第3話 中庭の昼食は、平穏からいちばん遠い
入学翌日、エルネアは計画どおりに動こうとするが、リリアの行動で教室は早くも波立つ。牽制を受ける中でもリリアは揺れず、逆にエルネアを巻き込んでいく。さらに王子たちも関わり、事態は拡大。リリアの孤立を避けるため同行を選ぶが、エルネアの計画は早くも制御しきれない方向へ動き始めていた。
中庭で昼食を取ると決めたのは私だが、だからといって正解だったとは限らない。
王立セレスティア学園の中庭は、貴族趣味を煮詰めたような場所だった。噴水、花壇、白い石畳、手入れの行き届いた低木。どこを見ても絵にはなるし、どこに座っても人の目はある。静かに話したい者には向かないし、静かに見られたい者にも向かない。つまり今の私たちに、驚くほど向いていなかった。
それでも教室で昼食を取るよりはましだと判断したのは、視線の質の違いだ。教室は噂が育つ。中庭は噂が広がる。どちらも面倒だが、前者は閉じた空間で悪意が煮詰まりやすい。
今はまだ、広がる方がましだった。
「ここ、いいですね」
リリアはそう言って、噴水の近くのベンチへ先に向かった。遠慮という概念を一度どこかに置いてきたのかもしれない。私が止める間もなく場所を決め、そこへ当然のように座ろうとする。私は反射的に口を開いた。
「待ちなさい」
「はい?」
「そこは日差しが強いわ。午後の授業で眠くなるでしょう」
「なるほど」
素直に立ち止まる。止まるのか。いつもそこだけは妙に素直だ。
「じゃあエルネア様のおすすめの場所で」
「おすすめではないけれど、少なくともそちらよりはましな場所はあります」
私は木陰に近い丸テーブルを選んだ。五人で使うには少し狭いが、それくらいの方が長居しづらくていい。そう思ったのに、ルーカスは着席するなり楽しそうに周囲を見回した。
「うわ、注目されてる」
「言わないでくださる?」
「事実じゃない? 第二王子に悪役令嬢に特例入学のヒロイン。ついでに宰相家と僕。役満だよ」
「その例え、品がありません」
「でも分かりやすい」
「分かりやすさがすべてを救うわけではないでしょう」
そう返すと、ルーカスはけらけら笑った。ああ、本当に苦手だ。人が避けたい事実を面白そうに口に出す。
一方、アルディオンは椅子を引く所作までいちいち綺麗だった。王子なのだから当然なのだろうが、当然を完璧にやるとそれはそれで腹が立つ。カイエルは特に何も言わず、一番視界の通る位置に座った。偶然を装っているつもりだろうが、そういう位置取りを自然にやる時点で偶然ではない。
私は最後に腰を下ろし、ようやく小さく息を吐いた。
「では」
アルディオンが周囲を見て言う。
「せっかく集まったことですし、穏便に昼食を――」
「穏便はもう無理じゃない?」
ルーカスが遮る。
「朝の時点で手遅れだと思う」
「あなたは一度、穏便という言葉を辞書で引いた方がいいわ」
「引かなくても意味は知ってるよ。使う気があまりないだけで」
堂々と言うことではない。
そのやりとりを聞いて、リリアがくすっと笑った。ひびの入った赤薔薇のケースを膝に置き、弁当包みを開く仕草は妙に普通だ。今朝あれだけ視線を浴びていたのに、落ち込みすぎてもいなければ、無理に明るく振る舞っている感じもしない。
この子は、案外しぶといのかもしれない。
「それで、エルネア様」
リリアがごく自然に話を振ってきた。
「学園の礼儀、教えてもらってもいいですか?」
「本当に聞くのね」
「聞きます。朝、途中になったので」
「途中にしたのは主にあなたでしょう」
「そうかも」
反省しているのかしていないのか分からない顔で頷く。私はひとまず昼食の蓋を開けた。サンドイッチと小さな焼き菓子。ミナが気を利かせて食べやすいものにしてくれたらしい。ありがたい。今の状況でナイフとフォークが要る食事は厳しい。
「礼儀といっても、基本は簡単よ」
私はパンをひとつ取りながら言った。
「相手の立場を把握すること。人前で恥をかかせないこと。必要以上に距離を詰めないこと」
「なるほど」
「そして今のあなたは、そのうち二つくらいに引っかかっているわ」
