カイエルが見た。
ああ、と思った時には遅かった。観測者の前で、あまりにも分かりやすく動いてしまった。
「今のですね」
静かな声が落ちる。
「予定外の優しさというのは」
「……うるさいわね」
私は短く言った。
「あなた、本当に嫌なところで正しいわ」
そのまま歩き出す。返事は聞かない。聞く必要もない。
リリアの方へ近づくと、囲んでいた生徒たちがこちらに気づいた。黒薔薇の令嬢が来た、という顔をする。便利だ。悪役令嬢の肩書きは、こういう時だけ使い勝手がいい。
「楽しそうですわね」
私は笑顔で言った。
「授業前のおしゃべりかしら」
「え、ええ、まあ……」
「でしたら結構。でも、次の授業に遅れると困るでしょう?」
「そうですわね」
たったそれだけで、二人は引いた。よし。
「エルネア様」
リリアが少しだけ目を丸くする。
「また助けてくれたんですか?」
「通りかかっただけよ」
「その通りかかり方、すごくちょうどよかったです」
「褒めなくて結構」
「でも本当ですし」
屈託がない。本当に困る。
「授業、遅れるわよ」
私はそうだけ言って教室へ戻ろうとする。
するとリリアが、小走りで隣へ並んだ。
「さっきの人たち、そんなに怖くはなかったです」
「そう」
「でも、ちょっとだけ面倒でした」
「それはよかったわね。ようやく正しい感想が出てきたじゃない」
「エルネア様、面倒の基準が厳しくないですか?」
「あなたの基準が緩すぎるのよ」
そのやりとりを背後から見ていたのだろう。教室の扉のところで、カイエルと目が合った。彼は何も言わない。ただ、観測が一段進んだ顔をしていた。
やめて。
その顔、本当にやめてほしい。
結局その日、授業中も休み時間も、私は妙に落ち着かなかった。カイエルに見抜かれたこと自体も嫌だったが、それ以上に嫌なのは、完全には否定できなかったことだ。
私は本当に、ズレ始めているのかもしれない。
放課後、屋敷へ戻ってから黒薔薇のケースを机に置き、灯りに透かしてみる。ひびは、またほんの僅かに伸びていた。変化としては小さい。けれど今の私には、その小ささが逆に落ち着かなかった。
今日、私はリリアが囲まれているのを見て、考えるより先に動いた。
昨日までは“盤面管理”で済ませていた行動が、今日は少しだけ違った。
あの子が面倒な状況に置かれているのを、見ていたくなかった。
それを優しさと呼ぶのはまだ癪だ。
予定外と呼ぶ方が、私にはしっくりくる。
でも、カイエルはたぶんもう気づいている。
私の計画に、感情のズレが混じり始めていることを。
そして最悪なことに、私自身もそれを、そろそろ見ないふりでは済ませられなくなっていた。




