第2話 悪役令嬢は、ヒロインに距離感を教えたい
入学式で悪役令嬢エルネアは、例外の黒薔薇を授かり、自らの破滅が順調に進んでいると確認する。だが予想外に踏み込んでくるヒロイン・リリアと出会い、二人の花にひびが入ったことで、入学初日から運命の歯車は静かに狂い始めてしまった。この出会いが、全員を生かして自分だけ散るはずの計画を揺らし始める。思わぬ形で。
入学式の翌朝、私は予定表を三回見直した。
起床、身支度、朝食、登校。そこまでは問題ない。授業は午前に二つ、昼休憩を挟んで午後は学園案内。その合間に、攻略対象たちの位置確認とヒロインの監視。必要であれば軽い牽制。実に整っている。紙の上では。
現実が整っているとは、ひと言も書いていないのがつらいところだった。
「お嬢様、今朝はお顔色が優れませんが」
「気のせいよ、ミナ」
「昨日から三回目でございます」
「そんなに言ったかしら」
「言いました」
侍女のミナはにこやかに紅茶を置いた。長年仕えているだけあって、こういうときだけ妙に鋭い。私はカップに口をつけ、熱で思考をまとめることにする。
問題は昨日の入学式だ。私の黒薔薇は授与時点でひび入り。そこまでは想定内としていい。問題はリリアの赤薔薇にもひびが入ったこと。そして、私が反射的にあの場を収めたこと。その結果、リリアが私に妙に懐いたこと。さらにアルディオン、ルーカス、カイエルの視界にいっせいに入ったこと。
最悪ではない。まだ、最悪では。
ただ、非常に面倒くさい。
登校の馬車に揺られながら、私は窓の外を見た。王立セレスティア学園は朝から見栄えがいい。白い校舎、手入れされた庭、品のよい制服。こういう場所はだいたい中身が面倒なのだが、見た目だけなら絵になる。
そして絵になる場所ほど、噂の回りもいい。
教室へ入った瞬間、それを思い知った。
視線。ひそひそ声。あからさまに逸らされる目。私自身に向けられたものもあるが、教室の後方に立つ淡い金髪の少女に向けられたものが多い。リリア・フローレンス。平民の特例入学者。昨日、花にひびが入ったヒロイン。
当人はと言えば、きょろきょろと教室を見回しながら、どの席に座るべきか悩んでいるらしかった。空気の重さに気づいていないわけではないだろうに、顔に出すのが上手くないのか、それとも出さないのか。少しだけ困っているのに、変に縮こまってはいない。
……やりづらい。
私は自分の席へ向かう。前方窓際。家格にふさわしい、実に分かりやすい配置だ。鞄を置き、周囲の動きを観察する。令嬢たちが二人、三人と視線を交わし、リリアの方へ近づいていく。ああ、始まるのか。
早い。せめて二日目の午後くらいからにしてほしい。
「フローレンスさん、でしたわよね?」
先頭に立ったのは、侯爵家の娘マルティナだった。ゲームでは背景に近い取り巻きポジションだが、こういう場を作る能力だけは妙に高い。声も笑顔も柔らかいのに、目だけがまったく柔らかくない。
「はい、リリア・フローレンスです」
「まあ、きちんとお返事はできるのね。よかったわ」
軽い笑いが広がる。取り巻きが二人、扇子で口元を隠して続く。
「昨日、大変でしたでしょう? 花にひびが入るなんて」
「私、初めて見ましたわ」
「特例入学というのは、やはり少し特別すぎたのかしらね」
言い方が回りくどい。けれど悪意は十分通じる。教室の空気がじわじわ寄っていくのが分かった。私は教科書を出すふりをしながら、タイミングを測る。
ここで私が動く意味は二つある。ひとつ、リリアの孤立を深めないこと。ひとつ、私がわざわざ庇っているように見せすぎないこと。雑に助ければ恩になる。恩は距離を縮める。今の私にとって、それは管理しづらい。
つまり、できれば動きたくない。
「ひびが入っただけで、退学になったりするんですか?」
リリアが真顔でそう聞いたので、私は手に持っていたペンを落としかけた。
令嬢たちも一瞬止まる。そこなのか。そこを心配するのか。
「ま、まさか。ですが縁起がよいとは――」
「じゃあ大丈夫ですね」
にっこり。話を切るにはあまりにも雑で、逆に綺麗だった。マルティナの笑顔がぴしりと固まる。
「大丈夫かどうかは、ご本人の振る舞い次第でしょう」
「振る舞い?」
「ええ。この学園には相応しい礼儀がありますもの。平民の方には難しいこともあるでしょうけれど」