「二つで済んでるなら優秀では?」
「前向きすぎて疲れるわね」
ルーカスが噴き出した。アルディオンは口元を押さえて咳払いをしている。笑っているのなら、いっそ笑えばいいのに。
「でも、必要以上の距離って難しくないですか?」
リリアが首を傾げる。
「人によって違いますよね」
「ええ、違うわ」
「じゃあ、エルネア様はどれくらいが適正ですか?」
「会話のたびに袖を引かれないくらい」
「分かりやすい」
「そこを基準にされるのは遺憾です」
リリアはどこか嬉しそうに頷いた。なぜそこが嬉しそうなのか分からない。私は教えているだけで、仲良くなっているつもりはないのだが、この子は会話が成立するだけで距離が縮んだと認識している節がある。
危険だ。非常に管理しづらい。
「礼儀の話なら、もうひとつある」
アルディオンが静かに口を開いた。
「相手を軽んじないことだ。たとえ身分差があっても、それは必要だろう」
その一言で、場の空気が少し変わる。王子の言葉はそれだけで重みを持つ。朝の教室でのやりとりを受けての発言だと、ここにいる全員が分かったはずだ。
リリアはまっすぐアルディオンを見た。
「それって、私に言ってますか? それとも周りに?」
「両方だ」
「そっか」
短い返事だったが、ちゃんと受け取っている顔だった。アルディオンもそれ以上は言わない。言外に含ませて、必要なだけ示す。こういうところは本当に王子らしい。
「優しいですね、アルディオン様」
リリアが素直に言う。
「いや、当然のことを言っただけだ」
「当然のことをちゃんと言うの、難しくないですか?」
「……」
アルディオンがわずかに黙る。その沈黙に、私は少しだけ目を細めた。
この王子は“正しくあること”に慣れすぎていて、その正しさを他人にも当然のように求めるきらいがある。だから今みたいに、正しい言葉そのものを褒められると、少しだけ反応に困るのだろう。
面倒な性格だと思う。
でも、分からなくはない。
「エルネア嬢」
カイエルが不意に私へ視線を向けた。
「今の言葉、あなたはどう思いました?」
「急にこちらへ振るのは礼儀としてどうなのかしら」
「知りたくなったので」
「便利ね、その理由」
私がそう返すと、カイエルはほんの少しだけ笑った。観察者のくせに、こういうところで会話へ入ってくる。やはり厄介だ。
「……当然のことを言うのが難しい、という点についてなら」
私は仕方なく答える。
「間違ってはいないでしょう。皆、当然のふりをするのは得意でも、口にして責任を持つのは嫌うものよ」
「では、アルディオン殿下は責任を持った?」
「少なくとも逃げてはいないわね」
アルディオンがこちらを見る。視線の意味は分かる。評価としては悪くない。それでも、あまり満足されると困るので、私はすぐに付け加えた。
「もっとも、王子が公の場で発する言葉には、その立場に見合った重みがあるのだから、逃げないのは最低条件だと思うけれど」
「手厳しい」
ルーカスが笑う。
「褒める時もちゃんと棘があるんだね」
「褒めてばかりで人が育つと思っていないだけよ」
「前世で部下とかいた?」
ぎくり、とした。
ほんの一瞬、喉が詰まる。前世、という単語がこんなに不意に飛んでくるとは思わなかった。もちろんルーカスは転生のことなど知らない。ただ、あまりにも自然な雑談の流れで地雷を踏んだだけだ。
「……いないわ」
私はできるだけ平静に答えた。
「でも、言われなくても動く人の方が好みだっただけ」
「へえ。じゃあ僕はどう?」
「評価以前に、あなたは勝手に動きすぎる」
「褒め言葉かな」
「違うわ」
とっさに切り返せたことに、内心で安堵する。ルーカスは気にした様子もなく笑っていたが、カイエルの視線だけが少しだけ鋭くなった気がした。拾わないでほしい。今の間は、本当に拾わないでほしい。
そこで、横から小さな音がした。ぱき、と、ごく軽い音。
私は反射的に視線を向ける。リリアの赤薔薇のケースだ。昨日入ったひびとは別のところに、薄い線がもう一本増えている。
最悪だ。
「えっ」
リリアも気づいたらしく、自分の膝の上のケースを見下ろす。
