神の子
朝の柔らかな光が差し込み、母樹の黒い幹を淡く照らしていた。小鳥のさえずりと風の音だけが響く静かな裏庭に、ヒロトたちは立っている。
枝の根元には、透明な羊膜に包まれた小さな胎児――その存在は、館の住人の間でいつしか「神の子」と呼ばれるようになっていた。
「神の子か。……まあ、ヴィクトリアの子なら、あながち間違いじゃないかもな」
ヒロトの呟きに、隣のヴィクトリアが耳をぴくりと立てて怒る。
「冗談じゃないわ。まったく」
祥子は静かに口を開いた。
「信者たちには、これ以上噂が広がらぬよう箝口令を敷いておきます」
「ああ、そうしてくれ。世間に知れたら大騒ぎだからな」
三人は館へ戻る。リビングに入るや否や、ヴィクトリアはソファに飛び乗り、器用にリモコンを操作して韓国ドラマを見始めた。ヒロトも隣に腰を下ろし、しばしのんびりとした時間が流れる。
――コン、コン。
扉を叩く音が静寂を破った。
「ヒロト様、田所総一郎様と奥様がお見えになっております」
家政婦の声に、ヒロト、ヴィクトリア、祥子は顔を見合わせた。
迎え入れると、田所総一郎と妻の綾子が姿を現した。
総一郎は八十代半ばほど。恰幅の良い体格に鋭い眼光を宿し、場に立つだけで空気が一変する。
「いやあ、急に押しかけて悪かったな、ヒロト君」
低く通る声。その一言に、年上特有の圧があった。
「どうされたんですか、田所さん」
「どうもこうもない。君のところの“神の子”の噂だよ」
総一郎は腕を組み、堂々とした態度で言葉を続けた。
「信者の間で妙な話が広まってる。“母樹が子を産む”だの、“救世の御子が降誕する”だのな。放っておけば国中の耳に入る。……そうなったら厄介だぞ」
ヒロトは眉をひそめた。
「その噂、信じてるんですか?」
「信じる信じないの問題じゃない」
総一郎の声がわずかに低くなる。
「重要なのは、“世間が信じ始めてる”という現実だ。真偽なんて関係ない。火がついたら、信仰も恐怖も止められん」
隣の綾子が、夫を見上げながら口を添えた。
「信者たちはもう、あの子を“神の子”として崇めています。このままでは……遅かれ早かれ、外に漏れてしまいます」
ヴィクトリアがソファの背もたれから尻尾を揺らし、鼻で笑う。
「ふん、勝手に神の子だなんて呼ばないでほしいわね」
総一郎はちらりとヴィクトリアを見て、口元を歪めた。
「猫のあんたが言うと説得力があるな」
「なんですって?」
「冗談だ」
軽く受け流し、総一郎は再びヒロトを見据える。
「君はどうするつもりだ? あの子を世に出すのか、それとも隠すのか。どちらにしても、覚悟が要るぞ」
ヒロトは深く息を吐いた。
「この子を世間に晒すつもりはありません」
「……ほう」
総一郎の眉がわずかに動いた。
「それは“逃げ”ではないんだな?」
「違います。この子は俺とヴィクトリアの子です。特別な生まれ方をしたのは確かですが、だからこそ“普通に生きてほしい”。神だの奇跡だのと持ち上げられて、誰かの道具にされるなんて絶対にさせない」
短い沈黙。
やがて総一郎はふっと鼻を鳴らした。
「……言うようになったじゃないか」
そう言って、わずかに口元を緩める。
「ま、いいだろう。俺は君の決断を尊重する。ただし――覚えておけ。信仰ってのは、時に神よりも狂暴だ」
その言葉に、祥子もヴィクトリアも思わず息を呑んだ。
綾子が小さく頷きながら、夫の袖をそっとつかむ。
「あなた……」
総一郎は頷き返し、背を向けた。
「じゃあ、我々はこれで失礼する。……ヒロト君。いざという時は、俺が盾になってやる。だがその時、君も俺の忠告を忘れるなよ」
そう言い残し、重い足音を響かせながら去っていった。
二人を見送ったあと、ヒロトは裏庭へ戻った。
朝日を浴びる母樹は、黒い幹の奥で脈動するように見える。羊膜の中で眠る小さな命を、ヒロトはしばし黙って見つめた。
――その時だった。
『……ヒロト様。少し、お話よろしいでしょうか』
頭の奥に、荘厳で柔らかな声が響く。ヒロトは思わず呟いた。
「……誰だ」
『私です。母樹です』
「母樹……お前が、話しているのか」
『驚かせてしまいましたね。私は長らく、ただ“門”として在り続けるだけの存在でした。しかし……あの日、ヴィクトリア様から大量の魔力と生命力を吸収したことで、進化を遂げたのです』
「進化……?」
『はい。魔力だけではなく、ヴィクトリア様の知識、因子、生の記憶の一部が私に流れ込みました。その中には“念話”の術もあり、私はそれを会得しました』
ヒロトは息を飲む。
「……じゃあ、この声は……」
『その通りです。ですが、それには代償もありました』
母樹の枝が揺れ、胎児を示す。
『私は今や、この子を育むためだけの“母樹”。転移や五感共有といった機能は、すべて閉ざされました』
「……ってことは、俺はもう母樹を使ってどこにも行けないってことか」
『はい。この子が生まれ、自ら歩み始めるその時まで、私はただの“揺りかご”です。どうかご理解ください』
ヒロトは黙し、やがて静かに頷く。
「……わかった。代わりに得られるものの方がきっと大きいだろうからな」
『ご理解、感謝いたします』
「それはそうと母樹。この子が生まれるまで、俺たちにできることはあるか?」
『いいえ。特にありません。ただ、時をお待ちください』
「そうか……わかった」
裏庭を後にし、リビングへ戻ると、ヴィクトリアが韓国ドラマを見ていた。彼女は視線を画面に向けたまま、ぽつりと呟く。
「……あの子、本当に無事に生まれてくるのかしら」
ヒロトは言葉に詰まり、しばし黙したあと答えた。
「母樹が言うんだ。俺たちにできるのは待つことだけだって。……でも、待つってのも難しいな」
ヴィクトリアは尻尾を揺らし、少し拗ねたように顔を背ける。
「もしあの子が生まれても、“神の子”なんて呼ばれて……世間に引き裂かれるんじゃないかって、不安になるのよ」
ヒロトは彼女の頭を撫で、優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺が守る。どんな形で生まれてきても、あの子は俺たちの子供だ」
――その瞬間、館の外からざわめきが聞こえてきた。
祥子が駆け込み、顔を険しくする。
「ヒロト様、大変です。信者の一部が門前に集まっております。“神の子を一目見せてほしい”と……!」
ヴィクトリアの瞳が鋭く光った。
「やっぱりね……」
ヒロトは深く息を吸い込み、立ち上がる。
「……どうやら、ただ待っているだけじゃ済まなそうだな」