「なるほど」
リリアは素直に頷いた。そして次の瞬間、ぱっとこちらを見た。
「じゃあ、エルネア様に聞けばいいですね」
やめてほしい。
教室中の視線が一斉に私へ向いた。あまりにも見事な巻き込み事故である。私はゆっくり顔を上げ、できるだけ冷静に口を開く。
「なぜ私に」
「いちばん詳しそうだからです」
「その理屈で人を選ばないでちょうだい」
「でも昨日、いろいろ教えてくれましたよね」
「教えてはいません」
「そうでしたっけ?」
そうだった。私は場を収めただけで、親切な先輩役を引き受けた覚えはない。ないのだが、周囲から見ればもう少し違って見えるかもしれない。現にマルティナたちの視線が微妙に揺れた。牽制相手に私を選ぶべきか、様子を見るべきか、計算が走っている顔だ。
仕方がない。ここは盤面を整える。
「フローレンスさん。学園の礼儀について聞きたいなら、まず人をいきなり巻き込まないことから覚えるべきではなくて?」
「それは今、私が失礼だったってことですか?」
「そうね。かなり」
「すみません、エルネア様」
「謝る相手は私だけではないでしょう」
「あ」
リリアは振り返り、マルティナたちへぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。話の途中でした」
「……え、ええ」
謝られる側が一番困っている。分かる。私も困っている。
「それと、礼儀を教えてくれるのはありがたいです。でも、ひびのことを何回も言われると、ちょっとだけ嫌です」
「……」
直球。しかも声量が適切。逃げ道は残しているのに、言いたいことだけは通す。昨日から思っていたけれど、このヒロイン、思ったよりだいぶ強い。
マルティナの取り巻きの一人が、わずかに眉をつり上げた。
「その言い方では、こちらがいじめているようではありませんか」
「違うんですか?」
「違いますわ。わたくしたちは心配して――」
「なら、ありがとうございます」
また切った。ものすごく柔らかく切った。私は思わず額を押さえたくなる。相手の攻撃を、真正面から受けずに妙な角度で受け流す。これを天然でやっているなら末恐ろしいし、無意識ならなおさら手に負えない。
「朝から賑やかだね」
軽い声が割って入った。ルーカスだ。黄薔薇の男は今日も空気を読む気がないらしい。椅子の背に腕をかけたまま、面白そうにこちらを見ている。
「何の話?」
「学園の礼儀です」
リリアが答える。
「へえ。じゃあ僕も知りたいな。エルネア嬢、教えて」
「なぜあなたまで」
「いちばん詳しそうだから」
「それ、便利な言葉だと思っていない?」
ルーカスは楽しそうに笑った。見事に思っている顔だった。
「でも実際そうでしょ。君、昨日もいちばん手際がよかった」
「褒めても何も出ませんわ」
「ひとつ出た。今、嫌そうな顔」
腹が立つ。よく見ているし、言わなくていいことを言う。だから苦手だ。
そこで、教室の扉が開いた。担任教師が入ってきて、一応の騒ぎはそこで終わる。生徒たちは渋々席についたが、空気に残ったものまでは消えなかった。噂、興味、警戒。そういうものは授業開始の号令では片づかない。
午前の授業は、自己紹介と基礎教養だった。拍子抜けするほど平穏だったが、その平穏は表面だけだ。自己紹介ひとつで家格も性格も見られ、誰と誰が目を合わせたかまで記憶される。貴族の集団とはつくづく面倒である。
リリアの番になったとき、教室はまた少し静かになった。
「リリア・フローレンスです。平民です。花に選ばれてここに来ました。よろしくお願いします」
短い。余計な卑下も飾りもない。笑顔だけはきちんとしている。その簡潔さが逆に目立った。貴族の自己紹介はもっと長い。家、趣味、挨拶、社交辞令。そのどれもなく、本当に必要なことだけを言った。
嫌う人もいるだろう。でも、私は少しだけ分かりやすいと思った。
そして私の番では、案の定、教師が一拍置いてから名を呼んだ。
「エルネア・ヴェルローズです」
必要なことだけを言って終える。ざわつきは小さい。けれど、黒薔薇の令嬢という認識はもう広まっている。私は席へ戻りながら、窓際の列の向こうを見た。
カイエルがこちらを見ていた。