「増えました?」
「静かにして」
私は即座に言った。周囲に聞かれたくない。
けれど遅かった。ルーカスはすでに覗き込んでいるし、アルディオンも表情を引き締めている。カイエルに至っては、観測対象が増えたと言わんばかりに視線を落としていた。
「本当だ」
ルーカスが軽い声で言う。
「昨日より一本多い」
「数えなくて結構です」
「いや、でもこれってさ」
そこまで言いかけたルーカスを、アルディオンが目で制した。珍しく良い判断だ。今ここで言語化されるのは面倒どころではない。
私は赤薔薇を見る。花自体はまだ美しい。けれどケースのひびは、確実に進んでいる。関係、選択、罪。そういうものが反映されるのが花システムだとすれば、入学二日目の昼休みにこれは早すぎる。進行が急だ。
ヒロイン死亡ルートの兆候が、思った以上に濃い。
「エルネア様」
リリアが少しだけ声を落とした。
「これ、まずいやつですか?」
「……よくはないわね」
「そっか」
彼女はケースを見つめたまま頷いた。怖がるかと思ったが、違った。表情は沈んだものの、取り乱してはいない。
「でも、私だけじゃないですよね」
「何が」
「ひび。エルネア様のもある」
その言葉に、一瞬だけ返事が遅れた。
私の黒薔薇にもひびがある。もちろん、ある。最初からだ。けれど、それを“同じ”として口にされるのは想定していなかった。私にとって黒薔薇は計画の証明であり、散るための進行表のようなものだ。リリアの赤薔薇とは意味が違う。
違う、はずなのに。
「……同じではありません」
私は少し硬い声で言った。
「色も、意味も、条件も違うわ」
「うん。でも、割れたら嫌なのは同じかなって」
軽い口調ではなかった。いつもの柔らかさはあるが、雑ではない。ちゃんと考えて出した言葉だと分かる。
私は答えに詰まる。
割れたら嫌か。
私の黒薔薇は、割れるべきものだ。ひびが進み、戻らず、やがて取り返しのつかないところまで行く。その先にあるのが、私の“完成”だ。だから嫌ではない。嫌では――
「嫌じゃないんですか?」
リリアがまた、まっすぐ聞く。
やめてほしい。
そういう聞き方は、本当にやめてほしい。
「答えたくなさそうな顔だね」
ルーカスが横から言う。
「あなたは黙って」
「はいはい」
黙る気が薄い返事だ。だが、今はそれに構っていられない。
「……嫌かどうかは、重要ではないわ」
私はできるだけ平坦に言う。
「起きることには対処するしかないもの」
「それ、答えになってないですよ」
リリアの返しが早い。
ぐうの音も出ないほどその通りだが、出す義理もない。私はサンドイッチを置いた。食欲が少し遠のいている。
そのとき、少し離れた花壇の方から、甲高い笑い声が聞こえた。視線を向けると、マルティナたちがこちらを見ている。やはり見ていたか。しかも人数が増えている。噂好きの令嬢が二、三人混ざっているのが見えた。
嫌な予感しかしない。
「まあ、あちら」
案の定、マルティナがこちらへ歩いてきた。
「ずいぶん賑やかな昼食会ですこと。殿下までいらっしゃるなんて」
声音だけなら華やかだが、目の温度は朝より低い。ここで引く気はないらしい。取り巻きも後ろについている。中庭で人目の多い場所を選んだことが、ここで効いてくる。
「フローレンスさん」
マルティナはリリアへ微笑みかけた。
「あなた、人気者ですのね。入学二日目にして皆さまの注目を集めるなんて、さすが特例入学ですわ」
「ありがとうございます?」
リリアが疑問形で返す。
やめて。火に油を注ぐのをやめてほしい。
「褒めているわけではありませんのよ」
「そうなんですか」
「ええ。身の程をわきまえるのも礼儀だと、朝お話ししたでしょう?」
「聞きました」
「でしたら、殿下方を独占するような真似は控えるべきではなくて?」
来た。なるほど、その方向か。リリア個人ではなく、“王子や有力貴族に近づく平民”として叩くつもりらしい。悪役令嬢もののお決まりとしては分かりやすいが、分かりやすい分だけ処理もしやすい。
問題は、今それをどう処理するかだ。
「独占?」
リリアが首を傾げる。
「してませんよ。今日はエルネア様が中庭に行くって言ったので」
「……ええ、そうですわね」
マルティナの視線が今度はこちらへ来る。
「エルネア様も、随分とお優しいこと。昨日に続いて、今日も特例入学者のお世話をして差し上げるなんて」
含みがある。分かりやすく、“あなたらしくない”と言っている。
私はゆっくりと口元を整えた。ここで雑に応じると、私まで噂の餌になる。けれど黙っていればリリアに刺さる。なら、答えはひとつだ。
「誤解があるようですわね、マルティナ様」
私は穏やかに言った。
「私は世話をしているのではありません。教室で騒がれると落ち着いて食事もできませんから、少し場所を移しただけです」
「まあ」
「ついでに言えば、殿下方が同席なさっているのは私の意思だけで決まったことでもありませんし、独占という表現はずいぶん語弊があるのではなくて?」
アルディオンが静かに頷いた。
「その通りだ。私の判断でここにいる」
王子の言葉は強い。マルティナの表情がわずかに引きつる。
さらにルーカスが、いかにも面白がる顔で続けた。
「僕も勝手についてきただけ。誰かに誘われたわけじゃないよ」
「観察対象として興味がありましたので」
カイエルまで乗った。最後の一言はいらないが、流れとしては助かる。
マルティナたちは完全に勢いを失った。人を囲っていたつもりが、周囲の方が自発的に集まったと確定したのだから当然だ。ここでなお食い下がるほどの度胸はないらしい。
「……そうですの。でしたら、余計な口出しでしたわね」
「本当に余計ですわ」
私はにっこり言う。
「お気遣いだけ、ありがたく受け取っておきます」
棘は隠さない。隠しすぎると舐められるし、今日は既に十分目立っている。今さら少し刺したところで大差ない。
マルティナたちは悔しそうに引き下がった。完全撤退ではない。ああいう手合いは、負けた顔をしたまま次の手を考える。だが、今この場を収めるだけなら十分だ。
私は小さく息を吐いた。
「すごいですね、エルネア様」
すぐ横でリリアが素直に感心している。
「今の、すごく悪役令嬢っぽかったです」
「褒めているのかけなしているのか、非常に判断に困るわね」
「たぶん褒めてます」
「たぶんで済ませないでちょうだい」
ルーカスがまた笑い、アルディオンは苦笑気味に視線を逸らした。カイエルだけは、私とリリアを交互に見ている。嫌な視線だ。思考の順番でも数えているのかもしれない。
「でも」
リリアが少しだけ声を落とした。
「助かりました。ありがとうございます」
今度の礼は、さっきまでと違って軽くなかった。
私はその声音に少しだけ目を伏せる。助けたつもりはない。場を整えただけだ。そう言えばいいのに、今日はそれを繰り返すのが少し面倒だった。
「礼は不要よ」
だから、そんなふうにだけ返す。
「あなたが今後、もう少し厄介ごとを増やさないなら、それで十分です」
「努力します」
「期待はしないでおくわ」
「ひどい」
「事実よ」
それでも、リリアは笑った。打たれ強いのか、単に私の棘が効いていないのか、その両方か。
昼食は結局、最初に思ったより長引いた。途中で授業開始を告げる鐘が鳴り、私たちはようやく席を立つ。中庭から校舎へ戻る道すがら、私は自分の黒薔薇のケースをちらりと見た。
ひびは、また少し伸びていた。
リリアの赤薔薇のひびも増えた。マルティナたちとの軋轢も生まれた。アルディオンは介入し、ルーカスは笑い、カイエルは観測した。
起きるべきことが起きているとも言える。
でも、それにしては盤面が騒がしすぎた。
そして何より困るのは、私がもう“予定外だから切る”では済ませられなくなりつつあることだった。
リリアの赤薔薇がひび割れたとき、最初に浮かんだのは計算だった。死亡ルート、進行速度、対処の優先順位。そういうものだ。なのに、その次に来たのは、昨日より少しだけはっきりした別の感情だった。
――これ以上、割れたら面倒だ。
いや、違う。
面倒だけではない。
その言葉の先を、私はまだうまく認められないまま、教室の扉をくぐった。