笑ってはいない。ただ、観測している。自己紹介の長さ、声の温度、昨日からの反応の差分。たぶん全部拾っている。目が合うと、ほんのわずかに会釈された。礼儀正しい。礼儀正しいが、それだけに不気味だ。
昼休みになった瞬間、私はため息をひとつ飲み込んだ。ここからが本番だ。午前中に火のついた噂は、昼の自由時間で一気に広がる。できれば単独で状況整理をしたいところだが――
「エルネア様、一緒にお昼どうですか?」
「なぜ当然のように来るの」
「昨日断られたので、今日もう一回聞こうかと」
「その根性は別のことに使いなさい」
リリアだった。断っても効かない顔をしている。実際、あまり効いていない。
「フローレンスさん。あなた、自分の立場は理解していて?」
「平民で、花にひびが入ってて、たぶん噂されてます」
「簡潔ね」
「あと、エルネア様に嫌がられてる」
「それも理解しているの」
「少しは」
少しなのか。全部ではないのか。
「でも、だからこそかなって」
「何が」
「一人で食べると、たぶんもっと面倒なことになるから」
私は口を閉じた。言い方が軽いのに、中身は見えている。さっきのやりとりで、この子は自分が目をつけられているとちゃんと分かっている。分かった上で、私を頼る方がましだと判断している。
賢い。少なくとも、鈍くはない。
「図々しいお願いだとは分かってます」
リリアは続けた。
「でも、エルネア様って、嫌そうな顔するわりに見捨てないから」
それは訂正したい。見捨てないのではなく、盤面に損が出るのを防いでいるだけだ。そう言うべきなのに、先に別の声が入った。
「じゃあ、四人で食べようか」
最悪である。
ルーカスが自分の弁当を持って立っていた。さらにその少し後ろ、どうしてそこにいるのかアルディオンまでいる。青薔薇の王子は涼しい顔で口を開いた。
「騒ぎになる前に、目立つ形で線を引くのは有効でしょう」
「有効すぎて、別の意味で目立ちますが」
「それでも放置するよりはましでは?」
「正論を王子の顔で言わないでください」
アルディオンが少しだけ目を見開く。たぶん今のは王子に対してだいぶ失礼だが、もう遅い。
「エルネア嬢、君いま、かなり素が出たね」
ルーカスが愉快そうに笑う。
「黙っていてくださる?」
「無理かな」
「でしょうね」
そこでまた一人、静かに席を立つ気配がした。見なくても分かる。カイエルだ。彼は本を閉じ、こちらへ来るでもなく、しかし完全に聞こえる位置で立ち止まった。
「面白い組み合わせですね」
「見世物ではありませんわ」
「そうでしょうか。少なくとも、周囲はそう見ていますよ」
分かっている。だから困っている。
教室のあちこちから視線が刺さる。黒薔薇の悪役令嬢、特例入学のヒロイン、第二王子、黄薔薇の成り上がり貴族、そして観察者の宰相家長男。入学二日目の昼に集まる顔ではない。
逃げたい。非常に逃げたい。
けれど、ここで私だけ席を立てば、残るのはリリアだ。彼女への悪意はもっと濃くなる。なら、この集まりを私の主導に見せた方がまだましだ。
私は小さく息を吐いた。
「……五人は多すぎます」
「断る基準、そこなんだ」
ルーカスが笑う。
「量の問題ではありません」
「でも、断らないんですね」
リリアが言う。
その言い方に、また少しだけ調子が狂う。私は鞄から昼食を取り出し、立ち上がった。
「中庭へ行きます。ここで食べるよりはまだ静かでしょう」
「行く行く」
「私は構いません」
「ご一緒します」
「……観察しやすそうですし」
カイエルまで言った。
最後の一言はいらない。本当に。
中庭へ向かう途中、私は無意識に自分のケースへ目をやった。黒薔薇は静かにそこにある。美しいまま、昨日よりほんの少しだけひびが伸びていた。
進行している。計画どおり、と言えばそうだ。
なのに、隣を歩くリリアは、まるで散歩にでも行くみたいな顔で私を見上げてくるし、前ではルーカスがすでに何か面白いことを探している。アルディオンは場を整えようとしていて、カイエルはぜんぶ見ている。
頭が痛い。まだ二日目なのに、私の“悪役令嬢として静かに散る計画”は、思った以上に騒がしいものへ変わり始めていた。
この中庭の昼食が、単なる昼食で終わる気がまるでしない。
そしてたぶん、いちばん困るのは、その予感を少しだけ“退屈ではない”と思ってしまった自分だった。




